最近はそんなに演劇や展覧会にも行かなくなってしまったから、カテゴリーをもう「アート」にまとめてしまうことにした。その中で「アート論」も考えたい。「異化効果」に続いて、アートの中の「ノイズ」について。ここで言う「ノイズ」とは、複製芸術に時々見られる実際の「雑音」のことではない。昔のレコードは何度も聞いていると傷が付いて「レコード針が飛ぶ」現象が起こった。場末の映画館で昔の映画を見る時も、画面にザアザアと「雨が降る」(フィルムの傷が映写される)現象が多かった。そんなホンモノの「ノイズ」は無くなった方がうれしい。
ここで言うアートの中の「ノイズ」というのは、芸術表現の中にある「美的基準」だけで判断するならば「余計な表現」(と思われるもの)のことである。直接的な政治的メッセージ、政権批判などは、本来はアートの中の「ノイズ」に当たるだろう。もっとも、だからダメとはならない。「ノイズ」が全くない表現は考えられないし、「ノイズ」を極小にしてしまうと今度はそれが「ノイズ」に感じられてくる。現実社会には「ノイズ」が満ちているからだ。例えば人間の顔はホクロがあったり、髪が乱れたりしている。アニメ映画で主人公の顔があまりにキレイに描かれてしまうと、現代人はかえって「ノイズ」と感じる。
こういう「ノイズ」は作家が意図して行う場合と意図せずに結果的にノイズ化した場合がある。意図しないノイズの典型は、もう理解が難しくなってしまった「古文」だ。今では明治中期の一葉、鴎外らの文語文も理解しにくい。そうなると耳で聞いても、それこそ「ノイズ」としか感じられない。演劇なら古い戯曲を上演するときにアレンジすることが多い。しかし昔の映画は完成時の形で見るから、意図せざる難解さが生じることがある。昔生徒に黒澤明の「椿三十郎」を見せたことがあるが、この面白い映画が理解できないと言われてビックリした。「ゴカロウサマ」(御家老様)などセリフが理解不能だったのである。
このように作者が意図しなくても時代とともに作品の受容度が変わって行く。今でも「ノイズ」をほとんど感じることなく受容できるアートは、モーツァルトの音楽ぐらいじゃないだろうか。特に室内楽や器楽曲は、よく言われる「天国的」という世界に浸ることができる。音楽だから、天才だからというだけじゃなく、時代的にアートの作り手と受け手がごく狭い小サークル内に止まっていたことが大きいと思う。モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったから、最晩年にはフランス革命が起きていた。だがハプスブルク帝国の首都で暮らしたモーツァルトには、まだ時代の風が届いていない。少し後のベートーヴェンだったら、もう時代の変転を無視することが出来ないわけだが。
(モーツァルト)
そもそもアートが作家個人の「個性」の表現だという考えがおかしい。マルクス主義やフロイトの「精神分析」が現れたことによって、作家の表現の中には本人も意図しない「階級的バイアス」や「無意識的領域」が反映されることが認められるようになった。20世紀後半のフェミニズム批評が登場すると、今までの表現に性差別があったことが明るみに出た。作家の表現には、多くのバイアスが入り込んでいて、もともと「ノイズだらけ」だったのである。
そういう風にアート表現の変遷を考えてくると、一つ一つの作品に「直接的な政治的メッセージがあること」は特に大きなノイズとは考えられない。「政治的メッセージがないこと」の方がおかしいと感じられる場合だってあるだろう。最近は多くの展覧会で「政治的中立性」を理由にして展示が不可とされる事態が起こっている。しかし、政治的表現がないこと=中立ではない。どんな作品にも何らかの「政治的ノイズ」が入り込むわけだから、そのことに無意識であることが政治的な意味を持つこともある。
ここで書いているのは一般論である。それぞれの作品を見ると、政治的メッセージが効果を上げている場合もあれば、逆にノイズが大きくなってしまう場合もあるだろう。でも、これだけ日本の各地で「表現の不自由」が起きているということは、あえて「政治的なリトマス試験紙を作るというアート表現」があってもいいはずだ。それぞれの表現自体は「ノイズ」である場合もあるだろうが、こうして現代日本の「表現の不自由」を可視化したことを考えると、この展覧会の「リトマス試験紙」的意味合いが見えてくる。
ここで言うアートの中の「ノイズ」というのは、芸術表現の中にある「美的基準」だけで判断するならば「余計な表現」(と思われるもの)のことである。直接的な政治的メッセージ、政権批判などは、本来はアートの中の「ノイズ」に当たるだろう。もっとも、だからダメとはならない。「ノイズ」が全くない表現は考えられないし、「ノイズ」を極小にしてしまうと今度はそれが「ノイズ」に感じられてくる。現実社会には「ノイズ」が満ちているからだ。例えば人間の顔はホクロがあったり、髪が乱れたりしている。アニメ映画で主人公の顔があまりにキレイに描かれてしまうと、現代人はかえって「ノイズ」と感じる。
こういう「ノイズ」は作家が意図して行う場合と意図せずに結果的にノイズ化した場合がある。意図しないノイズの典型は、もう理解が難しくなってしまった「古文」だ。今では明治中期の一葉、鴎外らの文語文も理解しにくい。そうなると耳で聞いても、それこそ「ノイズ」としか感じられない。演劇なら古い戯曲を上演するときにアレンジすることが多い。しかし昔の映画は完成時の形で見るから、意図せざる難解さが生じることがある。昔生徒に黒澤明の「椿三十郎」を見せたことがあるが、この面白い映画が理解できないと言われてビックリした。「ゴカロウサマ」(御家老様)などセリフが理解不能だったのである。
このように作者が意図しなくても時代とともに作品の受容度が変わって行く。今でも「ノイズ」をほとんど感じることなく受容できるアートは、モーツァルトの音楽ぐらいじゃないだろうか。特に室内楽や器楽曲は、よく言われる「天国的」という世界に浸ることができる。音楽だから、天才だからというだけじゃなく、時代的にアートの作り手と受け手がごく狭い小サークル内に止まっていたことが大きいと思う。モーツァルトは1791年に35歳で亡くなったから、最晩年にはフランス革命が起きていた。だがハプスブルク帝国の首都で暮らしたモーツァルトには、まだ時代の風が届いていない。少し後のベートーヴェンだったら、もう時代の変転を無視することが出来ないわけだが。
(モーツァルト)
そもそもアートが作家個人の「個性」の表現だという考えがおかしい。マルクス主義やフロイトの「精神分析」が現れたことによって、作家の表現の中には本人も意図しない「階級的バイアス」や「無意識的領域」が反映されることが認められるようになった。20世紀後半のフェミニズム批評が登場すると、今までの表現に性差別があったことが明るみに出た。作家の表現には、多くのバイアスが入り込んでいて、もともと「ノイズだらけ」だったのである。
そういう風にアート表現の変遷を考えてくると、一つ一つの作品に「直接的な政治的メッセージがあること」は特に大きなノイズとは考えられない。「政治的メッセージがないこと」の方がおかしいと感じられる場合だってあるだろう。最近は多くの展覧会で「政治的中立性」を理由にして展示が不可とされる事態が起こっている。しかし、政治的表現がないこと=中立ではない。どんな作品にも何らかの「政治的ノイズ」が入り込むわけだから、そのことに無意識であることが政治的な意味を持つこともある。
ここで書いているのは一般論である。それぞれの作品を見ると、政治的メッセージが効果を上げている場合もあれば、逆にノイズが大きくなってしまう場合もあるだろう。でも、これだけ日本の各地で「表現の不自由」が起きているということは、あえて「政治的なリトマス試験紙を作るというアート表現」があってもいいはずだ。それぞれの表現自体は「ノイズ」である場合もあるだろうが、こうして現代日本の「表現の不自由」を可視化したことを考えると、この展覧会の「リトマス試験紙」的意味合いが見えてくる。