尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「燃えあがる緑の木」三部作②ー大江健三郎を読む⑪

2021年09月13日 22時58分15秒 | 本 (日本文学)
 大江健三郎燃えあがる緑の木」の続き。第二部のラストで「ギー兄さん」が教会の展望を問われても答えられなかった。その場にいたピアニストの泉さんは、ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の映画「アレクサンダー大王」の話を皆にする。反政府ゲリラの首領だった通称「アレクサンダー大王」は時々「てんかん」を起こすが、その時仲間たちは背を向けて座り「見なかった」ことにすると。それにならって背を向けようという泉さんの提案を皆が受け入れる。ただしサッチャンだけはギー兄さんの姿に失望して教会を飛び出したのだった。

 サッチャンはそのまま教会を離れ、東京へ行く。一応K伯父さんの家に向かうと、しばらく伊豆の別荘を使うようにと提供された。その時に本を一冊借りたいと言うと、K伯父さんは矢内原忠雄アウグスティヌス『告白』講義」という本を選ぶ。サッチャンは「両性具有」者で、ある時期まで男として生きていた後、女として生き直す「転換」を体験した。第一部の終わりでギー兄さんが村人に糾弾された後で、ギー兄さんと性的に結ばれ自らの「転換」の意味が判ったと思う。そして二人で小さな教会から再出発しようと決意したのである。
(第三部 大いなる日に)
 サッチャンは伊豆の別荘で苦しみを通り抜け、別荘の隣人と知り合って「性的大冒険の日々」を送る。大江文学にはよくある設定で、「懐かしい年への手紙」にもそういう日々が出て来た。その日々を通して、「救い」を考えるが答えは見つからない。連絡の付かないサッチャンを訪ねてK伯父さんがやってきて、故郷の村でギー兄さんが襲撃され重傷を負ったと言う。ギー兄さんはサッチャンに戻って欲しいと言っていると伝える。3ヶ月ぶりにサッチャンは教会に戻った。

 ギー兄さんを襲撃したのは、かつて対立した新左翼党派だった。からくも生命だけは救われたものの歩くことは出来ず、内臓も損傷を受けた。そのため時々てんかんを起こすようになる。教会内部では、伊能三兄弟を中心に武闘訓練が行われ外部からの襲撃に備えている。一方で教会を外部に拡大することを目論み、「世界伝導の行進」を計画していた。谷間の村から原発阿川原発と書かれているが、「佐多岬半島の根方」とあるから明らかに伊方原発)まで行進し、そこで「集中」を行うというのである。

 「集中」とは教会で行われる「祈り」のことで、もちろん非暴力的なメディテーションである。原発当局にも事前に連絡してあったが、反原発活動家も加わり思いがけず大きな人数になった。そして「集中」の間に原発で軽微な事故が発生した。そのため「原発事故を待ち望む狂気の教団」と外部からの批判が大きくなる。伊能三兄弟は教会に近づけないように警戒を強め、教会に加わった子どもに会えないという親が「被害者の会」を結成する。一方で行進が終わっても村へ帰らず、全国を巡礼するグループが出て来る。教会では「武闘派」と「巡礼団」の対立が激しくなっていく。

 このようなラストに向けた緊迫感あるクライマックスは大江文学の特徴である。「万延元年のフットボール」や「洪水はわが魂に及び」ではラストが近づいた時の非常に緊迫した世界には一瞬も気を緩められない。「燃えあがる緑の木」で起きる教会内部の対立激化、ギー兄さんの決断も同じように緊迫した世界が展開されて、途中で止められない。サッチャンは「第一秘書」格でギー兄さんに付き添うが、対立には冷ややかな態度で冷静である。屋敷で事務を執りながら、教団の推移を見つめている。その視点が興味深い。
(Eテレ「100分de名著」で取り上げられた)
 ラストの展開と悲劇については触れないことにする。三部作を読むのは大変だと思うが、やはり現代日本文学の重要な達成であることは間違いない。ただし、僕にはいくつかの疑問もある。一つはギー兄さんを襲う集団が「新左翼党派」とされることである。「内ゲバ」は70年代後半から80年代にかけて、非常に重苦しい問題だった。しかし、90年代になるとほとんど起こっていないと思う。調べてみると革労協内部の暗闘が21世紀まで続いていたが、ここで暗示されるのは「中核対革マル」のどちらかだと思う。党派内で重要な人物ではなく、単に見張りをしていただけで今は離脱している人物を襲撃するのは現実感が薄い。

 その結果として、教会内部の問題ではなく全然無関係の「外部からの襲撃」によって、教会が大きく変えられることになる。そういうことは歴史上良くあるとも言えるけれど、本来は教会内部の矛盾と向き合うことによって、教会が発展もしくは崩壊していくというプロットの方が望ましいと思う。この小説だけで言えば、いろいろな可能性が「内ゲバ」によって潰えたという物語になってしまった。

 もう一つはあまりにも外国の思想、文学の引用が多いこと。今までも同じだけれど、今回はさらにイエーツダンテなどに止まらず、アウグスティヌスシモーヌ・ヴェイユなどに広がっている。大江健三郎はもともと学者的であり、知識人世界を描いてきた。とはいえ、ここまで外国の詩人や思想家が出て来るのはどうなんだろうか。もちろん学者世界を描く小説ならそれで良い。だがこの小説は「宗教」「救い」を扱っている。知識を積んでも救いは訪れないと作品内部で自ら語っているけれど、まさに「隔靴掻痒」という感じが最後まで付きまとう。

 最後に「救い主」や「教会」のイメージにどうもヨーロッパ的な感じが抜けないことである。四国の村の伝承がベースになっているのに、組織するとなると大学出ばかりで西欧的になってくる。伊能三兄弟は大学では「民族派」だったとされるが、教会内部では「救い主」を求める強硬派である。民族派ならば、むしろ「神ながらの道」のような方向を求めるのではないか。「絶対神」などなくても宗教が成立するのが、日本の神道ではないかと思う。日本の新宗教は西日本から発生したものが多い。四国の村にはそっちの方が相応しい気がする。

 大江健三郎は多くの小説で「コミューン的なつながり」を描いてきた。しかし、その時に「日本型」のコミューンではなく、日本の風土に基づきながらもベースにキリスト教的なムードが出て来る。「フランス文学」を学んできたからだろうか。ウィキペディアに、発表当時に読売新聞に掲載されたインタビューが紹介されている。「信仰対象となる人物のいない時代、そもそも既成宗教の基盤がない国で魂の問題を解決するには、自分たちで宗教のようなものをつくるしかない、と考える人たちの話です」というのだが、その結果日本では無理だ、あるいは少なくとも文学では描けないということになっている。

 日本で「救い」を深く考えようと思う時、仏教神道の検討は欠かせない。巡礼団の中心が曹洞宗の僧侶なので道元は出て来るが、日蓮親鸞は出て来ない。ここで扱われるテロも「政治党派」のものだった。だから「オウム真理教」やキリスト教、イスラム教の原理主義的なテロを考えるには、あまり役立たない。そういうような不満もあるのだが、これほどの力作には人生で一度は挑む価値がある。しかしまあ、他の傑作を順番に読んでいって、「燃えあがる緑の木」に至るというのが望ましいだろう。
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