安田浩一さんの「ヘイトスピーチ」(文春新書、800円+税)を読んだ。こういう本の紹介は難しいんだけど、多くの人に触れて欲しいから書いておきたい。「ヘイトスピーチ」というものを行う輩がいるということは、ある程度前から聞かれるようになった。その深刻な姿はなかなか明るみに出なかったが、数年前からは「カウンター」として対抗するグループも出てきた。そのことは聞いていたけど、僕は「現場」に行き合わせたことはない。ネットで日時が予告されるという話だから、熱心に探せば行き当たるんだろうと思うけど、そこまではしていない。それでいいのかどうか、自分では判らないが、ネット頼りになり過ぎると本を読む時間が取れないので、あまり見たくないのである。
著者の安田浩一さんは、1964年生まれのフリーライターで、『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(2012)で講談社ノンフィクション賞、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(2015)で大宅荘一ノンフィクション賞(雑誌部門)と近年立て続けに、この部門の有力賞を受けている。僕はその前の『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)を読んで、大変ショックを受けた経験がある。こうしてみると、日本社会の中の外国人問題を大きなテーマとして追い続けている。それだけで貴重で、えがたい情報を得られるから読んだ方がいい。もっとも僕は新書しか読んでない。内容や値段の問題もあるけど、そもそも「新書」が好きなのである。新書が充実していることは、日本が誇るべきことだと思う。
この本はとても読みやすく、難しいところはどこにもないから、一応スラスラ読める本である。でも、初めて知る人、「マトモな神経」を持つ人には、何だ、これというほどの、とても読めない、紹介できないような、「憎悪」にあふれた言葉が詰まっている。ここでは紹介しない。書き移すのもバカみたいなので。だけど、こういう言葉を、確かに今までも落書き等で書き散らしていた人はいるだろうけど、皆で集まってデモで連呼するようになってしまったのはどうしてなんだろう。日本社会は壊れてしまったんだろうか。そういう内省を誘う本でもある。
安田さんという人は、本当にすごいと思うのだが、ヘイトスピーチにさらされる側の人々に寄り添うだけでなく、ヘイトスピーチを行う側にも果敢に取材を試みる。もちろん、ヘイトスピーチは「される側」ではなく、「する側」の問題なんだから、当然と言えるかもしれないが、誰にでもできることではない。あまりにもひどい書き込みをネット上に繰り返す人がいて、協力して情報を集めていって「特定」した例まである。ブログやツイッターなどに書き込む情報を丹念に積み重ねていくと、人はある程度は自分を語ってしまうところがあるので、ある程度居住地や趣味・嗜好などを絞り込むことができる。そうやって、本人に会ってしまう。一緒に飲むこともある。そういう体験を積む中で作られた本である。
この本を読んでもらいたい理由はそういう取材方法にもある。取材にもお金がかかっているようだから、せめて新書本を買うことで支えるべきだ。それに文春新書である。昨年の「慰安婦報道」などでは、文春も「歴史修正主義」的な報道を行っているし、文春新書にもそういう本はある。だけど、そんな中で、「ヘイトスピーチ」が出る。どういう経緯があるのか知らないけど、この本が「売れる」ということは、文春内でこの本に関わった人に力を与えるのではないかと思うわけである。
でも、帯にある「なぜ彼らは暴発するのか?」は僕には最後まで判らなかった。ネット上で卑劣な書き込みをする人がいるということは、まあ判ってはいけないのかもしれないが、今までのさまざまな体験から想像することはできる。でも、人前で大声で叫ぶということは、ほとんどの人間にとっては想像を超えることではないか。僕もデモに参加したことはあるが、「○○に反対するぞ」というシュプレヒコールだって、そのために集まっているわけだから、内容には全く賛成であっても、なんだか恥ずかしい。ましてや「殺せ」だの、どうしてデモできるのだろうか。
まあ、そういうことは完全に理解できるものではないだろう。でも、こういうデモがなぜ許されているのか。「表現の自由」の問題ではないだろう。明らかに「脅迫」や「名誉棄損」を構成するとしか思えない。犯罪以外の何物でもないだろう。特に、ナチスのカギ十字(ハーケンクロイツ)を持ち出す人まで出てきたとは、完全に「犯罪」としか思えない。日本の日常の中に、ナチスが登場するわけがない。「頭」で作られた「挑発」ということである。
これらの「ヘイトスピーチ」をする人々は、多分「マイノリティ」(少数派)の人々を友人、知人として持たないで生きてきたのだろうと思う。彼らは「日本人の方が迫害されている」と思っているらしい。でも、どうすれば「少数派」が「多数派」を迫害できるのか。およそまともな常識と良識があれば、「外国人は税金を払っていない」などという「妄想」を抱けないと思うのだが。ネットで聞いたというのなら、少しネットで検索して調べてみればいいのに。そこで思うのは、自分の周りに一人でも「在日韓国・朝鮮人」の知り合いがいれば、そんなバカげた妄想はなかっただろうということだ。どこの国でもいいけれど、尊敬する外国人が何人かいれば、外国人だからといって、ひとからげにして罵倒できないだろうに。
僕が思い出したのは、永山則夫「無知の涙」のことである。言葉だけだというかもしれないが、ヘイトスピーチというのは、「魂の殺人」というに近い。そして、本来は仲間になるべきだったものどうしで、「仲間殺し」をしているのである。「ヘイトスピーチ」の本質は「仲間殺し」なんだと僕は思ったのである。
著者の安田浩一さんは、1964年生まれのフリーライターで、『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(2012)で講談社ノンフィクション賞、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(2015)で大宅荘一ノンフィクション賞(雑誌部門)と近年立て続けに、この部門の有力賞を受けている。僕はその前の『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)を読んで、大変ショックを受けた経験がある。こうしてみると、日本社会の中の外国人問題を大きなテーマとして追い続けている。それだけで貴重で、えがたい情報を得られるから読んだ方がいい。もっとも僕は新書しか読んでない。内容や値段の問題もあるけど、そもそも「新書」が好きなのである。新書が充実していることは、日本が誇るべきことだと思う。
この本はとても読みやすく、難しいところはどこにもないから、一応スラスラ読める本である。でも、初めて知る人、「マトモな神経」を持つ人には、何だ、これというほどの、とても読めない、紹介できないような、「憎悪」にあふれた言葉が詰まっている。ここでは紹介しない。書き移すのもバカみたいなので。だけど、こういう言葉を、確かに今までも落書き等で書き散らしていた人はいるだろうけど、皆で集まってデモで連呼するようになってしまったのはどうしてなんだろう。日本社会は壊れてしまったんだろうか。そういう内省を誘う本でもある。
安田さんという人は、本当にすごいと思うのだが、ヘイトスピーチにさらされる側の人々に寄り添うだけでなく、ヘイトスピーチを行う側にも果敢に取材を試みる。もちろん、ヘイトスピーチは「される側」ではなく、「する側」の問題なんだから、当然と言えるかもしれないが、誰にでもできることではない。あまりにもひどい書き込みをネット上に繰り返す人がいて、協力して情報を集めていって「特定」した例まである。ブログやツイッターなどに書き込む情報を丹念に積み重ねていくと、人はある程度は自分を語ってしまうところがあるので、ある程度居住地や趣味・嗜好などを絞り込むことができる。そうやって、本人に会ってしまう。一緒に飲むこともある。そういう体験を積む中で作られた本である。
この本を読んでもらいたい理由はそういう取材方法にもある。取材にもお金がかかっているようだから、せめて新書本を買うことで支えるべきだ。それに文春新書である。昨年の「慰安婦報道」などでは、文春も「歴史修正主義」的な報道を行っているし、文春新書にもそういう本はある。だけど、そんな中で、「ヘイトスピーチ」が出る。どういう経緯があるのか知らないけど、この本が「売れる」ということは、文春内でこの本に関わった人に力を与えるのではないかと思うわけである。
でも、帯にある「なぜ彼らは暴発するのか?」は僕には最後まで判らなかった。ネット上で卑劣な書き込みをする人がいるということは、まあ判ってはいけないのかもしれないが、今までのさまざまな体験から想像することはできる。でも、人前で大声で叫ぶということは、ほとんどの人間にとっては想像を超えることではないか。僕もデモに参加したことはあるが、「○○に反対するぞ」というシュプレヒコールだって、そのために集まっているわけだから、内容には全く賛成であっても、なんだか恥ずかしい。ましてや「殺せ」だの、どうしてデモできるのだろうか。
まあ、そういうことは完全に理解できるものではないだろう。でも、こういうデモがなぜ許されているのか。「表現の自由」の問題ではないだろう。明らかに「脅迫」や「名誉棄損」を構成するとしか思えない。犯罪以外の何物でもないだろう。特に、ナチスのカギ十字(ハーケンクロイツ)を持ち出す人まで出てきたとは、完全に「犯罪」としか思えない。日本の日常の中に、ナチスが登場するわけがない。「頭」で作られた「挑発」ということである。
これらの「ヘイトスピーチ」をする人々は、多分「マイノリティ」(少数派)の人々を友人、知人として持たないで生きてきたのだろうと思う。彼らは「日本人の方が迫害されている」と思っているらしい。でも、どうすれば「少数派」が「多数派」を迫害できるのか。およそまともな常識と良識があれば、「外国人は税金を払っていない」などという「妄想」を抱けないと思うのだが。ネットで聞いたというのなら、少しネットで検索して調べてみればいいのに。そこで思うのは、自分の周りに一人でも「在日韓国・朝鮮人」の知り合いがいれば、そんなバカげた妄想はなかっただろうということだ。どこの国でもいいけれど、尊敬する外国人が何人かいれば、外国人だからといって、ひとからげにして罵倒できないだろうに。
僕が思い出したのは、永山則夫「無知の涙」のことである。言葉だけだというかもしれないが、ヘイトスピーチというのは、「魂の殺人」というに近い。そして、本来は仲間になるべきだったものどうしで、「仲間殺し」をしているのである。「ヘイトスピーチ」の本質は「仲間殺し」なんだと僕は思ったのである。