尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

竹下派盛衰記ー自民党の派閥の歴史④

2021年09月21日 22時57分23秒 | 政治
 清和会、宏池会の系譜を書いたので、それで終わりでもいいのだが、折角だから他の派閥にも触れておきたい。先だって「竹下派」の会長竹下亘(わたる)の訃報が伝えられた(9月17日)。しかし、この「竹下派」は今の細田派と同様に、単に会長名を付けただけの通称に過ぎない。昔の竹下派と言えば、自民党を支配する一大集団だった。佐藤栄作、田中角栄の流れから、竹下登橋本龍太郎小渕恵三と3人の首相を生んだ。離党後に首相になった羽田孜を入れれば4人になる。それが最近になったら、総裁どころか総裁候補すら立てられなくなった。
(竹下派の歴史)
 田中角栄元首相はロッキード事件で離党しながら、裏で「闇将軍」として事実上派閥を支配していた。そういう状況も長くなると、派内から次世代リーダー待望の声が出る。それが竹下登だが、ボスの逆鱗に触れないように秘密裏に決起の準備を進め、1985年2月7日に「木曜クラブ」(田中派)の中にある勉強会という建前で「創政会」を立ち上げた。これが事実上の「竹下派」結成で、田中角栄は激怒したと言われるが、だからかどうか2月27日に脳梗塞で倒れた。以後一切の政治活動が出来なくなり、86年の選挙ではトップ当選したものの一度も議会に出席できないまま90年に引退した。93年12月16日死去。

 1986年4月に創政会は解散し、7月に経世会が結成された。これが今でも竹下派の代名詞として伝わることになる。140名を越えた田中派の中で110名近くが集結した大派閥である。田中に忠実な二階堂進ら10数名が木曜クラブに残留し「二階堂グループ」と呼ばれた。実は田中角栄自体が佐藤派を乗っ取る形で総裁を勝ち取ったわけだが、同じことが10数年後に再現されたわけである。この壮絶な反乱を成功させるには、派内に盟友が必要だ。それが10歳年上ながら衆院当選同期の金丸信(かねまる・しん)だった。竹下が首相になると、金丸が経世会の会長となった。金丸の長男と竹下の長女が結婚し、実の親戚となっている。(ちなみに次女の子がDAIGO。)

 次代のリーダー候補も豊富で、二人のボスを支えて「竹下派七奉行」と呼ばれた。竹下系の橋本龍太郎小渕恵三梶山静六、金丸系の小沢一郎羽田孜渡部恒三奥田敬和である。この中から3人の総理を輩出した。89年から91年までの海部内閣では小沢が40代で幹事長となり、自民党の権力は「金竹小」が握っていると言われた。これは「こんちくしょう」と読み、反自民、反竹下派の立場からの命名だが、ある時代を象徴している。
(竹下派七奉行)
 権勢を振るった竹下派だが、1992年8月に東京佐川急便から5億円の闇献金が金丸に渡っていたことが発覚した。検察は上申書提出で金丸を罰金20万の略式起訴で済ませたため、世論の大きな反発を招いた。金丸は議員辞職願いを提出し、10月に辞任した。(1993年3月に金丸は脱税で逮捕された。政治資金を個人的に保管していたとして金丸宅から金融債権や金塊が見つかったと報道されて驚いた。後に金丸は政界再編資金だったと弁明した。)会長が議員を辞めた以上、後継会長を決めなければならない。そこで竹下派分裂騒動が起こったのである。

 竹下らは敵が少ない小渕恵三を会長に推し、強引に決定した。納得できない小沢らは羽田孜を担いで「羽田派」を結成した。七奉行は残った小渕、橋本、梶山と離脱した羽田、小沢、渡部、奥田に二分された。それどころか、93年6月の宮沢内閣不信任案採決では羽田派は賛成票を投じ、離党して新生党を結成した。結党時38名の中には二階俊博、船田元のように後に復党したものもいるが、羽田、小沢らは戻ることなく政治活動を続けて行く。それは竹下派とは無関係なので、ここからは小沢らには触れない。

 新生党も加わった非自民連立は細川護熙、羽田孜が首相となったが、94年6月には社会党委員長を自民党が担ぐという禁じ手を使って自民が政権に復帰する。94年には派閥解消ということで経世会は解散し、以後は政策研究グループ「平成政治研究会」(後に平成研究会)と名乗ることになった。95年の総裁選で河野洋平は不出馬に追い込まれ、代わって通産相の橋本龍太郎が総裁に選ばれ、96年1月には村山から政権を引き継いだ。98年に参院選で大敗した後は小渕恵三が後任の首相となった。結果的に旧経世会系で最後の首相となった。

 小渕が首相となった後、会長には綿貫民輔がなるが、2000年に綿貫が衆院議長となり、5代目会長に橋本龍太郎が就任した。2001年に森首相が辞任した後の総裁選で、平成研では誰を出すか揉めた挙げ句、会長の橋本の再登板を目指すことになったが、旋風を起こした小泉純一郎に大敗することになった。2004年には橋本に日歯連から闇献金があった疑惑が明るみに出て会長を辞任した。(05年総選挙に出馬せず引退、06年死去。)以後1年間会長空席が続く。2005年には郵政民営化に反対した綿貫や2003年の総裁選に出た藤井孝男らが離党に追い込まれた。

 21世紀初頭の経世会には衆院に野中広務、参院に議員会長を長く務めた青木幹雄という屈指の実力者がいたが、どちらも裏方で力を振るうタイプだった。また中村喜四郎鈴木宗男はスキャンダルで逮捕・起訴され有罪となった。このように総裁選に担げるリーダーが存在しなくなってしまったのが旧竹下派の衰退の理由である。その中では額賀福志郞が党三役や財務相(第一次安倍内閣、福田康夫内閣)を務め実力者と認知されていたが、一度も総裁選に立候補するチャンスが来なかった。

 2005年から09年まで会長を津島雄二(太宰治の長女の夫)が務めて「津島派」、09年から18年まで「額賀派」、18年から「竹下派」となったが、これは単に会長名を通称として使っただけである。今後どうなるかは不明だが、会長代行が現外相の茂木敏充(もてぎ・としみつ)なので、順調に昇格すれば久方ぶりに総裁候補の会長ということになるかもしれない。90年代政界再編のあおりを最も受けた派閥で、小泉首相が言い放った「自民党をぶっ壊す」とは、つまりは「旧竹下派支配を壊す」の意味である。政治も社会も大きく変わり、旧竹下派のような派閥は二度と出て来ないと思う。その意味では20世紀の自民党政治を象徴する派閥だった。
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