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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

金田正一、上田薫等ー2019年10月の訃報③

2019年11月06日 23時23分22秒 | 追悼
 日本プロ野球史上、最高レベルの投手だった金田正一(かねだ・まさいち)が死去した。1933年8月1日~2019年10月6日、86歳。破格の記録ホルダーで、勝利数が400勝というのは、今では考えられない数だが、同時に298敗という最多敗戦投手という記録もある。どちらも2位は米田哲也で、350勝285敗。通算奪三振4490という記録も持つ。あまりにもすごい記録で、誰も抜くことが出来ないだろう。その他投手としてのいくつもの記録を持つが、完全試合1回(1957年8月21日)、ノーヒットノーラン1回(1951年9月5日、18歳35日という最年少記録)も達成していてどっちも1対0の試合だった。

 どこのチームにいたかというと、国鉄スワローズである。国鉄が直接持ってはいけなかったようで、一応外郭団体が親会社だった。2リーグ制になって、国鉄のノンプロ選手がどんどん引き抜かれるので、それなら自分で球団を持とうということだったらしい。1949年から1964年までが国鉄で、その後産経新聞が所有し(一時はサンケイ・アトムズといった)、1970年からヤクルトが親会社となって1975年に名前をスワローズに戻した。金田は高校3年生だった1950年に、夏の甲子園予選敗退後に退学して、プロに入団した。この入団経緯も空前絶後だろう。その年は8勝12敗。

 その翌年の1951年に22勝して、以来1964年まで14年連続で20勝以上している。それなのに、その間最多勝利は3回しかなかった。1955年など29勝もしているのに。じゃあ誰が最多勝利かというと、巨人の大友工、広島の長谷川良平という投手が30勝しているのだった。時代が違うと言えばそれまでだが、よくそんなことがあったものだ。僕は今データを調べて書いている。自分の誕生前後のことは記憶にない。だけど沢村栄治スタルヒンなどと違って、後の金田はテレビで何度も見ている。そして国鉄は弱小で金田がいくら勝っても、1961年の3位が最高で、後はBクラスなのだった。

 やはり野球選手としては優勝がしたいだろう。金田は1964年末に巨人へ移籍した。1965年から1969年まで5年間所属して、45勝している。僕は小学生ながら、なんで弱いチームを見捨てて強いチームに行くんだと義憤を感じた。相撲でも優勝を重ねる大鵬が好きじゃなく、ちょっと弱い方のファンだった。しかし、「国鉄」は翌年から「サンケイスワローズ」になる。経営委譲をめぐる産経のやり方を見て移籍したとウィキペディアには出ている。自分の思いは間違っていたのかも。

 引退後は1973年~79年、1990年~91年にロッテの監督を務め、1974年に日本一となった。いろいろと話題を呼ぶ言動が多く、引退後も有名人だった。マスコミは全く触れてないけど、誰もが知るように、元々「朝鮮人」で、後に日本の国籍を取得した。「在日韓国人」とウィキペディアには書いてあるが、日韓国交樹立は1965年なんだから、国鉄で活躍していたときは「朝鮮籍」である。(「朝鮮籍」というのは、旧植民地出身者の日本国籍を勅令で奪ったあとの「記号」である。)「在日」という表現もずっと後で生まれたもので、当時はただ「朝鮮人」と呼んだ。大人たちは差別的なイメージもあっただろうが、僕たちは張本勲金田を見て朝鮮人はすごいなと思っていた。なお、実弟で東映、ロッテ、広島で活躍した投手、金田留広はほぼ一年前の2018年10月2日に死去している。

文化人類学者原ひろ子が死去。10月7日没、85歳。「極北のインディアン」「ヘヤー・インディアンとその世界」などで知られている。カナダ北部の先住民を主な研究対象にしていた。それらの見地をもとに、後にはジェンダー研究を中心として家族や育児について多くの発言をした。
・元衆院議員の長谷百合子が死去。10月13日没、72歳。学生運動に参加し、お茶の水女子大を中退。その後に新宿ゴールデン街でバーを開き、評論活動も行った。その経歴が注目され1989年の衆院選に社会党から立候補、土井たか子委員長時代の「マドンナブーム」に乗って当選した。結局、一回務めただけに終わったが。「ベレー帽」で有名で、国会内でも着用を求めてもめたことがある。
 (前=原ひろ子、後=長谷百合子)
ジンジャー・ベイカー、6日没、80歳。「クリーム」のドラマー
森川万智子、6日没、72歳。フリーライターで韓国人元慰安婦、文玉珠さんの聞き書きをまとめた。
吉川貴久、12日没、83歳。ローマ、東京五輪で2大会続けて射撃で銅メダルを獲得。
高木護、16日没、92歳。詩人。「放浪の詩人」として知られ「野垂れ死に考」「人夫考」など。
吾妻ひでお、13日没、69歳。漫画家、「不条理日記」「失踪日記」など。
大野玄妙、25日没、71歳。法隆寺第129世住職。
吉田博美、26日没、70歳。自民党前参議院幹事長。今年7月の参院選に立候補せず引退した。
松沢哲成、9月22日没、79歳。日本近現代思想史、東京女子大名誉教授。
福岡翼、4月20日没、79歳。芸能リポーターだが、僕には映画評論家の印象が強かった。

 さて、写真が見当たらないのだが、最後に上田薫氏の訃報を書いておきたい。10月1日没、99歳。教育学者で、都留文科大元学長を1984年から1990年まで務めた。上田薫著作集全15巻、上田薫社会科著作集全5巻がある。戦後の社会科教育、道徳教育などの分野で教育哲学を論じた。

 元都留文科大学長と報道されるのは当然だが、その前は立教大学、さらにその前は東京教育大学に勤務していた。僕は上田薫先生の講義を大学時代に受講している。先月来、僕が受講した先生方の訃報が続き、僕はかなりショックだ。何で取ったかというと、僕の興味関心の分野だったからでもあるけれど、それ以上に僕の父親の旧制武蔵中学時代の同級生なのである。同級生と言っても、上田氏の方が少し年上である。そのことを聞いていたので、一度受けてみたいと思っていた。正直内容は覚えてないんだけど、それは違和感を持つような内容じゃなかったと言うことなんだろう。

 なんで東京教育大から立教へ移ったかというと、筑波大への改組に反対したからである。「筑波闘争」なんて言っても、もう覚えている人は少ないだろう。僕は家永三郎氏の「東京教育大学文学部」(1978)という本を読んで、上田先生が反対派だったと知った。この本はどこかで再刊して欲しい本だ。筑波大というのは、単なる移転ではなく、「教授会自治」をなくして「学長独裁」に道を開くものだった。自然科学系のノーベル賞受賞者が出るたびに「昭和の遺産だ」という声が出る。つまり、それは大学のあり方が「筑波化」されていった結果であり、自民党教育行政のもくろみ通りになってきたわけだ。
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