尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

奇妙なムルソー裁判ーカミュ「異邦人」をめぐって③

2021年03月14日 22時19分09秒 | 〃 (外国文学)
 アルベール・カミュ異邦人」(1942)は第二次世界大戦後の世界でもっとも読まれた小説の一つだろう。日本では窪田啓作訳で1951年に翻訳が出され、1954年に新潮文庫に収録された。2014年に128刷で改版され、2019年5月に133刷になっている。もっとも今では改訳が必要だと思う。原作に従って「レエモン」と書いているが、今なら「レーモン」と表記するのが普通だろう。

 その「レエモン」が初めて出て来る場面(36頁)では彼は「拳闘家の鼻をしている」と書かれている。彼は「部屋に腸詰とブドウ酒があるんだが、一緒に少しばかりやらないか」とムルソーを誘う。ここに出て来る言葉は、ボクサーソーセージワインと訳さなければ、今では伝わりにくい。全体的に古い感じが否めないが、まあそこも一種のムードと言えるかもしれない。
(アルベール・カミュ)
 「異邦人」が世界中で読まれたのは、第二次世界大戦の大惨事が大きいだろう。「不条理」「動機なき殺人」が世界にあふれていた時代だった。自分たちはいかに生き残ったのか、そこに意味を見いだせない。そこでムルソーの運命が自分の運命であるかのように思われた。ムルソーの裁判には多くの人が呼ばれるが、その証言はことごとく悪く取られて人格攻撃がなされる。「母の葬儀で泣かなかった」「葬儀の次の日に情交関係を持った」などが理由だ。(それを言ったら伊丹十三監督「お葬式」では、山崎努の主人公が葬儀前に訪ねてきた愛人と関係してる。)

 ムルソーは何故「世間のしきたり」に無頓着だったり反逆したりするのか。それは「異邦人」発表当時より多くの人に論じられてきた。「もうひとつの『異邦人』」の後書きで、三野博司増補改訂版 カミュ『異邦人』を読むーその謎と魅力」(彩流社、2011)という本を知った。著者はフランス文学者で奈良女子大学名誉教授、国際カミュ学会副会長という人である。この本は地元の図書館にあったので読んでみると、今までの様々な読解がまとめられていて文学理論の勉強になった。
(カミュ『異邦人』を読む)
 カミュの父は第一次大戦で戦死している。ムルソーも同じように父がいない。いなくなった事情は書かれていないが、確かに「異邦人」における「父」と「母」の問題は重要だ。「母」が死ぬことで始まる「異邦人」は、最後に死刑判決を受けたムルソーが教誨師の神父から「自分は父である」と迫られる。母親が養老院で仲良くしていた老人ペレーズ(Perez)にはフランス語の「」(père)が入っている。言われてみれば、なるほどと思う。そもそも「ムルソー」は、「」(mort)と「太陽」(Soleil)が掛かっている。

 そういう議論も面白くはあるが、僕は原作を久しぶりに読み直して「裁判のおかしさ」に驚いた。検察官は被告人ムルソーを重く罰したい。それならば「被害者家族」の証言は欠かせないはずだが、それが全く出て来ない。ムルソーの人格を攻撃する証人ばかりが呼ばれる。殺人という犯罪ではなく、むしろ「葬儀でのふるまい」などが糾弾される。ムルソーは「殺人罪」ではなく、キリスト教(神)に対する「不敬罪」でこそ裁かれているとしか思えない。

 証人に呼ばれる人もおかしい。常連の食堂主セレストや同じアパートに住む犬を飼っていた老人など、事件には何の関係もない人が呼ばれている。セレストが呼ばれるなら、職場の同僚のエマニュエル上司(海運会社の主人)が呼ばれるべきだろう。上司はムルソーを新設予定のパリの支所に派遣しようかと考えていた。ムルソーはそれを断るけれど、仕事ぶりは認められていたのである。その証言があれば、ムルソーにかなり有利になったはずだ。

 弁護人もそういうところを追及するべきだが、全然触れない。そもそも「被害者はアラブ人」であり、「レエモンはナイフで傷つけられていた」のである。その事を強調すれば、「正当防衛」とまではいかなくても「過剰防衛」ぐらいは主張できるだろう。しかし、弁護人は全く被害者に触れない。そもそも裁判から被害者のアラブ人が全く消去されている。

 若い頃に読んだから、僕は裁判のおかしさを感じなかった。今になって読み直すと、こんな裁判はあり得ないと判る。もちろん弁護人の弁論が陪審員に受け入れられたら、この小説は成り立たない。「ムルソーが『異邦人』として死刑を宣告される」というのが、小説のテーマなのだから。弁護人が「たかがアラブ人殺しじゃありませんか」と弁論して、そのためにムルソーが無罪になったりすれば、「差別裁判」というテーマになってしまう。

 裁判の奇妙さは誰でもすぐ気付くはずだが、案外論じられていない。そもそも「アルジェリア植民地の裁判」を僕は全然知らない。しかし、いくら何でもこれほど奇怪な裁判はなかったと思う。それを読ませてしまうのはカミュの特徴的な文体や、前半でのエピソードが裁判で反復される巧みな構成にある。そもそも小説はムルソーの「一人語り」だから、裁判の全体が描かれているとは限らない。「殺人罪」なんだから、いくら何でも一番最初に死亡原因の証明ぐらいなされたはずだ。それにしても、その後の裁判叙述を読む限り、「ムルソーを死刑にするための装置」でしかなかった「奇妙な裁判」というしかない。
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