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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「マジック・イン・ムーンライト」

2015年05月03日 23時10分34秒 |  〃  (新作外国映画)
 ウッディ・アレン監督の新作映画「マジック・イン・ムーンライト」。夢のような設定で、夢のように楽しく展開する、他愛ないけど、楽しく見られるウッディ・アレンのロマンチック・コメディ

 ウッディ・アレン(1935~)は本年12月をもって80歳になるけど、未だに毎年のように新作映画を作っている。2013年の「ブルー・ジャスミン」ではケイト・ブランシェットにアカデミー主演女優賞を、2011年の「ミッドナイト・イン・パリ」では自身3度目のアカデミー脚本賞(他の2本は「アニー・ホール」と「ハンナとその姉妹」)を獲得した。そういう映画だから、このブログでも大きく取り上げてもいいはずなんだけど、結局書かなかった。特に大きな理由があるわけでもないんだけど、「パリ」は趣向に寄りかかりすぎで、「ブルー」は全盛期の鋭さには届かなかったと思ったのである。(どっちもキネ旬5位になったけど、最近海外映画は不作の年が多い。)ウッディ・アレンはこんなもんじゃなかったとつい思ってしまう。それもやむを得ないわけで、黒澤明やフェデリコ・フェリーニが晩年にどんな作品を作ろうが、かつての偉大な作品に敬意を表して、全部見に行った。いちいちけなしたりする気はなくて、全盛期に及ばずとも巨匠の新作が作られれただけで喜ばしいではないか。

 今回の「マジック・イン・ムーンライト」は、南仏コート・ダジュールのお城のようなお屋敷に展開するロマンチック・コメディ。象を舞台上から消してしまう大マジシャン、中国名だけど実は英国人のスタンリー(「英国王のスピーチ」のコリン・ファース)が、友人に頼まれて謎の若き女性霊能者ソフィ(「バードマン」のエマ・ストーン)の仕掛けを暴きに出かける。友人もマジシャンなんだけど、自分には見抜けなかった、もしかしたら本物の霊能者かもというのである。スタンリーはいかにも天才肌の尊大なタイプで、仕掛けがあるに決まってる、自分なら見抜けると出かけていく。ソフィが滞在するお屋敷では、息子がすっかりソフィにいかれて求婚中。ソフィは貧乏から抜け出す絶好のチャンス到来なんだけど…。

 後はお決まりの展開だけど、それをどうこう言うのは寅さん映画で「何でいつも好きになっては振られるのか?」などとマジメに疑問を持つようなものである。美しい景色(コート・ダジュールが出てくる映画は山のようにあるけど、海が見えるだけで現実を超えるようなムードになってくる)を見ながら、そこにクラシック・カーや時代物のファッションが散りばめられた画面が楽しい。何故か天文台があり、雨に濡れてさまよっていく天文台に入っていく忘れられないシーンの素晴らしさ。これは近年の作の中でも成功したシーンではないか。だましだまされ結ばれてをひたすら楽しめばいいではないか。

 ウッディ・アレンは今までに40数本の監督作があるが、(テレビ映画や短編をどう数えるか、また脚本・主演はしていて事実上アレン作品的な映画もあるうえ、結局日本では正式に公開されなかった映画も存在するので、数を確定する意味が少ない)、そのほとんどを見て来た。70年代当初に、アメリカでユダヤ系のジョークを連発する注目すべきコメディアンがいて、舞台に出たり小説も書いてるけど、最近は映画にいっぱい出ている、監督もしているという話が伝わってきた。僕が最初に見たのは、アレンの監督ではないけど、「ボギー!俺も男だ」(ハーバート・ロス監督)のボギー(ハンフリー・ボガート)をマネする演技。なるほど、これがウッディ・アレンかという登場ぶりだった。その後、「スリーパー」や日本公開はだいぶあとになるが「SEXのすべて」(ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう)などを見ると、バカバカしい時の北野武のように陽気でバカげた、笑えないジョークがいっぱいの映画で、けっこう好きだった。

 その後、ニューヨークを描くのは俺だ的なマジメ映画、アメリカのベルイマンとでも呼ぶべき超マジメ映画を連発してビックリさせたが、それはもちろん凄いけど、やっぱり「ひたすら楽しい」映画が多い。「カメレオンマン」「カイロの紫のバラ」「ラジオ・デイズ」などの80年代に連発した映画の面白さは素晴らしいの一言につきた。90年代に入ると、どうも創作力に衰えがあるかという感じもしてきたが、21世紀のブッシュ時代にはヨーロッパに出向いて新作を作った。本国以上にヨーロッパで尊敬されるウッディ・アレンだから、米国を離れて甦ったかのような充実ぶりが戻ってきた。英国が舞台の「マッチポイント」が凄くて、後はまたロマンティック路線だけど、スカーレット・ヨハンソンとかペネロペ・クルズ(「それでも恋するバルセロナ」でアカデミー助演女優賞を取ってしまった)とか「旬の女優」を連れてくる「女たらし」ぶりも健在で、まあ、そういうのも含めて楽しんで見られる映画。(それにしてもエマ・ストーンはスタンリーのセリフにもあるように、目が大きすぎるかな。)

 ところで、映画そのものとは関係ないけど、現代は“Magic in the Moonlight”である。邦題はtheが抜ける。それはどうなんだろうか。どうせ原題そのままなんだったら、「マジック・イン・ザ・ムーンライト」にすべきではないのだろうか。まあ、日本語には定冠詞はないんだから、抜いていいとも言える。「ザ」と“the”では発音が違うと言えば、そうも言えるわけだし。しかし、何より「月明かりのマジック」とかではダメなのか。英語を生かしたいなら「ムーンライト・マジック」の方がよくないか。
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「絶対評価」と「相対評価」

2015年05月02日 23時49分02秒 |  〃 (教育問題一般)
 「絶対評価」と「相対評価」の問題をもう少し書くと前回書いてしまったので、やっぱり書いておかないと。あまり細かく考えつめたこともないので、今まで思っていたことのまとめだが。昔は、小学校、中学校は「相対評価」を行っていた。学年途中は違う付け方をする場合もあるが、「学年評定」あるいは「調査書に使う評定」(中学3年の2学期)は厳密に相対評価していた。後者の場合、生徒全員の成績一覧表が作られて、数があっているか各校の校長が集まって点検を行っていた。その点検済みの一覧表は願書の出願時に都立高校に提出されるのである。

 要するに、「5段階評価」の数が正しいかをチェックするわけである。その時には、「5」と「1」は7%、「4」と「2」は24%、「3」は38%にする。これは統計学上の「正規分布」を前提にしている。つまり、「地域全体の生徒を集めて来れば」、中には成績の良い生徒もいるし、成績が悪い生徒もいるけど、大よそは真ん中程度の平均点前後の生徒が多くなる(はずである)。つまり、横に成績を、縦にその成績の生徒数を書いたグラフを作ってみれば、「富士山型」になる。これが「相対評価」の原理である。

 1クラスに40人いるとすれば、「5」と「1」は3人程度になるわけである。このうち、「非常に成績の良い生徒」は一クラスに3人程度というのは、試験の難易度が適当であれば、大体はそんなものではないかと思う。でも、「1」に当たる生徒が「3人いなければならない」というのは、けっこう不条理である。付ける側にも、付けられる側にも。良い学校、良いクラス、良い教師、そして頑張る生徒達であればあるほど、中間程度の生徒も底上げされてくるので、平均点がアップしてきて、「5」はともかくとしても、「4」を付けてもいいような生徒も「3」、つまり「普通」の範囲の成績を付けないといけなくなる。学習状況も積極的で、試験も80点近く取っていれば、普通だったら「4」でいいのではないか。だけど、そういう場合も全員が頑張ってしまえば「3」にしかならない。

 だから、中学に勤務しているときは、もっと「絶対評価」に近い付け方にして欲しいと思っていたのである。だけど、その意味は上記のような場合、「4」を付けてもいいのではないかということである。教師としては、ボーダーラインの生徒が頑張っているのなら、できれば上の成績を付けてあげたいということになる。だから、相対評価を変えれば、多くの学校で評定平均が上がることになるだろう。中学段階であまりに厳しい到達目標を掲げて、生徒の成績をどしどし下げてしまうなどという学校があるはずがない。中学からすれば、自分の生徒が志望校に合格できた方がいいわけだから、中学の成績が「甘すぎ」になってしまわないかというのが、高校側、あるいは一般の懸念なわけである。

 ところで、高校や大学はもともと「絶対評価」である。これは、入学時点で「生徒(学生)が正規分布になっていない」のだから当然である。成績が似たものがその学校に合格するわけある。学校ごとに生徒の進路希望も大きく異なり、当然のこととして学校ごとに生徒に求める到達度が異なってくる。特に20世紀末頃から「新学力観」に基づいて、本人の意欲なども評価していくことになって、成績の考え方も大きく変わってきた。そうして、義務教育段階の評定にも「絶対評価」を取り入れていくことが始まっていった。東京都では、2002年から実施されている。しかし、そうなってくると、かえって「絶対評価」に潜む問題性もないわけではないということが判ってきた。

 もともと、各地域が同じように「正規分布」しているというのが、一種の幻想である。実は各校区で地域差が大きく、さまざまな生徒が一堂に会すると言えなくなってきた。東京では、各学区ごとに大きな成績差があったことは周知のことで、私立高校では各地域の評定を学校で読みかえたりしていた。(推薦入学希望者に対して。外部テストの偏差値を私立校に示せた時代には、学区偏差値を都全体の偏差値に換算して判断することになっていた。)しかし、幻想であれ、生徒が地元の学校に行かざるを得ない制度のもとでは、その「幻想」は維持して行かないといけないものだった。各校、各地域ごとに成績レベルが違うということを公に認めるなら、校区を維持して地域の生徒は原則的に同じ学校に通うというシステムもおかしいということになる。

 そして、実際に東京で始まって、その制度も無くなってしまった。小中の段階で、もう校区以外の学校を選んでもいい。「学校選択制」である。また、高校段階でも「学区」はなくなり、原則的にどこにある都立高校を受験してもいい。そういう「競争システム」になってしまうと、「あそこは成績のいい学校」だとして生徒が集まる、そうするとその学校に好成績の生徒が増える。それなのに、相対評価しかできないのでは困ったことになる。高校受験を考えると、内申点をよくするためにはむしろ「成績が低い」と言われるような学校に行かせる方が良いのかということになる。いわゆる「牛後」か「鶏頭」かを、小学校段階で考える必要が出てくる。公立校が、学校選択制だ、中高一貫や小中一貫だと、「エリート校」作りを始めていく以上、「絶対評価」への変更は必然の措置だったのである。つまり、絶対評価の方が「新自由主義的教育」に実は親和的だったのである。

 今思うのは、「世の中は相対評価」だということを教師はもっと伝えていかないといけないと思う。五輪の陸上や水泳では、「世界新記録を出せば全員金メダル」ということはない。記録的には遅くても、決勝のレースの順番で、金銀銅、そしてメダル外が決まる。実は、絶対評価に変えて行うという高校入試そのものが、相対評価で合否を判断する。何点以上が全員合格という「検定」のようなものも世の中にはあるが、大体は定員が決まっていて、上から順位を付けて合格になっていく。これはつまり「相対評価」ということである。学校も会社も、世の中の「入札」や「選挙」、さらには「婚活」も、大体は「相対評価」で行う。(まあ、結婚は「絶対条件」を下げないまま、独身を通す人も多いようだが。)世の中は相対評価だということを教えないと、選挙に「入れたい人がいないから行かない」などとのたまう人が出てくる。
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