スペインのペドロ・アルモドバル監督の新作「ペイン・アンド・グローリー」が公開された。世界の巨匠監督も残り少なく、名前で必ず見る監督は今や数少ない。ペドロ・アルモドバル(1951~)はその一人だが、最近の作品はあまり評判にならなかった。しかし、今回の「ペイン・アンド・グローリー」はカンヌ映画祭男優賞(アントニオ・バンデラス)を受け、スペインのアカデミー賞に当たるゴヤ賞では作品賞(4回目)、監督賞(3回目)など久しぶりに高く評価された。
映画は確かに傑作だが、複雑な感慨も残す。まず紹介をコピーすると、「脊椎の痛みから生きがいを見出せなくなった世界的映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)は、心身ともに疲れ、引退同然の生活を余儀なくされていた。そんななか、昔の自分をよく回想するようになる。子供時代と母親、その頃移り住んだバレンシアの村での出来事、マドリッドでの恋と破局。その痛みは今も消えることなく残っていた。そんなとき32年前に撮った作品の上映依頼が届く。思わぬ再会が心を閉ざしていた彼を過去へと翻らせる。そして記憶のたどり着いた先には…。」
(ペドロ・アルモドバル監督)
世界的有名監督サルバドール・マヨは明らかに自伝的な設定である。主演のアントニオ・バンデラスはアカデミー賞主演男優賞にもノミネートされた。映画監督の行き詰まりといえば、フェリーニの「8 1/2」が思い浮かぶが、「8 1/2」(1963年)時点でフェリーニは43歳だった。一方、1951年生まれのアルモドバルは、もう68歳である。作中では4年前に母を亡くし、2年前に脊椎の手術を受けたとなっている。精神的な行き詰まりだけではなく、肉体的にも辛いのである。映画内でも何度も嚥下(えんげ)の悩みを訴えている。「老境映画」なのである。
32年前に作った「風味」がレストア化されてシネマテークで上映される。ついては監督と主演俳優アルベルト(アシエル・エチェアンディア)に挨拶して欲しいと要望される。しかし、実はその映画で脚本を無視した演技をしたアルベルトと監督のサルバドールは大げんかして、絶縁したままだ。知人が滞在先を教えてくれて和解した二人は、アルベルトの持っていたヘロインを吸引する。サルバドールの魂は過去に飛んで、幼い頃の母との暮らしを思い出す。若き日の母はペネロペ・クルスで、美貌の中に疲れが見え隠れする。
(ペネロペ・クルスとアントニオ・バンデラス)
ペネロペ・クルスは世界的女優になってしまい、アルモドバル映画の出演も(本格的には)「抱擁のかけら」(2009)以来である。やはりアルモドバル映画にペネロペ・クルスは必要だ。母は義母との折り合いが悪く、新居を求める。そこで父は洞窟の家を見つけてくる。この不思議な洞窟の家が珍しい。そこで暮らしたときに、幼いサルバドールが職人に字を教える代わりに、職人が家を直すことになる。ある日、絵の得意な職人が彼をモデルに描き始めたが…。しかし、貧しい一家は彼を神学校に行かせることにする。
(若き日のサルバドールと母)
これは実際の話で、「バッド・エデュケーション」に描かれた。つい忘れがちになるが、スペインは1975年にフランコが死ぬまで、軍事独裁国家だった。教会が権力を持ち、精神的な自由は認められなかった。アルモドバルはその時代に教育を受けた世代なのである。抑圧的な社会の中で、アルモドバルは(映画内のサルバドールも)「同性愛者」として生きてゆく。映画ではアルベルトが監督の家に来た時にサルバドールが昏倒する。看病した後で、アルベルトパソコンを盗み見て書き途中の原稿を見てしまう。気に入った彼は是非上演させてくれという。
小劇場での一人芝居が終わると、観客の一人が楽屋を訪ねてくる。フェデリコと名乗る彼は、自分が作中のマルセルだと打ち明けた。後にアルゼンチンに移住して、女性と結婚して子どももいるフェデリコは、若い頃にマドリードでサルバドールと3年間暮らしていた。サルバドールとフェデリコは何十年ぶりに再会する。とかく過去の思い出に引きずられるサルバドールだが、フェデリコとの再会から生きる意欲を取り戻してゆく。昔、職人が描いてくれた絵も不思議な縁で彼の元に戻る。そして、嚥下の悩みも手術で解消する。
アルモドバル映画と言えば、奇抜なポッポ調の映像、原色の氾濫、時にはやり過ぎ的で猟奇的とも言える展開が特徴だ。映画内では32年前の作品で有名となったとされるが、出世作「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(1988)もほぼ30年前の作品である。アントニオ・バンデラスとは、さらに前の「セクシリア」(1982)からの常連になる。今回の「ペイン・アンド・グローリー」は、確かに同じように「赤」が基調になるが、どちらかといえば抑えた感じの色合いで統一されている。その意味でも「老い」を見つめた深みがある。アニメで病状を説明するなど、単に枯れてるだけじゃない遊びもあるけど、やはり昔よりしみじみしている。
1999年の「オール・アバウト・マイ・マザー」、2002年の「トーク・トゥ・ハー」のようなキャリアの頂点にある映画史的傑作のような圧倒的な感動ではない。今回の「ペイン・アンド・グローリー」は、見る者をねじ伏せた圧倒的なエネルギーにあふれた傑作とは違い、むしろ「滋味」をさえ感じた。そこがちょっと複雑で、やっぱりアロモドバルも年を取るのか。その面白さは抜群で、ずっと見てきたわけだが、お互いに年を取ったなと思った。なお、アルモドバル作品は英訳版の題名のカタカナ化が多い。今回は同様だが、むしろ「痛みと栄光」の方がいいような気がする。
映画は確かに傑作だが、複雑な感慨も残す。まず紹介をコピーすると、「脊椎の痛みから生きがいを見出せなくなった世界的映画監督サルバドール(アントニオ・バンデラス)は、心身ともに疲れ、引退同然の生活を余儀なくされていた。そんななか、昔の自分をよく回想するようになる。子供時代と母親、その頃移り住んだバレンシアの村での出来事、マドリッドでの恋と破局。その痛みは今も消えることなく残っていた。そんなとき32年前に撮った作品の上映依頼が届く。思わぬ再会が心を閉ざしていた彼を過去へと翻らせる。そして記憶のたどり着いた先には…。」
(ペドロ・アルモドバル監督)
世界的有名監督サルバドール・マヨは明らかに自伝的な設定である。主演のアントニオ・バンデラスはアカデミー賞主演男優賞にもノミネートされた。映画監督の行き詰まりといえば、フェリーニの「8 1/2」が思い浮かぶが、「8 1/2」(1963年)時点でフェリーニは43歳だった。一方、1951年生まれのアルモドバルは、もう68歳である。作中では4年前に母を亡くし、2年前に脊椎の手術を受けたとなっている。精神的な行き詰まりだけではなく、肉体的にも辛いのである。映画内でも何度も嚥下(えんげ)の悩みを訴えている。「老境映画」なのである。
32年前に作った「風味」がレストア化されてシネマテークで上映される。ついては監督と主演俳優アルベルト(アシエル・エチェアンディア)に挨拶して欲しいと要望される。しかし、実はその映画で脚本を無視した演技をしたアルベルトと監督のサルバドールは大げんかして、絶縁したままだ。知人が滞在先を教えてくれて和解した二人は、アルベルトの持っていたヘロインを吸引する。サルバドールの魂は過去に飛んで、幼い頃の母との暮らしを思い出す。若き日の母はペネロペ・クルスで、美貌の中に疲れが見え隠れする。
(ペネロペ・クルスとアントニオ・バンデラス)
ペネロペ・クルスは世界的女優になってしまい、アルモドバル映画の出演も(本格的には)「抱擁のかけら」(2009)以来である。やはりアルモドバル映画にペネロペ・クルスは必要だ。母は義母との折り合いが悪く、新居を求める。そこで父は洞窟の家を見つけてくる。この不思議な洞窟の家が珍しい。そこで暮らしたときに、幼いサルバドールが職人に字を教える代わりに、職人が家を直すことになる。ある日、絵の得意な職人が彼をモデルに描き始めたが…。しかし、貧しい一家は彼を神学校に行かせることにする。
(若き日のサルバドールと母)
これは実際の話で、「バッド・エデュケーション」に描かれた。つい忘れがちになるが、スペインは1975年にフランコが死ぬまで、軍事独裁国家だった。教会が権力を持ち、精神的な自由は認められなかった。アルモドバルはその時代に教育を受けた世代なのである。抑圧的な社会の中で、アルモドバルは(映画内のサルバドールも)「同性愛者」として生きてゆく。映画ではアルベルトが監督の家に来た時にサルバドールが昏倒する。看病した後で、アルベルトパソコンを盗み見て書き途中の原稿を見てしまう。気に入った彼は是非上演させてくれという。
小劇場での一人芝居が終わると、観客の一人が楽屋を訪ねてくる。フェデリコと名乗る彼は、自分が作中のマルセルだと打ち明けた。後にアルゼンチンに移住して、女性と結婚して子どももいるフェデリコは、若い頃にマドリードでサルバドールと3年間暮らしていた。サルバドールとフェデリコは何十年ぶりに再会する。とかく過去の思い出に引きずられるサルバドールだが、フェデリコとの再会から生きる意欲を取り戻してゆく。昔、職人が描いてくれた絵も不思議な縁で彼の元に戻る。そして、嚥下の悩みも手術で解消する。
アルモドバル映画と言えば、奇抜なポッポ調の映像、原色の氾濫、時にはやり過ぎ的で猟奇的とも言える展開が特徴だ。映画内では32年前の作品で有名となったとされるが、出世作「神経衰弱ぎりぎりの女たち」(1988)もほぼ30年前の作品である。アントニオ・バンデラスとは、さらに前の「セクシリア」(1982)からの常連になる。今回の「ペイン・アンド・グローリー」は、確かに同じように「赤」が基調になるが、どちらかといえば抑えた感じの色合いで統一されている。その意味でも「老い」を見つめた深みがある。アニメで病状を説明するなど、単に枯れてるだけじゃない遊びもあるけど、やはり昔よりしみじみしている。
1999年の「オール・アバウト・マイ・マザー」、2002年の「トーク・トゥ・ハー」のようなキャリアの頂点にある映画史的傑作のような圧倒的な感動ではない。今回の「ペイン・アンド・グローリー」は、見る者をねじ伏せた圧倒的なエネルギーにあふれた傑作とは違い、むしろ「滋味」をさえ感じた。そこがちょっと複雑で、やっぱりアロモドバルも年を取るのか。その面白さは抜群で、ずっと見てきたわけだが、お互いに年を取ったなと思った。なお、アルモドバル作品は英訳版の題名のカタカナ化が多い。今回は同様だが、むしろ「痛みと栄光」の方がいいような気がする。