尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

川島雄三監督生誕百年

2018年02月03日 23時14分14秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日本映画史上に異彩を放つ映画監督、川島雄三生誕百年になる。川島雄三は1918年2月4日に青森県田名部町(むつ市)に生まれ、1963年6月11日に亡くなった。享年45歳筋萎縮性側索硬化症という難病を若い時から患っていて、晩年は歩行が不自由だったという。脚本家時代に弟子だった作家藤本義一は、「生きいそぎの記」と題した本を書いている。生地のむつ市で特集上映が行われ、衛星放送では50本の放映が行われるというが、東京では(今のところ)大々的な回顧上映が企画されていない。ここで川島雄三再評価の機運を高めたいと思って振り返ってみたい。
 (川島雄三監督)
 川島雄三は松竹映画還って来た男」で1944年に監督デビューしている。「戦中派」だったのかとちょっとビックリするが、その後、日活東宝に移籍し、また重要作品を大映で3本撮っている。今まで生誕百年が大々的に回顧された監督は、小津安二郎なら松竹、黒澤明なら東宝と中心になる会社があった。まあ小津や黒澤も他社で重要作を撮っているが、川島ほど各社にまたがってはいない。中心になって回顧してくれる会社がないのは川島雄三にふさわしい感じもあるが。

 川島作品はキネ旬ベストテンには2作しか入選していない。一つは1957年の「幕末太陽傳」の4位、もう一つは1963年の「しとやかな獣」の6位。「幕末太陽傳」はキネマ旬報が2009年に行ったオールタイムベストテン投票でも、堂々の4位になっている。(1位は「東京物語」、続いて「七人の侍」「浮雲」で、5位が「仁義なき戦い」になっている。)日活で作られた「幕末太陽傳」はどんどん評価が高まっているが、川島雄三の最高傑作だということは、誰が見ても揺るがないだろう。

 この2作品は僕も若いころから何度か見ているが、昔は他の作品がほとんど上映されなかった。1956年の「洲崎パラダイス 赤信号」や1962年の「雁の寺」ぐらいしか見られなかったものだ。「雁の寺」は水上勉の直木賞作品の映画化で、若尾文子の名演もあって15位にはなっている。でも、「洲崎パラダイス 赤信号」は今見ればすごい傑作だけど、当時のベストテンでは28位にしか入ってない。でも入れた人がいるだけいいので、川島作品の多くはほとんどが作品的には忘れられていた。
 (「洲崎パラダイス 赤信号」)
 最近は古い日本映画を専門的に上映するところが東京に複数出来て、川島作品もずいぶんやっている。主演級だった俳優が亡くなって追悼上映があったりすると、各社で撮っていただけあって川島作品がよく入っている。そうやって川島映画をかなり見られるようになると、「文芸映画の名手」という面と「時代を突き抜けたカルト作家」という側面が見えてくる。「しとやかな獣」は今見ても強い毒がインパクトがある。設定も構図や色彩なども、かなりぶっ飛んでいるから、調子が悪い時に見ると入り込めない時もある。でも間違いなく傑作である。
 (「しとやかな獣」)
 しかし、どうも時代が早すぎたようなブラックユーモア作品も多い。どちらも1959年東京映画作品の「グラマ島の誘惑」「貸間あり」などは、もう笑えないレベルすれすれ。飯田匡原作の「グラマ島の誘惑」なんか、皇族と慰安婦が遭難して同じ島に漂着するという設定だから、そんな映画があったんだと驚いてしまう。井伏鱒二の原作「貸間あり」も怪しい間借り人が集まるアパートのセットがすごい。フランキー堺、桂小金治の主要キャストも共通している。落語家の桂小金治をスカウトしたのは川島監督だった。「人も歩けば」「縞の背広の親分衆」「イチかバチか」(遺作)など、後期の東宝作品にブラックユーモア色が強いのは健康状態もあったのだろうか。

 一方同時期でも1960年「赤坂の姉妹 夜の肌」(原作由起しげ子)、1961年「特急にっぽん」(原作獅子文六)、「花影」(原作大岡昇平)、1962年の「青べか物語」(原作山本周五郎)、「箱根山」(原作獅子文六)などの安定した文芸作品を連発している。今見ると、これらの映画は風俗的にも興味深く、原作を巧みに映像化した手腕にしびれる。今なら名作と評価されたに違いない。だが、これほど連発することは会社の映画でないと難しい。この時代の最高傑作は、大映で撮った冨田常雄原作の「女は二度生まれる」だろう。神楽坂の芸者、若尾文子の男性遍歴を丹念に描いて、社会批判を忍ばせる。

 後期の東宝、大映作品で長くなってしまったが、一番多くの作品を撮っている松竹映画は見てないものも多い。デビュー作の「還って来た男」は織田作之助原作で、教師の田中絹代と帰還した兵士の話。その後24本も撮っている。「とんかつ大将」(1952)、「東京マダムと大阪夫人」(1953)などは傑作コメディ。後者は芦川いづみのデビュー作品。「適齢三人娘」(1951)、「明日は月給日」(1952)は、占領下で復興していく世相も興味深く、コメディとしてなかなか面白いと思う。

 日活に移った後は、最初の「愛のお荷物」(1955)が非常に出来が良いコメディ。今と違って、日本は人口抑制が課題と考えられていて、そのことを厚生大臣一家を題材に面白おかしく描いている。最後は山村聰の大臣にも子供が出来てしまう。「あした来る人」や「風船」「わが町」など原作ものも多いが、やはりこの時代は「幕末太陽傳」ということになる。こう見てくると、喜劇的才能を発揮した感じだが、社会風刺やブラックユーモアのスパイスが効いている作品が多い。

 安定して原作を任せられると考えられていたと思うが、今見ると当時の世相の映像が貴重である。当時の箱根や浦安は今や川島作品を見るしかない。また「特急にっぽん」は獅子文六ん「七時間半」の映画化だが、新幹線以前の東海道線の最速特急「こだま号」の姿を堪能できる。また売防法施行直前の「洲崎パラダイス」も貴重だ。そのような意味も含めて、川島雄三作品は今も新しい感じで楽しめる。今後も初期作品を中心に発掘が進むことを期待したい。まだ全貌が見えていないと思う。
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玉川奈々福さんの浪曲を聞きに行く

2018年02月03日 00時37分37秒 | 落語(講談・浪曲)
 女性浪曲師玉川奈々福さんの名前は、2017年12月16日まで知らなかった。そういう人は多いと思う。その日の朝日新聞土曜版「be」の「フロントランナー」に奈々福さんが取り上げられていたのを読んだわけ。日にちがすぐに特定できるのは、その日が「高石ともや年忘れコンサート」の日だったからで、僕は夫婦で亀戸カメリアホールに行った。そこでもらったカメリアホールのチラシを見ると、1月27日の玉川奈々福さんの浪曲と映画の会のチラシがあった。それを見て、僕はこの人どっかに出てたよねと言ったら、今日の土曜版じゃないと言われた。そうか。
 (玉川奈々福)
 その会に是非行ってみたいと妻はチケットを取ってしまったけど、僕はまあいいかと思った。その会がすごく面白かったということで、今度は2月2日の「奈々福×吉坊 二人会」のチケットを2枚買ってきてしまった。うーん、どうしようかな。ホントはフィルムセンターで山際永三監督の「狂熱の果て」を見ようと思っていたのである。でも、まあせっかくだしなあと思って、浅草の木馬亭に出かけた。木馬亭というのは、月の初めに浪曲の定席を開いているところで、そんな場所は他にない。僕は初めて。

 けっこういっぱい入っていて、「みちゆき」と題した二人会も5回目だという。桂吉坊も初めてだけど、上方落語の期待の若手。今日は吉坊が「三十石夢乃通路」(さんじっこくゆめのかよいじ)という1時間かかる大ネタをやったので、浪曲の方は短めだった。この「三十石」が抜群に面白く、こんなに何も起こらないような、普通の意味の起承転結のない噺があるなんて知らなかった。大阪から伊勢参りをした後で京都を見て、伏見から船で大阪へ帰る二人組。どこまでも船に揺られて続くような心地よさ。
 (桂吉坊)
 その前の奈々福さんは「石松金毘羅代参」で、次郎長ものである。次郎長が森の石松に讃岐のこんぴらさんに代参を命じる。ただし石松は酒を飲むと訳が分からなくなるから道中は酒を飲むな。それは無理だから、引き受けられねえというくだりである。どうしてもマキノ雅弘監督の名作「次郎長三国志」の森繁久彌が思い浮かんでしまう。石松は三十石船で「寿司食いねえ」となる。広沢虎造との掛け合いも楽しく、虎造の浪曲も頭の中に浮かんでくる。今回は「三十石」つながりなんだろうけど、落語が長いから浪曲は抑え目。奈々福さんはこの前の方が面白いと妻の言。

 しかし、浪曲を聞きに行くとは我ながら思わなかった。でも、すごく面白かったのでクセになるかも。今回だけじゃ、玉川奈々福さんは語れない。後半の二人のトークが抜群に面白い。吉坊が桂米朝に付き添って旅に出たときの話なんか、抱腹絶倒である。今度は5月1日に予定。夜の浅草がライトアップされていて、9時半過ぎでも外国人がけっこう浅草寺の写真を撮りに来ているのも驚いた。
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