集英社文庫から出ている「セレクション戦争と文学」の8巻「オキナワ 終わらぬ戦争」を読んだので、紹介と感想。この本はもともと2012年頃に刊行された全20巻に及ぶ「戦争×文学」の一冊である。2019年から20年にかけて、その中から全8巻をセレクトして文庫化された。もとの本は高くて厚くて、20巻もあるから家に置く場所もない。評判は良かったけど、買う対象じゃなかった。文庫でも1700円もするし、700頁もある。どうしようか迷ったんだけど、思い切って毎月買っていた。買っても読まなければムダである。6月だから沖縄の巻から毎月読んでいこうと決めた。
(表紙=黒田征太郞「野坂昭如戦争童話集 沖縄編」)
最初に書いておくと、読みやすくて、考えるところが多かった。しかし、これを読んだだけで「沖縄戦」や「沖縄現代史」が判るわけではない。あくまでも小説や詩、戯曲などのアンソロジーで、「文学」として接するべきものだ。そのことを前提にすれば、「オキナワ」を考えるヒントがいっぱいある。読んで面白いのである。テーマ性が勝って読みにくいかと心配したが、そんなことは全然なかった。時代を生き残った作品が選ばれたんだろう。
「戦争と文学」というシリーズだが、ここで扱われているテーマは「狭義の沖縄戦」ではない。むしろ「沖縄戦」を直接描く作品の方が少なく、「以前」と「以後」を含めて、沖縄史の重層的な構造が問われている。冒頭の山之口貘の詩がそのことを暗示している。続く長堂英吉(ながどう・えいきち、1932~2020)の「海鳴り」は「琉球処分」(1879年)以後の「琉球王国」廃絶後の状況を描いている。それまで猶予されていた徴兵令が、いよいよ1898年から施行されたが、それに反抗して徴兵を忌避し清国に逃亡した青年たちが出てくる。作者の名前も知らなかったが、検索すると2020年2月に亡くなっていた。本の著者紹介ではまだ存命になっている。作者もテーマも、「本土」ではほとんど知られていないだろう。僕も名前を知らなかったが、大変な力作だった。
続いて知念正真(ちねん・せいしん、1941~2013)の戯曲「人類館」が置かれる。これは1978年に岸田国士戯曲賞を受賞した戯曲で、当時読んでいる。その後も沖縄で活動したので、その頃に岸田賞を受賞した劇作家たちに比べて、知名度が低いかもしれない。しかし、沖縄をめぐる重層的な構造差別をテーマに、時空間を自由に飛び越えて問題意識が炸裂する傑作だ。
こうして全部触れていると終わらないので、テーマを絞って重要作に触れたい。まず「沖縄戦」の持つ思想的意義。沖縄出身の重要作家、霜多正次(1913~2003)や大城立裕(1925~)などは、沖縄戦を経験していない。戦後派として活躍できる年齢の男性は、徴兵や留学で県外にいたのである。あまりにも悲惨な出来事に対して、戦争を経験した女性たちも長く口を閉ざすことが多かった。そのことがむしろ「沖縄戦」について、深く考える時間を与えたと言える。今では時間が経ってしまい、沖縄=戦争の悲劇=平和の大切さといった図式に陥りがちだ。
しかし、「沖縄戦」の持つ意味は、表層的な「平和」の訴えではない。今回読んだ作品だけでなく、今までに読んできた歴史書、ノンフィクションなどを含め、「反軍」=「非軍事志向」という教訓である。何しろ、「敵」以上に「友軍」の方が恐ろしいのである。もう組織的抵抗が終結し、軍の指揮系統も途絶えた後になって、多くの地元住民が日本軍に殺害された。日本軍の中には沖縄県民を下に見る差別意識があった。しかし、それだけでなく、仮に「本土決戦」が行われていても、「本土」で住民虐殺が起こったはずである。
それは日本軍の特殊性にもよる。現在の中国軍は実は「中華人民共和国軍」ではなく、中国共産党の「人民解放軍」である。それに対して、帝国陸海軍は一応憲法に規定された国家組織にはなっていた。しかし、本質は「天皇の私兵」であり、天皇のために死ぬべき存在だった。だから「降伏」という考えはないし、住民は足手まといでしかない。「沖縄を守る」のではなく、天皇を守るために沖縄を捨石として米軍を釘付けにするのが日本軍の役割だった。
米軍支配下においては米軍の専制に抵抗し、日本に「復帰」してからは戦争の総括なき天皇制に抵抗する。芥川賞作家、目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」は皇太子(現・上皇)夫妻の沖縄訪問にあたって、いかに愚なる警備態勢が敷かれていたかを子どもの目で徹底的に見つめている。主人公の家では認知症(という言葉はまだなかった)の祖母がいるので、警察に目を付けられている。仕事場まで警察が絡んでくる。そんな日々を生きる少年はどういう行動をするか。沖縄文学では「天皇制」を問うのである。
(目取真俊)
沖縄出身の芥川賞作家は4人いるが、そのうち3人が収録されている。復帰前の1967年に受賞した大城立裕の「カクテル・パーティー」は若い頃に読んだときはよく判らなかった。前半の沖縄文化論の会話、一転して米兵の性暴力をテーマとする後半という構成が分裂していると思えた。学生の頃に読んだので、読み取れない部分が多かった。今回読み直して、これはすごい作品だと思った。僕も「95年以後」にならないと理解出来ない部分があったのだと思う。1995年とは、「本土」では阪神淡路大震災、オウム真理教事件が起こり、沖縄では「米兵少女暴行事件」とその後の県民総決起大会があった年である。小説の具体的な内容は今は省略する。
(大城立裕)
95年の事件では、加害米兵はアフリカ系だった。また米軍の司令官はレンタカーを借りる金で女性を買えたと発言した。この問題はこれ以上触れないが、このように「沖縄」を考えるときには、沖縄をめぐる複合的重層的な差別構造を描かざるを得ない。「豚の報い」で芥川賞を得た又吉栄喜の「ギンネム屋敷」は敗戦後の沖縄で、朝鮮人が重要な登場人物として出てくる。徴用されて沖縄に来て、今は米軍の軍属をしている。沖縄内部の女性や障害者をめぐる問題もあり、様々な人間関係がモザイク状に出てくる。又吉栄喜文学は沖縄が単なるリアリズムを超えて、独特なマジック・リアリズムを獲得した証でもある。
(又吉栄喜)
こうして読んで来ると、「本土」出身者の作品に迫力がないと感じる。「パルチザン伝説」の作家、桐山襲(きりやま・かさね、1949~1992)の「聖なる夜 聖なる穴」は沖縄史を縦横に語りながら、やはり天皇制の問題を扱うが、面白いけれど作りすぎの感もする。その中では自らの経験に基づくエッセイを書き続けた岡部伊都子(おかべ・いつこ、1923~2008)の凜とした姿勢に改めて粛然とした。亡くなって時間も経って、生前に愛読した岡部さんの名も失念していた。
(岡部伊都子)
岡部の兄が戦死し、秘かに憧れていた一つ年上の男性も弔問に来る。彼は何度も訪れて、ある日「自分は天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」と発言した。「君やら国のためになら、喜んで死ぬけれども」と発言した。岡部伊都子はその時に発言の真意と重みに気付くことが出来なかった。考えたこともない発想に驚くだけで、「私なら、喜んで死ぬけど」と述べてしまった。その後、体の弱い伊都子のもとに、「どちらかが死ぬまでは、他の人とご縁をもたないという形の婚約」の申し出があった。その婚約者は沖縄戦で亡くなった。岡部にとって「痛恨の原点」となる出来事となる。「日本人」が自由に生きてゆくためには、「オキナワ」を考える必要があることを岡部さんの戦後の歩みが示している。岡部伊都子を忘れまいと肝に銘じた。
(表紙=黒田征太郞「野坂昭如戦争童話集 沖縄編」)
最初に書いておくと、読みやすくて、考えるところが多かった。しかし、これを読んだだけで「沖縄戦」や「沖縄現代史」が判るわけではない。あくまでも小説や詩、戯曲などのアンソロジーで、「文学」として接するべきものだ。そのことを前提にすれば、「オキナワ」を考えるヒントがいっぱいある。読んで面白いのである。テーマ性が勝って読みにくいかと心配したが、そんなことは全然なかった。時代を生き残った作品が選ばれたんだろう。
「戦争と文学」というシリーズだが、ここで扱われているテーマは「狭義の沖縄戦」ではない。むしろ「沖縄戦」を直接描く作品の方が少なく、「以前」と「以後」を含めて、沖縄史の重層的な構造が問われている。冒頭の山之口貘の詩がそのことを暗示している。続く長堂英吉(ながどう・えいきち、1932~2020)の「海鳴り」は「琉球処分」(1879年)以後の「琉球王国」廃絶後の状況を描いている。それまで猶予されていた徴兵令が、いよいよ1898年から施行されたが、それに反抗して徴兵を忌避し清国に逃亡した青年たちが出てくる。作者の名前も知らなかったが、検索すると2020年2月に亡くなっていた。本の著者紹介ではまだ存命になっている。作者もテーマも、「本土」ではほとんど知られていないだろう。僕も名前を知らなかったが、大変な力作だった。
続いて知念正真(ちねん・せいしん、1941~2013)の戯曲「人類館」が置かれる。これは1978年に岸田国士戯曲賞を受賞した戯曲で、当時読んでいる。その後も沖縄で活動したので、その頃に岸田賞を受賞した劇作家たちに比べて、知名度が低いかもしれない。しかし、沖縄をめぐる重層的な構造差別をテーマに、時空間を自由に飛び越えて問題意識が炸裂する傑作だ。
こうして全部触れていると終わらないので、テーマを絞って重要作に触れたい。まず「沖縄戦」の持つ思想的意義。沖縄出身の重要作家、霜多正次(1913~2003)や大城立裕(1925~)などは、沖縄戦を経験していない。戦後派として活躍できる年齢の男性は、徴兵や留学で県外にいたのである。あまりにも悲惨な出来事に対して、戦争を経験した女性たちも長く口を閉ざすことが多かった。そのことがむしろ「沖縄戦」について、深く考える時間を与えたと言える。今では時間が経ってしまい、沖縄=戦争の悲劇=平和の大切さといった図式に陥りがちだ。
しかし、「沖縄戦」の持つ意味は、表層的な「平和」の訴えではない。今回読んだ作品だけでなく、今までに読んできた歴史書、ノンフィクションなどを含め、「反軍」=「非軍事志向」という教訓である。何しろ、「敵」以上に「友軍」の方が恐ろしいのである。もう組織的抵抗が終結し、軍の指揮系統も途絶えた後になって、多くの地元住民が日本軍に殺害された。日本軍の中には沖縄県民を下に見る差別意識があった。しかし、それだけでなく、仮に「本土決戦」が行われていても、「本土」で住民虐殺が起こったはずである。
それは日本軍の特殊性にもよる。現在の中国軍は実は「中華人民共和国軍」ではなく、中国共産党の「人民解放軍」である。それに対して、帝国陸海軍は一応憲法に規定された国家組織にはなっていた。しかし、本質は「天皇の私兵」であり、天皇のために死ぬべき存在だった。だから「降伏」という考えはないし、住民は足手まといでしかない。「沖縄を守る」のではなく、天皇を守るために沖縄を捨石として米軍を釘付けにするのが日本軍の役割だった。
米軍支配下においては米軍の専制に抵抗し、日本に「復帰」してからは戦争の総括なき天皇制に抵抗する。芥川賞作家、目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」は皇太子(現・上皇)夫妻の沖縄訪問にあたって、いかに愚なる警備態勢が敷かれていたかを子どもの目で徹底的に見つめている。主人公の家では認知症(という言葉はまだなかった)の祖母がいるので、警察に目を付けられている。仕事場まで警察が絡んでくる。そんな日々を生きる少年はどういう行動をするか。沖縄文学では「天皇制」を問うのである。
(目取真俊)
沖縄出身の芥川賞作家は4人いるが、そのうち3人が収録されている。復帰前の1967年に受賞した大城立裕の「カクテル・パーティー」は若い頃に読んだときはよく判らなかった。前半の沖縄文化論の会話、一転して米兵の性暴力をテーマとする後半という構成が分裂していると思えた。学生の頃に読んだので、読み取れない部分が多かった。今回読み直して、これはすごい作品だと思った。僕も「95年以後」にならないと理解出来ない部分があったのだと思う。1995年とは、「本土」では阪神淡路大震災、オウム真理教事件が起こり、沖縄では「米兵少女暴行事件」とその後の県民総決起大会があった年である。小説の具体的な内容は今は省略する。
(大城立裕)
95年の事件では、加害米兵はアフリカ系だった。また米軍の司令官はレンタカーを借りる金で女性を買えたと発言した。この問題はこれ以上触れないが、このように「沖縄」を考えるときには、沖縄をめぐる複合的重層的な差別構造を描かざるを得ない。「豚の報い」で芥川賞を得た又吉栄喜の「ギンネム屋敷」は敗戦後の沖縄で、朝鮮人が重要な登場人物として出てくる。徴用されて沖縄に来て、今は米軍の軍属をしている。沖縄内部の女性や障害者をめぐる問題もあり、様々な人間関係がモザイク状に出てくる。又吉栄喜文学は沖縄が単なるリアリズムを超えて、独特なマジック・リアリズムを獲得した証でもある。
(又吉栄喜)
こうして読んで来ると、「本土」出身者の作品に迫力がないと感じる。「パルチザン伝説」の作家、桐山襲(きりやま・かさね、1949~1992)の「聖なる夜 聖なる穴」は沖縄史を縦横に語りながら、やはり天皇制の問題を扱うが、面白いけれど作りすぎの感もする。その中では自らの経験に基づくエッセイを書き続けた岡部伊都子(おかべ・いつこ、1923~2008)の凜とした姿勢に改めて粛然とした。亡くなって時間も経って、生前に愛読した岡部さんの名も失念していた。
(岡部伊都子)
岡部の兄が戦死し、秘かに憧れていた一つ年上の男性も弔問に来る。彼は何度も訪れて、ある日「自分は天皇陛下のおん為になんか、死ぬのはいやだ」と発言した。「君やら国のためになら、喜んで死ぬけれども」と発言した。岡部伊都子はその時に発言の真意と重みに気付くことが出来なかった。考えたこともない発想に驚くだけで、「私なら、喜んで死ぬけど」と述べてしまった。その後、体の弱い伊都子のもとに、「どちらかが死ぬまでは、他の人とご縁をもたないという形の婚約」の申し出があった。その婚約者は沖縄戦で亡くなった。岡部にとって「痛恨の原点」となる出来事となる。「日本人」が自由に生きてゆくためには、「オキナワ」を考える必要があることを岡部さんの戦後の歩みが示している。岡部伊都子を忘れまいと肝に銘じた。