尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

我孫子・白樺派と手賀沼散歩

2015年05月06日 23時49分52秒 | 東京関東散歩
 今年の大型連休は、少し例外はあるけれど、ほぼ全国的に毎日晴れ渡った。東京も毎日快晴で暑いくらいの日が続く。今日は映画に行く気だったんだけど、空を見たら気持ちが変わった。実は数日前にも大田区の洗足池に行ったんだけど、これは勝海舟関係の散歩でまとめたいので、今日行った千葉県の我孫子(あびこ)の散歩からまとめたい。我孫子なんて言っても、全国的にはほとんど知られていないだろう。常磐線あるいは地下鉄千代田線を利用するから、幼き頃より名前だけは知ってるけど、行くのは初めてである。ここは明治末から大正時代は、大いに栄えた別荘地白樺派はじめ多くの文人にゆかりの地と気付いたのは最近のことで、一度は行きたいと思っていたのである。

 常磐線北千住駅から快速で22分、松戸、柏の次ではないか。こんなに近いのか。ちょっとびっくり。駅前に案内所があるように思ったんだけど、見つからない。帰りに見ると駅から少し離れたところに「アビシルベ」という案内所があった。でも、南口に案内版と地図があるので(一番最後に写真を載せておく)、それを見れば大体判った。(「アビシルベ」の場所もよく見れば地図に載っていた。)駅から真っ直ぐ直進すると手賀沼公園だけど、途中に杉村楚人冠記念館があるので、まず最初にそこに行こう、そうすれば地図も手に入るだろうと思ったら、その通りになった。
   
 杉村楚人冠(1872~1945)なんて言っても今では普通知らないだろう。僕もそういう人がいたという程度しか判らない。東京朝日の名物記者で国際派ジャーナリスト、名随筆家にして俳人、作家としても知られ、戦前は非常に有名な人物だった。全集も残されているが、今では読む人もまずいない。楚人冠は1912年に別荘を設け、震災後の1924年には一家で移住した。我孫子では俳句結社を作ったり、ゴルフクラブ開設に協力し、自身が創刊した「アサヒグラフ」で手賀沼風景を紹介するなど、我孫子の大恩人である。庭も広く、崖下まで広がって面白い。屋敷内より庭の方がいいかもしれない。
   
 少し離れたところに「楚人冠公園」があり、句碑がある。昔はその辺りまで別荘だったらしく、相当広いし、手賀沼も見えたんだろう。今は家も立ち並び、木も生い茂って水辺感は感じられないが。俳句は「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」というものである。結構広い空地が広がる公園。
  
 そこからしばらく迷いながら、嘉納治五郎別荘跡三樹荘跡を先に見る。白樺文学館に真っ直ぐ行ってもいいけれど、帰りだと疲れているかもと思ったのである。嘉納治五郎(1860~1938)は柔道家、教育者として著名だが、単に柔道だけでなく大日本体育協会(今の体協の前身)を設立し会長となり、IOC委員ともなった「日本スポーツの父」である。1911年に我孫子に別荘を構え、姉の子である柳宗悦も真向かいに別荘を建てた。日本の「民芸の父」と言われる人である。ここには声楽家の妻・柳兼子とともに住み、そこから白樺派の文人が我孫子に来るようになったというわけである。嘉納別荘は今は跡地しかなく、柳別荘「三樹荘」は今は別人の手に渡り非公開。(下の最後の写真)
   
 ここで目の前が手賀沼公園なので、ちょっと疲れたし、一休み。遊覧船やボートでも出ていて、子連れも多く、なかなか流行っていた。「ミニSL」が運行していると出ていたけど、SLではなく新幹線型の電車だった。なんだ。釣りしている人もいる。化学的酸素要求量(COD)が同じ千葉県の印旛沼に続き全国2位ということで、水質汚濁が問題になる沼だけど、まあ見た目は普通。ヘラブナなど釣った魚は未だ原発事故の影響で持ち帰り禁止になっている。
  
 そこから少し歩いて白樺文学館へ。楚人冠記念館で「3館共通券」を買ったので、行かないといけない。案内版はあちこちに設置してあり、案外わかりやすい。道は左に崖、右に沼方向(見えないが)で、「ハケの道」と出ている。ハケとは関東で「崖」のこと。崖に沿って地下水が湧出することが多い。文学館の真ん前が志賀直哉邸跡なので、ここから。今は書斎しか残っていないが、パネルの説明がていねい。ここで「和解」「城崎にて」「小僧の神様」、そして「暗夜行路」が書かれたのだ。えっ、という感じである。読んでるんだから、解説かなんかで我孫子にいたと書いてあったはずである。でも、我孫子時代の産物だとは忘れている。志賀直哉の作品で、子どもが病気になった時の焦燥感を読んで、ずいぶん辺鄙な所に引っ込んでいたんだなと思った記憶はある。今はこんなにすぐ行けて、文学館もある。
   
 白樺文学館は中が撮れないから、チラシを載せておく。今は「原田京平」という人の展示をしている。誰も知らないと思うけど、志賀直哉が去った後に志賀邸の留守を守っていた人で、山本鼎(民衆画運動をした人)に師事した画家にして、窪田空穂門人の歌人という人。妻と二人の女子も画家だったということで、40歳で死んだためほとんど知られていないが、そういう人もいたのである。ここには柳兼子のピアノも寄贈され音楽会もあるというし、地下の音楽室では兼子の声楽を聴ける。
   
 さて、さらに「ハケの道」を進む。「滝井孝作仮寓跡」というのがある。もはやほとんど知られていないかもしれない「無限抱擁」の作家、滝井孝作が一時ここに住んでいたという。そこはなんと古墳である。というか、まあ古墳の近くだけど、説明としては古墳と言ってもいい。我孫子は古墳が多い。近くの道の写真も載せておく。
  
 少し行くと、「村川別荘」というのがある。ここは無料だから見ておくか。「村川堅固」(けんご)という人は知らないが。と思って行ったら、村川堅固は東大の西洋史の学者で、同じく東大の古代西洋史家だった村川堅太郎が受け継いだとある。古代ギリシャ・ローマ史の村川堅太郎なら、もちろん知っている。ここでゼミ合宿なんかもしたらしい。崖の上に母屋と新館があり、庭もキレイ、手賀沼も見えて、ここは飛ばさずに是非行くべきところだと思った。1991年に村川堅太郎が死去、国に物納されたが、我孫子市が買い取り公開されている。建築も貴重らしいけど、よく判らない。
   
 さて、そこからひたすら歩いて、沼のほとりへ。信号を渡り、「水の館」が見えてくると、3館共通券のもう一つ、「鳥の博物館」がある。いや、もう疲れてちゃんと見る気も起きなくて、ざっと見ただけだが、鳥そのものと手賀沼にいる鳥を手際よく展示している。こっちの方が興味深いという人も多いだろう。実は今回知ったのだが、この博物館の真裏あたりに、名前だけは知ってた有名な「山階鳥類研究所」(下の写真2枚目)があるのである。もちろん、見られません。そこから手賀沼親水広場へ出て、形も面白い「水の館」(下の写真3枚目)」があるが時間が遅くてパスして、沼沿いに手賀沼公園まで1キロ強を歩く。ここは陽射しを遮るものがないから真夏と真冬は厳しいだろうが、今のような季節のいい時期には素晴らしい散歩コースである。水辺の真横とはいかないが、ずっと沼を見ながら歩ける。
   
 手賀沼公園から先に行くと、武者小路実篤邸があるというが、けっこう距離がありそうなうえ、非公開なのでパスした。一路まっすぐ行けば我孫子駅。案外近い。半日地度の文学散歩として格好のコースではないかと思う。チェーン店で良ければ、随所に店もある。最後に駅前を。
   
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「プロット・アゲンスト・アメリカ」-フィリップ・ロスを読む①

2015年05月04日 23時30分23秒 | 〃 (外国文学)
 ここ数日読みふけっていたのが、フィリップ・ロスの「プロット・アゲンスト・アメリカ」(柴田元幸訳、集英社)。本文だけで480頁あって、じっくり読み応えがあって、けっこう手こずったんだけど、途中からドキドキしてきた。何だか見たことのあるような世界に思えてきたのである。

 フィリップ・ロス(1933~)は、毎年のようにノーベル賞受賞が噂にのぼるというか、なんでまだ受賞していないのか理解できないというべきだろうが、現代アメリカを代表する作家のひとりである。いろいろな作品があって、日本でもずいぶん翻訳されている。僕も読んでる本もあるけど、今回の「プロット・アゲンスト・アメリカ」(“The Plot Against America”)は2004年に出た、今のところ最新のロスの翻訳。2011年から2012年にかけて「すばる」に連載され、2014年8月に単行本として出版された。そういう本があるという話はどこかで聞いていて、刊行後すぐに買ったんだけど、あまり書評も出なかった。確かに日本では少し縁遠い作品かも知れないが、非常に力強い、思いのこもった小説である。

 ここに出てくるのは、1940年ころのフィリップ・ロス一家である。自分フィリップ(7歳)、父ハーマン、母、兄サンディという自分の家族の歴史である。では、自伝かというと、全く違う。1940年のアメリカで、実際に起こったフランクリン・ルーズヴェルト大統領のアメリカ史上唯一の大統領3選ではなく、共和党から出たチャールズ・リンドバーグが当選していたという架空の歴史をつづる「歴史改編もの」なのである。リンドバーグというのは、あの1927年に大西洋単独無着陸飛行をなしとげた「翼よ!あれがパリの灯だ」の英雄である。1932年に子どもが誘拐され死体が発見されるという事件が起き、その後ヨーロッパに赴く。そこでナチス・ドイツを訪れ、勲章を授けられた。帰国後も、反ユダヤ人、親ナチス的な言動が物議を醸していたのは、紛れもない事実である。ルーズヴェルトの対抗馬に窮した共和党がリンドバーグを担ぎ出すと言うのは、全くあり得ない出来事は言えない。妙にリアルな設定なのである。

 リンドバーグは、ヨーロッパで始まっていた第二次世界大戦に参戦しないことを公約し、「リンドバーグか、戦争か」を争点にして、大勝利する。と言っても、現実の歴史では日本こそが1941年12月に米英軍を奇襲攻撃しちゃうじゃないかというかもしれないが、そこはそれ、うまく変えている。リンドバーグは当選直後に、アイスランドでヒトラーと会談して欧州への不介入を約束。直後に日本ともホノルルで近衛首相、松岡外相と会談、アメリカは日本の「大東亜共栄圏」を承認することで、太平洋の平和が実現するのである。ナチスを支持するわけではなく、アメリカを戦争に巻き込まないのが目的であり、反ユダヤ人ではない。もちろん最初はそういうことで始まるのである。ところが、家族で行ったワシントン旅行で度重なる嫌な体験。だんだん、世の中が変わっていき、大っぴらにリンドバーグを批判できない、ユダヤ人であることを隠さねばならないようなムードが作られてくる…。

 その具体的なエピソードはこれから読む人の楽しみにために詳しく触れないが、心に沁みてくるのは「家族がだんだん壊れてくること」である。そして、それはまだ10歳にもならないフィリップ少年の視点で描かれているのだ。だから理解が不十分で、何が起こっているのかよく判らないという怖さが増幅される。自分なりに未熟ながら家族と自分を思ってしたことが、後になると全くのトンチンカン、そして自分の周りの人々を傷つけてしまうことさえある。カナダ軍に入ってドイツと戦うといういとこもいれば、リンドバーグ政権に協力するラビ(ユダヤ教の司祭)と結婚して急に羽振りのよくなる叔母(母の妹)もいる。そのラビらは、アメリカ同化局なる新組織でユダヤ人少年をアメリカ文化に触れさせる仕事を行い、兄のサンディはケンタッキーの農村を手伝いに行って、変ってしまう。まるで中国の文革期の「下放」である。こうして、だんだん社会が変わっていくわけである。

 父が勤める保険会社(メトロポリタン生命保険=実際に父が長年勤務していた会社)も政権に協力して「ユダヤ人同化政策」=「転勤命令」(ユダヤ人がほとんどいない地域に転勤させる)を出す。父はひそかにカナダ移住を考え始めるが…。そこに反ナチス、反リンドバーグを売り物にしていたラジオの報道パーソナリティ、ウォルター・ウィンチェル(実在人物)が番組を降ろされ、大統領選を目指す運動中に暗殺されるという事件が起き…全米に反ユダヤの暴動が起きて…。主人公一族とアメリカの運命はいかなる道筋をたどるのか?と思うと、アッと驚く展開が最後の最後に待っていて…。

 これを読んで思ったのは、フィリップ・ロスの巧みな小説構成術に導かれ、まさに「ありえたかもしれない」歴史の中をさまよってしまうという読書体験の凄さ。それは単に小説というにとどまらず、実際に「父の一本気」と「母の強さと気高さ」を十分に見て、受け継いできて、実際の父母ならこうするだろうというリアルさが生半可ではないということである。そして、もちろん「被圧迫民族」としてのユダヤ人には「歴史の中で見えるもの」があるということなんだと思う。当時はイスラエルという国はなかった。だから、アメリカに移住したユダヤ人にとっては、イタリア系やアイルランド系やポーランド系などの移民が祖国との絆を固く持ち続けるのとは違って、ヨーロッパの大虐殺(ポグロム)を逃れるようにしてアメリカに来たという記憶しかないのである。アメリカこそが祖国であり、アメリカへの帰属意識が一番高いのに、常に「ユダヤの陰謀」などと言われ「反アメリカ」と決めつけられる。そういう存在としてのユダヤ系アメリカ人の不条理が胸にせまるのである。

 これを読んで、まさに「今の日本ではないか」と思ってしまう。思わぬ人がいつのまにか「あっち側」に行ってしまう。逆らう人は干されてしまい、誰も見て見ぬふりをするようになる。「そんなに心配することはない」と政権のやり方を擁護する人が出てくる。そうやって、いつのまにか「言ってはいけないこと」「してはならないこと」が何となく決められていく。社会のムードがそういう風になっていって、いつの間にか「自分の居場所」がないことに気づく。僕にはそれは「既視感」(デジャヴ)の世界だった。21世紀の東京の学校で、日々進行して行った出来事とそれはよく似ている。いくら言っても何も変わらず、いつの間にか誰も言わなくなり、逆らった人はいつの間にか消えていく。そういう静かな恐怖が全篇に満ちていて、これはアメリカのユダヤ人だけの問題ではないと思わせる傑作だった。これをきっかけに、フィリップ・ロスをまとめて読んでみたいと思う。とびとびに何回か。
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映画「マジック・イン・ムーンライト」

2015年05月03日 23時10分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 ウッディ・アレン監督の新作映画「マジック・イン・ムーンライト」。夢のような設定で、夢のように楽しく展開する、他愛ないけど、楽しく見られるウッディ・アレンのロマンチック・コメディ

 ウッディ・アレン(1935~)は本年12月をもって80歳になるけど、未だに毎年のように新作映画を作っている。2013年の「ブルー・ジャスミン」ではケイト・ブランシェットにアカデミー主演女優賞を、2011年の「ミッドナイト・イン・パリ」では自身3度目のアカデミー脚本賞(他の2本は「アニー・ホール」と「ハンナとその姉妹」)を獲得した。そういう映画だから、このブログでも大きく取り上げてもいいはずなんだけど、結局書かなかった。特に大きな理由があるわけでもないんだけど、「パリ」は趣向に寄りかかりすぎで、「ブルー」は全盛期の鋭さには届かなかったと思ったのである。(どっちもキネ旬5位になったけど、最近海外映画は不作の年が多い。)ウッディ・アレンはこんなもんじゃなかったとつい思ってしまう。それもやむを得ないわけで、黒澤明やフェデリコ・フェリーニが晩年にどんな作品を作ろうが、かつての偉大な作品に敬意を表して、全部見に行った。いちいちけなしたりする気はなくて、全盛期に及ばずとも巨匠の新作が作られれただけで喜ばしいではないか。

 今回の「マジック・イン・ムーンライト」は、南仏コート・ダジュールのお城のようなお屋敷に展開するロマンチック・コメディ。象を舞台上から消してしまう大マジシャン、中国名だけど実は英国人のスタンリー(「英国王のスピーチ」のコリン・ファース)が、友人に頼まれて謎の若き女性霊能者ソフィ(「バードマン」のエマ・ストーン)の仕掛けを暴きに出かける。友人もマジシャンなんだけど、自分には見抜けなかった、もしかしたら本物の霊能者かもというのである。スタンリーはいかにも天才肌の尊大なタイプで、仕掛けがあるに決まってる、自分なら見抜けると出かけていく。ソフィが滞在するお屋敷では、息子がすっかりソフィにいかれて求婚中。ソフィは貧乏から抜け出す絶好のチャンス到来なんだけど…。

 後はお決まりの展開だけど、それをどうこう言うのは寅さん映画で「何でいつも好きになっては振られるのか?」などとマジメに疑問を持つようなものである。美しい景色(コート・ダジュールが出てくる映画は山のようにあるけど、海が見えるだけで現実を超えるようなムードになってくる)を見ながら、そこにクラシック・カーや時代物のファッションが散りばめられた画面が楽しい。何故か天文台があり、雨に濡れてさまよっていく天文台に入っていく忘れられないシーンの素晴らしさ。これは近年の作の中でも成功したシーンではないか。だましだまされ結ばれてをひたすら楽しめばいいではないか。

 ウッディ・アレンは今までに40数本の監督作があるが、(テレビ映画や短編をどう数えるか、また脚本・主演はしていて事実上アレン作品的な映画もあるうえ、結局日本では正式に公開されなかった映画も存在するので、数を確定する意味が少ない)、そのほとんどを見て来た。70年代当初に、アメリカでユダヤ系のジョークを連発する注目すべきコメディアンがいて、舞台に出たり小説も書いてるけど、最近は映画にいっぱい出ている、監督もしているという話が伝わってきた。僕が最初に見たのは、アレンの監督ではないけど、「ボギー!俺も男だ」(ハーバート・ロス監督)のボギー(ハンフリー・ボガート)をマネする演技。なるほど、これがウッディ・アレンかという登場ぶりだった。その後、「スリーパー」や日本公開はだいぶあとになるが「SEXのすべて」(ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう)などを見ると、バカバカしい時の北野武のように陽気でバカげた、笑えないジョークがいっぱいの映画で、けっこう好きだった。

 その後、ニューヨークを描くのは俺だ的なマジメ映画、アメリカのベルイマンとでも呼ぶべき超マジメ映画を連発してビックリさせたが、それはもちろん凄いけど、やっぱり「ひたすら楽しい」映画が多い。「カメレオンマン」「カイロの紫のバラ」「ラジオ・デイズ」などの80年代に連発した映画の面白さは素晴らしいの一言につきた。90年代に入ると、どうも創作力に衰えがあるかという感じもしてきたが、21世紀のブッシュ時代にはヨーロッパに出向いて新作を作った。本国以上にヨーロッパで尊敬されるウッディ・アレンだから、米国を離れて甦ったかのような充実ぶりが戻ってきた。英国が舞台の「マッチポイント」が凄くて、後はまたロマンティック路線だけど、スカーレット・ヨハンソンとかペネロペ・クルズ(「それでも恋するバルセロナ」でアカデミー助演女優賞を取ってしまった)とか「旬の女優」を連れてくる「女たらし」ぶりも健在で、まあ、そういうのも含めて楽しんで見られる映画。(それにしてもエマ・ストーンはスタンリーのセリフにもあるように、目が大きすぎるかな。)

 ところで、映画そのものとは関係ないけど、現代は“Magic in the Moonlight”である。邦題はtheが抜ける。それはどうなんだろうか。どうせ原題そのままなんだったら、「マジック・イン・ザ・ムーンライト」にすべきではないのだろうか。まあ、日本語には定冠詞はないんだから、抜いていいとも言える。「ザ」と“the”では発音が違うと言えば、そうも言えるわけだし。しかし、何より「月明かりのマジック」とかではダメなのか。英語を生かしたいなら「ムーンライト・マジック」の方がよくないか。
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「絶対評価」と「相対評価」

2015年05月02日 23時49分02秒 |  〃 (教育問題一般)
 「絶対評価」と「相対評価」の問題をもう少し書くと前回書いてしまったので、やっぱり書いておかないと。あまり細かく考えつめたこともないので、今まで思っていたことのまとめだが。昔は、小学校、中学校は「相対評価」を行っていた。学年途中は違う付け方をする場合もあるが、「学年評定」あるいは「調査書に使う評定」(中学3年の2学期)は厳密に相対評価していた。後者の場合、生徒全員の成績一覧表が作られて、数があっているか各校の校長が集まって点検を行っていた。その点検済みの一覧表は願書の出願時に都立高校に提出されるのである。

 要するに、「5段階評価」の数が正しいかをチェックするわけである。その時には、「5」と「1」は7%、「4」と「2」は24%、「3」は38%にする。これは統計学上の「正規分布」を前提にしている。つまり、「地域全体の生徒を集めて来れば」、中には成績の良い生徒もいるし、成績が悪い生徒もいるけど、大よそは真ん中程度の平均点前後の生徒が多くなる(はずである)。つまり、横に成績を、縦にその成績の生徒数を書いたグラフを作ってみれば、「富士山型」になる。これが「相対評価」の原理である。

 1クラスに40人いるとすれば、「5」と「1」は3人程度になるわけである。このうち、「非常に成績の良い生徒」は一クラスに3人程度というのは、試験の難易度が適当であれば、大体はそんなものではないかと思う。でも、「1」に当たる生徒が「3人いなければならない」というのは、けっこう不条理である。付ける側にも、付けられる側にも。良い学校、良いクラス、良い教師、そして頑張る生徒達であればあるほど、中間程度の生徒も底上げされてくるので、平均点がアップしてきて、「5」はともかくとしても、「4」を付けてもいいような生徒も「3」、つまり「普通」の範囲の成績を付けないといけなくなる。学習状況も積極的で、試験も80点近く取っていれば、普通だったら「4」でいいのではないか。だけど、そういう場合も全員が頑張ってしまえば「3」にしかならない。

 だから、中学に勤務しているときは、もっと「絶対評価」に近い付け方にして欲しいと思っていたのである。だけど、その意味は上記のような場合、「4」を付けてもいいのではないかということである。教師としては、ボーダーラインの生徒が頑張っているのなら、できれば上の成績を付けてあげたいということになる。だから、相対評価を変えれば、多くの学校で評定平均が上がることになるだろう。中学段階であまりに厳しい到達目標を掲げて、生徒の成績をどしどし下げてしまうなどという学校があるはずがない。中学からすれば、自分の生徒が志望校に合格できた方がいいわけだから、中学の成績が「甘すぎ」になってしまわないかというのが、高校側、あるいは一般の懸念なわけである。

 ところで、高校や大学はもともと「絶対評価」である。これは、入学時点で「生徒(学生)が正規分布になっていない」のだから当然である。成績が似たものがその学校に合格するわけある。学校ごとに生徒の進路希望も大きく異なり、当然のこととして学校ごとに生徒に求める到達度が異なってくる。特に20世紀末頃から「新学力観」に基づいて、本人の意欲なども評価していくことになって、成績の考え方も大きく変わってきた。そうして、義務教育段階の評定にも「絶対評価」を取り入れていくことが始まっていった。東京都では、2002年から実施されている。しかし、そうなってくると、かえって「絶対評価」に潜む問題性もないわけではないということが判ってきた。

 もともと、各地域が同じように「正規分布」しているというのが、一種の幻想である。実は各校区で地域差が大きく、さまざまな生徒が一堂に会すると言えなくなってきた。東京では、各学区ごとに大きな成績差があったことは周知のことで、私立高校では各地域の評定を学校で読みかえたりしていた。(推薦入学希望者に対して。外部テストの偏差値を私立校に示せた時代には、学区偏差値を都全体の偏差値に換算して判断することになっていた。)しかし、幻想であれ、生徒が地元の学校に行かざるを得ない制度のもとでは、その「幻想」は維持して行かないといけないものだった。各校、各地域ごとに成績レベルが違うということを公に認めるなら、校区を維持して地域の生徒は原則的に同じ学校に通うというシステムもおかしいということになる。

 そして、実際に東京で始まって、その制度も無くなってしまった。小中の段階で、もう校区以外の学校を選んでもいい。「学校選択制」である。また、高校段階でも「学区」はなくなり、原則的にどこにある都立高校を受験してもいい。そういう「競争システム」になってしまうと、「あそこは成績のいい学校」だとして生徒が集まる、そうするとその学校に好成績の生徒が増える。それなのに、相対評価しかできないのでは困ったことになる。高校受験を考えると、内申点をよくするためにはむしろ「成績が低い」と言われるような学校に行かせる方が良いのかということになる。いわゆる「牛後」か「鶏頭」かを、小学校段階で考える必要が出てくる。公立校が、学校選択制だ、中高一貫や小中一貫だと、「エリート校」作りを始めていく以上、「絶対評価」への変更は必然の措置だったのである。つまり、絶対評価の方が「新自由主義的教育」に実は親和的だったのである。

 今思うのは、「世の中は相対評価」だということを教師はもっと伝えていかないといけないと思う。五輪の陸上や水泳では、「世界新記録を出せば全員金メダル」ということはない。記録的には遅くても、決勝のレースの順番で、金銀銅、そしてメダル外が決まる。実は、絶対評価に変えて行うという高校入試そのものが、相対評価で合否を判断する。何点以上が全員合格という「検定」のようなものも世の中にはあるが、大体は定員が決まっていて、上から順位を付けて合格になっていく。これはつまり「相対評価」ということである。学校も会社も、世の中の「入札」や「選挙」、さらには「婚活」も、大体は「相対評価」で行う。(まあ、結婚は「絶対条件」を下げないまま、独身を通す人も多いようだが。)世の中は相対評価だということを教えないと、選挙に「入れたい人がいないから行かない」などとのたまう人が出てくる。
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