石原慎太郎が2月1日に亡くなった。89歳。毎月訃報のまとめを書いているが、1日だから来月では遅すぎるので簡単に書いておきたい。いろいろな肩書きがあったが、主には「作家」「政治家」になるだろう。葬儀は家族で行い、後でしのぶ会を開くと言うが、これはコロナ禍での通例である。その場合、しばらく訃報が伏せられることが多い。(映画監督の恩地日出夫の訃報が3日の朝刊に載っていたが、1月20日死去と出ていた。)しかし、石原慎太郎の場合、三男が衆議院議員でいま国会開会中、また次男はテレビで幾つものレギュラー番組を持っている。理由を言わずに欠席すれば、コロナ感染かと周囲を混乱させかねない。次男、三男が「公人」だったことが、訃報がすぐに発表された理由なんだろうなと思った。
(訃報を伝えるテレビニュース)
今まで石原慎太郎に関しては何回か書いた。東京都知事をまとめて振り返った時に、「石原都政に「実績」はあったか-都政と都知事を考える③」(2016.6.23)を書いた。しかし、その前に書いた「鈴木都政に行きつく問題-都政と都知事を考える②」も読んで貰った方がいい。よく「左」系の人は石原都政から教育がゆがめられたように言うことがあるが、それは間違いであると指摘した。当時を知っている人でも忘れていることがあるが、鈴木知事、青島知事時代に確立した都庁官僚支配体制ですでに鬱陶しい時代が始まっていた。作家の分野に関しては、「石原慎太郎「太陽の季節」「星と舵」などを読んでみた」(2021.4.20)を書いた。
石原慎太郎は最近まで新刊を出していたが、現役作家というよりは「文学史上の人」だろう。政界も引退していたから、きちんとした「石原慎太郎論」を考えるべきだろう。ずいぶんいろんなことをした人だが、50年代には映画俳優もした。慎太郎原作、裕次郎主演映画に特別出演したのもあるが、本格的な主演もある。鈴木英夫監督「危険な英雄」(1957)では誘拐を追う新聞記者で主演している。名演とまでは言わないが、ちゃんと演技している。(川島雄三監督「接吻泥棒」(1960)もある。)一方、増村保造監督「からっ風野郎」(1960)は三島由紀夫が主演したが、実に惨憺たる結果に終わった。この違いがどこにあるのかは興味深い。文学的な違いと当時に、だから石原慎太郎は政治家になれたのだと思う。
(慎太郎、裕次郎兄弟)
1958年の岸内閣による警察官職務執行法改正案には大きな批判が起こった。この時、新世代の旗手として活躍していた若き「文化人」たちが集まって「若い日本の会」を結成した。60年安保まで活動したという。ウィキペディアを見ると、以下のような人々が参加していた。「石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔、大江健三郎、黛敏郎、福田善之、寺山修司、江藤淳、開高健、寺山修司、浅利慶太、羽仁進、武満徹、山田正弘、大坪直行」などである。山田正弘は脚本家、大坪直行は詩人・編集者で、後に石原のすすめで「いんなあとりっぷ」編集長になったという。しかし、実に驚くべき顔ぶれである。ここで挙げられた中で、石原慎太郎、黛敏郎、江藤淳、浅利慶太は後に保守派として知られてゆく。どこに分岐点があったのだろうか。それが戦後史の分岐だろう。
石原慎太郎は10年以上僕の「ボス」だった。つまり「上司」である。教育公務員の給与は都道府県が負担するので、区立中学勤務の時から給与明細の「給与支払者」は都知事だった。まあ、それは「形式」であって、何も知事から給料を貰ってると思っていたわけではないが。その当時のことを思い出してみれば、やはり上意下達型のとんでもない知事だったと思う。何も政治的な主張が違うから嫌いということではない。むしろ組合に入ってない「幹部」教員の方が敬遠していた気がする。それも当然の話で、上から降ってくる様々な(それまではあり得ないような)教育行政の新機軸を、現場の反対を押し切りながら具体的に実施して行くことを求められる。そういう立場の人ほど、五輪招致話が出て来たときにウンザリしていた。
同僚に組合幹部になって都労連で活動していた人がいたが、石原都知事は「悔しいけどカッコいい」と評していた。長身で足も長くスタイルが良い。だから人気が出るのも判るという話だった。ふーん.そういうものかと思った思い出がある。石原慎太郎を読んでみた記事で書いているが、僕は長いこと一つも読んでこなかった。まあ存命中に読みたいと思って、石原慎太郎や大江健三郎を去年読んだわけだが、「太陽の季節」から始まる文体の現代性は今も生きていると思った。
だが内容的に特に女性描写には問題がある。サンフランシスコからハワイを目指すヨットレースを描く「星と舵」には驚いた。ヨットレースが始まるまでは、ほとんどが女性の話。メキシコまで娼婦を買いに行く話も出てくる。だからダメというのではなく、それが「自我」に何の関係もない自慢話なのである。政治家になってからの「失言」「暴言」には根深いものがあると思う。
(訃報を伝えるテレビニュース)
今まで石原慎太郎に関しては何回か書いた。東京都知事をまとめて振り返った時に、「石原都政に「実績」はあったか-都政と都知事を考える③」(2016.6.23)を書いた。しかし、その前に書いた「鈴木都政に行きつく問題-都政と都知事を考える②」も読んで貰った方がいい。よく「左」系の人は石原都政から教育がゆがめられたように言うことがあるが、それは間違いであると指摘した。当時を知っている人でも忘れていることがあるが、鈴木知事、青島知事時代に確立した都庁官僚支配体制ですでに鬱陶しい時代が始まっていた。作家の分野に関しては、「石原慎太郎「太陽の季節」「星と舵」などを読んでみた」(2021.4.20)を書いた。
石原慎太郎は最近まで新刊を出していたが、現役作家というよりは「文学史上の人」だろう。政界も引退していたから、きちんとした「石原慎太郎論」を考えるべきだろう。ずいぶんいろんなことをした人だが、50年代には映画俳優もした。慎太郎原作、裕次郎主演映画に特別出演したのもあるが、本格的な主演もある。鈴木英夫監督「危険な英雄」(1957)では誘拐を追う新聞記者で主演している。名演とまでは言わないが、ちゃんと演技している。(川島雄三監督「接吻泥棒」(1960)もある。)一方、増村保造監督「からっ風野郎」(1960)は三島由紀夫が主演したが、実に惨憺たる結果に終わった。この違いがどこにあるのかは興味深い。文学的な違いと当時に、だから石原慎太郎は政治家になれたのだと思う。
(慎太郎、裕次郎兄弟)
1958年の岸内閣による警察官職務執行法改正案には大きな批判が起こった。この時、新世代の旗手として活躍していた若き「文化人」たちが集まって「若い日本の会」を結成した。60年安保まで活動したという。ウィキペディアを見ると、以下のような人々が参加していた。「石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔、大江健三郎、黛敏郎、福田善之、寺山修司、江藤淳、開高健、寺山修司、浅利慶太、羽仁進、武満徹、山田正弘、大坪直行」などである。山田正弘は脚本家、大坪直行は詩人・編集者で、後に石原のすすめで「いんなあとりっぷ」編集長になったという。しかし、実に驚くべき顔ぶれである。ここで挙げられた中で、石原慎太郎、黛敏郎、江藤淳、浅利慶太は後に保守派として知られてゆく。どこに分岐点があったのだろうか。それが戦後史の分岐だろう。
石原慎太郎は10年以上僕の「ボス」だった。つまり「上司」である。教育公務員の給与は都道府県が負担するので、区立中学勤務の時から給与明細の「給与支払者」は都知事だった。まあ、それは「形式」であって、何も知事から給料を貰ってると思っていたわけではないが。その当時のことを思い出してみれば、やはり上意下達型のとんでもない知事だったと思う。何も政治的な主張が違うから嫌いということではない。むしろ組合に入ってない「幹部」教員の方が敬遠していた気がする。それも当然の話で、上から降ってくる様々な(それまではあり得ないような)教育行政の新機軸を、現場の反対を押し切りながら具体的に実施して行くことを求められる。そういう立場の人ほど、五輪招致話が出て来たときにウンザリしていた。
同僚に組合幹部になって都労連で活動していた人がいたが、石原都知事は「悔しいけどカッコいい」と評していた。長身で足も長くスタイルが良い。だから人気が出るのも判るという話だった。ふーん.そういうものかと思った思い出がある。石原慎太郎を読んでみた記事で書いているが、僕は長いこと一つも読んでこなかった。まあ存命中に読みたいと思って、石原慎太郎や大江健三郎を去年読んだわけだが、「太陽の季節」から始まる文体の現代性は今も生きていると思った。
だが内容的に特に女性描写には問題がある。サンフランシスコからハワイを目指すヨットレースを描く「星と舵」には驚いた。ヨットレースが始まるまでは、ほとんどが女性の話。メキシコまで娼婦を買いに行く話も出てくる。だからダメというのではなく、それが「自我」に何の関係もない自慢話なのである。政治家になってからの「失言」「暴言」には根深いものがあると思う。