大林宣彦監督が亡くなって、本来なら遺作「海辺の映画館~キネマの玉手箱」が公開されていたはずだが、緊急事態宣言で延び延びになっている。追悼上映の企画もなかなか立てられないが、新文芸座で「さびしんぼう」と「野ゆき山ゆき海べゆき」上映されている見に行った。
(「さびしんぼう」)
「さびしんぼう」(1985)は、間違いなく大林監督の最高傑作レベルの作品だ。ロマンティックでノスタルジックな作風は全作品に見られるが、この作品はもっとも心に残る出来映えじゃないか。全編に流れるショパン「別れの曲」が見終わった後にも心の中で響き続ける。「尾道三部作」の最後とされるが、内容もあって尾道風景が一番見応えがあるのもいい。主演の富田靖子のスケジュールが年末に2週間空いていて、それで急きょ製作されたというが、往々にしてそういうときに傑作が出来る。
(「さびしんぼう」)
「さびしんぼう」とは大林監督の造語だが、自分では全作品が「さびしんぼう」だとも言っている。「人を愛することは寂しいことだ」と大林監督は語っていると言う。「うまく説明できないけれど、なんとなく誰にでもニュアンスが伝わる」というタイプの言葉だ。この題名も素晴らしい。お寺(実在の西願寺でロケ)の息子、井上ヒロキ(尾美としのり)は趣味のカメラ越しに女子校でピアノを弾いている美少女(後に橘百合子という名前と判る)に恋してしまい「さびしんぼう」と名付ける。寺では口うるさい母とおとなしい父と暮らしているが、ある日部屋に突然「さびしんぼう」と名乗る少女が現れたのだった。
この「さびしんぼう」と百合子を含めて、富田靖子は「一人四役」だと出ている。あと二つは何だ? エピローグに出てくる「百合子に似た妻」と「二人の間の娘」だという話。ヒロキをめぐる高校のエピソードはユーモラスで、特に校長室のオウムのシーンは笑える。ノスタルジックなムードを基調にしながら、ユーモアが点在していてバランスがいい。「さびしんぼう」は16歳当時の若き母だった。誰もが思い当たる「日常生活の中で年を取っていくこと」と「忘れがたい青春の思い出」のイメージを鮮やかに描ききる。切なく、寂しいけれど、それが生きていくことなのだ。すべての「親と子」に見て欲しい傑作。
「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986)は佐藤春夫「わんぱく時代」を原作にしている。実は「さびしんぼう」も山中恒原作だったと今回見るまで忘れていたが、両作とも原作を大幅に変更している。「さびしんぼう」は傑作だったことの再確認だったが、「野ゆき…」は今回見直して再評価が必要だと思った。公開当時は「わんぱく時代」の映画化だと宣伝され、子どもたちの活躍映画だと思って見た。豪華助演陣の大人俳優が多数出ているが、何しろ出ずっぱりの子役は当時は知らない人ばかり。主演(お昌ちゃん)は鷲尾いさ子、須藤総太郎は林泰文だが、やはり大方はその後も知らない。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
この映画はカラー(豪華総天然色普及版)とモノクロ(質実黒白オリジナル版)の二つが作られた。木下恵介による日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」も白黒も作られたが、この作品でなぜ二つ作られたかは知らない。今日はカラー版を見たが、多分前に見たのはモノクロだった。子どもたちのわんぱく戦争が延々と出てきて、それがあまり弾けない。大人の事情との絡みもあまりうまく行っていない。やはり映画の完成度としては失敗作ではないか。公開時に見た時もそう思ったが、今回見てもその評価は大きくは変わらなかった。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
ただ戦時下に時代を設定し、大胆に「反戦映画」的な作りにしている。「わんぱく」以上に、「女郎に売られる」お昌ちゃん奪還作戦が綿密に描かれていて、大人社会への痛烈な眼差しがある。子役の演技に頼れない分、自由な脚色(山田信夫)と編集(大林宣彦)によって、時間空間を自由に操作している。テーマ的にも技法的にも晩年になって作った「反戦映画」の先駆的作品と見ていいのである。「花筐/HANAGATAMI」が大人版だとすると、「野ゆき山ゆき海べゆき」は子ども版である。その意味で再評価が必要だと思う。川を滑り降りるシーンなど自然描写も忘れがたい。
(「さびしんぼう」)
「さびしんぼう」(1985)は、間違いなく大林監督の最高傑作レベルの作品だ。ロマンティックでノスタルジックな作風は全作品に見られるが、この作品はもっとも心に残る出来映えじゃないか。全編に流れるショパン「別れの曲」が見終わった後にも心の中で響き続ける。「尾道三部作」の最後とされるが、内容もあって尾道風景が一番見応えがあるのもいい。主演の富田靖子のスケジュールが年末に2週間空いていて、それで急きょ製作されたというが、往々にしてそういうときに傑作が出来る。
(「さびしんぼう」)
「さびしんぼう」とは大林監督の造語だが、自分では全作品が「さびしんぼう」だとも言っている。「人を愛することは寂しいことだ」と大林監督は語っていると言う。「うまく説明できないけれど、なんとなく誰にでもニュアンスが伝わる」というタイプの言葉だ。この題名も素晴らしい。お寺(実在の西願寺でロケ)の息子、井上ヒロキ(尾美としのり)は趣味のカメラ越しに女子校でピアノを弾いている美少女(後に橘百合子という名前と判る)に恋してしまい「さびしんぼう」と名付ける。寺では口うるさい母とおとなしい父と暮らしているが、ある日部屋に突然「さびしんぼう」と名乗る少女が現れたのだった。
この「さびしんぼう」と百合子を含めて、富田靖子は「一人四役」だと出ている。あと二つは何だ? エピローグに出てくる「百合子に似た妻」と「二人の間の娘」だという話。ヒロキをめぐる高校のエピソードはユーモラスで、特に校長室のオウムのシーンは笑える。ノスタルジックなムードを基調にしながら、ユーモアが点在していてバランスがいい。「さびしんぼう」は16歳当時の若き母だった。誰もが思い当たる「日常生活の中で年を取っていくこと」と「忘れがたい青春の思い出」のイメージを鮮やかに描ききる。切なく、寂しいけれど、それが生きていくことなのだ。すべての「親と子」に見て欲しい傑作。
「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986)は佐藤春夫「わんぱく時代」を原作にしている。実は「さびしんぼう」も山中恒原作だったと今回見るまで忘れていたが、両作とも原作を大幅に変更している。「さびしんぼう」は傑作だったことの再確認だったが、「野ゆき…」は今回見直して再評価が必要だと思った。公開当時は「わんぱく時代」の映画化だと宣伝され、子どもたちの活躍映画だと思って見た。豪華助演陣の大人俳優が多数出ているが、何しろ出ずっぱりの子役は当時は知らない人ばかり。主演(お昌ちゃん)は鷲尾いさ子、須藤総太郎は林泰文だが、やはり大方はその後も知らない。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
この映画はカラー(豪華総天然色普及版)とモノクロ(質実黒白オリジナル版)の二つが作られた。木下恵介による日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」も白黒も作られたが、この作品でなぜ二つ作られたかは知らない。今日はカラー版を見たが、多分前に見たのはモノクロだった。子どもたちのわんぱく戦争が延々と出てきて、それがあまり弾けない。大人の事情との絡みもあまりうまく行っていない。やはり映画の完成度としては失敗作ではないか。公開時に見た時もそう思ったが、今回見てもその評価は大きくは変わらなかった。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
ただ戦時下に時代を設定し、大胆に「反戦映画」的な作りにしている。「わんぱく」以上に、「女郎に売られる」お昌ちゃん奪還作戦が綿密に描かれていて、大人社会への痛烈な眼差しがある。子役の演技に頼れない分、自由な脚色(山田信夫)と編集(大林宣彦)によって、時間空間を自由に操作している。テーマ的にも技法的にも晩年になって作った「反戦映画」の先駆的作品と見ていいのである。「花筐/HANAGATAMI」が大人版だとすると、「野ゆき山ゆき海べゆき」は子ども版である。その意味で再評価が必要だと思う。川を滑り降りるシーンなど自然描写も忘れがたい。