8月3日から開会される臨時国会で、安倍晋三元首相の追悼演説が行われる予定だったが、まあ後述の問題が生じて秋の臨時国会に延期されるという。この問題をちょっと考えてみたい。その前に、何で臨時国会をもっと早く開いて、「国葬」とか「コロナ」とか内外の諸課題を審議しないのかという問題。今回の臨時国会は、7月10日に行われた参議院選挙を受けたものである。引退、落選した議員もいれば、新たに当選した新人議員もいる。だから新たな座席を決めて、議長・副議長を選び直す。しかし、参議院は解散がないので、落選議員も任期満了の7月25日までは議員である。だから、それまでに国会を開いても参議院の新人議員が出られない。26日から、名札を入れ替えるなど新議会の準備を始める。だから、8月まで開けないわけである。
さて、国会では同僚議員が現職で亡くなった場合、慣例で所属の院で追悼演説を行うことになっている。当然のこととして、議場に立って演説を行うのも同僚議員に限られる。安倍氏の場合、もう人選でもめるぐらいなら、森喜朗元首相、小泉純一郎元首相などはどうかという人もいるが、人選的にはベターかも知れないがすでに議員を引退しているから対象外となる。今回は「遺族の意向」で甘利明自民党前幹事長という名前が出て、与野党から反対論が噴出して先送りになったわけである。
追悼演説は多くの場合、他党の議員が行うことが多い。それは何故かといえば、単なる葬式の弔辞ではなく、国権の最高機関たる国会の意思として追悼の意を表わすために、「仲間褒め」に見られないようにするということだろう。憲政史上最も有名な追悼演説は、恐らく1960年の池田勇人首相による浅沼稲次郎社会党委員長に対する演説だろう。浅沼稲次郎は総選挙前に日比谷公会堂で行われた自民、社会、民社の三党党首演説会で、右翼少年によって暗殺された。その特別な事情もあって、池田首相は国会だけでなく、社会党葬でも弔辞を読んでいる。
(社会党葬で弔辞を述べる池田勇人)
その時の追悼演説はネット上で読むことができる。「池田勇人君の故議員淺沼稻次郎君に対する追悼演説」である。1960年10月18日に行われた演説は今も語り草になっている。原稿を書いたのは、池田のスピーチライターをしていた伊藤昌哉だった。西日本新聞記者から、宏池会職員になり、事実上池田の私設秘書をしていた。後に『自民党戦国史』というベストセラーを書いたことで知られている。「議場がシーンとしてしまうような追悼文」と池田から要望され、資料を集めて書き上げたのである。
「淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)」
「君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。」
沼は演説百姓よ
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)」
「君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手)君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)」
少し引用したが、これを読めば庶民的政治家として知られた浅沼の風貌が(時代的に直接知らない自分の世代であっても)蘇るような気がしてくる。この名演説は選挙に臨む池田首相の人気を大いに上げたと言われている。野党第一党の委員長を悼むに相応しいのは与党第一党の総裁である。議会政治においては、選挙によって政権が交代する可能性があるわけで、与野党と言っても絶対的なものではない。それに、例えば大会社の社長が亡くなったとして、単にその会社を発展させただけではなく、業界全体のために貢献した人だとする。その場合、社葬に止まらず、業界団体との合同葬にして、弔辞はライバル会社の社長に頼むものだろう。その方が一企業をもうけさせただけでは無い人に相応しいからだ。
国会の追悼演説もその党に尽くしただけではなく、国民のために貢献したという観点から、他党派の議員が行う慣例がある。現在の議員では、3回追悼演説を行った尾辻秀久参議院議員が知られている。山本孝史、西岡武夫、羽田雄一郎の3人の追悼演説を行っていて、中でも山本孝史議員への演説は名演説として有名だ。山本孝史は兄の交通事故死をきっかけに交通遺児育英会で働くようになり、その後日本新党から衆議院議員に当選した。新進党を経て、2001年から民主党参議院議員に当選した。在職中にガンを発病し、発病を明かして活動を続けて、2007年には比例区で当選した。しかし、2007年12月22日に亡くなったのである。
(尾辻秀久議員による山本孝史氏の追悼演説)
追悼演説は2008年1月23日に行われた。尾辻氏は厚労相としてがん対策基本法、自殺対策基本法制定を目指した山本氏と関わった人である。尾辻氏はがん対策基本法の早期成立を訴えた代表質問を引用し「すべての人の魂を揺さぶった。今、その光景を思い浮かべ、万感胸に迫るものがある。あなたは社会保障の良心だった」「自民党にとって最も手強い政策論争の相手だった」と追悼した。そして「先生、今日は外は雪です。寒くありませんか」と結び、涙ながらに演壇から呼びかけた。この演説も語り継がれている。
このように、国会の追悼演説は出来れば、他党派の議員によるべきものだろう。甘利明氏は2016年1月28日に辞職するまで、第1次、第2次、第3次安倍内閣でずっと閣僚を務めていた。だから「盟友」なんだろうが、要するに「部下」である。部下が上司を誉めたたえるのは当然であって、言葉に重みが出ない。しかも、甘利氏は大臣室で政治資金の報告をしていない現金を受け取った人物である。「週刊文春」にURへの口利き疑惑と報じられ、辞職を余儀なくされた。自らのスキャンダルで安倍内閣に泥を塗った人物が、よりによって追悼演説ですかと誰でも思う。それに「疑惑について調査し報告する」としながら、以後「睡眠障害」を理由に国会を欠席して、国会への報告を怠っている。この問題に触れるか、触れないか。どっちでもヤジが飛ぶ可能性を否定出来ないだろう。飛ばさないようにするには、事前に国会の政治倫理審査会などへの出席が必要だ。
では何故甘利氏の名が「遺族の意向」として伝えられたのだろうか。この遺族というのは、昭恵夫人のことだと思われるが、まあ幹事長を辞任した甘利氏に「同情」したのだろう。麻生氏には家族葬で弔辞を頼んだから、今度は甘利氏にということなのかなと思う。しかし、常識的に考えて、もっとも相応しいのは野田佳彦元首相である。菅直人元首相は、安倍氏のブログ記事をめぐって法廷闘争をしたから、確かに遺族が望まないかもしれない。しかし、野田氏も忌避したのは何故だろう。もしかして、首相官邸に住むべきだと直言した野田氏の国会質問が理由なのかも知れない。どうしても自民党からというなら、同じく首相を務めた麻生太郎、菅義偉両氏のどちらかとなる。
ただ、「首相経験者が凶弾に倒れた」というケースの追悼演説は、他党に頼むべきだろう。それが「憲政の常道」だ。ここで判ったことは、やはり安倍昭恵氏は「判っていない人」だったということではないか。かつて森友学園問題で、幼稚園児に教育勅語を暗唱させるという特異な教育法人に、首相夫人が関わったら大問題になると思わなかったのかが不思議だった。今度も追悼演説にスキャンダルで辞任した元大臣が出て来たら大問題だという、当然の常識が欠けている。まあ、野党がやったら「偉大な夫」が批判されかねないという自覚を持っているのかもしれないが。
*記事の最後で、「遺族の意向」を昭恵夫人の意向とする報道を受けて書いたけれど、30日になって事情は違うという報道もなされた。その記事によれば、「国葬」は岸田、家族葬は麻生、追悼演説は甘利と3人で決めてしまって、野党には「遺族の意向」をタテにして押し切るという方針だったという。しかし、甘利氏が「安倍派(後継の有力議員)にはカリスマがいない」という発言が安倍派の反発を買って、自民党内から甘利反対論が噴出したということらしい。それが本当なら、安倍昭恵夫人には関係がなかったことになる。ただし、まだ確かな事実関係は不明である。以上情報まで。(7.30追記)
さて、国会では同僚議員が現職で亡くなった場合、慣例で所属の院で追悼演説を行うことになっている。当然のこととして、議場に立って演説を行うのも同僚議員に限られる。安倍氏の場合、もう人選でもめるぐらいなら、森喜朗元首相、小泉純一郎元首相などはどうかという人もいるが、人選的にはベターかも知れないがすでに議員を引退しているから対象外となる。今回は「遺族の意向」で甘利明自民党前幹事長という名前が出て、与野党から反対論が噴出して先送りになったわけである。
追悼演説は多くの場合、他党の議員が行うことが多い。それは何故かといえば、単なる葬式の弔辞ではなく、国権の最高機関たる国会の意思として追悼の意を表わすために、「仲間褒め」に見られないようにするということだろう。憲政史上最も有名な追悼演説は、恐らく1960年の池田勇人首相による浅沼稲次郎社会党委員長に対する演説だろう。浅沼稲次郎は総選挙前に日比谷公会堂で行われた自民、社会、民社の三党党首演説会で、右翼少年によって暗殺された。その特別な事情もあって、池田首相は国会だけでなく、社会党葬でも弔辞を読んでいる。
(社会党葬で弔辞を述べる池田勇人)
その時の追悼演説はネット上で読むことができる。「池田勇人君の故議員淺沼稻次郎君に対する追悼演説」である。1960年10月18日に行われた演説は今も語り草になっている。原稿を書いたのは、池田のスピーチライターをしていた伊藤昌哉だった。西日本新聞記者から、宏池会職員になり、事実上池田の私設秘書をしていた。後に『自民党戦国史』というベストセラーを書いたことで知られている。「議場がシーンとしてしまうような追悼文」と池田から要望され、資料を集めて書き上げたのである。
「淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)」
「君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。」
沼は演説百姓よ
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)」
「君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手)君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)」
少し引用したが、これを読めば庶民的政治家として知られた浅沼の風貌が(時代的に直接知らない自分の世代であっても)蘇るような気がしてくる。この名演説は選挙に臨む池田首相の人気を大いに上げたと言われている。野党第一党の委員長を悼むに相応しいのは与党第一党の総裁である。議会政治においては、選挙によって政権が交代する可能性があるわけで、与野党と言っても絶対的なものではない。それに、例えば大会社の社長が亡くなったとして、単にその会社を発展させただけではなく、業界全体のために貢献した人だとする。その場合、社葬に止まらず、業界団体との合同葬にして、弔辞はライバル会社の社長に頼むものだろう。その方が一企業をもうけさせただけでは無い人に相応しいからだ。
国会の追悼演説もその党に尽くしただけではなく、国民のために貢献したという観点から、他党派の議員が行う慣例がある。現在の議員では、3回追悼演説を行った尾辻秀久参議院議員が知られている。山本孝史、西岡武夫、羽田雄一郎の3人の追悼演説を行っていて、中でも山本孝史議員への演説は名演説として有名だ。山本孝史は兄の交通事故死をきっかけに交通遺児育英会で働くようになり、その後日本新党から衆議院議員に当選した。新進党を経て、2001年から民主党参議院議員に当選した。在職中にガンを発病し、発病を明かして活動を続けて、2007年には比例区で当選した。しかし、2007年12月22日に亡くなったのである。
(尾辻秀久議員による山本孝史氏の追悼演説)
追悼演説は2008年1月23日に行われた。尾辻氏は厚労相としてがん対策基本法、自殺対策基本法制定を目指した山本氏と関わった人である。尾辻氏はがん対策基本法の早期成立を訴えた代表質問を引用し「すべての人の魂を揺さぶった。今、その光景を思い浮かべ、万感胸に迫るものがある。あなたは社会保障の良心だった」「自民党にとって最も手強い政策論争の相手だった」と追悼した。そして「先生、今日は外は雪です。寒くありませんか」と結び、涙ながらに演壇から呼びかけた。この演説も語り継がれている。
このように、国会の追悼演説は出来れば、他党派の議員によるべきものだろう。甘利明氏は2016年1月28日に辞職するまで、第1次、第2次、第3次安倍内閣でずっと閣僚を務めていた。だから「盟友」なんだろうが、要するに「部下」である。部下が上司を誉めたたえるのは当然であって、言葉に重みが出ない。しかも、甘利氏は大臣室で政治資金の報告をしていない現金を受け取った人物である。「週刊文春」にURへの口利き疑惑と報じられ、辞職を余儀なくされた。自らのスキャンダルで安倍内閣に泥を塗った人物が、よりによって追悼演説ですかと誰でも思う。それに「疑惑について調査し報告する」としながら、以後「睡眠障害」を理由に国会を欠席して、国会への報告を怠っている。この問題に触れるか、触れないか。どっちでもヤジが飛ぶ可能性を否定出来ないだろう。飛ばさないようにするには、事前に国会の政治倫理審査会などへの出席が必要だ。
では何故甘利氏の名が「遺族の意向」として伝えられたのだろうか。この遺族というのは、昭恵夫人のことだと思われるが、まあ幹事長を辞任した甘利氏に「同情」したのだろう。麻生氏には家族葬で弔辞を頼んだから、今度は甘利氏にということなのかなと思う。しかし、常識的に考えて、もっとも相応しいのは野田佳彦元首相である。菅直人元首相は、安倍氏のブログ記事をめぐって法廷闘争をしたから、確かに遺族が望まないかもしれない。しかし、野田氏も忌避したのは何故だろう。もしかして、首相官邸に住むべきだと直言した野田氏の国会質問が理由なのかも知れない。どうしても自民党からというなら、同じく首相を務めた麻生太郎、菅義偉両氏のどちらかとなる。
ただ、「首相経験者が凶弾に倒れた」というケースの追悼演説は、他党に頼むべきだろう。それが「憲政の常道」だ。ここで判ったことは、やはり安倍昭恵氏は「判っていない人」だったということではないか。かつて森友学園問題で、幼稚園児に教育勅語を暗唱させるという特異な教育法人に、首相夫人が関わったら大問題になると思わなかったのかが不思議だった。今度も追悼演説にスキャンダルで辞任した元大臣が出て来たら大問題だという、当然の常識が欠けている。まあ、野党がやったら「偉大な夫」が批判されかねないという自覚を持っているのかもしれないが。
*記事の最後で、「遺族の意向」を昭恵夫人の意向とする報道を受けて書いたけれど、30日になって事情は違うという報道もなされた。その記事によれば、「国葬」は岸田、家族葬は麻生、追悼演説は甘利と3人で決めてしまって、野党には「遺族の意向」をタテにして押し切るという方針だったという。しかし、甘利氏が「安倍派(後継の有力議員)にはカリスマがいない」という発言が安倍派の反発を買って、自民党内から甘利反対論が噴出したということらしい。それが本当なら、安倍昭恵夫人には関係がなかったことになる。ただし、まだ確かな事実関係は不明である。以上情報まで。(7.30追記)