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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

関千枝子、安田猛、鴨下信一他ー2020年2月の訃報②

2021年03月06日 22時51分37秒 | 追悼
 2020年2月の訃報、国内編。まずノンフィクションライターの関千枝子について。知らない人が多いかもしれないが、僕はこの人にずっと注目していたので。2月21日没、88歳。広島の県立第二高女に在学中、1945年8月6日にたまたま体調不良で家にいたのである。勤労動員中だった級友のほとんどはその日に亡くなった。その体験を取材した「広島第二県女二年西組」を1985年に発表し、日本エッセイストクラブ賞を受けた。この本は僕が読んだ中でも最も心に響くノンフィクションで、多くの人に読んで欲しい本だ。ちくま文庫に今も残っている。「ヒロシマの少年少女たち」など原爆関係の本の他に、「図書館の誕生」「この国は恐ろしい国」などの本を書いた。安倍前首相の靖国参拝を違憲とする「本物の政教分離裁判」などの原告にもなった。
(関千枝子)
 ヤクルト・スワローズのピッチャーだった安田猛が2月20日死去、73歳。独特の左サイドスローで的確にコントロールされた投球で知られた。松岡弘と並び、78年にヤクルトが初優勝し日本シリーズも制覇したときの主力投手だった。早大、大昭和製紙を経て、1972年にヤクルト・アトムズに入団。肘を痛めて速球が投げられず、むしろ超スローボールを身に付けた技巧派として活躍し、入団した72年には最優秀防御率新人王に輝いた。翌73年にも防御率第一位となり、81イニング連続無四死球の現在も破られていないプロ野球記録を作った。1981年まで現役で、通算93勝80敗17セーブ。引退後もスワローズ一筋に、コーチ、スカウト、スコアラー、編成部長を務めた。1978年には開幕投手を務め、その日の一回裏にヤクルトのヒルトンが二塁打を放った。観戦していた村上春樹がそれを見た瞬間に作家になろうと思ったというエピソードがある試合である。
(安田猛)
 1955年の全米テニス選手権ダブルスで優勝した宮城淳(みやぎ・あつし)が2月24日に死去、89歳。戦後の日本男子唯一の4大大会制覇である。この時はシングルスと別の会場で行われた特殊な経過もあった。デビスカップでも活躍し、引退後は早稲田大教授などを務めた。
(宮城淳)
 TBSで多くのドラマの演出を手掛けた鴨下信一が2月10日死去、85歳。「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」「高校教師」などを演出した。白石加代子の「百物語」シリーズの演出、「誰も『戦後』を覚えていない」などの著書もある。TBSで常務まで務めた。
(鴨下信一)
 俳優の嵯川哲朗が2月17日に死去、84歳。59年に劇団青俳に入団、63年に退団し、65年から東宝演劇部に所属。数多くの舞台、テレビに出演した。67年の大河ドラマ「三姉妹」の近藤勇役で人気を得たというが、僕は時代的に知らない。時代劇「大江戸捜査網」でも知られた。しかし舞台やドラマ以上に僕が覚えているのは洋画の吹き替えだ。ヘンリー・フォンダやバート・ランカスター、クリント・イーストウッド、ショーン・コネリーなど名だたる俳優の声をやっている。
(嵯川哲朗)
 声優、俳優の森山周一郎が2月8日死去、86歳。テレビや舞台で活動しながら洋画の吹き替えで活躍した。ジャン・ギャバンチャールズ・ブロンソン、「刑事コジャック」のテリー・サバラスなどで、渋い低音で人気があった。アニメ「紅の豚」の主人公をやったし、調べると大河ドラマにも何作も出ているのだが、僕には洋画のイメージが強い。
(森山周一郎)
 言語社会学者の鈴木孝夫が2月10日死去、94歳。慶応大学で井筒俊彦に師事し、留学の後慶大教授を勤めた。73年の岩波新書「ことばと文化」で知られ、他にも「ことばと社会」「閉された言語・日本語の世界」「武器としての言葉」など多くの一般向け著書がある。日本語や英語について多くの議論を書いたようだが、読んでないのでここでは書くことが出来ない。
(鈴木孝夫)
 ロシア文学者の川端香男里が2月3日死去、87歳。著書「ユートピアの幻想」や翻訳のザミャーチンわれら」、バフチンフランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」などで、70年代の思想界に影響を与えた。チェーホフやプーシキンの翻訳も多い。旧姓は山本だが、川端康成の養女と結婚して川端姓となった。川端康成記念会理事長として、短編に与えられる川端康成賞を長く運営した。実妹に美術史家若桑みどりがいる。
(川端香男里)

 本人の写真が見つからないけれど、昔の映画監督二人の訃報があった。成沢昌茂が13日に96歳で死去。戦時中に松竹で溝口健二に師事、戦後の大映で溝口晩年の「噂の女」「赤線地帯」などの脚本を書いた。その後東映で内田吐夢監督の「浪花の恋の物語」「宮本武蔵」五部作などの脚本を書いている。監督作品もあるが、三田佳子主演の「四畳半物語 娼婦しの」(永井荷風原作)は哀切な名作だった。同じく東映で映画監督をした村山新治が14日死去、98歳。1957年に「警視庁物語 上野駅五時三十五分」で劇映画監督になり、ドキュメンタリータッチの「警視庁物語」シリーズを多く監督した。それらは最近評価が高いが、僕は1961年の佐久間良子主演「故郷は緑なりき」が素晴らしいと思う。これも哀切極まりない青春映画の傑作。90年代初期まで多くのテレビドラマも手掛けている。二人とも高齢で、まだ存命だったとは思わなかった。

加藤義和、5日死去、85歳。「加ト吉」創業者。75年から香川県観音寺市市長も4期務めた。
鄭敬謨(チョン・ギョンモ)が16日死去、96歳。ソウル生まれで、アメリカ留学後に米国防省に勤め、朝鮮戦争の休戦協議で板門店の通訳をした。韓国へ帰国後、軍事政権を批判して1970年に来日して韓国の民主化を訴えた。1970年代に多くの評論を書き著書も多かった。
池尾和人、21日死去、68歳。金融論が専門で、政府の審議会などで委員を務めた。
小森龍邦、26日死去、88歳。元社会党衆議院議員(2期)、元解放同盟中央本部書記長。社会党の中で左派的な立場にたって、90年代半ばに「新社会党」に移った。解放運動でも、社会党議員としても、毀誉褒貶があると思うけれど、戦後の社会運動史で知られた人ではある。
森本葵、28日死去、81歳。陸上男子800メートルで1964年に樹立した日本記録は93年まで破られなかった。東京五輪でも期待されたが、急性肝炎にかかって決勝進出を逃した。1969年に駒沢大学の陸上監督に就任し、2000年の箱根駅伝優勝をもたらす強豪校に育てた。
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