尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

牧村健一郎「漱石と鉄道」を読む

2020年06月04日 21時07分32秒 | 本 (日本文学)
 牧村健一郎漱石と鉄道」(朝日選書)を読んだ。僕はとりわけ鉄道ファンではなく、夏目漱石ファンでもない。それでも「漱石」「鉄道」のファクターが重なると、読みたい気持ちが3倍増ぐらいになる気がして、出たばかりの本を買ってしまった。確かに漱石の小説には鉄道がよく出てくる。

 「三四郎」の冒頭、九州から上京途中に青年が名古屋で下車して、同乗の女性客とひょんなことから同宿する。その翌日は鉄道で会った客(広田先生)と話していると「(日本は)滅びるね」と驚くようなことを言う。読んだ人なら忘れられないシーンで、小説の始まりとしても有名だ。ところで、その汽車は何時何分のものか。どこから乗って、どこへ通じているのか。小説だし、読んだときには特にそんなことは考えなかった。でも明治の時刻表(名前は違うけど)も残っているのである。それを調べて、できる限り特定して、できれば追体験する。それがこの本の趣向である。

 漱石の小説は数年前に全部読んだけど、鉄道による「移動」が物語の起動力になっている作品が多い。「坊っちゃん」は松山で軽便鉄道に乗っているが、そもそも坊っちゃんはどうやって四国まで出かけたのか。そして松山で一暴れしてさっさと中学教員を棒に振った坊っちゃんは、東京に帰って「街鉄の技手」になった。僕はこれまで、なんとなく市電の運転手になったのかと思っていたが、「技手」(ぎて)というのは「技術系職員」だという。帝大出じゃないから幹部要員ではないが、理科学校出身だから「現業職」の運転手ではないんだという。

 東京の「市電」の発展も印象的だ。「坊っちゃん」発表時(1906年4月)には確かに「街鉄」(東京市街鉄道)だったが、同年9月には「東京鉄道会社」になった。路面電車の会社は当時3社あって、合併したのである。さらに1911年に東京市が買収して「市電」、東京都制(1943)で「都電」になった。また、今の中央線は甲武鉄道という私鉄から始まった。1906年の鉄道国有法によって国有化され「省線電車」になった。(当時は鉄道省が置かれた。)この甲武電車の発展で、帝大関係者にも新宿辺に住む人が現れた。「三四郎」には大久保で飛び込み自殺した事件を目撃する場面がある。
(甲武鉄道のカブトムシ電車)
 漱石は松山や熊本で勤めたから、当然東京と鉄道で行き来した。熊本で結婚後に実父が亡くなり、夫婦で夏休みに帰省する旅が辛すぎて、夫人は流産してしまった。大変な時代である。小説家になった後も、朝日新聞の講演会に駆り出され、関西や長野に出かけている。長野への旅は、胃腸病を抱えた漱石を心配した夫人も一緒だった。横川・軽井沢間の有名なアプト式の難所を夫婦で越えた。そしてロンドン留学中は、日本にはまだない地下鉄も経験、スコットランドまで旅行した。満鉄総裁の友人、中村是公に誘われ、出来たばかりの満鉄(南満州鉄道)にも乗っている。

 「漱石と鉄道」とは、いいところに着眼した。著者はスコットランドにも、遼東半島にも実際に出掛けている。牧村氏は元朝日新聞記者で、以前にも漱石の本を書いている。獅子文六を最近まとめて読んだけれど、牧村著「評伝 獅子文六」が最近ちくま文庫に入り、興味深く読んだばかりだ。当時の汽車は揺れが大きく、胃病持ちの漱石には辛いはずだが、それも死因だと推測している。有名な「修善寺大患」の伊豆・修善寺温泉も、今ではまっすぐ行けるが、当時は御殿場線回りで行っている。丹那トンネルがなかったという知識があっても、実際の行き方は気付かなかった。

 「明暗」には湯河原温泉が重要な役割で出てくる。今は東海道線に乗れば遠くない。首都圏から熱海まで直通の電車が出ているから近すぎる温泉である。でも当時の東海道線は小田原直前の国府津(こうづ)から御殿場線に乗って箱根を大回りする。湯河原、熱海へは小田原と結ぶ「熱海鉄道」という軽便鉄道があった。それに乗って熱海へ行く場面は、実に危なっかしい。小説を読んでるときは物語に気が行くから、鉄道のことはあまり考えない。鉄道だけ取り出すと、なかなか興味深い鉄道社会史になる。
(熱海駅前の熱海鉄道車両)
 ところで、この本では関西は私鉄が発展したが、東京の私鉄発展は遅れたと書いている。しかし、東武鉄道京成電鉄は明治時代に作られている。東京東部だから、山手線以西の人にはあまり影響しない。確かに今の東急、小田急、西武などは大正時代になるけれど。まあ、東京東部を抜きにして東京を語る人は多いのでいちいち気にしてはいられない。漱石を読んでないとちょっと大変かも知れないが、基本的には鉄道や文学に関心が薄い人でも興味深く読める本だと思う。
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