尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『どうして僕はこんなところに』ーブルース・チャトウィンを読む④

2022年07月04日 22時17分45秒 | 〃 (外国文学)
 まだブルース・チャトウィンを断続的に読んでいる。岩波ホール最後の映画になった『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』も面白かったけど、チャトウィンの本の方がもっと面白い。やっぱり『パタゴニア』が一番だと思うが、亡くなる直前にまとめられた短編集『どうして僕はこんなところに』(What Am I Doing Here?)も素晴らしい。1989年に出た本で、日本では池央耿・神保睦訳で1999年に角川書店から出た。2012年には文庫にもなったけど、全然知らなかった。今はどっちも古書しかないようで値段も高い。僕は地元の図書館で借りたが、400頁を越えて読後の充実感があった。

 短編集と言われているが、小説と言うより紀行、評伝、エッセイなど、彼が訪れた世界の秘境、あるいは世界的有名人などのスケッチを収録している。若い時期の論文風の文章もあるが、1988年に書かれたものが多い。89年の死を前にして、今まで心に残っていた場所や人物を書き留めたのである。ダラダラした文は一つもなく、透明で研ぎ澄まされた文章の切れ味が素晴らしいのである。アフリカでクーデタにぶつかって殺されかかった話は別に書くが、4章の「出会い」には6人の話が入っている。その一人が30年経ってチャトウィンの映画を作ったヴェルナー・ヘルツォークである。自作の映画化をガーナまで見に行ったのである。

 それより面白かったのは、ソ連の話。結局ソ連崩壊を見ないで死んだチャトウィンだが、ドイツ人団体客とヴォルガ川の船旅をしている。ドイツ人というのは、スターリングラードの生き残りとか、夫が戦死したなどのドイツ人が戦跡めぐりで参加しているのである。無論ソ連側の歴史史跡はファシズムへの勝利の栄光を称えるものばかりで、ドイツ人は居心地が悪いわけだが、それでも夫の死んだ場所を見たいという参加者がいるのだ。また、ヨーロッパ唯一の仏教徒であるカルムイク人にも出会っている。カルムイク共和国というのはカスピ海西北部にあって、ヴォルガ下流域にはよく商売に行くらしい。

 スターリン時代に迫害された作家ナジェージダ・マンデリシュターム(1899~1980)に会っているのも凄いなと思う。凄く印象的なんだけど、それより僕は建築家コンスタンチン・メーリニコフ(1890~1974)に会っているのに驚いた。死没年を考えると、20代前半に会いに行ったわけだ。20世紀初頭のロシア・アヴァンギャルド芸術の担い手の一人だが、よくもスターリン時代を生き延びたと思う。レーニン廟の棺をデザインしたり、1925年パリ万博のソ連館を設計するなど、ある時期までは当局との関係も悪くなかった。しかし、30年代後半に「形式主義」と批判され、以後細々と学校で教えながら、自分で設計した「自邸」に籠もって事実上の隠棲生活を送ったという。60年代後半に名誉回復されたが、その自邸を画像検索したら以下の素晴らしさ。
(メーリニコフ自邸)
 よく会ってるなと言えば、フランスの作家、政治家のアンドレ・マルロー(1901~1976)もいる。今ではほとんど読まれてないと思うが、ある時期までは世界文学全集には必ず入っていた。インドシナや中国での「冒険」を小説として発表し、スペイン内戦でも義勇軍に参加し長編小説「希望」を発表した。戦後はドゴール将軍に近く、特に1960年代はドゴール政権で文化相を務めた世界的有名人だった。ドゴールはいくつもの矛盾があるが、反英米的なところがあったから、よくチャトウィンが会いに行ったと思う。チャトウィンは詩的な紀行作家に思われているが、世界的文豪と文明論を戦わせる素養があったのである。
(アンドレ・マルロー)
 南米、アフリカ、中国、ソ連、豪州などを旅したが、チャトウィンはインドにも行っている。「狼少年」にも会いに行っているのは驚き。それよりインディラ・ガンディー(1917~1984)の選挙運動を密着取材しているのは、もっと驚き。暗殺されて40年近くなってしまって、もう印象を持っている人も少ないだろう。「建国の父」ネルーの娘として人気が高く、1966年に第3代首相となった。当時は女性首相は世界に少なく、非常に話題となった。1977年に選挙に敗北して下野して、1980年に復活する。その間の野党政治家時代に会っている。宗教対立が激しいインドで各地を演説して回る。1980年に事故死する次男サンジャイの子ども時代の話など、今となると痛ましい。インディラ・ガンディーの素顔を伝える貴重な歴史的文献だ。
(インディラ・ガンディー)
 ナスカの地上絵を一生かけて研究した女性マリア・ライヘとか、中国の風水師などにも会っている。武帝が天馬を求めた話は井上靖の本で日本人には知られるが、イギリスにも関心を持つ人がいた。中国雲南省に住み着いて植物を研究した人、フランスでテロを起こしたムスリムのサラ・ブグリン、ヒマラヤで雪男を求めたトレッキング、アフガニスタン哀歌という文は1980年に書かれている。ソ連のアフガン侵攻は79年だった。ドイツ人作家のエルンスト・ユンガーにも会いに行っている。こうしてみると、チャトウィンは意外にも社会的関心も強いことが判る。秘境を旅し、歴史のロマンに思いを馳せたというだけの人物ではない。やはり60年代、70年代の政治的激動期を生きていたのである。
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