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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

八千草薫と緒方貞子ー2019年10月の訃報①

2019年11月04日 23時12分27秒 | 追悼
 2019年10月は重要な訃報が多かった。月末になって、八千草薫緒方貞子の逝去が伝えられた。どちらも特別に一回書いてもいいかとも思ったけど、もうすぐ月が変わるからまとめて書けばいいかなと思った。

 二人の生没年を書いてみると、以下のようになる。
 八千草薫 1931.1.6~2019.10.24 88歳
 緒方貞子 1927.9.16~2019.10.22 92歳
 二人には特に関連したところはないように思えるが、どちらもほぼ同じ時代を生きて人生の終わり近くまで活躍を続けた。訃報が伝えられた時も、非常に大きく報道された。マスコミで報じられたときには、葬儀は近親者で営まれていた。(最近はそういうことが多い。)この二人の一番大きな共通性は「身長」かもしれない。二人とも150㎝強で、今では小柄な印象がする。しかし、かつての日本女性はほとんど同じぐらいで、心身ともに頑丈なことに誇りを持っていた。
(八千草薫)
 八千草薫の話は多分一度聞いてると思う。どこだったか忘れてしまったけど。その時の印象として、年齢を感じさせない美人だったこととすごく小柄だなと思ったことを覚えている。元は宝塚女優で、第34期生になる。これは1946年入学、47年卒業で、戦後初の入学世代になる。同期に淀かほる、35期に寿美花代、36期に有馬稲子がいた。宝塚では1952年に「源氏物語」の若紫で人気を得たとウィキペディアにある。在籍中から映画に出ていて、「宮本武蔵」や「蝶々夫人」で人気を得た。
(若い頃の八千草薫)
 「宮本武蔵」(1954、稲垣浩監督)は米国アカデミー賞の外国語映画賞を受けた名作で、当時大ヒットした。内田吐夢監督の宮本武蔵5部作が作られ、それ以前の稲垣版が忘れられている。この映画で「お通」を演じた八千草薫の可憐さはちょっと忘れがたい。イタリアで撮った「蝶々夫人」も見た記憶があるが、こちらも八千草薫が素晴らしい。宝塚だから東宝でスターになったのは当然に思えるけど、他社と契約した人の方が多い。女性映画が少ない東宝は不利だったかもしれないが、1957年に19歳年上の谷口千吉監督と結婚したのは東宝だったから。そして2007年の夫の死まで添い遂げた。

 その後、映画、舞台、テレビで長く活躍を続けた。テレビの「岸辺のアルバム」(1977)が有名だが、僕は見てなかったから判らない。初期の映画では「ガス人間第一号」がいいなと思う。中期では寺山修司の「田園に死す」、晩年は「ディア・ドクター」。どうしても「お姫様」的な役柄を求められ続けて、晩年になってようやく「素」で演じるような役がオファーされた感じだ。だから21世紀になって、多くの演技賞を受けることになった。大阪出身、父が早く死んで恵まれない環境で、自分の才能で生き抜いた。

 緒方貞子は、戦前の首相犬養毅のひ孫とよく書かれる。その通りだけど、旧姓は中村である。犬養の娘が犬養内閣の外相を務めた芳沢謙吉と結婚し、さらにその娘が外交官中村豊一と結婚した。中村はほとんど知られていないが、親に付いて貞子も米国や中国で小学5年生まで過ごした。つまり「帰国子女」である。普通の家庭とは違うが、爵位を持つような特権階級ではなく、だから学問で身を立てたわけである。女性として外国の大学で博士課程まで修了したのは、50年代初期には珍しい。
(緒方貞子)
 緒方性を名乗るのは、日銀理事等を歴任した緒方四十郎と結婚したから。この人は緒方竹虎の三男である。緒方竹虎といっても、もはや誰ですかという感じだろうが、戦前は朝日新聞主筆、戦中戦後に政治家として活躍した。吉田茂内閣総辞職後、自由党総裁の地位にあったから、「保守合同」で自由民主党が出来たときに総裁の最有力候補だった。1956年1月28日に急死しなかったら、50年代後半に首相になっていた可能性は非常に大きいだろう。(その場合、岸信介内閣はなかったかもしれない。)緒方竹虎が首相になっていたら、「嫁」の貞子の人生も変わっていたかもしれない。

 緒方貞子は国連難民高等弁務官を務めた印象ばかり強いけれど、もともとの政治学者としての業績が忘れられている。国際基督教大学に勤務し学者として終わるはずのところ、1976年に国連公使となって、国連との関わりが生まれた。その後のことはよく知られているが、日本が「大国」として国連への関与を求められるとき、女性としていくつもの人道問題に関わることになった。それは何故か、僕はよく知らない。クリスチャンであること曾祖父が軍部クーデタで殺害されたことと関わっているのかもしれない。母の従姉妹である犬養道子も似たような人生を歩んでいる。どこか共通する文化的環境があったんだと思う。

 僕は緒方貞子さんの講演などを聞いたことがない。そういうものがあったのかどうかも知らない。表記は違うものの同じ「おがた」であり、「緒形拳」の没後は一番有名な「おがた」だった。実は尾形光琳を見に行ったことがないんだけど、なんかちょっと避けてしまうんだな。犬養道子は読んでたけれど。だから立派でありつつ、限界もあったかと思うが、あまりちゃんと考えたことがない。
コメント (2)
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