滝口悠生の小説を読んで、すごく面白かった。近年の芥川賞受賞作家だが、まず名前は「たきぐち・ゆうしょう」である。1982年10月18日生まれ。文庫本には「東京生まれ」とあるが、ウィキペディアを見るとそれは八丈島。でも一歳半で埼玉県入間市に移り、埼玉県立所沢高校卒業、早稲田大学第二文学部退学と出ている。父親は「古文教師」と不思議な表現になっているが、都立高校の国語教員かなんかなのだろうか。今までに5冊の短編集と一冊の長編「高架線」が刊行されている。
3つの短編集が文庫化されていて、その3冊を読んだ。僕は芥川賞作品ぐらいは読んでおきたいと思っている。昔は単行本で買ってたけど、読まないうちに数年経って文庫化されたりする。読んでない本はいっぱいあるから、待ってればいいと思うようになった。最近、山下澄人「しんせかい」が文庫に入って、第157回(2017年7月)の沼田真佑「影裏」まで文庫に入っている。
滝口悠生は「死んでいない者」(2015)で、154回芥川賞(2015年下半期)を受けた。本谷有希子「異類婚姻譚」と同時受賞。その前回が羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」と又吉直樹「火花」。その次が村田沙耶香「コンビニ人間」だった。この5人の中では、滝口悠生が一番地味というか、知られてないんじゃないかと思う。でも読んだらすごく面白くて、他の文庫本も読んでみようと思った。
「死んでいない者」(文春文庫)という題名は、「死んでしまって、もういない者」と「まだ死んでいなくて、生きている者」という両義的な解釈ができる。どっちなんだろうと思ったら、読んでみたら両方の意味がそのまま描かれていた。ある高齢男性が死んで、通夜と葬儀に多くの家族・知人が集まる。子ども、孫、ひ孫世代までいる。故人には子どもが5人いて、孫は10人にもなる。ある世代には、このぐらいの子どもがいたもんだった。孫の一人(女)は外国人と結婚したので、通夜の席には夫のダニエルと3歳の男児も来ている。東京から遠くない農村地帯で、葬儀会場は地区の公民館を使う。
「生きていない者」
そんな感じで始まるので、最初は人名が判らない。家系図を載せてくれと思うが、そのうちあまり気にならなくなる。「楡家の人々」のような、家族をもとに社会と時代を描き出す本格小説じゃないのである。葬儀を舞台にして、人間の記憶を考える短編なのである。180ページほどしかないけど、読後感はすごく大きな世界に触れた感じがする。家族が多いから、登場人物も多くて視点がどんどん変わる。最初はなじめないが、そういうもんだと思って次第になれてくる。故人の妻は亡くなっているが、子どもや孫は生きている。しかし、中には「行方不明」や「引きこもり」で不在の者もいる。
(滝口悠生)
もう高齢の大往生だから、その場に哀しみはない。それそれが人生を思い出すような場である。年長者が朝まで棺を見守ることになり、その前に皆で近くの温泉施設に行く。ダニエルも誘われていき、初めて湯あたりする。「外国人の義理の孫」という立場のダニエルの思いが語られる。
孫の一人は中学から不登校になるが、理由が親にも判らない。いろいろあって、最後は祖父の家に行って物置で暮らしていた。時々は祖父の食事を作ったりもしていた。そのことは親は知らないけど、実は10歳離れた妹は時々携帯電話で連絡を取っていた。葬儀に来なかった兄に電話すると、通夜振る舞いの残りを持ってきてと頼まれる。年の近い世代が集まって、祖父の家に行く。特に事件も起こらないシーンの中に、自分にもそんな場面があったような気がしてくる。故人が友人たちと行っていた近くのスナックのママ(と思われる)を主人公にした「夜曲」が併載。そこで彼らは「時の流れに身をまかせ」を歌っていた。若い世代には誰の歌かも判らないけど、曲は伝わっていた。
特に大きな「事件」が小説の中で起こるわけでもないのに、何となく自分の人生も思い起こしてしまう「死んでいない者」。それより取っつきやすいのが、一つ前の小説「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(2015、新潮文庫)だろう。「青春小説」の枠組みで書かれている。最初はなんだか判りにくいが、どうも大学生がバイクで東北へ行って事故を起こす。無事だったけど、それが2001年。その時「房子」はアメリカへ行っていて、行方不明。この房子の正体が判った頃から、小説は俄然面白くなってくる。ちょっと普通の常識では許されないような関係である。今は2015年、東北で会った人々の消息を尋ねる。この小説は「9・11」と「3・11」が小説で重要な日付として出てくる。

(ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス)
東北をバイクで旅する道中を描きながら、過去と現在を往復している。映画を撮ると言って大学へも行かなかった友人のこと。ずっと合っていたんだけど、結局映画は完成せず、最近は会うことも少ない。30過ぎれば、それなりの自分の生活があって、誰も若い日の友人と会う時間がなくなる。「房子」が消えた後、大学生協のバイトで知った先輩に恋してしまう。その頃ジミ・ヘンドリックスを真似てギターの練習をしていた。ある日、野外でギター練習中に先輩の彼女に会ってしまうシーンは忘れがたい。
「ジミヘン」の前の著者2冊目の短編集が「愛と人生」(2015、講談社文庫)で、野間文芸新人賞を受けた。野間賞は芥川、三島と並ぶ新人三賞の一つで、これで新人と認められたと言える。帯に『「男はつらいよ」の世界が小説になった』と出ている。一体何なのかと思ったら、本当に寅さん世界の登場人物が自分の思いを語っているのだった。こんな不思議な小説は読んだ記憶がないような感じ。作品設定が不思議なのはいくらも読んでるが、これは誰もが知る「男はつらいよ」、つまりは脚本の山田洋次作品の二次的解釈のような世界である。
「愛と人生」
特に不思議なのは、さくらと博の息子である満男は「満男」と書かれるのに、「美保純」が役者の名で出てくること。美保純の役名は「あけみ」で、裏の印刷屋のタコ社長の娘である。そんな人が出てたのかと思う人もいるだろうが、1984年の第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」から1987年の第39作「寅次郎物語」まで準レギュラーで出ていたという。僕はその頃の作品はほとんど見ていないので、全然知らない。小説中に「美保純が」とか出てくるのが実におかしい。
「寅次郎物語」にはテキ屋の父が死んで「寅次郎を訪ねろ」と言われた子どもが出てくる。その子の内面にも入っていく。「テキ屋」は「敵屋」だと思い込んでいたとか。エンタメ作品の寅さん世界を「純文学」してみましたというような趣向で、けっして読みやすい小説じゃないけど、そのフシギ感は触れてみる価値がある。「かまち」と「泥棒」という短編が併載されている。落語や山田かまちが語られる不思議な感触の作品。若い世代の作家として、今後も注目していきたい人だ。
3つの短編集が文庫化されていて、その3冊を読んだ。僕は芥川賞作品ぐらいは読んでおきたいと思っている。昔は単行本で買ってたけど、読まないうちに数年経って文庫化されたりする。読んでない本はいっぱいあるから、待ってればいいと思うようになった。最近、山下澄人「しんせかい」が文庫に入って、第157回(2017年7月)の沼田真佑「影裏」まで文庫に入っている。
滝口悠生は「死んでいない者」(2015)で、154回芥川賞(2015年下半期)を受けた。本谷有希子「異類婚姻譚」と同時受賞。その前回が羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」と又吉直樹「火花」。その次が村田沙耶香「コンビニ人間」だった。この5人の中では、滝口悠生が一番地味というか、知られてないんじゃないかと思う。でも読んだらすごく面白くて、他の文庫本も読んでみようと思った。
「死んでいない者」(文春文庫)という題名は、「死んでしまって、もういない者」と「まだ死んでいなくて、生きている者」という両義的な解釈ができる。どっちなんだろうと思ったら、読んでみたら両方の意味がそのまま描かれていた。ある高齢男性が死んで、通夜と葬儀に多くの家族・知人が集まる。子ども、孫、ひ孫世代までいる。故人には子どもが5人いて、孫は10人にもなる。ある世代には、このぐらいの子どもがいたもんだった。孫の一人(女)は外国人と結婚したので、通夜の席には夫のダニエルと3歳の男児も来ている。東京から遠くない農村地帯で、葬儀会場は地区の公民館を使う。

そんな感じで始まるので、最初は人名が判らない。家系図を載せてくれと思うが、そのうちあまり気にならなくなる。「楡家の人々」のような、家族をもとに社会と時代を描き出す本格小説じゃないのである。葬儀を舞台にして、人間の記憶を考える短編なのである。180ページほどしかないけど、読後感はすごく大きな世界に触れた感じがする。家族が多いから、登場人物も多くて視点がどんどん変わる。最初はなじめないが、そういうもんだと思って次第になれてくる。故人の妻は亡くなっているが、子どもや孫は生きている。しかし、中には「行方不明」や「引きこもり」で不在の者もいる。

もう高齢の大往生だから、その場に哀しみはない。それそれが人生を思い出すような場である。年長者が朝まで棺を見守ることになり、その前に皆で近くの温泉施設に行く。ダニエルも誘われていき、初めて湯あたりする。「外国人の義理の孫」という立場のダニエルの思いが語られる。
孫の一人は中学から不登校になるが、理由が親にも判らない。いろいろあって、最後は祖父の家に行って物置で暮らしていた。時々は祖父の食事を作ったりもしていた。そのことは親は知らないけど、実は10歳離れた妹は時々携帯電話で連絡を取っていた。葬儀に来なかった兄に電話すると、通夜振る舞いの残りを持ってきてと頼まれる。年の近い世代が集まって、祖父の家に行く。特に事件も起こらないシーンの中に、自分にもそんな場面があったような気がしてくる。故人が友人たちと行っていた近くのスナックのママ(と思われる)を主人公にした「夜曲」が併載。そこで彼らは「時の流れに身をまかせ」を歌っていた。若い世代には誰の歌かも判らないけど、曲は伝わっていた。
特に大きな「事件」が小説の中で起こるわけでもないのに、何となく自分の人生も思い起こしてしまう「死んでいない者」。それより取っつきやすいのが、一つ前の小説「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(2015、新潮文庫)だろう。「青春小説」の枠組みで書かれている。最初はなんだか判りにくいが、どうも大学生がバイクで東北へ行って事故を起こす。無事だったけど、それが2001年。その時「房子」はアメリカへ行っていて、行方不明。この房子の正体が判った頃から、小説は俄然面白くなってくる。ちょっと普通の常識では許されないような関係である。今は2015年、東北で会った人々の消息を尋ねる。この小説は「9・11」と「3・11」が小説で重要な日付として出てくる。

(ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス)
東北をバイクで旅する道中を描きながら、過去と現在を往復している。映画を撮ると言って大学へも行かなかった友人のこと。ずっと合っていたんだけど、結局映画は完成せず、最近は会うことも少ない。30過ぎれば、それなりの自分の生活があって、誰も若い日の友人と会う時間がなくなる。「房子」が消えた後、大学生協のバイトで知った先輩に恋してしまう。その頃ジミ・ヘンドリックスを真似てギターの練習をしていた。ある日、野外でギター練習中に先輩の彼女に会ってしまうシーンは忘れがたい。
「ジミヘン」の前の著者2冊目の短編集が「愛と人生」(2015、講談社文庫)で、野間文芸新人賞を受けた。野間賞は芥川、三島と並ぶ新人三賞の一つで、これで新人と認められたと言える。帯に『「男はつらいよ」の世界が小説になった』と出ている。一体何なのかと思ったら、本当に寅さん世界の登場人物が自分の思いを語っているのだった。こんな不思議な小説は読んだ記憶がないような感じ。作品設定が不思議なのはいくらも読んでるが、これは誰もが知る「男はつらいよ」、つまりは脚本の山田洋次作品の二次的解釈のような世界である。

特に不思議なのは、さくらと博の息子である満男は「満男」と書かれるのに、「美保純」が役者の名で出てくること。美保純の役名は「あけみ」で、裏の印刷屋のタコ社長の娘である。そんな人が出てたのかと思う人もいるだろうが、1984年の第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」から1987年の第39作「寅次郎物語」まで準レギュラーで出ていたという。僕はその頃の作品はほとんど見ていないので、全然知らない。小説中に「美保純が」とか出てくるのが実におかしい。
「寅次郎物語」にはテキ屋の父が死んで「寅次郎を訪ねろ」と言われた子どもが出てくる。その子の内面にも入っていく。「テキ屋」は「敵屋」だと思い込んでいたとか。エンタメ作品の寅さん世界を「純文学」してみましたというような趣向で、けっして読みやすい小説じゃないけど、そのフシギ感は触れてみる価値がある。「かまち」と「泥棒」という短編が併載されている。落語や山田かまちが語られる不思議な感触の作品。若い世代の作家として、今後も注目していきたい人だ。