尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

江戸と近代ー清澄白河散歩②

2019年11月17日 22時28分37秒 | 東京関東散歩
 清澄白河近辺には史跡も多いが、特に史跡と言うほどではないけれどムードある建築が豊富で、町並みを見ているだけで散歩が楽しい。古いものと新しいものが同居している。庭園・公園もあって、住んでみたいと思うほどだ。「白河」というのは、江戸時代の老中、白河藩主松平定信から来ている。定信の墓所が霊巌寺(れいがんじ)という寺にある。もっとも地名となったのは昭和の初め頃だという。深川江戸資料館に近いところにあり、多くの人が通っているけど、寺を訪れる人は少ない。
  
 霊巌寺は明暦の大火で、日本橋の霊厳島から移転したという。ここの文化財は、松平家墓所(国史跡)と江戸六地蔵5番目の地蔵菩薩像。定信墓所は近づけないように囲われている。松平定信は寛政の改革を主導した人物で、僕はどうも好きになれない。まあ地名になるほどの知名度はあるということだろう。江戸六地蔵って、全然知らないんだけど、18世紀初頭に作られ5つが現存しているという。
   
 霊厳寺の前は「江戸資料館通り」で、深川めし屋などが並んでいる。資料館そのものは単なるビルだから省略。前に見てるから、見学も略した。清澄白河駅にあった広告で、だいたいこんな展示かと判ると思う。立体的展示が多く、面白いことは面白いけど、まあ何度も見なくてもいいかな。
   
 近代建築で面白いのが「深川図書館」。清澄庭園の裏あたりにある。出来たのは1909年だと言うから、100年を超えている。その後改修はしているようだが、随所にレトロ感覚が残る。階段のステンドグラスも美しい。
  
 もう一つが「清洲寮」。1933年に作られた民間集合住宅で、一階には今はお店も入っているが、上の方は今も貸し部屋になっているようだ。実に不思議な感じだが、清澄白河には合っている。
  
 清澄庭園の周辺は2階建てのレトロなムードの建物が並んでいる。こんな感じ珍しい。
   
 こういう風情ある建物や元工場みたいな懐古物件がこの地区には多い。近くの木場公園に「東京都現代美術館」があることで、ここにもギャラリーが増えてきた。そこに「サードウェーブ」と呼ばれるコーヒー店が集まり、東京でも注目の地区になっている。「第三の波」というのは、アメリカで言われている言葉で、インスタントが第一、スタバなど「シアトル系が第二、コーヒーをワインのように芸術品として品質管理するようなものを第三と呼ぶらしい。一番有名な「ブルーボトルコーヒー」が下の一枚目。混んでたから飲んではいない。昔の清澄庭園の半分は「清澄公園」として開放されている。ここも木が立ち並んで気持ちいい空間。こんな感じが都心に残っていた。
  
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芭蕉のいた町ー清澄白河散歩①

2019年11月17日 20時18分23秒 | 東京関東散歩
 清澄庭園に行ったのをきっかけに、その周辺も歩いてみたくなった。11月上旬のことで、少し時間が経ったけれど、まとめておきたい。清澄白河駅が出来るまで、そういう地名があることもあまり知られていなかった。これは駅近くの地名「清澄」と「白河」をつなげたもの。

 近くを隅田川が流れ、清洲橋が架かっている。駅からちょっと北へ歩くと、小名木川が通っている。これは隅田川と旧中川を結ぶ運河で、徳川家康の命令で作られたとされる。江戸の物流を支えた重要河川で、時代小説などによく出てくる。隅田川に一番近い萬年橋(まんねんばし)を北へ渡ると、地名が「常盤」(ときわ)に変わる。萬年橋は江戸時代に掛けられ、北斎や広重の浮世絵に描かれた。木造の橋は関東大震災に耐えたが、1930年に震災復興計画で建て替えられた。
 (今の萬年橋と葛飾北斎「深川萬年橋下」)
 萬年橋を越えると、そこは松尾芭蕉が住んだあたりである。ほんの少し歩くと、左に案内が出てくる。「芭蕉記念館分館」とある方に行くと、途中に小さな「芭蕉稲荷神社」がある。ここが「芭蕉庵」のあったところとされている。別に芭蕉が稲荷になったわけじゃなくて、1917年に地元の人々がその場所に稲荷神社を建立したんだという。「芭蕉案跡」の碑もあるが、本当にここだったのか。まああまり詮索しても仕方ない。今は小さな神社である。(都営新宿線森下駅からも同じぐらいの距離。)
  (稲荷神社、芭蕉庵跡碑、説明板)
 松尾芭蕉はなぜ深川に移り住んだのか。もともと伊賀上野の生まれだった松尾芭蕉(1644~1694)は、仕えていた藤堂家の若君、良忠(俳号蝉吟)のもとで「宗房」を名乗って俳句を始めた。1666年に蝉吟が死去し、芭蕉は仕官を退いた。1672年に句集「貝おほひ」をまとめ評判になり、1675年に江戸へ向かった。江戸では日本橋に住み、神田川の水道工事監督をしながら俳句修行を続けた。こういうような経歴は、今まで若き俳人の苦闘期で、水道工事もアルバイトのように思われていた。それに対し、10月末に新潮文庫で刊行された嵐山光三郎「芭蕉という修羅」は新しい視点を提示している。 

 嵐山著「芭蕉紀行」「悪党芭蕉」も面白かったので、「芭蕉という修羅」もさっそく読んでみて、なるほどと刺激的だった。伊賀上野は伊勢津藩の支配下にあり、その藤堂家3代目当主藤堂高久は4代将軍家綱の大老酒井忠清の娘を正室としていた。酒井大老は権勢を振るい、藤堂家もその余録に預かる。芭蕉が江戸で有利な「利権」である水道工事に携わったのも、その一つだという。俳句じゃなくて、「水道工事監督」が本職だったのである。1680年に家綱が死んで、弟の綱吉が後継となり酒井大老は罷免される。「越後騒動」など酒井が裁いたお家騒動は再審となる。そのような政界激動を受け、芭蕉も日本橋を引き払い、スポンサーだった杉山杉風の持つ深川の家に身を潜めたのだという。

 その当否は判らないが、深川隠棲は一種の逃避行だったというとらえ方は興味深い。しかし、1882年に「八百屋お七の大火」で芭蕉も焼け出され、甲斐に避難。翌年に戻るも、「野ざらし紀行」の旅に出て、1686年に芭蕉庵で「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を作った。蛙を題材にしたことが新鮮だが、嵐山光三郎が清澄庭園で一日観察していても、池に飛び込む蛙はいなかったという。蛙が水に入るときは、端からそっと入るという。もし飛び込むとすれば、蛇など敵に襲われた時しかないというのである。そうなると、芭蕉が詠んだ蛙も逃げていたのかもしれず、この句の鑑賞にも影響してくる。
   
 芭蕉稲荷神社から川へ向かうと芭蕉記念館分室があり、2階が芭蕉庵史跡展望庭園となっている。芭蕉像が置かれ、川を遠望している。芭蕉像が見ている川の様子が3枚目の写真。そこから川沿いに芭蕉の句の展示が続く。全部載せても仕方ないから「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」。
  
 江東区芭蕉記念館がすぐ近くにある。大通り沿いに入り口があり、川の散歩コースからは入れない。小さな記念館で、別に無理して見なくてもいいと思うけど、深川近辺に芭蕉がいたということは知ってていいかなと思う。ここにも「古池や」の句碑がある。
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