安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件から一週間近く経った。被疑者に関する情報も相当報道されている。また岸田内閣は秋にも「国葬」を行うという方針を示している。それらも考えなくてはいけないが、取りあえず次回以後に回して、まず「この事件の本質をどのように考えるべきか」に絞って書くことにしたい。
(事件を報じる号外)
まず「事件の名前」だが、当日に書いた記事では「衝撃の安倍晋三元首相暗殺事件ー日本でも起こった銃によるテロ」と書いた。その時点では謎の組織があるのか、政治的・思想的な理由による犯行だったのか、まだ何も判らなかった。とにかく政治家に対する事件ということで「銃によるテロ」と書いた。「テロ」とは「テロリズム」(恐怖主義)のことだが、今回も恐怖を感じた人は多かっただろうが、それが目的ではなかったとされている。個人的な「恨み」を一方的に募らせて外部に転嫁する「拡大自殺」のような事件、「京都アニメーション放火事件」「大阪北新地ビル放火事件」などに近い印象がある。そこで前回書いた「テロ」という表現は今後は使わないことにしたい。
一方で、マスコミでは「銃撃事件」などと表記していることが多い。しかし、これは「金丸信自民党副総裁銃撃事件」(1992年)や「本島等長崎市長銃撃事件」(1990)などにふさわしい用語だ。今回はケネディ大統領やインディラ・ガンディー首相などと同様の事件なのだから、「暗殺事件」で良いのではないか。「暗殺」は政治的背景がある場合だけに使う言葉ではない。「暗殺」ではおどろおどろしいイメージなのか、また「暗」の字を避けたいのか。「暗」は「暗い」から発して、見えないから「秘かに」「そらで覚える」の意味が生じた。「暗記」「暗譜」は後者、「暗殺」「暗号」などが前者である。「秘か」じゃなく「公然」の事件だが、それを言ったら世界から暗殺事件が無くなる。犯行じゃなく、「計画」「準備」が秘かということになる。
(「政治信条の恨みではない」と報じるテレビ)
この事件に限らず、「殺人事件」を考える際は、「人を殺してはいけない」がすべてに優先する「絶対的原則」になる。もちろん「正当防衛」は別である。動機にいかに同情すべき事情があった場合でも、それは裁判などで「情状酌量をするべきか」を判断する時の問題だ。もちろん境界線上のケースは存在する。「尊厳死」「安楽死」をどう考えるか、「自殺」は許されるのか、「傷害致死」「過失致死」は殺人と同様かなど、判断に迷うケースはありうる。しかし、基本的には「殺人不可」が現代世界のルールだ。それは何故かと問うてはいけない。戦国時代は殺しあっていたのに、いつから殺人は禁止なのかと問うのも無意味。
従って、論理必然的に「死刑制度は廃止するべきだ」という結論になる。死刑廃止論に立たない人は、本当の意味で「安倍事件」を否定することが出来ないと思う。安倍氏を殺害してはいけないのと同様に、この事件の犯人も殺してはいけない。しかし、その問題を追及していくと、死刑問題になってしまうから、ここでは省略する。(なお、最近岩波書店から刊行された平野啓一郎『死刑について』は死刑制度を考える取っ掛かりになる好著である。)
この事件が報道された直後には、多くの政治家が「民主主義への挑戦」と非難した。マスコミも選挙戦中の凶行に衝撃を受け、「民主主義の危機」と報じた。それに対し、犯行の個人性が明らかになってきたため、政治家が「民主主義への挑戦」などと語ることを批判する人もいる。今まで民主主義を守るために戦ってきたと思えない政治家たち(安倍氏自身も含めて)が、暴力に屈せず民主主義を守ると語る。それを世界に示すために大規模な「国葬」を行うなどと、国民世論に弔意を強制する動きも強まっている。それらを批判する意味で、「この事件の本質は民主主義への挑戦ではない」と言うことも大事だろう。
しかし、僕はやはり「選挙演説中の政治家を狙う」ことは、日本の民主主義制度、選挙制度に深刻な影響を与えると思う。今はネット社会だから、選挙運動もウェブ上で行えばいいと考える人もいるだろう。だが、選挙はナマの政治家に接することが出来る貴重な機会である。ただでさえ日本の選挙期間は短い。街頭演説や選挙カーはうるさいなどと言っては、大事なものを失う。そして、一度「こういうことが出来る」と思ったら、今後どんな事件が起きるか判ったものではない。例えば、今回は「与党政治家」が狙われたから、今度は「野党政治家を襲わなければならない」、なぜなら「宇宙のバランスを取り戻すため」などと訳が判らないことを言う「模倣犯」が出て来るかもしれない。後で振り返って、「あの事件から日本社会から自由が失われた」にしてはならない。
もう一つ、あまり言われていないのだが、この種の犯罪は「流れ弾による第三者の犠牲」を生みやすい。1974年の韓国・朴正熙大統領狙撃事件では夫人と聴衆の女子高生に当たって死亡者を出した。爆弾や銃による事件はターゲットに与える打撃という意味では「効果的」なのだろうが、第三者を巻き込みやすい。今回警察官や自民党関係者、あるいは聴衆でさえないただの歩行者に全く当たらなかったのは、奇跡である。安倍氏が演壇に乗っていたために、下から少し上向きで撃ったことが周囲に当たらなかった原因らしい。それでもかなり離れたところに弾痕が残っているんだから、誰にも当たらなかったのは幸運だった。
被疑者(とされている人物)は、安倍氏以外には絶対に当てないという自信があったのだろうか。そんなことはないだろう。とっさにかばった警備陣に当たったとしても「やむを得ない犠牲」だと考えたのではないか。そう考えなければ、このような事件は起こせない。かつて60年代末から70年代に掛けての「政治の季節」には、「新左翼」諸党派が起こした爆弾事件も起こった。犠牲者を出した事件も多く、そのような場合、犠牲になった被害者の家族はもちろんだが、起こした犯人の方にも未だに癒えない深刻な傷を残している。そういうことも伝えていかないといけないと思う。

まず「事件の名前」だが、当日に書いた記事では「衝撃の安倍晋三元首相暗殺事件ー日本でも起こった銃によるテロ」と書いた。その時点では謎の組織があるのか、政治的・思想的な理由による犯行だったのか、まだ何も判らなかった。とにかく政治家に対する事件ということで「銃によるテロ」と書いた。「テロ」とは「テロリズム」(恐怖主義)のことだが、今回も恐怖を感じた人は多かっただろうが、それが目的ではなかったとされている。個人的な「恨み」を一方的に募らせて外部に転嫁する「拡大自殺」のような事件、「京都アニメーション放火事件」「大阪北新地ビル放火事件」などに近い印象がある。そこで前回書いた「テロ」という表現は今後は使わないことにしたい。
一方で、マスコミでは「銃撃事件」などと表記していることが多い。しかし、これは「金丸信自民党副総裁銃撃事件」(1992年)や「本島等長崎市長銃撃事件」(1990)などにふさわしい用語だ。今回はケネディ大統領やインディラ・ガンディー首相などと同様の事件なのだから、「暗殺事件」で良いのではないか。「暗殺」は政治的背景がある場合だけに使う言葉ではない。「暗殺」ではおどろおどろしいイメージなのか、また「暗」の字を避けたいのか。「暗」は「暗い」から発して、見えないから「秘かに」「そらで覚える」の意味が生じた。「暗記」「暗譜」は後者、「暗殺」「暗号」などが前者である。「秘か」じゃなく「公然」の事件だが、それを言ったら世界から暗殺事件が無くなる。犯行じゃなく、「計画」「準備」が秘かということになる。

この事件に限らず、「殺人事件」を考える際は、「人を殺してはいけない」がすべてに優先する「絶対的原則」になる。もちろん「正当防衛」は別である。動機にいかに同情すべき事情があった場合でも、それは裁判などで「情状酌量をするべきか」を判断する時の問題だ。もちろん境界線上のケースは存在する。「尊厳死」「安楽死」をどう考えるか、「自殺」は許されるのか、「傷害致死」「過失致死」は殺人と同様かなど、判断に迷うケースはありうる。しかし、基本的には「殺人不可」が現代世界のルールだ。それは何故かと問うてはいけない。戦国時代は殺しあっていたのに、いつから殺人は禁止なのかと問うのも無意味。
従って、論理必然的に「死刑制度は廃止するべきだ」という結論になる。死刑廃止論に立たない人は、本当の意味で「安倍事件」を否定することが出来ないと思う。安倍氏を殺害してはいけないのと同様に、この事件の犯人も殺してはいけない。しかし、その問題を追及していくと、死刑問題になってしまうから、ここでは省略する。(なお、最近岩波書店から刊行された平野啓一郎『死刑について』は死刑制度を考える取っ掛かりになる好著である。)
この事件が報道された直後には、多くの政治家が「民主主義への挑戦」と非難した。マスコミも選挙戦中の凶行に衝撃を受け、「民主主義の危機」と報じた。それに対し、犯行の個人性が明らかになってきたため、政治家が「民主主義への挑戦」などと語ることを批判する人もいる。今まで民主主義を守るために戦ってきたと思えない政治家たち(安倍氏自身も含めて)が、暴力に屈せず民主主義を守ると語る。それを世界に示すために大規模な「国葬」を行うなどと、国民世論に弔意を強制する動きも強まっている。それらを批判する意味で、「この事件の本質は民主主義への挑戦ではない」と言うことも大事だろう。
しかし、僕はやはり「選挙演説中の政治家を狙う」ことは、日本の民主主義制度、選挙制度に深刻な影響を与えると思う。今はネット社会だから、選挙運動もウェブ上で行えばいいと考える人もいるだろう。だが、選挙はナマの政治家に接することが出来る貴重な機会である。ただでさえ日本の選挙期間は短い。街頭演説や選挙カーはうるさいなどと言っては、大事なものを失う。そして、一度「こういうことが出来る」と思ったら、今後どんな事件が起きるか判ったものではない。例えば、今回は「与党政治家」が狙われたから、今度は「野党政治家を襲わなければならない」、なぜなら「宇宙のバランスを取り戻すため」などと訳が判らないことを言う「模倣犯」が出て来るかもしれない。後で振り返って、「あの事件から日本社会から自由が失われた」にしてはならない。
もう一つ、あまり言われていないのだが、この種の犯罪は「流れ弾による第三者の犠牲」を生みやすい。1974年の韓国・朴正熙大統領狙撃事件では夫人と聴衆の女子高生に当たって死亡者を出した。爆弾や銃による事件はターゲットに与える打撃という意味では「効果的」なのだろうが、第三者を巻き込みやすい。今回警察官や自民党関係者、あるいは聴衆でさえないただの歩行者に全く当たらなかったのは、奇跡である。安倍氏が演壇に乗っていたために、下から少し上向きで撃ったことが周囲に当たらなかった原因らしい。それでもかなり離れたところに弾痕が残っているんだから、誰にも当たらなかったのは幸運だった。
被疑者(とされている人物)は、安倍氏以外には絶対に当てないという自信があったのだろうか。そんなことはないだろう。とっさにかばった警備陣に当たったとしても「やむを得ない犠牲」だと考えたのではないか。そう考えなければ、このような事件は起こせない。かつて60年代末から70年代に掛けての「政治の季節」には、「新左翼」諸党派が起こした爆弾事件も起こった。犠牲者を出した事件も多く、そのような場合、犠牲になった被害者の家族はもちろんだが、起こした犯人の方にも未だに癒えない深刻な傷を残している。そういうことも伝えていかないといけないと思う。