尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

MV「コロンブス」炎上問題、「教養欠落」が問題なんだろうか?

2024年06月23日 22時19分37秒 | 社会(世の中の出来事)
 人気バンド「Mrs. GREEN APPLE」(ミセス・グリーン・アップル)の新曲「コロンブス」のミュージック・ビデオが公開停止になった問題。僕はそのバンドは名前ぐらいしか知らないから、特に関心がなかった。(ちなみに音楽ではどんどん新しいものが登場する。高齢になるといちいち追いかけるのが面倒になって、自分の若い頃の音楽以外関心が薄くなる。今の若者もそうなるに違いない。)ただ、その批判の方向性に違和感を持ったので指摘しておきたいと思った。

 そのビデオは「コロンブスらを模したメンバーが、訪れた島で類人猿に車をひかせたり、西洋音楽を教えたりする」(朝日新聞、6.19)という。「人種差別的で、植民地支配を容認する表現と批判されても仕方がない」と一橋大学の貴堂嘉之(きどう・よしゆき)教授は記事の中で指摘している。僕はビデオを見てないけど、その内容なら批判されるのは当然だと思う。記事の見出しは「コロンブス 変わる評価」「専門家 歴史学ぶ必要」である。東京新聞の記事でも、見出しは「教養欠落 日本の現在地」とある。その記事によれば、英BBC放送(電子版)は「関わった人に世界史を学んだ人はいなかったのか?」と書いたという。
(MV「コロンブス」)
 確かに「教養不足」や「歴史学ぶ必要」はあるだろう。だけど、関係者の誰かが「今どきコロンブスを取り上げたら、炎上するかもしれませんよ」と知ってれば良かったのだろうか。もちろん事前に止められなかったことは問題だけど、コロンブスが炎上案件だと知って取り上げなければそれで良いのか。「炎上しそうなものは敬遠すべきだ」が正解なんだろうか。それでは「炎上する」「批判される」ことを避けることこそ、一番の「営業方針」だということになってしまう。
(Mrs. GREEN APPLE)
 今回の問題は「炎上」したことではなく、「植民地支配を正当化している(と解されてもやむを得ない)」ものだったことにある。「Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」ミュージックビデオについて」(2024.6.13)によると、「類人猿が登場することに関しては、差別的な表現に見えてしまう恐れがあるという懸念を当初から感じておりました」が、「類人猿を人に見立てたなどの意図は全く無く、ただただ年代の異なる生命がホームパーティーをするというイメージをしておりました。」「決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図はありませんでしたが、上記のキーワードが意図と異なる形で線で繋がった時に何を連想させるのか、あらゆる可能性を指摘して別軸の案まで至らなかった我々の配慮不足が何よりの原因です。」

 しかし、「コロンブス」「ナポレオン」「ベートーベン」がホーム・パーティをするという趣向自体、「西欧の偉人」しか出て来ない。日本の音楽バンドがなぜそういう発想になるのかという問題がある。そこに「類人猿」まで出て来るというのだから、この紋切型の発想を見ると、誰か関係者の中に「秘められた差別的意図」があったのかとさえ思う。そう思われてもやむを得ないのではないか。そうとでも考えないと、これほどの「連想アイテム」満載になるとは思えない。

 ところで、ちょっとだけ書いておくが、今「コロンブス」と書いてきたけど、本当はこの表記自体に問題がある。クリストファー・コロンブス(1451~1506)は、もうその表記で定着しているから、日本の教科書にも一応そう出ていると思う。しかし、ジェノヴァ共和国(今のイタリア)生まれだから要するにイタリア人で、本来は「コロンボ」である。しかし、そのままでは大航海に乗り出せない。結局スペイン王室の援助で航海に行ったわけである。スペインでの名前は「クリストバル・コロン」だった。今は「コロン」という表記を採用するべきだと思う。

 それとともに、よく「アメリカ大陸の発見」とか「新大陸到達」というが、コロンは生涯を通してアメリカ大陸には一度も行ってない。彼が着いたのはいくつかの島で、至る所で略奪を繰り広げながら最終的に砦を築いたのはイニョニョーラ島である。(自らそう命名した。)現在東にドミニカ、西にハイチがある島である。(世界で23番目に大きな島。)25万人の先住民がいたとされるが、スペイン支配のもとで「絶滅」するに至る。コロンは「インド」に着いたと信じたが、「アメリカ大陸」でさえなかった。

 それはともかく、「コロンブス」を取り上げるならば、今だからという問題ではなく、「征服された側」から描く必要がある。もちろん『関心領域』のように、あえてナチ官僚の目から徹底して見ていくという方法はある。「批評意識」があれば、それでも良いのである。つまり、「コロンブスを避ける」のではなく、「コロンを批評する」のである。そういう内容なら、「炎上」したとしても、それは正しい方向の炎上である。誰にも批判されないものを作るならアーティストではない

 世界各地で多くの「影響力を持つ人々」(インフルエンサー)がガザ地球環境性的マイノリティ問題などに自分の考えを公表している。アメリカやフランスでは、大統領選挙や国会議員選挙に対して、自分の考えを明らかにしている。日本ではそういう人がほとんどいない。これほど日本社会が行き詰まった原因の一つは、「言うべきことを言わない」人が多すぎたことにあるんじゃないか。「教養」や「世界史の知識」はそれだけあっても意味がない。ちゃんと行動が伴ってこそ、真の「教養」だ。

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