18日は新宿末廣亭で落語を聞いて終了が20時38分頃。そこから急いで帰ったのは、カーリング女子準決勝を見るためである。終わったのは12時近く、それから風呂に入って、未だにダラダラ読んでる「ドン・キホーテ続編」を少し読んで(活字を少しでも読まないと寝られない)、寝たのは1時近かった。だから、19日は疲れていたわけだが、それでも土曜にしては早く食べて(土曜は自分でスパゲッティを作る)、早出してシネマヴェーラ渋谷に向かった。この日渡辺美佐子のトークがあるのである。2月5日にもあったが、その日は夕方だったので敬遠した。(7日夜が「ラ・マンチャの男」だから体力温存。)今度も疲れていて、5種目目に挑む高木美帆みたいな気持ちだったが、頑張ったらやはり金メダル級のトークを聞けたから大満足。
(井上淳一監督と渡辺美佐子)
この日は「真田風雲録」の上映があって、その後に井上淳一監督の司会でトークが始まった。井上淳一は2019年に「誰がために憲法はある」で渡辺美佐子と仕事をした監督である。(上記画像はシネマヴェーラのツイッターから))トークの中で紹介されたが、20日発売のキネマ旬報3月上旬号(表紙が「ウエスト・サイド・ストーリー」になっている)で、渡辺美佐子の長いインタビューが掲載されている。それを聞いて、帰りに早速東急百貨店本店の7階にある本屋に買いに行った。そのインタビューも貴重な話が満載である。(聞き手は濱田研吾氏。)なお、加藤泰監督の「真田風雲録」(1963)に関しては、2016年に「映画「真田風雲録」と加藤泰監督の映画」を書いた。原作の福田善之の戯曲と林光のテーマソングに深い思い出がある映画だ。
渡辺美佐子といっても主演スターじゃないから、判らない人もいるだろう。活動の主体は舞台だったが、昔の新劇俳優の常として全盛期の映画に出ないと公演が続けられない。俳優座養成所第3期生で、卒業後に小沢昭一らの劇団新人会に入団した。今回シネマヴェーラ渋谷の特集「役を生きる 女優・渡辺美佐子」で21本の映画が上映されている。そのうち18本が日活作品になっているが、小沢昭一とともに日活と一年間5本の契約を結んだからだ。(「真田風雲録」を含めて3本は東映作品。)主演は一本もないが、見れば忘れられない重要な脇役が多い。(特に今村昌平監督「果しなき欲望」ではブルーリボン賞助演女優賞を受けた。)
(シネマヴェーラ渋谷のチラシ)
舞台では井上ひさしの一人芝居「化粧」で知られるが、もう一つ朗読劇「この子たちの夏」など戦争を語り伝える活動を続けたことも忘れられない。今回のトークでも反戦平和の思いを語っていたが、その原点は養成所時代に出た今井正監督「ひめゆりの塔」にあった。養成所にスカウトに来た今井監督が数人を選んで出演することになった。しかし、ラッシュフィルムの試写を見たら何か違うと感じて泣いてしまった。今井監督は「何が違うかよく考えてみなさい。一週間後に撮り直すから。」と言ったという。そこで振り返ってみたら、自分はポチャッとしているけど、当時のひめゆり学徒がそんな姿のはずがない。そこで一週間絶食して、あるいは醤油を薄めて飲んだりもしてみて一週間後に撮り直した。自分じゃ何も変わってないと思ったが、監督には「眼がギラギラしていた」と言われた。女優は体が資本なんだと思い知ったという。
渡辺美佐子は1932年生まれで、もう89歳である。それなのに何と元気で生き生きと昔のことを語るのだろう。もう驚くしかない。僕がちょっと驚いたのは、俳優座養成所では演技指導が僅かしかなかったということである。一週間に2時間だけ。後は座学でシェークスピアなどを学ぶ。「教養主義」みたいなものが生きていた時代なんだろう。ところが映画に出るときは劇団出身ということで、監督は演技指導などほとんどしてくれない。午前中に女学生、午後に芸者みたいに掛け持ちで映画撮影に臨んでいた時代である。困った渡辺美佐子は衣装係や小道具係に相談に行ったんだそうだ。普段着たことがない着物の着方、お猪口の上手な持ち方など熱心に指導して貰って演技を覚えたという。だから「映画育ち」なんだという。
当日上演の「真田風雲録」は、舞台版から「お霧(霧隠才蔵)」の役が渡辺美佐子の当たり役だった。評判を呼んであちこちで上演されたが、京都公演に中村錦之助・有馬稲子夫妻が見に来た。その辺りから、東映で映画化の話が出て来たわけだが、結構すったもんだあったようだ。(ウィキペディアの「真田風雲録」に出ている。)錦之助が出ることで、猿飛佐助が主演のスター映画になった。それは仕方ないと思うが、もともとこの原作戯曲は「60年安保闘争の総括」である。何よりも「統一と団結」を最優先にする大坂城「実権派」を「既成左翼」とみなすわけである。突撃する真田隊を批判する人々は「統一を乱すものは敵を利する。敵を利するものは、すでに敵である」と言う。こういう物言いは当時の左翼活動家の常套句だった。
(映画「真田風雲録」)
ところで渡辺美佐子の衣装は網タイツ姿になっている。これは舞台版演出を担当した千田是也のアイディアだそうで、そこから「くノ一」(女忍者)の衣装と言えば網タイツになったんだという。知られざる秘話だろう。撮影では馬が荒れて大変だったという。そもそも乱戦という設定だから、馬も驚いてしまうのだという。ホントは落馬しないはずが、馬が鳴り物に驚いてしまって渡辺美佐子も落馬してしまった。監督はカメラマンを呼んで、ここ撮ってと指示して、終了してから病院へ運べとなったという。網タイツが皮膚に食い込んでしばらく痕が残ったそうである。
草創期のテレビの話も興味深かった。石井ふく子、橋田壽賀子らと視聴率を気にせずドラマを作ってた時代を生き生きと語った。この時代のテレビ放送はビデオが残っていない。渡辺美佐子はTBSのプロデューサーだった大山勝美と結婚したので、テレビ界の知られざる話ももっとあるに違いない。司会の井上淳一監督の「誰がために憲法はある」という映画で、渡辺美佐子は「憲法くん」という役を演じた。そして「地人会」「夏の会」を通して「この子たちの夏」朗読を続けた。さすがに2019年で終わりになったが、若い人に替わって続けられている。この日3回目の接種を受けてきたといいながら、元気で昔の思い出を語り続ける。そんな渡辺美佐子のトークを聞けたのは、大きな宝物だなあと思って聞いていた。
(井上淳一監督と渡辺美佐子)
この日は「真田風雲録」の上映があって、その後に井上淳一監督の司会でトークが始まった。井上淳一は2019年に「誰がために憲法はある」で渡辺美佐子と仕事をした監督である。(上記画像はシネマヴェーラのツイッターから))トークの中で紹介されたが、20日発売のキネマ旬報3月上旬号(表紙が「ウエスト・サイド・ストーリー」になっている)で、渡辺美佐子の長いインタビューが掲載されている。それを聞いて、帰りに早速東急百貨店本店の7階にある本屋に買いに行った。そのインタビューも貴重な話が満載である。(聞き手は濱田研吾氏。)なお、加藤泰監督の「真田風雲録」(1963)に関しては、2016年に「映画「真田風雲録」と加藤泰監督の映画」を書いた。原作の福田善之の戯曲と林光のテーマソングに深い思い出がある映画だ。
渡辺美佐子といっても主演スターじゃないから、判らない人もいるだろう。活動の主体は舞台だったが、昔の新劇俳優の常として全盛期の映画に出ないと公演が続けられない。俳優座養成所第3期生で、卒業後に小沢昭一らの劇団新人会に入団した。今回シネマヴェーラ渋谷の特集「役を生きる 女優・渡辺美佐子」で21本の映画が上映されている。そのうち18本が日活作品になっているが、小沢昭一とともに日活と一年間5本の契約を結んだからだ。(「真田風雲録」を含めて3本は東映作品。)主演は一本もないが、見れば忘れられない重要な脇役が多い。(特に今村昌平監督「果しなき欲望」ではブルーリボン賞助演女優賞を受けた。)
(シネマヴェーラ渋谷のチラシ)
舞台では井上ひさしの一人芝居「化粧」で知られるが、もう一つ朗読劇「この子たちの夏」など戦争を語り伝える活動を続けたことも忘れられない。今回のトークでも反戦平和の思いを語っていたが、その原点は養成所時代に出た今井正監督「ひめゆりの塔」にあった。養成所にスカウトに来た今井監督が数人を選んで出演することになった。しかし、ラッシュフィルムの試写を見たら何か違うと感じて泣いてしまった。今井監督は「何が違うかよく考えてみなさい。一週間後に撮り直すから。」と言ったという。そこで振り返ってみたら、自分はポチャッとしているけど、当時のひめゆり学徒がそんな姿のはずがない。そこで一週間絶食して、あるいは醤油を薄めて飲んだりもしてみて一週間後に撮り直した。自分じゃ何も変わってないと思ったが、監督には「眼がギラギラしていた」と言われた。女優は体が資本なんだと思い知ったという。
渡辺美佐子は1932年生まれで、もう89歳である。それなのに何と元気で生き生きと昔のことを語るのだろう。もう驚くしかない。僕がちょっと驚いたのは、俳優座養成所では演技指導が僅かしかなかったということである。一週間に2時間だけ。後は座学でシェークスピアなどを学ぶ。「教養主義」みたいなものが生きていた時代なんだろう。ところが映画に出るときは劇団出身ということで、監督は演技指導などほとんどしてくれない。午前中に女学生、午後に芸者みたいに掛け持ちで映画撮影に臨んでいた時代である。困った渡辺美佐子は衣装係や小道具係に相談に行ったんだそうだ。普段着たことがない着物の着方、お猪口の上手な持ち方など熱心に指導して貰って演技を覚えたという。だから「映画育ち」なんだという。
当日上演の「真田風雲録」は、舞台版から「お霧(霧隠才蔵)」の役が渡辺美佐子の当たり役だった。評判を呼んであちこちで上演されたが、京都公演に中村錦之助・有馬稲子夫妻が見に来た。その辺りから、東映で映画化の話が出て来たわけだが、結構すったもんだあったようだ。(ウィキペディアの「真田風雲録」に出ている。)錦之助が出ることで、猿飛佐助が主演のスター映画になった。それは仕方ないと思うが、もともとこの原作戯曲は「60年安保闘争の総括」である。何よりも「統一と団結」を最優先にする大坂城「実権派」を「既成左翼」とみなすわけである。突撃する真田隊を批判する人々は「統一を乱すものは敵を利する。敵を利するものは、すでに敵である」と言う。こういう物言いは当時の左翼活動家の常套句だった。
(映画「真田風雲録」)
ところで渡辺美佐子の衣装は網タイツ姿になっている。これは舞台版演出を担当した千田是也のアイディアだそうで、そこから「くノ一」(女忍者)の衣装と言えば網タイツになったんだという。知られざる秘話だろう。撮影では馬が荒れて大変だったという。そもそも乱戦という設定だから、馬も驚いてしまうのだという。ホントは落馬しないはずが、馬が鳴り物に驚いてしまって渡辺美佐子も落馬してしまった。監督はカメラマンを呼んで、ここ撮ってと指示して、終了してから病院へ運べとなったという。網タイツが皮膚に食い込んでしばらく痕が残ったそうである。
草創期のテレビの話も興味深かった。石井ふく子、橋田壽賀子らと視聴率を気にせずドラマを作ってた時代を生き生きと語った。この時代のテレビ放送はビデオが残っていない。渡辺美佐子はTBSのプロデューサーだった大山勝美と結婚したので、テレビ界の知られざる話ももっとあるに違いない。司会の井上淳一監督の「誰がために憲法はある」という映画で、渡辺美佐子は「憲法くん」という役を演じた。そして「地人会」「夏の会」を通して「この子たちの夏」朗読を続けた。さすがに2019年で終わりになったが、若い人に替わって続けられている。この日3回目の接種を受けてきたといいながら、元気で昔の思い出を語り続ける。そんな渡辺美佐子のトークを聞けたのは、大きな宝物だなあと思って聞いていた。