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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

昭和文学の名作映画を見る(濹東綺譚、細雪、あにいもうとなど)

2015年06月30日 00時49分05秒 |  〃  (旧作日本映画)
 いわゆる「文芸映画」の前に、土曜日に神保町シアターで「暴れ豪右衛門」(稲垣浩監督、1966)を見た。稲垣監督は「無法松の一生」や「宮本武蔵」シリーズの他、多くの時代劇を山のように作っている。この後も「風林火山」や「待ち伏せ」を作るが、「暴れ豪右衛門」は知らなかった。今見ると、「七人の侍」と同じく、その後の中世史研究の水準からすると疑問点も多いが、とにかく一向一揆支配下の加賀の国で、土豪(国人)勢力と越前の朝倉氏の争いを描く映画なのである。戦国大名の支配下に入らないとあくまでも抵抗する国人層を取り上げているのが貴重。まあ、主人公の豪右衛門(三船敏郎)が字が読めないのを誇りにしているなど、疑問も多い。しかし、オープンセットの規模がすごい。

 その後、フィルムセンターへ回って「嵐を呼ぶ楽団」(井上梅次監督、1960)。近年評価が高くなってきた音楽映画の傑作である。音楽の河辺公一、助演の神戸一郎の追悼上映だけど、「ジャズ」が洋楽の王様だった時代のミュージカルの傑作。宝田明雪村いづみが主演し、高島忠夫、朝丘夢路が絡む。歌や演奏はもちろん自分でやってると思う。水原弘のように早死にした人もいるが、柳沢真一を含め先の4人いずれも存命である。恋と友情、音楽と商業主義をめぐって、話は定番通りだが、それでいいと思わせるウェルメイドな音楽映画。テレビが録画ではなかった時代も興味深い。井上梅次は日活の「嵐を呼ぶ男」で裕次郎をスターにしたが、とにかく何でも面白い。マキノ雅弘に匹敵するのではないか。香港でも撮ったが、アジアのエンターテインメント映画全体に与えた影響を再評価するべきだろう。

 さて、標題にした「昭和文学」だけど、ここで言う「昭和」は、1950年頃から1970年頃までの日本映画がもっとも力があった時代を指す。その時代には多くの映画が作られ、相当数の「文学作品の映画化」が行われた。戦争と高度成長という近代日本の最も大きな出来事がこの時代の映画に反映されている。また明治、大正に出発した作家も、多くは昭和時代まで生きて傑作を残した。島崎藤村「夜明け前」、谷崎潤一郎「細雪」、永井荷風「濹東綺譚」、徳田秋声「縮図」などで、これらはみなすぐれた映画になっている。また川端康成、林芙美子、井伏鱒二、井上靖などの作品もたくさん作られてきた。林芙美子など、もし成瀬巳喜男による多くの映画化がなかったら、今もこれほど読まれているだろうか。

 新文芸坐で京マチコ山本富士子の特集があり、数本見た。山本富士子は大昔に見た時はものすごい美人だと思ったのだが、今は顔立ちが大柄で古風すぎる気もしていた。久しぶりに数本見ると、やはり美女。今回は見なかったが、3回見ている「夜の河」が最高だと思う。「湯島の白梅」「白鷺」等の鏡花原作、衣笠貞之助監督作品もいいと思う。今回は今まで見ていなかった「細雪」「濹東綺譚」を見て、その後ラピュタ阿佐ヶ谷で「如何なる星の下に」を見た。後の2作は、東宝で豊田四郎監督、八住利雄脚本という共通性がある。でも、どちらも原作を大きく変えている。豊田四郎は織田作之助原作の「夫婦善哉」が間違いなく最高傑作だが、この時代「雁」「猫と庄造と二人のをんな」「雪国」「暗夜行路」と日本文学全集みたいなラインナップを残している。

 「濹東綺譚」(1960)は原作中の劇中小説の主人公、種田先生を主人公にしてしまい、荷風散人は別個に作品取材をしている老作家として出てくる。この荷風を演じる歌舞伎役者の中村芝鶴があんまりそっくりなので笑ってしまう。種田先生が芥川比呂志の名演で、お雪が山本富士子。なるほどこういう風にしないと映画化できないか。工夫を評価しないわけではないが、これでは原作を壊しているという不満を抑えがたい。伊藤熹朔の美術が素晴らしく、単なるノスタルジーに止まらない場末の風情を作り出していて見応えがある。単なるメロドラマにされてしまった感じがする。1992年にも新藤兼人が映画化し、ベストテン9位。豊田作品の方は31位だった。「濹東綺譚」は紛れもなく荷風の最高傑作で、短いから読書好きなら読んでいる人が多いと思うが、読んでない人は誤解していることが多い。老作家が場末の娼家に通う情痴小説みたいではない。非常時局下に「国内亡命」を試みる知的なメタ小説という枠組みに、過ぎ去ってゆく哀感漂う抒情を込めた傑作である。
(「濹東綺譚」)
 高見順原作の「如何なる星の下に」(1962)も、原作を大きく変えていて、原作が好きな僕には物足りない。浅草を舞台に「転向」知識人の苦悩を込めた原作を、映画では映画化時点の現在の銀座、佃島に変えてしまった。それはそれで、今見ると東京五輪直前の町の姿をこれほどとどめた映画はない価値が出てきた。佃島の渡しなど、廃止(1964年8月27日)直前の姿が映像に残されている。山本富士子と池部良はいいけれど、どうも風景を見る映画という感じ。ベストテン43位。
(「如何なる星の下に」)
 谷崎潤一郎の「細雪」は3回映画化されている。1983年の市川崑作品が一番である。(ベストテン2位。)最初の映画化、阿部豊作品(1950年)もベストテン9位に入っていて、それなりの評価を得た。一方、今度見た1959年の島耕二監督版はベストテンに入選しないどころか、一票も入っていない。だけど、案外の拾い物だった。フラフープをしてるから、物語は映画化時点での現在に設定されている。その結果、50年代末の阪神地域のロケが今になって価値が出てきたのだ。4人姉妹を上から書くと、50年版が花井蘭子・轟夕起子・山根寿子・高峰秀子、59年版が轟夕起子・京マチ子・山本富士子・叶順子、83年版が岸恵子・佐久間良子・吉永小百合・古手川祐子。まあ一長一短あるけれど、京、山本のコンビは大映を代表し、「夜の蝶」なんかの共演もあって息があっている。それに時間が145分、105分、140分と一番短い。長大な原作を描くには不足だが、三女、四女の結婚話に絞って上流階級の没落と結婚の階級性というテーマがくっきりさせた。

 室生犀星の原作「あにいもうと」は3回映画化され、全部ベストテンに入っている稀有な作品である。今回久しぶりに成瀬巳喜男監督版(1953)を見直した。ベストテン5位で、「にごりえ」「東京物語」「雨月物語」「煙突の見える場所」に次いでいるんだからスゴイ。その下に「日本の悲劇」「ひめゆりの塔」「雁」と続く。恐るべき年である。森雅之、京マチ子の兄妹で、戦前の木村荘十二版は丸山定夫、竹久久美子、76年の今井正版は草刈正雄、秋吉久美子である。どれも名作だが、兄はともかく、妹の方は京マチ子が一番ではないかと思う。そのくらいの迫力で兄妹げんかをしている。「けんかえれじい」などとまた違った意味で、日本映画のケンカシーンに残り続けるだろう。
コメント (2)
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