ずっと演劇を見てなかった。値段の問題もあるのだが、コロナ禍で公演中止が多い。人気公演は事前にチケットを買っておく必要があるが、チケット代は戻ってくるけど「チケットぴあ」のシステム利用料が戻ってこない。ケチなことを言ってるけど、俳優の誰かが感染するリスクを考えてしまう。でも、まあそろそろ見たいから、シス・カンパニー公演の「友達」に行った(新国立劇場)。ちょうど勅使河原宏監督の映画で安部公房原作映画をいっぱい見た頃に「友達」の予約があったから見てみたいなと思ったのである。有村架純も出てることだし。
久しぶりに演劇を見て、そうだったと思いだしたことがある。舞台から遠い席だったので、小声のセリフだと半分ぐらいしか聞こえないのである。右耳の聴力が相当に落ちていて、だから字幕付きの外国映画を見るのが一番好きなのだ。お芝居を観るたびにそう実感するのだが、しばらくすると忘れてしまう。それはライブの魅力に触れたくなるからだ。その意味では満足だったけれど、セリフの聞こえに問題があると辛いのも事実だ。
安部公房の戯曲「友達」は「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」と一緒に「新潮日本文学」に入っていたので、もうずいぶん前、多分高校時代に読んだ。1967年に発表され、青年座で初演された。1967年の第3回谷崎潤一郎賞を受賞した。この年は大江健三郎「万延元年のフットボール」と共同受賞だった。ノーベル賞受賞小説と同じ年なのだから、この戯曲への評価が非常に高かったことが判る。安部公房はその時初めて読んだと思うが、とても面白かった。たくさん出ていた文庫本はほぼ読んだはずだし、「箱男」「方舟さくら丸」などその後に出た長編小説も読んだ。でも70年代に活動していた「安部公房スタジオ」の演劇公演は一度も見ていない。
(舞台稽古のようす)
ということで生前にほぼ読んじゃったので、1993年の没後以来一つも読んでない。「友達」も詳しくは覚えていなかった。果たして今の時代に生きているテキストなのだろうか。さすがに今演じるとなるとスマホもないのはおかしいので、そういう変更はされている。加藤拓也演出・上演台本で、ウィキペディアで見ると所々で変更箇所があるようだ。でももちろん基本的設定は同じである。ある日、一人暮らしの男の部屋に9人もの大家族が闖入してくる。不法侵入だと警察を呼ぶが、暴力などがあるわけではなく知り合いではないかと思われ相手にされない。そのうち居着いてしまって、男が家事仕事を担当するようになる。
ありえない設定で進む「不条理演劇」だが、別役実ともベケットやイヨネスコなどとも違う独特のタッチがある。「ブラックユーモア」というべきかもしれないが、笑えないのである。それはこの戯曲の持つ多義的な読解の幅が非常に深いということでもある。冒頭で多人数が訪れて主人公があたふたするシーンでは、これは「難民問題」の暗喩だと思った。男は何で関係ない部屋に入り込んで来るんだというが、侵入者たちは多数決を取って「賛成多数」で決定と押しつける。こうなると形式的民主主義への批判である。
(舞台稽古のようす)
侵入者が「連帯」を強要し「原住民」の「孤独」が冒されていくとも読めるが、それは「共同体批判」か、偽善的な「絆」への批判か。いくらでも現在に引きつけられて読めてしまう。物語性ではなく、シチュエーションだけで進む劇で、セリフの研ぎ澄まされ方が素晴らしいから、なんだか考え込んでしまうのである。しかし、僕はこのお芝居の設定にずっと苛ついた。「ブラック」であれ「ユーモア」を昔は感じたと思うが、今見るとただ傍迷惑なだけである。こういう傍迷惑な「偽家族」を現実にいっぱい見たではないか。その後の日本には、こういう「善人の押し売り的に侵入してくる輩」ばかりが多くなった。早く出て行ってくれ、放っておいてくれ。
ドアは普通はタテに設置するものだが、この演出では舞台真ん中に穴のように置かれる。持ち上げると地下室のように人が出て来る。この舞台装置は秀逸。主要なキャストは、鈴木浩介(男)、西尾まり(婚約者)、浅野和之(祖父)、山崎一(父)、キムラ緑子(母)、林遣都(長男)、岩男海史(次男)、大窪人衛(三男)、富山えり子(長女)、有村架純(次女)、伊原六花(末娘)などなど。これだけ侵入家族が多いと、特に誰が良いとか悪いとかはないけれど、父の山崎一や長女の富山えり子が印象的。次女の有村架純はラストで重要な役を演じる。林遣都もいいけど、鈴木浩介の主人公もうまかった。6時開演、7時半終演というコロナ禍のコンパクト上演。
久しぶりに演劇を見て、そうだったと思いだしたことがある。舞台から遠い席だったので、小声のセリフだと半分ぐらいしか聞こえないのである。右耳の聴力が相当に落ちていて、だから字幕付きの外国映画を見るのが一番好きなのだ。お芝居を観るたびにそう実感するのだが、しばらくすると忘れてしまう。それはライブの魅力に触れたくなるからだ。その意味では満足だったけれど、セリフの聞こえに問題があると辛いのも事実だ。
安部公房の戯曲「友達」は「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」と一緒に「新潮日本文学」に入っていたので、もうずいぶん前、多分高校時代に読んだ。1967年に発表され、青年座で初演された。1967年の第3回谷崎潤一郎賞を受賞した。この年は大江健三郎「万延元年のフットボール」と共同受賞だった。ノーベル賞受賞小説と同じ年なのだから、この戯曲への評価が非常に高かったことが判る。安部公房はその時初めて読んだと思うが、とても面白かった。たくさん出ていた文庫本はほぼ読んだはずだし、「箱男」「方舟さくら丸」などその後に出た長編小説も読んだ。でも70年代に活動していた「安部公房スタジオ」の演劇公演は一度も見ていない。
(舞台稽古のようす)
ということで生前にほぼ読んじゃったので、1993年の没後以来一つも読んでない。「友達」も詳しくは覚えていなかった。果たして今の時代に生きているテキストなのだろうか。さすがに今演じるとなるとスマホもないのはおかしいので、そういう変更はされている。加藤拓也演出・上演台本で、ウィキペディアで見ると所々で変更箇所があるようだ。でももちろん基本的設定は同じである。ある日、一人暮らしの男の部屋に9人もの大家族が闖入してくる。不法侵入だと警察を呼ぶが、暴力などがあるわけではなく知り合いではないかと思われ相手にされない。そのうち居着いてしまって、男が家事仕事を担当するようになる。
ありえない設定で進む「不条理演劇」だが、別役実ともベケットやイヨネスコなどとも違う独特のタッチがある。「ブラックユーモア」というべきかもしれないが、笑えないのである。それはこの戯曲の持つ多義的な読解の幅が非常に深いということでもある。冒頭で多人数が訪れて主人公があたふたするシーンでは、これは「難民問題」の暗喩だと思った。男は何で関係ない部屋に入り込んで来るんだというが、侵入者たちは多数決を取って「賛成多数」で決定と押しつける。こうなると形式的民主主義への批判である。
(舞台稽古のようす)
侵入者が「連帯」を強要し「原住民」の「孤独」が冒されていくとも読めるが、それは「共同体批判」か、偽善的な「絆」への批判か。いくらでも現在に引きつけられて読めてしまう。物語性ではなく、シチュエーションだけで進む劇で、セリフの研ぎ澄まされ方が素晴らしいから、なんだか考え込んでしまうのである。しかし、僕はこのお芝居の設定にずっと苛ついた。「ブラック」であれ「ユーモア」を昔は感じたと思うが、今見るとただ傍迷惑なだけである。こういう傍迷惑な「偽家族」を現実にいっぱい見たではないか。その後の日本には、こういう「善人の押し売り的に侵入してくる輩」ばかりが多くなった。早く出て行ってくれ、放っておいてくれ。
ドアは普通はタテに設置するものだが、この演出では舞台真ん中に穴のように置かれる。持ち上げると地下室のように人が出て来る。この舞台装置は秀逸。主要なキャストは、鈴木浩介(男)、西尾まり(婚約者)、浅野和之(祖父)、山崎一(父)、キムラ緑子(母)、林遣都(長男)、岩男海史(次男)、大窪人衛(三男)、富山えり子(長女)、有村架純(次女)、伊原六花(末娘)などなど。これだけ侵入家族が多いと、特に誰が良いとか悪いとかはないけれど、父の山崎一や長女の富山えり子が印象的。次女の有村架純はラストで重要な役を演じる。林遣都もいいけど、鈴木浩介の主人公もうまかった。6時開演、7時半終演というコロナ禍のコンパクト上演。