尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「産業革命」とは何かー「明治日本の産業革命遺産」への疑問③

2015年06月17日 23時51分21秒 |  〃 (歴史・地理)
 「産業革命」とは、そもそも何だろうか? 英語では、“Industrial Revolution”である。もともと18世紀から19世紀にかけてイギリスで起こったものだから、英語を知っておくのも大切だ。アメリカ独立やフランス革命などの「市民革命」とともに、人類史をそれ以前と以後に画するような重大な出来事だった。内容を簡単に言えば、大量生産を可能にする工場制機械工業動力革命による工業、交通の大変革である。そこから起こった社会的な変動全体を指すこともある。
(イギリスの産業革命)
 歴史の教科書にはおよそ二つの分野のことが書いてある。一つは紡績業における織機、紡績機の改良である。ジョン・ケイの「飛び杼(ひ)」の発明、ハーグリーヴスの「ジェニー紡績機」の発明からアークライト、クロンプトンときて、1785年にカートライトによる蒸気機関による力織機の発明で一段落する。紡績業の生産性は格段に上昇したが、紡績業自体をよく知らないから説明は難しい。生徒の多くも、そもそも「紡績」と言われても死語だし、原料の「綿花」も知らない。そっちの説明が先である。

 もう一つが動力の革命で、ジェームズ・ワットによる1785年の「蒸気機関の改良」である。(改良であって、発明ではない。)この「ワット」という人名は必ず覚えておくべき人名だ。火力発電や原子力発電さえ、基本的には「蒸気機関」なんだから。19世紀になって、フルトンの蒸気船の実用化、スティーヴンソンによる蒸気機関車の改良も起こる。その輸送力のアップは驚くべき社会変化をもたらした。このように、産業革命はどの国でも、軽工業(特にせんい工業)が先行して起こり、続いて交通機関の革命が起き、重工業の発展が起きる。

 「常識」の説明は前置き。今回の「明治日本の産業革命遺産」を見ると、この産業革命の常識からすると、非常に不思議な構成になっている。韮山反射炉、萩反射炉、鹿児島の集成館、佐賀の海軍所跡などは、いずれも幕末の対外的危機感を背景に、「開明的藩主」(あるいは「開明的幕臣」)が海防力を高める目的で作ったものだ。大規模な工場ともいえず、動力革命が起きたとも言えない。アヘン戦争(清国敗北)、ペリー来航という衝撃を受けて、大砲を自国で鋳造するため鉄を製錬する施設である。韮山反射炉は実際に大砲を鋳造したから、なかなか立派なものである。だけど、これらは江川英龍、島津斉彬、鍋島直正などのリーダーシップで作られた「上からの国防強化策」であって、その地域は特に工業地帯として発展していない。そもそも「産業革命遺産」とは呼べないのである。

 明治維新以後、政府の殖産興業政策で工業が発展した。日本でも軽工業、特に製糸業、紡績業の発展から始まった。軽工業の産業革命は1890年代重工業の産業革命は1900年代以降に起こったというのが通説だ。今回の登録は重工業に特化しているが、それも疑問がある。明治時代の日本は日清、日露戦争を戦い、勝利し、植民地を獲得し、アジアでただ一国「帝国主義国」となった。評価はともかく、「世界史的事件」であることは間違いない。だが、この段階では日本は戦艦を自分で作れる国ではなかった。「日本海大海戦」で東郷平八郎が乗っていた旗艦「三笠」は横須賀市に保存・公開されているが、イギリスで製造されたものである。

 貧しかった日本がどうして、何隻もの戦艦を持てたのか。それは「絹を売って軍艦を買う」とまで言われた製糸業あってこそである。「明治日本の産業革命」と言うなら、製糸業抜きに語れない。そうしてみると、2014年にすでに登録された「富岡製糸場」こそ、本来の「産業革命遺産」だったのである。ワットやスティーヴンソンに並ぶ発明家は日本にはいなかった。欧米で発展した技術を政府主導で(官営工場やお雇い外国人を通して)受け入れ、財閥に払下げて工業化を進めたからだ。第一次世界大戦をきっかけに、日本の工業は発展し、農業生産頼より工業生産額の方が上回った。

 第二次世界大戦時に作られた「戦艦武蔵」は今回候補にある三菱重工業長崎造船所で作られた。あるいは「ゼロ戦」も三菱重工で作られた。それらを自国で作れるようになったのだから、すごいには違いない。だけど、「1850年から1910年」で切ってしまったら、日本の重工業の産業革命の全体像が見えなくなる。少なくとも大正時代まで含めないといけない。そもそも「産業革命遺産」は残りにくい。工場はどんどん機械が入れ替えられていく。歴史的価値があるからと言って、創業当初のまま保存しておくような会社はない。さらに戦災、震災があって、昔のままの工場はほとんど残っていない。残りやすいのは、企業経営者がたてた大規模な洋館とか、従業員慰安のために作った施設である。

 秋田県小坂町の劇場「康楽館」とか、長野県諏訪市の温泉施設「片倉館」などは世界遺産レベルではないか。日本の資本主義発展史を考えると、三菱、三井は含まれているが、渋沢栄一関連の資産がないのも問題。1901年に作られた官営八幡製鉄所は、その後北九州工業地帯として発展していくから、重工業の産業革命に欠かせない。だが、そこもなかなか厳しい道のりを経て、明治末から大正、昭和と発展していった。明治期だけ取り上げて「世界遺産」と言えるわけではない。
(官営八幡製鉄所旧本館事務所)
 今回の「産業革命遺産」を政府は「1850年から1910年」として構成している。それは完全にフィクションであって、間違った歴史認識を日本人に与えてしまうのではないか。工業化、産業化は必ず「負の側面」を持つはずである。日本に限らず、どの国の工業化においても、負の側面を持っていた。近隣諸国から戦時下の事を突き付けられたから、という問題ではない。自国の歴史を振り返れば、富国強兵、殖産興業の裏で苦しんできた民衆の姿が浮かび上がる。そして、そこも含んでこそ、「今、アジアで最初に近代化をなしとげた」世界史的な意味が明らかになるはずだ。
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「推薦基準」と「稼働資産」ー「明治日本の産業革命遺産」への疑問②

2015年06月17日 00時02分21秒 |  〃 (歴史・地理)
 「明治日本の産業革命遺産」への疑問の2回目。この問題に関しては、僕は根本的な疑問を持っているが、それは次回に回して、今回は推薦に至る経緯に関しての疑問を書く。本来は今年は違う世界遺産が登録されるはずだったのである。それは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」である。だが、こちらは1年先送りにされ、来年度に登録が期待される段階にある。だから、まあ特に騒がれていないけど、もともとこの問題はどうも不思議な経過をたどってきた。

 「世界遺産」とはユネスコ(UNESCO=国連教育科学文化機関)に登録されるだけである。ユネスコが直接守ってくれるわけではない。世界遺産条約に加盟する各国は、登録された資産を保護していく責任がある。これを逆に言えば、当該国で保護する仕組みが出来ていないものは、世界遺産に登録されない。日本の文化財保護行政は長い歴史があるが、芸術的、学術的な価値が高いものは、国宝重要文化財に指定される。あるいは、史跡(特に優れたものは特別史跡)、名勝(特に優れたものは特別名勝)に指定される。「日本の世界文化遺産」としてまず思い出す姫路城法隆寺奈良や京都の寺社日光東照宮宮島(厳島神社)など、みな国宝に指定されている。

 「原爆ドーム」に関しては、世界遺産に推薦しようという動きが出てきたときには、文化財保護の対象にはなっていなかった。「原爆ドーム」だからではなく、まだ昭和の戦跡に関しては、時間の経過が短すぎて歴史的な保護の対象と考えられなかった時代なのである。しかし、1995年に文化庁が文化財保護法の「史跡名勝天然記念物指定基準」を変えて、登録できるような仕組みを作って、史跡に指定した。その結果、国内法で保護されているという基準をクリアーして、世界遺産に推薦できるようになった。この推薦に至る道筋は、誰もが納得できるのではないか。

 文化財保護法に基づき国宝や史跡等を指定するが、文部科学大臣や文化庁長官が勝手に決めるのではなく、「文化審議会」で議論している。文化審議会は、2001年に国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会をまとめて作られた。20世紀中は文化財保護審査会の担当だった。審議会の下に「世界文化遺産・無形文化遺産部会」があり、ここで世界遺産に推薦するかどうかの議論を行う。今までの世界文化遺産は全部それで決まってきた。今回も文化審議会では先ほど述べた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が推薦されていた。

 本来ならそれで決まりである。しかし、今回は「明治日本の産業革命遺産」が割りこんできた。なんでこっちは文化審議会の対象にならないのか。それは「文化財として保護されていない資産」が含まれているのである。それは「稼働資産」である。現に今も使われているという意味である。史跡、重要文化財等に指定されると、現状変更が厳しく制限される。工場などの場合は所有者の了解が得られない場合が多い。今回の遺産候補の中では、八幡製鉄所の旧本事務所三池港三菱長崎造船所第三ドックなど10カ所以上もの稼働資産が含まれている。これらは文化財保護法上の保護対象になっていない。だから、本来ならいくら議論しても世界遺産には推薦されるはずがないのである。
(三池港)
 じゃあ、どうしたのか。内閣官房の「地域活性化統合事務局」内に「産業遺産の世界遺産登録推進室」を置き、「稼働資産を含む産業遺産に関する有識者会議」を作ったのである。安倍内閣が「松下村塾」を優先させたのかと思うと、それは違う。民主党内閣時代の規制緩和政策だった。2010年10月21日に「産業遺産の世界遺産登録に向けた文化財保護法中心主義の廃止」を決めたのは菅内閣である。「近代化遺産」を世界遺産に推すのはいいが、一体どうやって文化財を保護するのか。それは景観法港湾法公有水面埋立法などを適用するらしい。
(三菱長崎造船所第三ドック)
 かくして、世界遺産候補として、文化審議会のキリスト教遺産、内閣官房の産業革命遺産の二つがバッティングしてしまった。当時、下村文科相などは文化審議会の推薦を優先するように発言している。必ずしも安倍政権内が統一されていのかどうかわからないが、2013年9月に産業革命遺産を優先してユネスコに推薦することが安倍内閣で決定された。当時の新聞記事をあたっても、「なぜ産業革命遺産が優先されたか」はよく判らない。まあ、せっかくそういう仕組みを作った以上、こっちを先にという流れがあったのか。それとも首相の意向があったのか。今はよく判らない。 

 今になって思うと、この仕組みはやっぱり無理があったのではないか。文化財保護法で保護されていないのはおかしい気がする。今回の候補の中でも、松下村塾、グラバー邸、韮山反射炉、鹿児島の集成館などは史蹟や重要文化財に指定されている。それに対し、ネットで検索した情報では、やはり稼働資産は公開・見学に無理がある。世界遺産と言えば、どこも観光客が殺到している。見たいと思うのは当然だ。だけど、八幡製鉄所の旧本事務所などは、80mも離れたところからしか見学できず、写真撮影も禁止なんだという。「旧本事務所エリアには機密性の高い工場がある」というのが、会社側の言い分らしいが、これでは世界遺産に登録する意味がないではないか。ただ、今回の世界遺産問題ではもっと根本的な問題がある。「日本の産業革命をどう考えるのか」という問題である。それは次回に。
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