ハプスブルク家と藤原氏の本を続けて読んで、日本史教員としては藤原氏は「知ってる感」が全然違うと思った。藤原氏抜きの日本史は考えられない。それが倉本一宏「藤原氏」(中公新書)を読んだ最初の感想。この本は注や参考文献を含めて300頁ほどで、手に取りやすく新書に最適。
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帯の裏側に「常に日本史の主役であり続けた一族」と書いてある。藤原氏がそこまで言えるかどうか。古代、中世はともかく、近世や近代はそうでもないという方が正しいだろう。ただ、藤原氏が違う姓を名乗って、各地に広がって行ったことは間違いない。「藤」が付く名字の人を全部集めれば、日本で圧倒的に多いだろう。そして、「日本」という国号が定まったのは、天武・持統朝と考えるなら確かに「日本史」の始まりから藤原氏は主役だったと言ってもいい。
よく知られているように、藤原氏はもともと「中臣鎌足」(なかとみの・かまたり)である。中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を殺害した「乙巳の変」(いっしのへん)の主役。中大兄皇子は後の天智天皇となり、鎌足晩年に「藤原姓」と「大織冠」を与えた。その大織冠らしきものも発見されているが、異論もあるよし。その子不比等(史)も律令制定に力を注ぎ勢力を伸ばした。その娘が聖武天皇の皇后、光明皇后で臣下初の皇后となった。
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不比等の4人の男児から、藤原氏が4つに分かれた。そして、その4人は737年に相次いで流行病(天然痘)で没してしまう。一時的に藤原氏は沈滞するが、やがて4人の子らの世代が活躍するようになる。その理由として、「蔭位」(おんい)という仕組みがあった。これは有力者の子どもは、初めから「父祖の功績」で高い位が与えられる制度。社長の子どもは最初から課長になれるといった感じ。律令に規定されているが、日本は唐より優遇度が高い。この時代、皇族以外で高い位にあったのは、鎌足、不比等しかいないので、その子孫は圧倒的に出世に有利だった。
(弐百円札の藤原鎌足)
藤原4家の中で、後の摂関家となるのは「北家」。僕の「知ってる感」も圧倒的に北家に偏っている。北家の出世にまつわる暗闘史は大体知っている。でも、じゃあ、南家、式家、京家はその後、どうなった? ちゃんと判る人はほとんどいないだろう。大体4兄弟の名前がすぐには出てこない。長男武智麻呂(むちまろ)が南家だが、奈良時代末期に藤原仲麻呂の変を起こして自滅してしまう。それでも一族が多く、その後もそこそこ出世している。
次男房前(ふささき)が北家だが、三男真楯の次男内麻呂、さらにその次男の冬嗣が嵯峨天皇の蔵人頭になって、その系統が摂関家になる。つまり長男が出世していない。次も冬嗣の次男良房が史上初の藤原氏摂政となった。そういうのはその後も続くのが面白い。なお、系図を見ると摂関家以外にも膨大な一族があって、それぞれ名を残している。三男宇合(うまかい)の式家は孫の種継が長岡京で暗殺された事件で有名。四男麻呂の京家は当初からほとんど振るわなかった。
しかしながら、北家以外の特に出世もしなかった系列は、別に知らなくてもいいだろうと言えばその通り。一種の歴史マニア的関心から、フーンそうだったんだと思う。面倒くさいと思う人はいるだろう。その後、道長の子どもの世代に、天皇の妃となって後継ぎを産んだ娘が出なかった。「天皇の女系の祖父」(外戚)として「摂政」になるというやり方が成り立たなくなった。日本社会も大きく変わっていく時代で、「家」の成立により貴族社会も大きく変わる。藤原氏は近衛、九条、二条、一条、鷹司の「五摂家」に分立し、当主がかわるがわる摂政、関白に就く。
藤原氏の名前が鎌倉時代以後教科書に全然出てこないから、どうなってるんだと思う人が時々いる。実はそんな仕組みが出来上がって、江戸時代末まで続いたわけである。他の一族も様々な家業(日記、蹴鞠、和歌などを代々受け継ぐ)とする一族が出来上がる。そういう貴族は大部分が藤原氏出身。一部に源氏もあったが、日本の朝廷は藤原氏が支えたのは間違いない。そして、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)に始まる武家藤原氏もあった。奥州藤原氏もその流れ、歌人西行も一族である。関東の武士に多く、結城氏、小山氏などがそれ。
(藤原道長の日記、御堂関白記)
ハプスブルク家は王家だが、藤原氏はもちろん臣下である。ヨーロッパの王家は王家どうしで政略結婚するが、日本の皇族は外国王家との結婚はしない。島国だから、そのような問題が生じない。その代わりに、王家に妃を送り込む「ミウチ」の臣下が必要になる。藤原以前はそれが蘇我氏だった。藤原氏はいくら勢力が強大になっても、皇位をうかがうことだけはできない。娘の産んだ幼い皇子を天皇に立てて、その代理人になることしかできない。この構造がある意味で日本史を規定したと言える。武士の時代とされる中世、近世も、征夷大将軍というのは、制度的には「天皇の代理人」だったわけである。
著者の倉本氏は紹介を読んで「蘇我氏」(中公新書)も読んでいたことを思い出した。他にも特に藤原氏に関する一般書をたくさん書いている。藤原道長の日記「御堂関白記」の現代語訳も講談社学術文庫から出している。細かな叙述が歴史ファンには楽しめる一冊だけど、一般的にはこれほど細かな藤原氏の知識はいらないだろう。でも藤原氏を通して日本の歴史を考えるときのヒントがいっぱいある。
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帯の裏側に「常に日本史の主役であり続けた一族」と書いてある。藤原氏がそこまで言えるかどうか。古代、中世はともかく、近世や近代はそうでもないという方が正しいだろう。ただ、藤原氏が違う姓を名乗って、各地に広がって行ったことは間違いない。「藤」が付く名字の人を全部集めれば、日本で圧倒的に多いだろう。そして、「日本」という国号が定まったのは、天武・持統朝と考えるなら確かに「日本史」の始まりから藤原氏は主役だったと言ってもいい。
よく知られているように、藤原氏はもともと「中臣鎌足」(なかとみの・かまたり)である。中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を殺害した「乙巳の変」(いっしのへん)の主役。中大兄皇子は後の天智天皇となり、鎌足晩年に「藤原姓」と「大織冠」を与えた。その大織冠らしきものも発見されているが、異論もあるよし。その子不比等(史)も律令制定に力を注ぎ勢力を伸ばした。その娘が聖武天皇の皇后、光明皇后で臣下初の皇后となった。
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不比等の4人の男児から、藤原氏が4つに分かれた。そして、その4人は737年に相次いで流行病(天然痘)で没してしまう。一時的に藤原氏は沈滞するが、やがて4人の子らの世代が活躍するようになる。その理由として、「蔭位」(おんい)という仕組みがあった。これは有力者の子どもは、初めから「父祖の功績」で高い位が与えられる制度。社長の子どもは最初から課長になれるといった感じ。律令に規定されているが、日本は唐より優遇度が高い。この時代、皇族以外で高い位にあったのは、鎌足、不比等しかいないので、その子孫は圧倒的に出世に有利だった。
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藤原4家の中で、後の摂関家となるのは「北家」。僕の「知ってる感」も圧倒的に北家に偏っている。北家の出世にまつわる暗闘史は大体知っている。でも、じゃあ、南家、式家、京家はその後、どうなった? ちゃんと判る人はほとんどいないだろう。大体4兄弟の名前がすぐには出てこない。長男武智麻呂(むちまろ)が南家だが、奈良時代末期に藤原仲麻呂の変を起こして自滅してしまう。それでも一族が多く、その後もそこそこ出世している。
次男房前(ふささき)が北家だが、三男真楯の次男内麻呂、さらにその次男の冬嗣が嵯峨天皇の蔵人頭になって、その系統が摂関家になる。つまり長男が出世していない。次も冬嗣の次男良房が史上初の藤原氏摂政となった。そういうのはその後も続くのが面白い。なお、系図を見ると摂関家以外にも膨大な一族があって、それぞれ名を残している。三男宇合(うまかい)の式家は孫の種継が長岡京で暗殺された事件で有名。四男麻呂の京家は当初からほとんど振るわなかった。
しかしながら、北家以外の特に出世もしなかった系列は、別に知らなくてもいいだろうと言えばその通り。一種の歴史マニア的関心から、フーンそうだったんだと思う。面倒くさいと思う人はいるだろう。その後、道長の子どもの世代に、天皇の妃となって後継ぎを産んだ娘が出なかった。「天皇の女系の祖父」(外戚)として「摂政」になるというやり方が成り立たなくなった。日本社会も大きく変わっていく時代で、「家」の成立により貴族社会も大きく変わる。藤原氏は近衛、九条、二条、一条、鷹司の「五摂家」に分立し、当主がかわるがわる摂政、関白に就く。
藤原氏の名前が鎌倉時代以後教科書に全然出てこないから、どうなってるんだと思う人が時々いる。実はそんな仕組みが出来上がって、江戸時代末まで続いたわけである。他の一族も様々な家業(日記、蹴鞠、和歌などを代々受け継ぐ)とする一族が出来上がる。そういう貴族は大部分が藤原氏出身。一部に源氏もあったが、日本の朝廷は藤原氏が支えたのは間違いない。そして、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)に始まる武家藤原氏もあった。奥州藤原氏もその流れ、歌人西行も一族である。関東の武士に多く、結城氏、小山氏などがそれ。
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ハプスブルク家は王家だが、藤原氏はもちろん臣下である。ヨーロッパの王家は王家どうしで政略結婚するが、日本の皇族は外国王家との結婚はしない。島国だから、そのような問題が生じない。その代わりに、王家に妃を送り込む「ミウチ」の臣下が必要になる。藤原以前はそれが蘇我氏だった。藤原氏はいくら勢力が強大になっても、皇位をうかがうことだけはできない。娘の産んだ幼い皇子を天皇に立てて、その代理人になることしかできない。この構造がある意味で日本史を規定したと言える。武士の時代とされる中世、近世も、征夷大将軍というのは、制度的には「天皇の代理人」だったわけである。
著者の倉本氏は紹介を読んで「蘇我氏」(中公新書)も読んでいたことを思い出した。他にも特に藤原氏に関する一般書をたくさん書いている。藤原道長の日記「御堂関白記」の現代語訳も講談社学術文庫から出している。細かな叙述が歴史ファンには楽しめる一冊だけど、一般的にはこれほど細かな藤原氏の知識はいらないだろう。でも藤原氏を通して日本の歴史を考えるときのヒントがいっぱいある。