2020年2月の訃報特集。今月はまず外国から。まず俳優のクリストファー・プラマーから。2月5日死去、91歳。死因は転倒による頭部打撃だった。もともとカナダの舞台俳優だったが、やがてブロードウェイに進出し、映画やテレビでも活躍した。舞台、映画、テレビそれぞれで演技賞を受賞している。僕も含めて多くの人がこの人の名前を覚えたのは「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐役だろう。家庭教師のジュリー・アンドリュースと結ばれて、ナチス侵略に抗して国外へ脱出する。中学生の僕には忘れがたい映画だ。その後、2010年に82歳の時に「人生はビギナース」でアカデミー助演男優賞受賞。さらに2017年の「ゲティの身代金」でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。88歳で最高齢記録である。
(クリストファー・プラマー)
続いて映画関係の訃報を。イタリアの撮影監督、ジュゼッペ・ロトゥンノ。2月7日死去、97歳。60年代、70年代に巨匠映画の撮影をいくつも担当した。ヴィスコンティ「若者のすべて」「山猫」「異邦人」、フェリーニ「サテリコン」「ローマ」「アマルコロド」、デ・シーカ「ひまわり」など、そうそうたる映画が並んでいる。その後アメリカ映画に進出して「オール・ザット・ジャズ」や「ポパイ」などを担当した。撮影監督の名前など覚えてないだろうが、重要な仕事だ。
(ジュゼッペ・ロトゥンノ)
続いてフランスの作家、脚本家ジャンクロード・カリエール、2月8日死去、89歳。学生の時にジャック・タチ監督「僕の伯父さんの休暇」のノベライズで認められた。その後ルイス・ブニュエル監督と知り合い、「昼顔」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(アカデミー賞ノミネート)「欲望のあいまいな対象」などの脚本を書いた。他にも「ブリキの太鼓」「ダントン」「存在の耐えられない軽さ」などもこの人が書いた。大島渚の「マックス・モン・アムール」も書いた。ピーター・ブルックの台本もずっと書いていて、長大な「マハーバーラタ」は日本で翻訳されている。またウンベルト・エーコとの共著「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」という本もある。
(ジャンクロード・カリエール)
ジャズピアニストのチック・コリアが2月9日に死去、79歳。この訃報が一番重大だという人も多いと思うけれど、僕はジャスのことをよく知らない。ジャズトランペッターの父の下でピアノを始め、68年にマイルス・デイヴィスのバンドに参加した。71年に「リターン・トゥ・フォーエヴァー」を結成した。72年に同名のアルバムを発表して大評判となった。これは僕も覚えている。少しは聞いていると思う。グラミー賞67回ノミネート、23回受賞。
(チック・コリア)
レーガン政権で1982~89年にかけて国務長官を務めたジョージ・シュルツが2月6日死去、100歳。ニクソン政権で労働長官、財務長官などを務め、建設会社ベクテルの社長をはさんで、レーガン政権で国務長官に指名された。政権内ではハト派だったとされるが、もう僕はこの人の具体的な仕事ぶりは全然覚えてない。長生きしすぎて忘れられた典型。
(ジョージ・シュルツ)
アメリカのポルノ雑誌「ハスラー」の創刊者、ラリー・フリントが2月10日死去、78歳。もともとはオハイオ州でストリップクラブを経営していて、クラブの会報を出すようになった。やがて経営悪化のため雑誌に専念して、全米向けの過激なポルノ雑誌を発行した。75年にジャクリーン・オナシス(ケネディ元大統領夫人)のヌード写真を掲載して爆発的に売れたが、78年に白人至上主義者に銃撃され下半身不随になった。映画「ラリー・フリント」のモデル。表現の自由の重要性を主張したが、過激なヌード写真を掲載したため「悪名高き人物」として知られている。
(ラリー・フリント)
サウジアラビアの元石油相、アハメド・ザキ・ヤマニが2月23日に死去、90歳。1962年にサウジの石油・鉱物資源相に就任し、73年の第四次中東戦争時の「石油戦略」を主導した。OPEC(石油輸出国機構)で石油価格の調整をして、70年代には日本で知らない人はいない有名人だった。王族出身ではないのに、ここまで世界で活躍した人は珍しい。しかし、1986年に解任されて、今ではある年齢以上の人以外は全然判らないだろう。
(ヤマニ)
・メアリー・ウィルソン、8日死去、76歳。シュープリームス元メンバー。
(クリストファー・プラマー)
続いて映画関係の訃報を。イタリアの撮影監督、ジュゼッペ・ロトゥンノ。2月7日死去、97歳。60年代、70年代に巨匠映画の撮影をいくつも担当した。ヴィスコンティ「若者のすべて」「山猫」「異邦人」、フェリーニ「サテリコン」「ローマ」「アマルコロド」、デ・シーカ「ひまわり」など、そうそうたる映画が並んでいる。その後アメリカ映画に進出して「オール・ザット・ジャズ」や「ポパイ」などを担当した。撮影監督の名前など覚えてないだろうが、重要な仕事だ。
(ジュゼッペ・ロトゥンノ)
続いてフランスの作家、脚本家ジャンクロード・カリエール、2月8日死去、89歳。学生の時にジャック・タチ監督「僕の伯父さんの休暇」のノベライズで認められた。その後ルイス・ブニュエル監督と知り合い、「昼顔」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(アカデミー賞ノミネート)「欲望のあいまいな対象」などの脚本を書いた。他にも「ブリキの太鼓」「ダントン」「存在の耐えられない軽さ」などもこの人が書いた。大島渚の「マックス・モン・アムール」も書いた。ピーター・ブルックの台本もずっと書いていて、長大な「マハーバーラタ」は日本で翻訳されている。またウンベルト・エーコとの共著「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」という本もある。
(ジャンクロード・カリエール)
ジャズピアニストのチック・コリアが2月9日に死去、79歳。この訃報が一番重大だという人も多いと思うけれど、僕はジャスのことをよく知らない。ジャズトランペッターの父の下でピアノを始め、68年にマイルス・デイヴィスのバンドに参加した。71年に「リターン・トゥ・フォーエヴァー」を結成した。72年に同名のアルバムを発表して大評判となった。これは僕も覚えている。少しは聞いていると思う。グラミー賞67回ノミネート、23回受賞。
(チック・コリア)
レーガン政権で1982~89年にかけて国務長官を務めたジョージ・シュルツが2月6日死去、100歳。ニクソン政権で労働長官、財務長官などを務め、建設会社ベクテルの社長をはさんで、レーガン政権で国務長官に指名された。政権内ではハト派だったとされるが、もう僕はこの人の具体的な仕事ぶりは全然覚えてない。長生きしすぎて忘れられた典型。
(ジョージ・シュルツ)
アメリカのポルノ雑誌「ハスラー」の創刊者、ラリー・フリントが2月10日死去、78歳。もともとはオハイオ州でストリップクラブを経営していて、クラブの会報を出すようになった。やがて経営悪化のため雑誌に専念して、全米向けの過激なポルノ雑誌を発行した。75年にジャクリーン・オナシス(ケネディ元大統領夫人)のヌード写真を掲載して爆発的に売れたが、78年に白人至上主義者に銃撃され下半身不随になった。映画「ラリー・フリント」のモデル。表現の自由の重要性を主張したが、過激なヌード写真を掲載したため「悪名高き人物」として知られている。
(ラリー・フリント)
サウジアラビアの元石油相、アハメド・ザキ・ヤマニが2月23日に死去、90歳。1962年にサウジの石油・鉱物資源相に就任し、73年の第四次中東戦争時の「石油戦略」を主導した。OPEC(石油輸出国機構)で石油価格の調整をして、70年代には日本で知らない人はいない有名人だった。王族出身ではないのに、ここまで世界で活躍した人は珍しい。しかし、1986年に解任されて、今ではある年齢以上の人以外は全然判らないだろう。
(ヤマニ)
・メアリー・ウィルソン、8日死去、76歳。シュープリームス元メンバー。