「ゆとり教育」の全体を論じる前に、よく言われる「ゆとり世代」という言葉について考えておきたい。そもそも「ゆとり教育」とは何かを見極めないと、「ゆとり世代」を論じられないと言われるかもしれない。でもまあ、そうでもないと思う。なぜかと言えば、「ゆとり世代」なんてものはないからである。
そりゃあ、そうだろう。学習指導要領がどうでもいいとは言わないけど、授業時数・授業内容の削減とか「総合学習」の新設というだけで、「世代すべてに当てはまる特徴」が出来上がるわけがない。「学校」が社会の中で持っている意味が、大昔に比べてずっと小さくなっている。テレビやインターネットなんかの影響の方が今は大きいのではないか。
「国民学校世代」なんていうのはあるだろう。1941年以後、小学校は「国民学校」と改称されていたのである。戦後に新学制に移行するまで続いた。要するに、戦時下の世代である。小学校しか義務教育じゃなかった時代の話である。学校の名前そのものが変わっちゃうぐらいだから、それは大きな出来事だろう。「国民学校に通った世代」というだけで、ある世代を表すだろう。
でも、戦後教育は全部そうだとも言えるが、特に80年代以後は「個性化」を進めてきた。今までと違った個性を持った若い人がいても、要するに「そういう人がいてもいい」というだけの話で、世代全員の問題ではない。以上、オシマイでもいいんだけど、もう少し書かないといけない。現実に「ゆとり世代はダメだ」と言う人がいる。言われた人を知ってるから確かである。テレビドラマの題名にも使われたし、「世の中には『ゆとり世代』っていう概念があるらしい」という事実は残る。それは何故か?
一つは「言ってる側の問題」である。3回目で書いたように、一番大きな授業数削減を行ったのは、1977年告示、1981年に中学校で実施されたときの学習指導要領である。その時の指導要領の中に、「ゆとり」という言葉が登場する。実はそれ以外では「ゆとり」という言葉は出てこないから、「ゆとり世代」というものがあるとすると、本来それは1977年告示の指導要領で学習した世代のはずである。(その時は「中学校学習指導要領等の改訂の要点」というものがあって、「学校生活全体にゆとりをもたせるため,授業時数を全体として削減し」と明記されている。)
中学の授業時間は、1981年度実施の要領で削減され、その後2012年実施の指導要領まで増えていない。ということは、1968年度生まれから1999年度生まれの世代が「ゆとり世代」になるはずである。つまり、今の30代、40代は全員「ゆとり世代」に該当する。でも、そういう自意識はほとんどないだろう。中学生は言われた通り授業を受けているだけで、自分たちが前の世代より授業数が少ないかどうかなど自分では判らない。若い者に向かって「ゆとり世代はダメだ」などと決めつけている方が、実は「ゆとり世代」だったのである。大体「ゆとり世代は…」などと独断的に決めつけるのは「反知性主義」そのものだ。自分の方こそちゃんと勉強していないということを暴露している。
でも、それだけでは解決しない問題もいくつかある。まず「少子化」というファクターである。特に21世紀実施の「総合学習」導入の世代が「ゆとり世代」と言われることが多い。学校の授業数が削減されたことは確かだが、「授業内容を3割削減」と言ったって、学校の授業内容を7割以上覚えている人なんかいないだろう。「ゆとり世代」批判をする方だって、数学の公式や歴史の年号を覚えてないと文句言ってるんじゃないだろう。「一般常識」とか「年長世代との付き合い方」とか「臨機応変力」とかの欠如を問題にしているはずだ。そういうのは、「少子化」の影響と考えた方が正解に近い。
兄弟や遊び友達集団が少なくなる一方、受験圧力は確実に減った。よほどの有名大学を目指すというのでもなければ、推薦入学でそれなりの私立大学へ行ける。自分が確実に合格できるとは判らないわけだが、とにかくそういう制度が普及したことで、世代全員にかかる受験圧力は減るわけである。学校の勉強は、ほとんどの人にとっては上級学校への進学のためにしている。だから、当然「受験のための学力」は少子化で下がると考えられる。また、地域の遊び集団などで養われる年長者との付き合い方なども、少子化や学校選択制(地域外の小中学校へ通える)などで、身に付きにくくなる。そう考えてみると、「ゆとり世代」の特徴と見えるものは実は少子化による影響と考えた方がいい。
そりゃあ、そうだろう。学習指導要領がどうでもいいとは言わないけど、授業時数・授業内容の削減とか「総合学習」の新設というだけで、「世代すべてに当てはまる特徴」が出来上がるわけがない。「学校」が社会の中で持っている意味が、大昔に比べてずっと小さくなっている。テレビやインターネットなんかの影響の方が今は大きいのではないか。
「国民学校世代」なんていうのはあるだろう。1941年以後、小学校は「国民学校」と改称されていたのである。戦後に新学制に移行するまで続いた。要するに、戦時下の世代である。小学校しか義務教育じゃなかった時代の話である。学校の名前そのものが変わっちゃうぐらいだから、それは大きな出来事だろう。「国民学校に通った世代」というだけで、ある世代を表すだろう。
でも、戦後教育は全部そうだとも言えるが、特に80年代以後は「個性化」を進めてきた。今までと違った個性を持った若い人がいても、要するに「そういう人がいてもいい」というだけの話で、世代全員の問題ではない。以上、オシマイでもいいんだけど、もう少し書かないといけない。現実に「ゆとり世代はダメだ」と言う人がいる。言われた人を知ってるから確かである。テレビドラマの題名にも使われたし、「世の中には『ゆとり世代』っていう概念があるらしい」という事実は残る。それは何故か?
一つは「言ってる側の問題」である。3回目で書いたように、一番大きな授業数削減を行ったのは、1977年告示、1981年に中学校で実施されたときの学習指導要領である。その時の指導要領の中に、「ゆとり」という言葉が登場する。実はそれ以外では「ゆとり」という言葉は出てこないから、「ゆとり世代」というものがあるとすると、本来それは1977年告示の指導要領で学習した世代のはずである。(その時は「中学校学習指導要領等の改訂の要点」というものがあって、「学校生活全体にゆとりをもたせるため,授業時数を全体として削減し」と明記されている。)
中学の授業時間は、1981年度実施の要領で削減され、その後2012年実施の指導要領まで増えていない。ということは、1968年度生まれから1999年度生まれの世代が「ゆとり世代」になるはずである。つまり、今の30代、40代は全員「ゆとり世代」に該当する。でも、そういう自意識はほとんどないだろう。中学生は言われた通り授業を受けているだけで、自分たちが前の世代より授業数が少ないかどうかなど自分では判らない。若い者に向かって「ゆとり世代はダメだ」などと決めつけている方が、実は「ゆとり世代」だったのである。大体「ゆとり世代は…」などと独断的に決めつけるのは「反知性主義」そのものだ。自分の方こそちゃんと勉強していないということを暴露している。
でも、それだけでは解決しない問題もいくつかある。まず「少子化」というファクターである。特に21世紀実施の「総合学習」導入の世代が「ゆとり世代」と言われることが多い。学校の授業数が削減されたことは確かだが、「授業内容を3割削減」と言ったって、学校の授業内容を7割以上覚えている人なんかいないだろう。「ゆとり世代」批判をする方だって、数学の公式や歴史の年号を覚えてないと文句言ってるんじゃないだろう。「一般常識」とか「年長世代との付き合い方」とか「臨機応変力」とかの欠如を問題にしているはずだ。そういうのは、「少子化」の影響と考えた方が正解に近い。
兄弟や遊び友達集団が少なくなる一方、受験圧力は確実に減った。よほどの有名大学を目指すというのでもなければ、推薦入学でそれなりの私立大学へ行ける。自分が確実に合格できるとは判らないわけだが、とにかくそういう制度が普及したことで、世代全員にかかる受験圧力は減るわけである。学校の勉強は、ほとんどの人にとっては上級学校への進学のためにしている。だから、当然「受験のための学力」は少子化で下がると考えられる。また、地域の遊び集団などで養われる年長者との付き合い方なども、少子化や学校選択制(地域外の小中学校へ通える)などで、身に付きにくくなる。そう考えてみると、「ゆとり世代」の特徴と見えるものは実は少子化による影響と考えた方がいい。
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