ハンセン病回復者の国際ネットワークである「IDEAジャパン」主催で「ともに生きる 尊厳の確立を求めて」という集まりが行われた。「世界ハンセン病の日」サイドイベントで、国立ハンセン病記念館映像ホールで開かれた。今日はそれに行ってきたので、簡単に報告と紹介。なお、「IDEA」とは、「The International Association for Integration, Dignity, and Economic Advancement」の略で、「共生・尊厳・経済的自立のための国際ネットワーク」のこと。森元美代治さんが理事長を務めている。今回は、特に昨秋に刊行された佐久間健「ハンセン病と教育」(人間と歴史社)の著者で、IDEA理事でもある佐久間氏の講演があり、僕は是非聞いてみたいと思ったのである。
会場のハンセン病記念館のある多磨全生園は、家から遠いので最近はあまり行ってないのが現状。僕は1980年に、FIWC関西委員会主催の韓国キャンプに参加して、韓国のハンセン病回復者定着村を訪れた。その時までは、あまりハンセン病を意識していなかったが、その頃から目につく本を買い求めるようになった。翌1981年の2月に、初めて韓国からも学生を招こうということになり、来日した韓国側のキャンパーとともに、長島愛生園や邑久光明園、そして多磨全生園を旅してまわった。自分が教師になってからも、生徒を連れて全生園、あるいは後に開館したハンセン病記念館(ハンセン病国賠訴訟後にリニューアルされる前の記念館時代から)に何度も来ている。1996年の「らい予防法」廃止、2001年のハンセン病国賠訴訟勝訴の前から、「ハンセン病と教育」に関わってきたとは言えるわけだが、佐久間氏ほどのまとまった考察は今までに接したことはなく、今回非常に大きな感銘を受けた。
集会では、まず村上絢子さんが「書くこと、伝えること」で世界の回復者の歩みを伝え、続いて佐久間さんの報告、最後に森元美代治さんによる「IDEAジャパン10年の歩み」が報告された。非常に熱心に活動を続けてきた森元さんも喜寿の年を迎え、今回が「特定非営利活動法人IDEAジャパン」としての最後の活動になるという。残念ながらやむを得ないことなのだろうが、今後も任意団体としては継続していくということである。森元さんの話は、FIWC関西委員会主催の「らい予防法廃止記念集会」以来、何度も聞いている。東京でも同様の集会を開いたし、最後の勤務校の「人権」の授業でも毎年生徒向けに講演してもらった。今後もお元気で全国の学校などで、できる限り講演して頂きたいと思う。
少し内容を紹介したいのが、佐久間さんの講演。佐久間さんは1993年から東村山市で小学校教員を務めて、ハンセン病問題の学習を進めてきた。現在は都立の病弱児向けの院内分教室に勤務している。まず最初に昨年、福岡市で起こった「問題授業」の事件を紹介した。「ハンセン病は体が溶ける病気」などと教え、それをもとに児童が「怖い」「友達がかかったら離れておきます」などと感想の作文に書き、あろうことかそれを菊池恵楓園自治会に送っていたというのである。これは福岡できちんとしたハンセン病の知識が伝えられていないという問題があるということだが、教師であってもそうなのだから、一般社会ではまだまだ偏見が残っているのである。
佐久間さんは「被差別体験」だけを教えると、「かわいそう」という感想で終わってしまいがちだと指摘する。そのため、ハンセン病回復者をステレオタイプ(紋切型)の弱者としてのみとらえてしまうことになり、新たな偏見も生じさせかねないというのである。そこで、「療養所において人間の尊厳を保つ」姿を示して「共感」することが必要だとする。「被差別体験」だけではダメで「抵抗体験」を取り上げないといけないのである。病気を教えるのが目的ではなく、その中で生き抜いてきた「人間」を伝えるのが、人権教育のめざすところなのだから。これはただハンセン病の学習だけの問題ではなく、人権教育の他の問題でももちろん同じだし、いじめ問題など身近な指導場面でも同様の考え方が必要である。
歴史的に見ていくと、戦前には「健康診断」時に「らい」の疑いのある生徒を見つけることが、学校に求められる役割だったという。映画「小島の春」でも、小川正子による健診のシーンがある。その時に病気が見つかったら、どうなるかというと「療養所行き」の宣告となり、二度と社会復帰はかなわない(当時では。)それを学校教育が推進していたわけである。そのことを証明するのが、戦前の修身教科書の教師用書(今の指導書)に書かれていた「隔離の有効性」を伝える文言である。教師の役割として、ハンセン病者の隔離を進めることが当時の国家から求められていたわけである。それでも東村山の総学校には「慰問」を行った学校もあったという。戦後になって北海道北見の地で、民衆史運動を進めた小池喜孝氏は実はその体験が「民衆史運動の原点」と語っているという。僕は若い時に小池氏の本をずいぶん読んで影響を受けたが、この事実は知らなかった。この本の刊行は知っていたが、ようやく今日会場で求めたので、まだ読んでいない。でも、読んでからだといつになるか判らないので、まずは紹介しておく次第。
会場のハンセン病記念館のある多磨全生園は、家から遠いので最近はあまり行ってないのが現状。僕は1980年に、FIWC関西委員会主催の韓国キャンプに参加して、韓国のハンセン病回復者定着村を訪れた。その時までは、あまりハンセン病を意識していなかったが、その頃から目につく本を買い求めるようになった。翌1981年の2月に、初めて韓国からも学生を招こうということになり、来日した韓国側のキャンパーとともに、長島愛生園や邑久光明園、そして多磨全生園を旅してまわった。自分が教師になってからも、生徒を連れて全生園、あるいは後に開館したハンセン病記念館(ハンセン病国賠訴訟後にリニューアルされる前の記念館時代から)に何度も来ている。1996年の「らい予防法」廃止、2001年のハンセン病国賠訴訟勝訴の前から、「ハンセン病と教育」に関わってきたとは言えるわけだが、佐久間氏ほどのまとまった考察は今までに接したことはなく、今回非常に大きな感銘を受けた。
集会では、まず村上絢子さんが「書くこと、伝えること」で世界の回復者の歩みを伝え、続いて佐久間さんの報告、最後に森元美代治さんによる「IDEAジャパン10年の歩み」が報告された。非常に熱心に活動を続けてきた森元さんも喜寿の年を迎え、今回が「特定非営利活動法人IDEAジャパン」としての最後の活動になるという。残念ながらやむを得ないことなのだろうが、今後も任意団体としては継続していくということである。森元さんの話は、FIWC関西委員会主催の「らい予防法廃止記念集会」以来、何度も聞いている。東京でも同様の集会を開いたし、最後の勤務校の「人権」の授業でも毎年生徒向けに講演してもらった。今後もお元気で全国の学校などで、できる限り講演して頂きたいと思う。
少し内容を紹介したいのが、佐久間さんの講演。佐久間さんは1993年から東村山市で小学校教員を務めて、ハンセン病問題の学習を進めてきた。現在は都立の病弱児向けの院内分教室に勤務している。まず最初に昨年、福岡市で起こった「問題授業」の事件を紹介した。「ハンセン病は体が溶ける病気」などと教え、それをもとに児童が「怖い」「友達がかかったら離れておきます」などと感想の作文に書き、あろうことかそれを菊池恵楓園自治会に送っていたというのである。これは福岡できちんとしたハンセン病の知識が伝えられていないという問題があるということだが、教師であってもそうなのだから、一般社会ではまだまだ偏見が残っているのである。
佐久間さんは「被差別体験」だけを教えると、「かわいそう」という感想で終わってしまいがちだと指摘する。そのため、ハンセン病回復者をステレオタイプ(紋切型)の弱者としてのみとらえてしまうことになり、新たな偏見も生じさせかねないというのである。そこで、「療養所において人間の尊厳を保つ」姿を示して「共感」することが必要だとする。「被差別体験」だけではダメで「抵抗体験」を取り上げないといけないのである。病気を教えるのが目的ではなく、その中で生き抜いてきた「人間」を伝えるのが、人権教育のめざすところなのだから。これはただハンセン病の学習だけの問題ではなく、人権教育の他の問題でももちろん同じだし、いじめ問題など身近な指導場面でも同様の考え方が必要である。
歴史的に見ていくと、戦前には「健康診断」時に「らい」の疑いのある生徒を見つけることが、学校に求められる役割だったという。映画「小島の春」でも、小川正子による健診のシーンがある。その時に病気が見つかったら、どうなるかというと「療養所行き」の宣告となり、二度と社会復帰はかなわない(当時では。)それを学校教育が推進していたわけである。そのことを証明するのが、戦前の修身教科書の教師用書(今の指導書)に書かれていた「隔離の有効性」を伝える文言である。教師の役割として、ハンセン病者の隔離を進めることが当時の国家から求められていたわけである。それでも東村山の総学校には「慰問」を行った学校もあったという。戦後になって北海道北見の地で、民衆史運動を進めた小池喜孝氏は実はその体験が「民衆史運動の原点」と語っているという。僕は若い時に小池氏の本をずいぶん読んで影響を受けたが、この事実は知らなかった。この本の刊行は知っていたが、ようやく今日会場で求めたので、まだ読んでいない。でも、読んでからだといつになるか判らないので、まずは紹介しておく次第。