先に「戦争」と「結核」が親の世代には、非常に大きな影響を与えたことを書いた。その時には父以上に母親の出来事を思い出していたのだが、その後父が自ら書いた文章を発見した。そう言えば、生前に読んだ記憶があったことを思いだした。今回は母がファイルに入れて保存していたのを見つけたのである。父にとっても戦争のみならず、結核が人生上の大問題だった。身近なところから見えてくる「現代史」という意味で紹介しておきたい。
前に書いたように父は関東大震災の年(1923年)に生まれた。神田神保町に家にいたとき、「寝ていた私を母が抱き取った直後タンスが倒れたそうで、誕生早々生命拾いをした訳です。」その後、小石川から神田に移り、小学校2年から出征するまで14年間を「下町情緒の中で成長しました。」そのことは今まで意識したことはなく意外だった。今では東京都心部に住むことはなかなか大変だが、そう言えば昔の小説なんかでも都心部に家を借りたり建てたりしている。
「私の学生時代は、小学校当時に始まった満州事変以来ずっと戦時一色」で、「日支事変中は「遠い戦争」という感覚から多寡をくくっていた私どもも、第二次世界大戦の進展にともない容易ならざる事態を見聞するにつれ、いずれは兵役に就くことを覚悟しながら、人生論、社会論、戦争論などを友人たちで論議することも多く」という青春を送っていた。ちなみに旧制武蔵中学(7年制)に進学し、卒業後に東京帝大経済学部に進んだ。
(学徒出陣壮行式)
そして徴兵猶予がなくなり、「昭和十九年十二月一日に市川国府台の部隊に入隊するように召集令状が来た」。若き日の父は「私が護るべき国土を見おさめ、且つ東北大や京大に進んだ友人たちとも語り合っておきたいを考え旅に出ました。」「仙台、平泉、十和田、京都、奈良、長野等、約三週間、当時の金で二、三十円の旅行でしたが、久しぶりに友人達と会い、素朴で落ち着いた日本の風土に身を浸し、この国を護るために軍隊に行くのだと納得できたのは、この旅行の賜でした。」
入隊後は牽引車で引く野砲中隊から、航空隊を志願して三重県の気象連隊、さらに東部軍管区司令部へと転属、「東京下町の大空襲は、竹橋にあった防空司令室の大金庫のような扉の傍で、遙かに眺めておりました。」そして召集解除となって、父母が疎開していた館林(群馬県)に戻ったのである。これは多くの学徒兵の証言と比べて見ると、非常に恵まれていたと言えるだろう。少なくとも兄はシベリアで抑留され戻らなかったわけだから。このように軍隊経験では死ぬことなく戦後を迎えられたのだった。
その後「父の勧めにより正田貞一郎翁のご紹介を得て、東武鉄道に入社でき、館林駅務掛の辞令をいだだいて社会人としての第一歩を踏み出したのは、復員して一か月足らずの昭和二十一年一月十六日でした。」正田貞一郎は日清製粉の創業者で、当時は会長だった。館林出身で今も館林駅西口の製粉ミュージアムに、当時使っていた机などが残されている。祖父は日清製粉で社長秘書をしていた時期があり、それで紹介したということだろう。なお、正田貞一郎は現上皇后の祖父としても、後に知られることになった。ここでも父は非常に恵まれて戦後を歩み出したと言える。
(正田貞一郎)
ところが「やがて車掌区に移り満員電車の尻押しをしている中に、帰宅後、異常な疲労感に襲われるようになりました。診療所で「肺が真っ白だ。すぐ入院しなければ大変だ。」と谷田貝先生に一喝されました。当時まだ結核は不治の病という時代でしたので、私はがく然としました。」三重の気象連隊で常時そばにいた見習士官が結核に感染し死亡したので、その時に感染したのではないかと思ったとある。「このショックと療養体験は、それまで比較的幸運に推移してきた私の人生に深い谷間をつくり、人生観を根底から揺り動かすものとなりました。」
「病棟の前に大きな貯水池を隔てて火葬場があり、そこでは毎日、煙の立ち上らぬ日はありませんでした。戦争では幸いに前線には行かずにしまった私が、皮肉なことに平和の戻った今になって、死を見つめざるを得なくなったのです。将来への希望、憧憬は微塵に砕かれ、絶望、屈辱、悔恨、悲哀がいっとき心の底に鉛のように重く沈殿しました。」「しかし、やがてそれが諦めに変わり、そして生の尊さ、価値観、意義を考えるようになり、よりよく生きる、するだけのことをする、生きることの感謝と喜び、人の恩など、様ざまな感情の移り変わりを経て心境が変化してきた頃は、既に三か月を過ぎていました。」
幸いにも気胸療法が成功し、半年後に職場復帰できた。そして館林教習所に配転させてもらって、リハビリを兼ねて勤務することになった。この時代のことは確かに父はよく語っていたと思い出す。僕が生まれたのは父が32歳の時なので、当時としては少し結婚が遅かったのだろう。それは22歳で復員しながら、少しして結核で療養せざる得なかったことが大きいはずだ。僕の幼い時にも、確か結核で休職していた時期があったように思う。ほとんど意識しなくなったのは、60年代に入った頃からではないか。
「人生においては、何が災であり何が幸であるかということが、その時点だけでは分らないということ。誠心誠意ただ最善を尽くすべし、自分の人生に対しては謙虚でなくてはならない」という信念を持つに至ったと書かれて、長い文章は終わっている。東武鉄道の新聞「交通東武」1981年9月30日号に掲載された「私の青春時代 よりよく生きる」という回想から引用したものである。あえて内容の評価には踏み込まない。ある時代を生きた青春には「戦争」と「結核」が暗い影を投げかけていたのである。父の名は尾形健次郎。当時の肩書きは常務取締役で、その後、副社長在任中の1991年3月2日に急逝した。享年68歳。
前に書いたように父は関東大震災の年(1923年)に生まれた。神田神保町に家にいたとき、「寝ていた私を母が抱き取った直後タンスが倒れたそうで、誕生早々生命拾いをした訳です。」その後、小石川から神田に移り、小学校2年から出征するまで14年間を「下町情緒の中で成長しました。」そのことは今まで意識したことはなく意外だった。今では東京都心部に住むことはなかなか大変だが、そう言えば昔の小説なんかでも都心部に家を借りたり建てたりしている。
「私の学生時代は、小学校当時に始まった満州事変以来ずっと戦時一色」で、「日支事変中は「遠い戦争」という感覚から多寡をくくっていた私どもも、第二次世界大戦の進展にともない容易ならざる事態を見聞するにつれ、いずれは兵役に就くことを覚悟しながら、人生論、社会論、戦争論などを友人たちで論議することも多く」という青春を送っていた。ちなみに旧制武蔵中学(7年制)に進学し、卒業後に東京帝大経済学部に進んだ。
(学徒出陣壮行式)
そして徴兵猶予がなくなり、「昭和十九年十二月一日に市川国府台の部隊に入隊するように召集令状が来た」。若き日の父は「私が護るべき国土を見おさめ、且つ東北大や京大に進んだ友人たちとも語り合っておきたいを考え旅に出ました。」「仙台、平泉、十和田、京都、奈良、長野等、約三週間、当時の金で二、三十円の旅行でしたが、久しぶりに友人達と会い、素朴で落ち着いた日本の風土に身を浸し、この国を護るために軍隊に行くのだと納得できたのは、この旅行の賜でした。」
入隊後は牽引車で引く野砲中隊から、航空隊を志願して三重県の気象連隊、さらに東部軍管区司令部へと転属、「東京下町の大空襲は、竹橋にあった防空司令室の大金庫のような扉の傍で、遙かに眺めておりました。」そして召集解除となって、父母が疎開していた館林(群馬県)に戻ったのである。これは多くの学徒兵の証言と比べて見ると、非常に恵まれていたと言えるだろう。少なくとも兄はシベリアで抑留され戻らなかったわけだから。このように軍隊経験では死ぬことなく戦後を迎えられたのだった。
その後「父の勧めにより正田貞一郎翁のご紹介を得て、東武鉄道に入社でき、館林駅務掛の辞令をいだだいて社会人としての第一歩を踏み出したのは、復員して一か月足らずの昭和二十一年一月十六日でした。」正田貞一郎は日清製粉の創業者で、当時は会長だった。館林出身で今も館林駅西口の製粉ミュージアムに、当時使っていた机などが残されている。祖父は日清製粉で社長秘書をしていた時期があり、それで紹介したということだろう。なお、正田貞一郎は現上皇后の祖父としても、後に知られることになった。ここでも父は非常に恵まれて戦後を歩み出したと言える。
(正田貞一郎)
ところが「やがて車掌区に移り満員電車の尻押しをしている中に、帰宅後、異常な疲労感に襲われるようになりました。診療所で「肺が真っ白だ。すぐ入院しなければ大変だ。」と谷田貝先生に一喝されました。当時まだ結核は不治の病という時代でしたので、私はがく然としました。」三重の気象連隊で常時そばにいた見習士官が結核に感染し死亡したので、その時に感染したのではないかと思ったとある。「このショックと療養体験は、それまで比較的幸運に推移してきた私の人生に深い谷間をつくり、人生観を根底から揺り動かすものとなりました。」
「病棟の前に大きな貯水池を隔てて火葬場があり、そこでは毎日、煙の立ち上らぬ日はありませんでした。戦争では幸いに前線には行かずにしまった私が、皮肉なことに平和の戻った今になって、死を見つめざるを得なくなったのです。将来への希望、憧憬は微塵に砕かれ、絶望、屈辱、悔恨、悲哀がいっとき心の底に鉛のように重く沈殿しました。」「しかし、やがてそれが諦めに変わり、そして生の尊さ、価値観、意義を考えるようになり、よりよく生きる、するだけのことをする、生きることの感謝と喜び、人の恩など、様ざまな感情の移り変わりを経て心境が変化してきた頃は、既に三か月を過ぎていました。」
幸いにも気胸療法が成功し、半年後に職場復帰できた。そして館林教習所に配転させてもらって、リハビリを兼ねて勤務することになった。この時代のことは確かに父はよく語っていたと思い出す。僕が生まれたのは父が32歳の時なので、当時としては少し結婚が遅かったのだろう。それは22歳で復員しながら、少しして結核で療養せざる得なかったことが大きいはずだ。僕の幼い時にも、確か結核で休職していた時期があったように思う。ほとんど意識しなくなったのは、60年代に入った頃からではないか。
「人生においては、何が災であり何が幸であるかということが、その時点だけでは分らないということ。誠心誠意ただ最善を尽くすべし、自分の人生に対しては謙虚でなくてはならない」という信念を持つに至ったと書かれて、長い文章は終わっている。東武鉄道の新聞「交通東武」1981年9月30日号に掲載された「私の青春時代 よりよく生きる」という回想から引用したものである。あえて内容の評価には踏み込まない。ある時代を生きた青春には「戦争」と「結核」が暗い影を投げかけていたのである。父の名は尾形健次郎。当時の肩書きは常務取締役で、その後、副社長在任中の1991年3月2日に急逝した。享年68歳。
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