自分の教科(社会科、あるいは地理歴史)でもないのに、英語について何回か書いたことがある。それは「英語教育問題」が「教育改革(改悪)」の象徴のように扱われてきたからだ。本来、他教科に口を出す能力もないし、その気もない。しかし、今度は「国語教育」について書きたいと思う。2018年に発表された高校の新学習指導要領が「文学軽視」と大きな問題になっている。この新指導要領は2022年から実施予定だが、地理歴史・公民科にも相当大きな問題があるように思う。
あまり細かいことを書いても仕方ないけど、一応簡単に説明。現行要領では「国語総合」(4単位)が必履修で、他に「国語表現」(3)、「現代文A」(2)、「現代文B」(4)、「古典A」(2)、「古典B」(4)がある。
新要領では「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)が必履修で、他に「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」(各4単位)が置かれる。このうち「現代の国語」は「実社会で必要な議論や討議、説明資料をまとめる活動」で、「言語文化」は「上代から近現代に受け継がれた日本の言語文化」を学ぶ。今まで国語では文学作品の読解が多かった印象があるが、新要領になると高校生が文学作品を深く触れる機会がなくなってしまうと危惧されているわけだ。
最近は単位制高校も増えて、必履修科目がほとんど2単位ものである。「数学Ⅰ」と「英語コミュニケーションⅠ」は3単位(2単位まで減可)とされているだけだ。3年間(または定時制4年間)で国語が必修4単位だけということはない。だが、残りが皆4単位ものとなると、進路活動への効果も考えて「論理国語」や「国語表現」を置く学校が多いだろうと思う。確かに「文学」に触れる機会が少なくなるのは間違いない。それで良いという考えもあるだろう。「イマドキの高校生」には大人ともきちんと「話が通じる」基本的スキルを養うのが第一だというのも判らないでもない。
そもそも何でこのような指導要領になるんだろう。それは「公民」科で「現代社会」をなくして「公共」という新科目を作る。英語では「話す力」を重視する。そういうのと通底する流れを感じる。要するに財界からの要望で「使える人材」を作れということだ。もう一つ「言語文化」が必履修なのは、「日本の伝統文化」偏重という視点で理解出来ると思う。近年の(特に安倍内閣における)教育政策は、新自由主義(経済界)と国家主義(右派勢力)の双方を混ぜ合わせたものと考えれば判ることが多い。
結論から書くと、僕はやはり若い世代に「文学の読み方」を伝えるのは非常に大事なことだと思う。もちろん「契約」など実社会の「論理的文章」も使いこなせないといけない。それは前提である。「論理的文章」が今の子どもたちには通じないと嘆く人も多いだろう。スマホニュースならまだしもいい方で、電車の吊り広告で見ただけの週刊誌の見出しで「世界を理解したつもり」の人だって多いと思う。実は老若を問わず、読み書きで困る人も多いのが実情だ。運転免許の試験で苦労したり、福祉や年金の書類が理解出来ない人もいると思う。高校生なんだから、最低限新聞ぐらいちゃんと読めないと。
もちろん「論理言語」は大事なんだけど、「実社会」ではそれでいいかもしれないが、実は我々の言語活動はむしろ「非論理的言語」によっていることが多い。家族間のコミュニケーションは大体そっちだ。地球温暖化や憲法改正問題を議論する家庭はほとんどないだろうし、子どもの進路問題だってきちんと話そうと思いつつ、多忙を理由にちゃんと向き合っていないことも多いはず。家庭では人間は言語だけではない、「顔色」や「しぐさ」などでコミュニケーションを取っている。仕事は出来る人間なのに、家庭内ではコミュニケーションが取れない人もいる。
子どもや老人が発する「非言語的コミュニケーション」を理解することの大切さ。これは今後ますます我々に必要になってくる。それは「文学」の領域だ。文学では「言外の意味」「余韻」を生かすことが大切だからである。言語だけでなく、本当は演劇レッスン、映像作品製作なども役に立つ。それが「国語」科で扱うべきかは判らないけど。(むしろ新教科を考えるべきなのかもしれない。)
ここで最近読んだ本を挙げて終わりにしたい。直木賞受賞作の荻原浩「海の見える理髪店」と芥川賞受賞作の滝口悠生「死んでいない者」である。「大衆文学」と「純文学」の違いもよく判るだろう。どっちも「家族」をテーマにしている。書かれていないことをどう理解するか、それが文学では問われる。
あまり細かいことを書いても仕方ないけど、一応簡単に説明。現行要領では「国語総合」(4単位)が必履修で、他に「国語表現」(3)、「現代文A」(2)、「現代文B」(4)、「古典A」(2)、「古典B」(4)がある。
新要領では「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)が必履修で、他に「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」(各4単位)が置かれる。このうち「現代の国語」は「実社会で必要な議論や討議、説明資料をまとめる活動」で、「言語文化」は「上代から近現代に受け継がれた日本の言語文化」を学ぶ。今まで国語では文学作品の読解が多かった印象があるが、新要領になると高校生が文学作品を深く触れる機会がなくなってしまうと危惧されているわけだ。
最近は単位制高校も増えて、必履修科目がほとんど2単位ものである。「数学Ⅰ」と「英語コミュニケーションⅠ」は3単位(2単位まで減可)とされているだけだ。3年間(または定時制4年間)で国語が必修4単位だけということはない。だが、残りが皆4単位ものとなると、進路活動への効果も考えて「論理国語」や「国語表現」を置く学校が多いだろうと思う。確かに「文学」に触れる機会が少なくなるのは間違いない。それで良いという考えもあるだろう。「イマドキの高校生」には大人ともきちんと「話が通じる」基本的スキルを養うのが第一だというのも判らないでもない。
そもそも何でこのような指導要領になるんだろう。それは「公民」科で「現代社会」をなくして「公共」という新科目を作る。英語では「話す力」を重視する。そういうのと通底する流れを感じる。要するに財界からの要望で「使える人材」を作れということだ。もう一つ「言語文化」が必履修なのは、「日本の伝統文化」偏重という視点で理解出来ると思う。近年の(特に安倍内閣における)教育政策は、新自由主義(経済界)と国家主義(右派勢力)の双方を混ぜ合わせたものと考えれば判ることが多い。
結論から書くと、僕はやはり若い世代に「文学の読み方」を伝えるのは非常に大事なことだと思う。もちろん「契約」など実社会の「論理的文章」も使いこなせないといけない。それは前提である。「論理的文章」が今の子どもたちには通じないと嘆く人も多いだろう。スマホニュースならまだしもいい方で、電車の吊り広告で見ただけの週刊誌の見出しで「世界を理解したつもり」の人だって多いと思う。実は老若を問わず、読み書きで困る人も多いのが実情だ。運転免許の試験で苦労したり、福祉や年金の書類が理解出来ない人もいると思う。高校生なんだから、最低限新聞ぐらいちゃんと読めないと。
もちろん「論理言語」は大事なんだけど、「実社会」ではそれでいいかもしれないが、実は我々の言語活動はむしろ「非論理的言語」によっていることが多い。家族間のコミュニケーションは大体そっちだ。地球温暖化や憲法改正問題を議論する家庭はほとんどないだろうし、子どもの進路問題だってきちんと話そうと思いつつ、多忙を理由にちゃんと向き合っていないことも多いはず。家庭では人間は言語だけではない、「顔色」や「しぐさ」などでコミュニケーションを取っている。仕事は出来る人間なのに、家庭内ではコミュニケーションが取れない人もいる。
子どもや老人が発する「非言語的コミュニケーション」を理解することの大切さ。これは今後ますます我々に必要になってくる。それは「文学」の領域だ。文学では「言外の意味」「余韻」を生かすことが大切だからである。言語だけでなく、本当は演劇レッスン、映像作品製作なども役に立つ。それが「国語」科で扱うべきかは判らないけど。(むしろ新教科を考えるべきなのかもしれない。)
ここで最近読んだ本を挙げて終わりにしたい。直木賞受賞作の荻原浩「海の見える理髪店」と芥川賞受賞作の滝口悠生「死んでいない者」である。「大衆文学」と「純文学」の違いもよく判るだろう。どっちも「家族」をテーマにしている。書かれていないことをどう理解するか、それが文学では問われる。