尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

限界芸術ーアートのとらえ方③

2019年08月16日 22時43分26秒 | アート
 芸術表現について考えるときに、まず「ジャンル」を考えることが多い。美術音楽文学…などで、さらに美術が絵画彫刻版画陶芸…などのジャンルに分けられる。写真建築映像マンガなどは、美術館で展示されることもあるけれど、今では隣接した独立ジャンルに分けることが多いだろう。さらに絵画だったら、油彩水彩テンペラパステルなどのサブジャンルに分けられる。

 そういうジャンル別に芸術を考えることもできるけど、もう一つの分け方がある。例えば小説だったら、純文学大衆文学という分け方である。日本で言えば、新人作家が芥川龍之介賞にノミネートされる「純文学」と、直木三十五賞にノミネートされる「大衆文学」に一応分類されている。もっとも推理作家の松本清張は芥川賞を受賞しているし、直木賞を受賞した山田詠美は現在芥川賞の選考委員を務めている。昔はまだ双方の差がはっきりしていたが、今じゃ両者の違いはそんなに大きくはないだろう。

 それでも他ジャンルでも、「芸術的」であるものと「大衆的」であるものに分けられることが多い。音楽だったら「クラシック」と「ポピュラー」という分け方があったし、映画でも批評家が選ぶベストテン興行収入ベストテンに入る作品には違いがあることが多い。しかし、この「純粋芸術」と「大衆芸術」という分け方は、いずれも「プロのアート作家」が職業として製作するときのものだ。

 世の中にあふれている「芸術表現」には、そのような「職業芸術」ではないものがいっぱいある。むしろ世の中に一番多いアートは、作者が作者本人の「自己満足」のために作っている。日本だったら、昔から俳句や短歌の結社がいっぱいあって、専門家じゃない人が作ってきた。また地域や職場単位の絵画展、写真展も多いし、素人の音楽バンドもいっぱいある。プロのオーケストラと一緒に歌う年末の「第九合唱団」なんてものもある。映像やパフォーマンスを自分でYouTubeに投稿する人も山のようにいる。自分じゃなくても、家族や知人の誰かは何かやってる人が多いだろう。

 そのような非専門家によって作られて大衆的に享受される芸術を、かつて鶴見俊輔は「限界芸術」と呼んだ。鶴見によれば「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」がある。「限界芸術」は英語で表記すれば、marginal art で、つまり芸術と生活の境界領域にあるということだろう。ウィキペディアを見てみると、限界芸術と鶴見が考えたものとして「落書き、民謡、盆栽、漫才、絵馬、花火、都々逸、マンガ」などが例示されている。これはインターネット出現以前のもので少し古い。デジタル技術の発展とインターネットで、アートの状況は大きく変わってしまった。
(講談社学術文庫「限界芸術」)
 ところで、鶴見による芸術の3分類は今も有効だろうか。現代では多くの商品デザインや広告も当然プロが作っている。そのような「プロの作者によって作られている」が「芸術と非芸術の境目にある」ものが多くなっているのではないか。「小説」や「レコード」(CD)では、もちろん本や音楽の内容が一番重要だけど、中には「ジャケ買い」する人もいる。映画や演劇の場合、チラシの宣伝で行く気になることがある。このような「ジャケット」や「チラシ」の作成はプロによる「限界芸術」みたいなものだ。

 あるいは公共の空間にある銅像はアートだろうか。例えば、渋谷のハチ公像や上野公園の西郷隆盛像は、芸術なんだろうか。これは素人では製作できない。間違いなくプロの仕事で、作者ももちろん判っている。だけど、誰も作家の作品とは思ってないんじゃないだろうか。もう町の風景に同化していて、作家性や作品性を感じる余地がほとんどない。これは「限界芸術」に近いのではないか。

 そうすると、いわゆる「慰安婦少女像」のケースはどう位置づけたらいいんだろうか。日本では「政治的文脈」から展示が「異化効果」を発生させてしまったが、本来は見るものに「同化」を求めるものだろう。そして、「公共空間に設置される」ことを前提にしたという意味で、「限界芸術」的なものなのではないか。「少女像」そのものと、「世界各地に設置を進める社会運動」と、「日本大使館前に設置する行為」は厳密に分けて考えるべきものだ。今のところ、「少女像」は「作家性」を幾分か帯びているけれど、長いスパンで見るならば「無名」のアート、限界芸術のようなものになっていくんじゃないかと思っている。
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