1回目で長く書いたので、2回目は他の人々を簡単に書きたい。と言ってもずいぶん多くの訃報があった。まあ総理大臣経験者ということで、海部俊樹(かいふ・としき)から。第76、77代の内閣総理大臣。1989年8月から1991年11月まで務めた。早大弁論部で活躍後、自民党の河野金昇の秘書となるが、58年に河野が急死。一回未亡人をはさみ、60年に後継となって29歳で全国最年少の衆議院議員となった。党内弱小の三木派、河本派に所属していたため、現実の総裁候補とは誰も考えていなかった。しかし、88年のリクルート事件によって、自民党有力者が軒並み総裁選に出られなくなって、89年参院選大敗、宇野首相辞任後にクリーンなイメージの海部が擁立されたのである。総裁選の対抗馬は林義郎(林芳正外相の父)、石原慎太郎だった。
(首相当時)
弱体総理の割に印象にあるのは、戦後史最大の転換点にぶつかったからだ。89年の冷戦終結から91年の湾岸戦争の時期に首相だった。「自衛隊の貢献」を求められ、国論も大きく揺れた。その間、小沢一郎幹事長の権力が強く、党内基盤がないため再選が難しくなって退陣した。しかし、その後思わぬ波乱の晩年を送った。94年に自民党が社会党村山委員長を担いで政権復帰したとき、小沢一郎らに擁立されて離党して対立候補となったのである。負けた後には、新進党党首に就任した。小選挙区制移行後は、愛知9区から、96年新進党、00年保守党、03年保守新党、復党して05年自民党と毎回違う党から当選し、09年の政権交代選挙で敗北して引退した。当選回数16回、約49年間の議員生活だった。90年だか91年だかの夏に、いとこの天文学者海部宣男が所長をしていた野辺山天文台を訪れ、その後草津に泊まった年がある。その年に僕も草津を訪れていて、昨日首相が来ていたと話題になっていた。
(晩年の海部俊樹)
漫画家の水島新司が10日死去、82歳。野球漫画で知られ、「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」などで知られた。現実の球団、選手が登場したり、少女投手の水原勇気(「野球狂の詩」)の活躍など、時代に先駆けた描写が多い。しかし、メジャー挑戦や五輪などはほとんど描かれていないという。あくまでも日本のプロ野球を愛していた時代の人なんだろう。新潟市出身で、中学の隣にあった新潟明訓高校に行きたかったが経済的事情で断念。中卒で働きながら貸本漫画家になった世代である。最初のヒットが70年から連載開始の「男どアホウ甲子園」。高校野球とプロ野球を愛し描いた漫画家だった。
(水島新司)(「ドカベン」)
長崎県立国見高校のサッカー部を率いて、全国高校選手権で6回の優勝を果たした小嶺忠敏が7日死去、76歳。1968年に母校の島原商業高校に就任し、インターハイで1回優勝。84年に国見高校へ転勤し、97年から教頭、00年から定年の05年まで校長を務めた。教育公務員にあって、長崎に多い離島に一度も赴任することなく、同じ学校で教頭、校長をずっと務めるのは極めて異例だろう。サッカー部強化を求める県外私立への流出を恐れた特別措置だという。J1最多得点の大久保嘉人は教え子だった。記事で知ったが、自らバスを運転して他校との練習試合に連れて行ったという。東京都なら処分される事案だろう。地方では事情が違うと思うが、いろいろと許された時代だったんだろう。2007年参院選に自民公認で立候補して敗れた。
(小嶺忠敏)
児童文学者、翻訳家の松岡享子が25日に死去、86歳。図書館学を学び、アメリカに留学して児童図書館学を専攻した。日米で図書館に勤務したあと、1974年に石井桃子らと東京子ども図書館を開設し、40年以上理事長を務めた。この間、マイケル・ボンド「くまのバディントン」シリーズ、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズなど数多くの翻訳を刊行した。同時に、アジアの子どもたちに共通の読み物を作ろうというユネスコのアジア共同出版計画に関わり、アジア各国の昔話などを共同出版した。
(松岡享子)(「くまのパディントン」)
美術史家、評論家、武蔵野美大名誉学長の水尾比呂志が3日死去、91歳。柳宗悦に師事して民藝を学び、多くの研究書がある。「評伝柳宗悦」も書いた。日本の古典美術を研究し「わび」「琳派」などの著書もある。しかし、単なる研究者ではなく、若い頃から詩人としても活躍し、ラジオやテレビのシナリオも書いている。総合的な表現者だったというべきだろう。
(水尾比呂志)
作家、翻訳家の中田耕治が11月26日に死去していたことが2月になった公表された。94歳。評論や演劇の演出でも活躍したとウィキペディアに出ていたが、やはり翻訳と小説が大きな仕事だろう。特に50年代からたくさん手掛けたアメリカのミステリーやSFの翻訳は後の世代にも大きな影響を与えていると思う。スピレイン「裁くのは俺だ」、レヴィン「死の接吻」、ベスター「虎よ、虎よ」などである。ハードボイルドなどは実作も多く書いたし、60年代初期の忍者ブームでは忍者小説も書いた。(「異聞猿飛佐助」は篠田正浩監督によって映画化された。)しかし、僕が思うに最高の仕事は1975年刊の評伝「ルクレツィア・ボルジア」ではないか。「メディチ家の人々」「メディチ家の没落」とイタリア・ルネサンス三部作となった。当時はずいぶん評判になったし、僕も読んだ記憶があるが、いつのまにか忘れられてしまった。翻訳では後進育成にも尽力したという。
(中田耕治)
韓国の宗教哲学者で元東京女子大教授の池明観(チ・ミョングァン)が1月1日に死去、97歳。72年に朴正熙政権の弾圧を逃れて日本へ渡り、東京女子大で教授として勤めた。70年代半ばには立教大学に非常勤講師で来ていて、僕はその時代から名前を知っていた。時間が合わずに受講はしていないが、まさかその池明観氏が「T・K生」だったとは本当に驚いた。この名前で岩波書店の月刊誌「世界」に73年から88年まで「韓国からの通信」を連載したのである。僕はある時期、この通信を読むためだけに「世界」を買っていた。日本でも韓国民主化運動、政治犯救援運動への連帯の動きが強かった時代である。僕はある種「むさぼるように」読んだのだが、80年に初めて韓国へ行き、83年に就職すると、次第にキリスト教会を中心とした弾圧情報に偏している気もしてきた。93年に韓国へ帰国し、翰林大学教授。金大中政権では対日政策のブレーンとなった。それが「日本文化開放」につながった。市民の連帯を信頼した大切な人だった。
(池明観)(「韓国からの通信」)
スペインの建築家、リカルド・ボフィルが14日に死去、83歳。バルセロナに生まれ、フランコ独裁に抵抗してジュネーブで建築を学んだ。63年にバルセロナに戻り、世界各地で活躍した。バルセロナの国立カタルーニャ劇場、マドリッド市議会などの他、日本でも銀座資生堂ビル、ラゾーナ川崎プラザなどを手掛けている。
(リカルド・ボフィル)(銀座資生堂ビル)
ザ・ベンチャーズの結成メンバーだったドン・ウィルソンが22日に死去、88歳。1959年にドン・ウィルソンとボブ・ボーグルによって結成された。二人ともギタリストだったが、後ベースとドラムを加え、60年の「ウォーク・ドント・ラン」がヒットした。他に「パイプライン」「ダイヤモンド・ヘッズ」など。1965年に2回目の来日時から人気が出て、大エレキギター・ブームを起こし、日本のポピュラー音楽に大きな影響を与えた。インストゥルメンタル音楽だったため言語の壁がなく、アメリカよりも日本では長く人気を保った。毎年のように来日し叙勲もされた。米国でも「ロックの殿堂」入りを果たしている。
(ドン・ウィルソン)
フランスの俳優ギャスパー・ウリエル(Gaspard Ulliel)がスキー場の衝突事故で死亡した。19日死去、37歳。「ロング・エンゲージメント」(2004)でセザール賞有望若手男優賞を受けた。その後、「ハンニバル・ライジング」の若き日のハンニバル・レクター役に抜てきされ、またシャネルのイメージモデルにも採用された。「サンローラン」(2014)のタイトルロールを演じて評価され、2016年のグザヴィエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」でセザール賞主演男優賞を獲得した。
(ギャスパー・ウリエル)
・竹内一夫、12月8日死去、98歳。脳外科医、杏林大学名誉学長。85年に厚生省研究班で「脳死判定基準」(竹内基準)をまとめた。
・川田孝子、12月31日死去、85歳。元童謡歌手。姉の川田正子とともに活躍し、紅白に2度出場。59年に結婚で引退した。「見てござる」など。
・泉眞也、2日死去、91歳。博覧会プロデューサー。大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学万博、愛知万博などに関わった。
・比屋根吉信、4日死去、70歳。元興南高校野球部監督として80年代に6回甲子園に出場。09~12年に京大野球部監督を務めた。
・田中慶秋(けいしゅう)、4日死去、83歳。民社党、新進党を経て、元民主党副代表、野田内閣で法相。暴力団との関わりなどを指摘され3週間で辞任。
・梅沢武生、16日死去、82歳。大衆演劇を父から受け継ぎ、「梅沢武生劇団」座長を1963年から2012年まで務めた。弟の梅沢富美男が「下町の玉三郎」と呼ばれて人気を博した。
・西太一郎、19日死去、89歳。三和酒類元会長。大分県宇佐に生まれ、家業を継いで麦焼酎「いいちこ」でブームを起こした。
・杵屋浄貢(きねや・じょうぐ)、19日死去、84歳。長唄三味線で人間国宝。56年に7代目杵屋巳太郎を継ぎ、2012年に8代目に譲って浄貢を称した。
・宮崎蕗冬(ふき)、20日死去、96歳。華道家、歌人。柳原白蓮、宮崎龍介の長女に生まれ、子育て終了後に華道を始めて山村御流名誉華務職を務めた。また母が主催した短歌結社「ことだま」を主宰した。兄が学徒出陣で戦死し、また祖父宮崎滔天の活動を受け継ぐ意味もあり、日中友好、反戦活動に力を尽くした。母白蓮を伝える著作を数冊書いている。
・坂本孝、26日死去、81歳。「ブックオフ」創業者。不正会計問題で07年に辞任。その後「俺のフレンチ・俺のイタリアン」を創業した。
・ミートローフ、20日死去、74歳。アメリカのロック歌手・俳優。77年のアルバム「地獄のロック・ライダー」が大ヒット。93年の「愛にすべてを捧ぐ」でグラミー賞を受けた。俳優としても活躍、「ロッキー・ホラー・ショー」や「ファイトクラブ」に出演。
・ティエリー・ミュグレー、23日死去、73歳。フランスの世界的ファッションデザイナー。74年に自身の名を冠したブランドを創設、80年代のファッション界を席巻した。香水でも成功した。デヴィッド・ボウイやビヨンセの衣装をデザインした。
(首相当時)
弱体総理の割に印象にあるのは、戦後史最大の転換点にぶつかったからだ。89年の冷戦終結から91年の湾岸戦争の時期に首相だった。「自衛隊の貢献」を求められ、国論も大きく揺れた。その間、小沢一郎幹事長の権力が強く、党内基盤がないため再選が難しくなって退陣した。しかし、その後思わぬ波乱の晩年を送った。94年に自民党が社会党村山委員長を担いで政権復帰したとき、小沢一郎らに擁立されて離党して対立候補となったのである。負けた後には、新進党党首に就任した。小選挙区制移行後は、愛知9区から、96年新進党、00年保守党、03年保守新党、復党して05年自民党と毎回違う党から当選し、09年の政権交代選挙で敗北して引退した。当選回数16回、約49年間の議員生活だった。90年だか91年だかの夏に、いとこの天文学者海部宣男が所長をしていた野辺山天文台を訪れ、その後草津に泊まった年がある。その年に僕も草津を訪れていて、昨日首相が来ていたと話題になっていた。
(晩年の海部俊樹)
漫画家の水島新司が10日死去、82歳。野球漫画で知られ、「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」などで知られた。現実の球団、選手が登場したり、少女投手の水原勇気(「野球狂の詩」)の活躍など、時代に先駆けた描写が多い。しかし、メジャー挑戦や五輪などはほとんど描かれていないという。あくまでも日本のプロ野球を愛していた時代の人なんだろう。新潟市出身で、中学の隣にあった新潟明訓高校に行きたかったが経済的事情で断念。中卒で働きながら貸本漫画家になった世代である。最初のヒットが70年から連載開始の「男どアホウ甲子園」。高校野球とプロ野球を愛し描いた漫画家だった。
(水島新司)(「ドカベン」)
長崎県立国見高校のサッカー部を率いて、全国高校選手権で6回の優勝を果たした小嶺忠敏が7日死去、76歳。1968年に母校の島原商業高校に就任し、インターハイで1回優勝。84年に国見高校へ転勤し、97年から教頭、00年から定年の05年まで校長を務めた。教育公務員にあって、長崎に多い離島に一度も赴任することなく、同じ学校で教頭、校長をずっと務めるのは極めて異例だろう。サッカー部強化を求める県外私立への流出を恐れた特別措置だという。J1最多得点の大久保嘉人は教え子だった。記事で知ったが、自らバスを運転して他校との練習試合に連れて行ったという。東京都なら処分される事案だろう。地方では事情が違うと思うが、いろいろと許された時代だったんだろう。2007年参院選に自民公認で立候補して敗れた。
(小嶺忠敏)
児童文学者、翻訳家の松岡享子が25日に死去、86歳。図書館学を学び、アメリカに留学して児童図書館学を専攻した。日米で図書館に勤務したあと、1974年に石井桃子らと東京子ども図書館を開設し、40年以上理事長を務めた。この間、マイケル・ボンド「くまのバディントン」シリーズ、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズなど数多くの翻訳を刊行した。同時に、アジアの子どもたちに共通の読み物を作ろうというユネスコのアジア共同出版計画に関わり、アジア各国の昔話などを共同出版した。
(松岡享子)(「くまのパディントン」)
美術史家、評論家、武蔵野美大名誉学長の水尾比呂志が3日死去、91歳。柳宗悦に師事して民藝を学び、多くの研究書がある。「評伝柳宗悦」も書いた。日本の古典美術を研究し「わび」「琳派」などの著書もある。しかし、単なる研究者ではなく、若い頃から詩人としても活躍し、ラジオやテレビのシナリオも書いている。総合的な表現者だったというべきだろう。
(水尾比呂志)
作家、翻訳家の中田耕治が11月26日に死去していたことが2月になった公表された。94歳。評論や演劇の演出でも活躍したとウィキペディアに出ていたが、やはり翻訳と小説が大きな仕事だろう。特に50年代からたくさん手掛けたアメリカのミステリーやSFの翻訳は後の世代にも大きな影響を与えていると思う。スピレイン「裁くのは俺だ」、レヴィン「死の接吻」、ベスター「虎よ、虎よ」などである。ハードボイルドなどは実作も多く書いたし、60年代初期の忍者ブームでは忍者小説も書いた。(「異聞猿飛佐助」は篠田正浩監督によって映画化された。)しかし、僕が思うに最高の仕事は1975年刊の評伝「ルクレツィア・ボルジア」ではないか。「メディチ家の人々」「メディチ家の没落」とイタリア・ルネサンス三部作となった。当時はずいぶん評判になったし、僕も読んだ記憶があるが、いつのまにか忘れられてしまった。翻訳では後進育成にも尽力したという。
(中田耕治)
韓国の宗教哲学者で元東京女子大教授の池明観(チ・ミョングァン)が1月1日に死去、97歳。72年に朴正熙政権の弾圧を逃れて日本へ渡り、東京女子大で教授として勤めた。70年代半ばには立教大学に非常勤講師で来ていて、僕はその時代から名前を知っていた。時間が合わずに受講はしていないが、まさかその池明観氏が「T・K生」だったとは本当に驚いた。この名前で岩波書店の月刊誌「世界」に73年から88年まで「韓国からの通信」を連載したのである。僕はある時期、この通信を読むためだけに「世界」を買っていた。日本でも韓国民主化運動、政治犯救援運動への連帯の動きが強かった時代である。僕はある種「むさぼるように」読んだのだが、80年に初めて韓国へ行き、83年に就職すると、次第にキリスト教会を中心とした弾圧情報に偏している気もしてきた。93年に韓国へ帰国し、翰林大学教授。金大中政権では対日政策のブレーンとなった。それが「日本文化開放」につながった。市民の連帯を信頼した大切な人だった。
(池明観)(「韓国からの通信」)
スペインの建築家、リカルド・ボフィルが14日に死去、83歳。バルセロナに生まれ、フランコ独裁に抵抗してジュネーブで建築を学んだ。63年にバルセロナに戻り、世界各地で活躍した。バルセロナの国立カタルーニャ劇場、マドリッド市議会などの他、日本でも銀座資生堂ビル、ラゾーナ川崎プラザなどを手掛けている。
(リカルド・ボフィル)(銀座資生堂ビル)
ザ・ベンチャーズの結成メンバーだったドン・ウィルソンが22日に死去、88歳。1959年にドン・ウィルソンとボブ・ボーグルによって結成された。二人ともギタリストだったが、後ベースとドラムを加え、60年の「ウォーク・ドント・ラン」がヒットした。他に「パイプライン」「ダイヤモンド・ヘッズ」など。1965年に2回目の来日時から人気が出て、大エレキギター・ブームを起こし、日本のポピュラー音楽に大きな影響を与えた。インストゥルメンタル音楽だったため言語の壁がなく、アメリカよりも日本では長く人気を保った。毎年のように来日し叙勲もされた。米国でも「ロックの殿堂」入りを果たしている。
(ドン・ウィルソン)
フランスの俳優ギャスパー・ウリエル(Gaspard Ulliel)がスキー場の衝突事故で死亡した。19日死去、37歳。「ロング・エンゲージメント」(2004)でセザール賞有望若手男優賞を受けた。その後、「ハンニバル・ライジング」の若き日のハンニバル・レクター役に抜てきされ、またシャネルのイメージモデルにも採用された。「サンローラン」(2014)のタイトルロールを演じて評価され、2016年のグザヴィエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」でセザール賞主演男優賞を獲得した。
(ギャスパー・ウリエル)
・竹内一夫、12月8日死去、98歳。脳外科医、杏林大学名誉学長。85年に厚生省研究班で「脳死判定基準」(竹内基準)をまとめた。
・川田孝子、12月31日死去、85歳。元童謡歌手。姉の川田正子とともに活躍し、紅白に2度出場。59年に結婚で引退した。「見てござる」など。
・泉眞也、2日死去、91歳。博覧会プロデューサー。大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学万博、愛知万博などに関わった。
・比屋根吉信、4日死去、70歳。元興南高校野球部監督として80年代に6回甲子園に出場。09~12年に京大野球部監督を務めた。
・田中慶秋(けいしゅう)、4日死去、83歳。民社党、新進党を経て、元民主党副代表、野田内閣で法相。暴力団との関わりなどを指摘され3週間で辞任。
・梅沢武生、16日死去、82歳。大衆演劇を父から受け継ぎ、「梅沢武生劇団」座長を1963年から2012年まで務めた。弟の梅沢富美男が「下町の玉三郎」と呼ばれて人気を博した。
・西太一郎、19日死去、89歳。三和酒類元会長。大分県宇佐に生まれ、家業を継いで麦焼酎「いいちこ」でブームを起こした。
・杵屋浄貢(きねや・じょうぐ)、19日死去、84歳。長唄三味線で人間国宝。56年に7代目杵屋巳太郎を継ぎ、2012年に8代目に譲って浄貢を称した。
・宮崎蕗冬(ふき)、20日死去、96歳。華道家、歌人。柳原白蓮、宮崎龍介の長女に生まれ、子育て終了後に華道を始めて山村御流名誉華務職を務めた。また母が主催した短歌結社「ことだま」を主宰した。兄が学徒出陣で戦死し、また祖父宮崎滔天の活動を受け継ぐ意味もあり、日中友好、反戦活動に力を尽くした。母白蓮を伝える著作を数冊書いている。
・坂本孝、26日死去、81歳。「ブックオフ」創業者。不正会計問題で07年に辞任。その後「俺のフレンチ・俺のイタリアン」を創業した。
・ミートローフ、20日死去、74歳。アメリカのロック歌手・俳優。77年のアルバム「地獄のロック・ライダー」が大ヒット。93年の「愛にすべてを捧ぐ」でグラミー賞を受けた。俳優としても活躍、「ロッキー・ホラー・ショー」や「ファイトクラブ」に出演。
・ティエリー・ミュグレー、23日死去、73歳。フランスの世界的ファッションデザイナー。74年に自身の名を冠したブランドを創設、80年代のファッション界を席巻した。香水でも成功した。デヴィッド・ボウイやビヨンセの衣装をデザインした。