タイトルにあげた「清和会」と言われても、判らない人が多いだろう。「清和会」は福田赳夫から続く今の「細田派」である。清和会は安倍晋太郎が病死したこともあって、長く政権を取れなかったが、2000年以降、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫と連続して4人も総理を輩出した。21世紀の自民党は清和会支配である。
(清和会の流れ)
今「清和会」と書き、福田赳夫以来続くと書いたが、正確には微妙に違っている。「清和会」は福田赳夫が首相を辞任した後の1979年に発足した。首相在任中は「派閥解消」の名の下、それまでの派閥(八日会)は解散していた。その後名前が変わった時期もあるが、1998年に森喜朗が派閥を継承したときに「清和政策研究会」と名付け、政策研究集団として続いている。今は総裁になると派閥を離脱する慣わしなので、首相になった小泉、安倍らは派閥に所属しない。そこでまとめ役の会長名から「細田派」と称しているが、実質上は安倍派と言っていい。
1回目で70年代の「三角大福」の激しい政争を取り上げた。しかし、1980年の大平急死を受けて党内には融和的なムードが高まり、宏池会所属の総務会長鈴木善幸が総裁に選ばれ「和の政治」を掲げた。しかし今回の菅首相にも言えるが、党内事情のみで選ばれた総裁は政策に行き詰まって長続きしない。1982年の総裁選に鈴木は不出馬を表明し、続いて中曽根康弘が総裁となった。必ずしも関係が良くなかった田中角栄と関係を修復したため、世論からは「田中曽根」などと呼ばれたが、結果的に5年の長期政権となった。
今は派閥の流れだけ追っているので、中曽根内閣の「戦後の総決算」路線の評価は書かない。中曽根の後継をめぐっては、自民党内で「ニューリーダー」と呼ばれた3人がいた。竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一である。「三角大福中」の中で、うまく後継につなげなかった三木派と中曽根派は分裂しながら変容していったのに対し、「角大福」を受けた「ニューリーダー」は現在の各派閥に直接つながっている。
清和会内では早くから岸の女婿だった安倍晋太郎が次のプリンスと言われていて順調に派閥を継いだ。党内では右派になるが、さらに右派だった中川一郎が1983年に自殺した後は旧中川派(石原慎太郎派)も吸収した。1987年に中曽根後継は中曽根の裁定で竹下登が選ばれた。しかし、1989年にリクルート事件が発覚し竹下が辞任する。安倍、竹下、宮澤もリクルート事件に関与して総裁になれなかったため、三木派の後継河本派の幹部海部俊樹が選ばれた。安倍晋太郎はその後病気となって、首相目前にして1991年に没した。
(1987年総裁選後に、左から安倍、中曽根、竹下、宮澤)
安倍晋太郎没後の後継をめぐっては、三塚博と加藤六月が争い、森、小泉らが支持した三塚が1991年に派閥を継いだ。加藤は反発してグループで離脱し、後には自民党も離党して小沢一郎らと行動を共にした。菅義偉内閣の官房長官、加藤勝信は娘婿にあたる。三塚は1991年の総裁選に立候補したが3位で敗れた。その後も橋本龍太郎内閣で大蔵大臣を務めるなど重職を任されたが、1997年に金融危機が起こり、同時期に発覚した大蔵省接待汚職事件の責任を取って辞任し、政治的立場を弱めた。
1998年の総裁選では派内から小泉純一郎が立候補し、これに反発した亀井静香が離脱して独自グループを結成した。亀井派は中曽根派の後継だった渡辺美智雄(1995年没)系と1999年に合同して「志帥会」となる。これが現在の「二階派」につながっている。1998年12月に森喜朗が会長となって、清和会は森派となった。2000年に小渕首相が突然倒れて、森幹事長が後継となった。そのため清和会会長は小泉純一郎に代わるが、清和会は森派と呼ばれていた。2001年に森が辞任し、後継を決める総裁選で小泉純一郎が出馬して圧勝した。
小泉内閣が長期政権になったため、後継も小泉系が有利となり、官房長官だった安倍晋三が選ばれた。1年で辞任したが次に福田康夫が選ばれたが、やはり1年で辞任。その後は清和会は候補を立てず、小泉内閣で外相などを務めた麻生太郎を支持した。その時には派内が分裂し、中川秀直元幹事長らが当時清和会にいた小池百合子の立候補を支持した。2012年総裁選でも町村信孝に対して、安倍晋三も再び立候補し派内の対応が割れている。
会長は町村信孝が務めて「町村派」、2014年からは細田博之が会長となって「細田派」とマスコミでは表記される。しかし、それはもう総裁候補を担ぐという意味では派閥名ではない。小泉、安倍が長期政権となったことで、結果的にその影響のもとで当選した若手議員が多くなる。そのため細田派が自民党最大派閥となっているが、今後は総裁候補をめぐって割れるに違いない。今回下村博文が立候補を模索したが立候補出来なかった。
安倍は稲田朋美を育てたかったらしいが、稲田が「リベラル化」したとされる中、派外の高市早苗を支持した。萩生田光一も総裁候補と言われるが、派内がまとまることはないだろう。今までも加藤六月、亀井静香、中川秀直らが退会した歴史がある。今後も最大派閥であるかどうかは難しいと思う。長く続いた「清和会支配」も終わるのかもしれない。他の派閥も書く予定が清和会だけで長くなってしまった。

今「清和会」と書き、福田赳夫以来続くと書いたが、正確には微妙に違っている。「清和会」は福田赳夫が首相を辞任した後の1979年に発足した。首相在任中は「派閥解消」の名の下、それまでの派閥(八日会)は解散していた。その後名前が変わった時期もあるが、1998年に森喜朗が派閥を継承したときに「清和政策研究会」と名付け、政策研究集団として続いている。今は総裁になると派閥を離脱する慣わしなので、首相になった小泉、安倍らは派閥に所属しない。そこでまとめ役の会長名から「細田派」と称しているが、実質上は安倍派と言っていい。
1回目で70年代の「三角大福」の激しい政争を取り上げた。しかし、1980年の大平急死を受けて党内には融和的なムードが高まり、宏池会所属の総務会長鈴木善幸が総裁に選ばれ「和の政治」を掲げた。しかし今回の菅首相にも言えるが、党内事情のみで選ばれた総裁は政策に行き詰まって長続きしない。1982年の総裁選に鈴木は不出馬を表明し、続いて中曽根康弘が総裁となった。必ずしも関係が良くなかった田中角栄と関係を修復したため、世論からは「田中曽根」などと呼ばれたが、結果的に5年の長期政権となった。
今は派閥の流れだけ追っているので、中曽根内閣の「戦後の総決算」路線の評価は書かない。中曽根の後継をめぐっては、自民党内で「ニューリーダー」と呼ばれた3人がいた。竹下登、安倍晋太郎、宮澤喜一である。「三角大福中」の中で、うまく後継につなげなかった三木派と中曽根派は分裂しながら変容していったのに対し、「角大福」を受けた「ニューリーダー」は現在の各派閥に直接つながっている。
清和会内では早くから岸の女婿だった安倍晋太郎が次のプリンスと言われていて順調に派閥を継いだ。党内では右派になるが、さらに右派だった中川一郎が1983年に自殺した後は旧中川派(石原慎太郎派)も吸収した。1987年に中曽根後継は中曽根の裁定で竹下登が選ばれた。しかし、1989年にリクルート事件が発覚し竹下が辞任する。安倍、竹下、宮澤もリクルート事件に関与して総裁になれなかったため、三木派の後継河本派の幹部海部俊樹が選ばれた。安倍晋太郎はその後病気となって、首相目前にして1991年に没した。

安倍晋太郎没後の後継をめぐっては、三塚博と加藤六月が争い、森、小泉らが支持した三塚が1991年に派閥を継いだ。加藤は反発してグループで離脱し、後には自民党も離党して小沢一郎らと行動を共にした。菅義偉内閣の官房長官、加藤勝信は娘婿にあたる。三塚は1991年の総裁選に立候補したが3位で敗れた。その後も橋本龍太郎内閣で大蔵大臣を務めるなど重職を任されたが、1997年に金融危機が起こり、同時期に発覚した大蔵省接待汚職事件の責任を取って辞任し、政治的立場を弱めた。
1998年の総裁選では派内から小泉純一郎が立候補し、これに反発した亀井静香が離脱して独自グループを結成した。亀井派は中曽根派の後継だった渡辺美智雄(1995年没)系と1999年に合同して「志帥会」となる。これが現在の「二階派」につながっている。1998年12月に森喜朗が会長となって、清和会は森派となった。2000年に小渕首相が突然倒れて、森幹事長が後継となった。そのため清和会会長は小泉純一郎に代わるが、清和会は森派と呼ばれていた。2001年に森が辞任し、後継を決める総裁選で小泉純一郎が出馬して圧勝した。
小泉内閣が長期政権になったため、後継も小泉系が有利となり、官房長官だった安倍晋三が選ばれた。1年で辞任したが次に福田康夫が選ばれたが、やはり1年で辞任。その後は清和会は候補を立てず、小泉内閣で外相などを務めた麻生太郎を支持した。その時には派内が分裂し、中川秀直元幹事長らが当時清和会にいた小池百合子の立候補を支持した。2012年総裁選でも町村信孝に対して、安倍晋三も再び立候補し派内の対応が割れている。
会長は町村信孝が務めて「町村派」、2014年からは細田博之が会長となって「細田派」とマスコミでは表記される。しかし、それはもう総裁候補を担ぐという意味では派閥名ではない。小泉、安倍が長期政権となったことで、結果的にその影響のもとで当選した若手議員が多くなる。そのため細田派が自民党最大派閥となっているが、今後は総裁候補をめぐって割れるに違いない。今回下村博文が立候補を模索したが立候補出来なかった。
安倍は稲田朋美を育てたかったらしいが、稲田が「リベラル化」したとされる中、派外の高市早苗を支持した。萩生田光一も総裁候補と言われるが、派内がまとまることはないだろう。今までも加藤六月、亀井静香、中川秀直らが退会した歴史がある。今後も最大派閥であるかどうかは難しいと思う。長く続いた「清和会支配」も終わるのかもしれない。他の派閥も書く予定が清和会だけで長くなってしまった。