尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

自民党派閥の歴史①ー「三角大福」時代まで

2021年09月17日 23時25分19秒 | 政治
 自由民主党総裁選挙が告示され、4氏が立候補した。自民党員じゃないから特別な関心はないけれど、実質的に次期首相を決めるわけだから、それなりの関心を持ってニュースを見てはいる。今回思うのは、岸田候補を除き、派閥会長ではないということだ。それどころか各派閥は(岸田派を除き)実質的に「自主投票」なのである。それでは「派閥」の意味がないように思うけれど、その後の三役や大臣ポストの配分には必要なんだろう。

 「派閥は良くない」と言う人が多いけれど、僕は必ずしもそうは思わない。人間が数十人規模で集まれば、意見の食い違いがある方が自然だ。派閥をなくせというだけでは、ダイナミックな政党にはならない。だけど、自民党の派閥には問題が多かったのも事実だ。国会議員はすべて国民の代表として選ばれているのに、国民より派閥ボスの方ばかり気にしている議員が多かった。

 ところが今回は直後に衆議院選挙が予定されている。参議院選挙だって来年である。自民党には当選3回以下の選挙地盤が確立してない若手議員が多い。今回ばかりは「選挙に勝てる顔」を求めて、派閥の締め付けが効かない状況になっていると思われる。ここまでグチャグチャだと、やがて派閥再編も行われるに違いない。いつまでも「麻生派」「二階派」などと長老を担いでいる時代じゃないだろう。
(自民党派閥の推移、菅政権誕生時点)
 今回の4候補と派閥を関連付ける画像は見当たらなかったので、上には昨年の菅総裁選出時のものを載せておく。ここで判るように、現在の自民党には細田派麻生派竹下派二階派石原派岸田派石破派と7つの派閥がある。実はもう一つ「谷垣グループ」と呼ばれるものもある。それぞれの流れと違いをちゃんと判っている人は少ないだろう。調べないと判らない点は僕にもあるけれど、大筋では理解している。ここでまとめて振り返っておこうと思う。政治や現代史というより、まあ趣味である。

 「自由民主党」とは、言うまでもなく1955年に「自由党」と「日本民主党」の「保守合同」によって成立した政党である。保守系の政治家がほぼ合同したわけで、その時点で幾つもの人脈による派閥が存在した。初代総裁は民主党の鳩山一郎だったが、病弱で長期政権は望めなかった。1956年の総裁選は「8個師団」と呼ばれた派閥間のし烈な政争となった。最終的には第一回投票2位の石橋湛山が、3位の石井光次郎と2・3位連合を組んで、第一回1位の岸信介を決戦投票で破った。しかし、石橋はわずか2ヶ月後に病気で倒れて退陣、後継首相に岸が就任した。

 当時の自民党の派閥は、自由党系では吉田茂元首相に重用された池田勇人佐藤栄作に加えて、石井光次郎大野伴睦の4派、民主党系では岸信介河野一郎松村謙三・三木武夫石橋湛山の4派だった。このうち、石井派石橋派大野派は歴史の中で消滅している。50年代の話を細かく書くと長くなりすぎるから省略するが、「60年安保闘争」後に岸首相が退陣し、その後の首相になったのが「戦後派」の池田勇人だった。(この「戦後派」の意味は、戦後に政界に入ったという意味。)

 池田後の有力者とされたのが佐藤栄作河野一郎だったが、河野は1964年に急死した。(河野一郎は河野洋平の父、河野太郎の祖父である。)東京五輪直後に池田首相はガンのため辞任し、後継は佐藤栄作になった。佐藤は1964年から1972年まで長期政権となった。その後継候補たちは当時「三角大福」、あるいは「三角大福中」と呼ばれた。三木武夫の「三」、佐藤派を乗っ取る形で勢力を伸ばした田中角栄の「角」、池田派を(前尾繁三郎を間にはさんで)継いだ大平正芳の「大」、岸派を継いだ福田赳夫の「福」である。

 「中」というのは、河野派がいくつかに分裂した中で最大勢力だった中曽根康弘を指す。ただし、中曽根は他の4人に比べて年齢が若く、その次のリーダーと目されていた。(実際に「角三福大」の順に首相となった後、鈴木善幸をはさんで中曽根が5年間首相を務める。)かつての「8個師団」の中で首相候補を持つ5派が派閥として続き、持たなかった派閥は消滅したことになる。特に田中派、福田派、大平派は現在まで自民党の中で大きな存在感を示してきた。70年代は田中、福田を中心に激しい政争が続き「角福戦争」と呼ばれた。
(72年総裁選後のパーティで。右=田中、左=福田)
 佐藤首相は後継に福田赳夫を考えていたらしいが、1972年の沖縄返還を自らの手で成し遂げたいと考えて4期目の総裁に立候補して当選した。その間に佐藤派の中では田中角栄が急速に力を伸ばしていった。近年田中角栄を再評価する向きが多いが、とにかく異色で力のある政治家だったことは間違いない。1972年の自民党総裁選の第一回投票で田中が1位となり、3位の大平、4位の三木と組んで決選投票で福田を破った。

 しかし、1974年7月の参院選で金権選挙が批判され、自民党は振るわずに「保革伯仲」となった。秋には「文藝春秋」が立花隆の「田中角栄研究」を掲載し、大きな問題となった。そこでは田中角栄の「錬金術」が解き明かされ、田中的政治のうさんくさい側面が暴露されていた。それに先だって閣僚に登用されていた福田、三木が揃って辞任して圧力を掛けていた。田中は正面突破を図るが、結局は体調が持たずに辞任した。後継は選挙ではなく、椎名悦三郎副総裁による「裁定」で「政界の最長老」である三木武夫が指名された。

 1976年、三木内閣の時にアメリカでロッキード事件が暴露された。三木首相は積極的な捜査を約束し、7月前に田中角栄前首相が逮捕されるに至った。田中角栄は離党したが議員辞職はせず、その後「闇将軍」と呼ばれることになる。しかし、自民党内には三木首相のやり方に疑問を持つ議員が多く、党内では「三木おろし」が盛んになる。三木首相は粘るが秋に任期満了による衆議院選挙が行われ、自民党が議席を減らした責任を取って辞任した。

 三木辞任にあたって、党内では福田赳夫が後継に一本化された。この時に2年後には辞任し大平に譲るという密約があったらしい。しかし福田は1978年の総裁選に出馬して、大平に党員票で敗れた。福田は「天の声にも時には変な声がある」と言って決選投票を辞退して退陣した。こうして大平正芳内閣が成立するが、1979年の衆院選で大幅に議席を減らし、党内からは辞任を求める声が上がった。福田派、三木派は福田を首相候補に推し、首相指名選挙で与党が分裂する空前前後の事態が起きた。その時は10票差で大平が首相に指名された。

 しかし、1980年に野党が内閣不信任案を提出したところ、自民党内反主流派が欠席して不信任案が可決されるに至った。大平首相は直ちに衆議院を解散して選挙に臨んだが、選挙戦中に心筋梗塞で急死した。自民党は首相候補を示さないまま選挙に臨んで、不思議なことに同情票を集めて圧勝したのである。こうして怨念の政争が繰り広げられた1970年代の「三角大福」時代が終わる。戦後政治上でも空前絶後のケースが頻発し、ニュースを見ているだけで議会政治のあり方の勉強になった時代ではあった。
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