尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大逆事件、血塗られた明治-「明治150年」を考える②

2018年10月23日 23時29分55秒 |  〃 (歴史・地理)
 田中伸尚(のぶひさ、1941~)の「大逆事件 死と生の群像」(岩波現代文庫)は今年呼んだ中のベスト本だ。2010年に原著が出て、2011年の日本エッセイストクラブ賞を受けた。2018年2月に岩波現代文庫に収録されたが、20頁近い補記が加筆されている。450頁と分厚い本だけど、この機会に読もうと思った。内容が内容だけに、重くて厳しいことが読む前から予想できる。でも頑張って読んだだけの深い感動があった。内容は重いけど、文章は読みやすい。

 明治という時代は、僕には血塗られた時代という印象がある。戊辰戦争に始まり、日清・日露戦争を経て、最後に韓国併合大逆事件である。幕末維新期に活躍したリーダーの多く、西郷隆盛大久保利通大村益次郎江藤新平等々、立場は違うけど皆悲劇的な最期をとげた。明治の作家にも、北村透谷(1894没、25歳)、樋口一葉(1896没、24歳)、石川啄木(1912没、26歳)など若くして死んだ人がすぐに思い浮かぶ。栄光というより悲運の時代じゃないか。

 特に最後の最後に、大逆事件という近代史上最悪の権力犯罪が起こされた。この事実は重い。1910年(明治43年)5月に逮捕が始まり、1911年1月18日に24名の被告に死刑判決が出た。翌日に12名が無期懲役に減刑されたが、24日、25日に12人の死刑が執行された。ちょうど大逆事件の取り調べが行われている真っ最中の1910年8月29日に韓国併合が強行された。日本の侵略を批判しうる視野を持つ社会主義者を排除する必要があったということなのだろうか。

 余罪にのみ問われて有期刑を受けた2人を含めて、起訴されたのは総勢26人にもなる。よほど研究している人は別にして、日本史に詳しい人でも10人以上の名前をすぐ挙げるのは難しいだろう。「首謀者」とされたのは無政府主義者の幸徳秋水だが、他には菅野須賀子大石誠之助内山愚童宮下太吉森近運平高木顕明古河力作、戦後まで生きて再審請求した坂本清馬といった名前が思い浮かぶけど、これでも半数に満たない。特に無期に減刑された中には、ほとんど知らない人物が多い。この本で初めて実情を知った人が多くいる。

 名前を挙げると大変なので、くわしくは同書末尾のリストを見て欲しいが、知らないのも道理。社会主義運動史でも大きくは出て来ないような、たまたま「謀議」とされた場にいただけでひっかけられた人がほとんどなのである。もし本当に「大逆」、この場合は明治天皇に爆弾を投げつけることを計画したならば、こんなに多くの人を「同志」にしたら必ず発覚するだろう。本当に皇帝を爆殺したロシアのテロリストの組織を見てみれば、それはすぐに判ることだ。

 無期に減刑された12人の中でも、5人は獄死している。仮出獄できた人でも長年の苦労で健康を害し、過酷な人生を送った人が多い。刑死した人も減刑された人も、残された家族は社会の中で孤立し、貧困の中でようやく生きていた。あまりにも残酷な権力犯罪だった。その「でっち上げ」の様子は同書に詳しい。この事件は「思想を裁いた」のである。大逆罪なる罪があっても、当時の刑法でも計画も準備もない段階では有罪にはできないはずである。被告の多くは「予審」で謀議を認めさせられて、非公開、一審制(大審院のみ)の不公正な裁判で有罪を宣告された。

 戦後になって大逆罪は廃止された。皇族に対する罪を特別に重く罰するのは、法の下の平等に反する。現実に殺傷された皇族は誰もいないんだから、「計画」があったとしても「殺人未遂」や「傷害未遂」にしかならない。死刑になる事件ではない。もともと大部分の被告は何も知らず、「空中楼閣」の事件だった。宮下他ごくわずかが「爆発物取締罰則」(爆取)に触れるだけの事件である。だから、この事件は「再審」を行うべきだ。

 かつて坂本清馬の再審請求は不審な動きの中で却下された。今では被害者側の被告・家族に生存者はいない。被告側からの再審請求は難しい。しかし、再審は検察官の請求でもできる。日本政府が真相調査委員会を設置し、その報告書をもって「新証拠」として政府の責任で再審を開くべきではないか。僕には「明治150年記念」に一番ふさわしい取り組みではないだろうか。
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