尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「国語」から「日本語」へー「国語」教育考②

2019年11月14日 22時54分27秒 |  〃 (教育行政)
 高校国語の新指導要領について書いたから、ついでに今まで「国語」に関して思っていたことを書いておきたい。サブタイトルに「国語」とカッコを付けている。「国語」って何だろうか? 国語、数学、英語をよく「主要3教科」などと呼び、「国数英」(あるいは英数国)と略している。「」は理解出来る。確かに「数の勉強」だ。でも「」というのは何だ。「国」の勉強なのだろうか。もちろん違う。「国語」の「」の方の勉強なのである。そして、その「語」とは「日本語」に他ならない。

 じゃあ、なぜ「国」を付けるのだろうか。自分たちが所属している国だけが国家ではない。世界には200近く国家が存在する。その中には「国家」と「言語」が違っている国も多い。(スイスには4つの公用語があるし、ベルギーはオランダ語圏とフランス語圏に分かれている。一方、ドイツオーストリアは同じくドイツ語を公用語としている、など。)日本では「国家の成員」がほぼ「日本語」を話すからといって、それを「国語」と言ってしまっていのだろうか。それは「国家の言葉」という「正しい言語」を上から押しつけるということにつながらないだろうか。そして、そのことを私たちはどの程度自覚しているだろうか。

 「国語」という言葉がいつから教育で使われているのか、僕はよく知らない。「国語」という言葉は明治になって出来た言葉だが、学校の「教科」に使われたのはいつからだろう。1941年に「国民学校令」が出され、小学校が「国民学校」に改称された。その時の初等科(小学校)の教科は4つだった。「国民科」「理数科」「体練科」「芸能科」である。そして「国民科」の中に、科目として「修身」「国語」「国史」「地理」があった。このように「国語」というのは、「修身」や「国史」と並ぶような言葉だったのである。

 「国史」とは、まあ「日本史」だが「日本国の歴史」=「天皇家の歴史」であり、歴代天皇の名前を暗記するのが重要だった。戦後の高校の学習指導要領を調べてみると、当初は「国史」とされていたが、1951年には「日本史」と名前が変わった。歴史教育においては、「国史」という言葉への問題意識があったわけだ。それに対して「国語」の方はあまり意識されずに今まで続いている。

 東京大学文学部の学科名を調べてみる。1890年に京都大学が出来るまで日本に大学は一つだから、ただの「帝国大学」と言っていた。1887年段階の学科として「和文学科」や「史学科」があった。1897年に「東京帝国大学文科大学」と名前が変わり、1910年に「3学科19専修学科」となり、その専修の中に「国史学」「国文学」という表現が出てくる。1919年に東京大学文学部となった時点で、正式に「国史学科」「国文学科」が誕生した。戦後になって1949年に新制大学に代わった時も、引き続き「国史学」「国文学」となっていた。この言葉は東大紛争を超えて生き残り、1994年になってようやく「国史学」を「日本史学」に、「国語学、国文学」を「日本語・日本文学」に変更されたのである。(東大HPより。)

 2004年になって、「国語学会」が「日本語学会」に改称された。教育界だけが取り残されている。「日本語 教育」の検索では、「日本語教育とは日本語を話せない外国人向け」といった説明も出てくる。一方「国語」とは「日本語が母語であることを前提にした日本語教育」なんだという。しかしこれは詭弁だろう。「国語」という以上、「国家」を前提にしている。世界の多くの言語の中の一つを深く学ぶという視角がなくなってしまう。まあ「日本語」と変えても「日本を超えられない」とか言う人もいるかもしれない。それでも「国家」をまず意識するのが先決だろう。

 日本語が母語である人は、難しい四字熟語なんかは知らなくても、日常会話なんかは苦労せずに出来ると思い込んでいる。そのため「会話のスキル」を意識することもなくなる。世界の言語の中で、日本語がどのような特徴があり、他言語とどう違っているのか。そういうことをほとんど教えないまま、「英語が出来ないのは英語教育がおかしい」とか言っている。「国語」という教科名を疑うところから、「外国語教育のあり方」を考えていくべきじゃないだろうか。
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