尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

フリースクール法制化への懸念

2015年06月08日 23時22分33秒 |  〃 (教育問題一般)
 各紙の報道によると、義務教育制度の大転換とも言える「フリースクール」や「家庭教育」を義務教育の場として認める法制化が進められているという。超党派の議員連盟が進めているということで、調べてみると「多様な学び保障法を実現する会」というのがあり、そこから「フリースクール等議員連盟」が6月3日に発足している。幹事長が馳浩(自民)、事務局長が林久美子(民主)である。ずっと先進的に活動してきた東京シューレの奥地圭子さんなども中心的に関わっているようで、そういう意味では「善意」から進められている法制化ではないかと思う。

 いじめなどをきっかけに不登校になって学校に通わなくなった子どもが、「フリースクール」で「学び直し」を始め居場所を見つけていく。そういうことは確かにあるだろう。(僕も見たり聞いたりしに行ったこともある。)だけど、そういう場合も生徒の「学籍」はもとの学校にあり、フリースクールへ通うことを「出席」と「柔軟に解釈」(そうせよという通達がある)して、もとの小中学校を卒業したということになる。それでいいのかという感じを持つ子どももいるだろう。(元の学校の卒業歴が残る方がいいという親子もいるだろうが。)また、フリースクールに通うには、多額の費用や交通費がかかることが多く、経済的負担も大きい。だから、法制化によって、経済的支援が行われればずいぶん助かる人が多いだろう。

 ところで、この問題に関する記事のほとんどには、「全国12万人の不登校」と書かれている。これは一体何だろうというと、学校関係者には周知のように、「年間30日以上の欠席」を(その他もろもろのデータとともに)まとめて報告しているわけである。それは政府の統計サイトの「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」の「 4.小・中学校の不登校」から「不登校児童生徒数」の「Excel」をクリックすれば見られる。2013年の数字では、小中合わせて、119617というデータが掲載されている。これが元データだと考えられる。

 だけど、クラス担任経験者にはよく判っているように、この数字はあまり当てにならない。不登校にもさまざまなタイプがあり、理由の報告もするけれど、どうもうまくあてはまるものがない。大体、30日とは「一月に3回」で該当してしまうので、病弱の子や経済的に大変な家庭などの場合、行事などを欠席しやすいから、すぐに30日に達してしまう。もっとも医者からインフルエンザの証明書が出れば、一挙に「出席停止」に変更され、欠席数が激減してしまうことがある。が、なかなか医者にも行けない家庭では「風邪で寝てる」ということで、こじらせ状態が全部欠席数に加算されてしまったり。他人との関わりが難しい子ども(発達障害などのケース)では、行事になれば来なくなったりする場合もある。一方、サボリ系、不良タイプの不登校も、もちろんいつの時代も一定数いるわけだから、それぞれ対応が変ってくるはずである。勉強に全く意欲を持たず、毎日「重役出勤」する生徒は、遅刻だから数には入らない。「少しだけなら毎日保健室に顔を出せる」生徒は、「事実上の不登校」だけど、この場合も統計上の報告から漏れてしまう。まあ、そういう事情があって、フリースクール法制化が救いになる生徒の方が少ないというのが現実ではないかと思うわけである。

 僕が心配するのは、かえって「学校からフリースクールに追いやられる」とか「フリースクールからのフリーを求める」などのケースが起こらないかということである。後者から考えると、果たして「法制化」された、つまり「教育制度」の中に入った「フリースクール」は、果たして「フリー」なんだろうかということである。国公私立の学校と同じく、生徒の卒業を認定できる、つまり高校入学の資格を与えるということなんだから、いくら柔軟さが求められるといっても、法制化である程度の枠がはめられるのではないだろうか。施設の問題、教員の問題、カリキュラムの問題…。学校と同じレベルを求められたら、とても答えられない。だが、図書室や体育館を求められたら、教員免許保有者が半数以上いることとされたら、学習指導要領に準拠した学びを保障せよと法で規定されたら…。フリースクールの卒業式で国旗国歌をやれと言いだす保守系政治家がそのうち現れるのではないか。(「税金を入れている以上、国の方針を守るのが当然ではないか」などと言い出すだろう。)

 ところで、それ以上に恐れることは、「株式会社立」のフリースクールが多数つくられて、成績の上と下の生徒は事実上学校にいなくなるのではないのかということなのである。学校法人ではなく、株式会社が設立する学校は、今でも認められている。だから、株式会社としてフリースクールを設立、運営するところが出てくるのは防ぎようがないだろう。そうすると、両極化が予想できる。一つは、もう「やさしすぎる」学校はバイパスして、高学力者向けのフリースクールで英語などに特化した学習を続け、直接外国の高校、大学に留学するというコースである。あるいは、地元の中学、高校には通わずに、ずっと中学、高校をフリースクールで過ごし、高卒認定試験合格で大学に飛び入学するコースである。そういうことが多数起こると予想できる。

 また、その反対に「低学力者向けのフリースクール」もいっぱい出来るのではないか。小中の教員は、全国学力テストの結果が、自己の成績に連動するような勤務評定をされていく。その結果、学力テスト向けの教育が進められ、付いていけない低学力生徒は学校にいづらくなり、不登校気味となる。そこで学校はフリースクールへの転校を進めるというわけである。低学力生徒がテストに来れば平均点が下がる。来なければ平均点は上がるが、来ない間に問題行動を起こせば、学校は何をしていたんだと責められる。そこで、学籍ごとフリースクールに移れば問題はなくなる…というわけである。杞憂だろうか。ところで、法制化されたフリースクールも学力テストを受けざるを得なくなるんだろうか。
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安田浩一「ヘイトスピーチ」を読む

2015年06月07日 23時40分30秒 | 〃 (さまざまな本)
 安田浩一さんの「ヘイトスピーチ」(文春新書、800円+税)を読んだ。こういう本の紹介は難しいんだけど、多くの人に触れて欲しいから書いておきたい。「ヘイトスピーチ」というものを行う輩がいるということは、ある程度前から聞かれるようになった。その深刻な姿はなかなか明るみに出なかったが、数年前からは「カウンター」として対抗するグループも出てきた。そのことは聞いていたけど、僕は「現場」に行き合わせたことはない。ネットで日時が予告されるという話だから、熱心に探せば行き当たるんだろうと思うけど、そこまではしていない。それでいいのかどうか、自分では判らないが、ネット頼りになり過ぎると本を読む時間が取れないので、あまり見たくないのである。

 著者の安田浩一さんは、1964年生まれのフリーライターで、『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(2012)で講談社ノンフィクション賞、「ルポ 外国人『隷属』労働者」(2015)で大宅荘一ノンフィクション賞(雑誌部門)と近年立て続けに、この部門の有力賞を受けている。僕はその前の『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)を読んで、大変ショックを受けた経験がある。こうしてみると、日本社会の中の外国人問題を大きなテーマとして追い続けている。それだけで貴重で、えがたい情報を得られるから読んだ方がいい。もっとも僕は新書しか読んでない。内容や値段の問題もあるけど、そもそも「新書」が好きなのである。新書が充実していることは、日本が誇るべきことだと思う。

 この本はとても読みやすく、難しいところはどこにもないから、一応スラスラ読める本である。でも、初めて知る人、「マトモな神経」を持つ人には、何だ、これというほどの、とても読めない、紹介できないような、「憎悪」にあふれた言葉が詰まっている。ここでは紹介しない。書き移すのもバカみたいなので。だけど、こういう言葉を、確かに今までも落書き等で書き散らしていた人はいるだろうけど、皆で集まってデモで連呼するようになってしまったのはどうしてなんだろう。日本社会は壊れてしまったんだろうか。そういう内省を誘う本でもある。

 安田さんという人は、本当にすごいと思うのだが、ヘイトスピーチにさらされる側の人々に寄り添うだけでなく、ヘイトスピーチを行う側にも果敢に取材を試みる。もちろん、ヘイトスピーチは「される側」ではなく、「する側」の問題なんだから、当然と言えるかもしれないが、誰にでもできることではない。あまりにもひどい書き込みをネット上に繰り返す人がいて、協力して情報を集めていって「特定」した例まである。ブログやツイッターなどに書き込む情報を丹念に積み重ねていくと、人はある程度は自分を語ってしまうところがあるので、ある程度居住地や趣味・嗜好などを絞り込むことができる。そうやって、本人に会ってしまう。一緒に飲むこともある。そういう体験を積む中で作られた本である。

 この本を読んでもらいたい理由はそういう取材方法にもある。取材にもお金がかかっているようだから、せめて新書本を買うことで支えるべきだ。それに文春新書である。昨年の「慰安婦報道」などでは、文春も「歴史修正主義」的な報道を行っているし、文春新書にもそういう本はある。だけど、そんな中で、「ヘイトスピーチ」が出る。どういう経緯があるのか知らないけど、この本が「売れる」ということは、文春内でこの本に関わった人に力を与えるのではないかと思うわけである。

 でも、帯にある「なぜ彼らは暴発するのか?」は僕には最後まで判らなかった。ネット上で卑劣な書き込みをする人がいるということは、まあ判ってはいけないのかもしれないが、今までのさまざまな体験から想像することはできる。でも、人前で大声で叫ぶということは、ほとんどの人間にとっては想像を超えることではないか。僕もデモに参加したことはあるが、「○○に反対するぞ」というシュプレヒコールだって、そのために集まっているわけだから、内容には全く賛成であっても、なんだか恥ずかしい。ましてや「殺せ」だの、どうしてデモできるのだろうか。

 まあ、そういうことは完全に理解できるものではないだろう。でも、こういうデモがなぜ許されているのか。「表現の自由」の問題ではないだろう。明らかに「脅迫」や「名誉棄損」を構成するとしか思えない。犯罪以外の何物でもないだろう。特に、ナチスのカギ十字(ハーケンクロイツ)を持ち出す人まで出てきたとは、完全に「犯罪」としか思えない。日本の日常の中に、ナチスが登場するわけがない。「頭」で作られた「挑発」ということである。

 これらの「ヘイトスピーチ」をする人々は、多分「マイノリティ」(少数派)の人々を友人、知人として持たないで生きてきたのだろうと思う。彼らは「日本人の方が迫害されている」と思っているらしい。でも、どうすれば「少数派」が「多数派」を迫害できるのか。およそまともな常識と良識があれば、「外国人は税金を払っていない」などという「妄想」を抱けないと思うのだが。ネットで聞いたというのなら、少しネットで検索して調べてみればいいのに。そこで思うのは、自分の周りに一人でも「在日韓国・朝鮮人」の知り合いがいれば、そんなバカげた妄想はなかっただろうということだ。どこの国でもいいけれど、尊敬する外国人が何人かいれば、外国人だからといって、ひとからげにして罵倒できないだろうに。

 僕が思い出したのは、永山則夫「無知の涙」のことである。言葉だけだというかもしれないが、ヘイトスピーチというのは、「魂の殺人」というに近い。そして、本来は仲間になるべきだったものどうしで、「仲間殺し」をしているのである。「ヘイトスピーチ」の本質は「仲間殺し」なんだと僕は思ったのである。
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長田弘、松下圭一、車谷長吉、吉川勇一等ー2015年5月の訃報

2015年06月06日 23時49分42秒 | 追悼
 2015年5月には、追悼記事を書いた人はいなかったけど、今まで読んだり見たり…名前を知っていた多くの人が亡くなった。
 詩人の長田弘(おさだ・ひろし、5.3没、75歳)はずいぶん読んでいる。世界のさまざまな本を紹介するような著作が特に好きだった。「私の二十世紀書店」など。では詩の方はどうなのかというと、ハルキ文庫から「長田弘詩集」というのが出ている。これを夜間定時制の文化祭で朗読したことがある。すごく面白い。好きで、引用しようかと思ったけど、けっこう長いのでやめる。本だけ画像を載せておく。最近、全詩集も出ているが、高いから買えないなあ。でも、文庫本なら買って読んでもいいんじゃないか。
(長田弘)
 政治学者の松下圭一(5.6没、85歳)が亡くなった。松下氏は1970年代には、市民自治、分権社会を説く政治学者として、当時たくさんあった「革新自治体」を支える理論的指導者だった。「シビル・ミニマム」が松下氏を象徴する言葉だったけど、最近は聞かなくなった。1959年に、早くも「大衆天皇制論」を書いているのが「論壇」への登場。これは20代のことではないか。その後、社会の保守化の中で、あまり名前が知られなくなってしまったのは残念だった。
(松下圭一)
 作家の車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ、5.17没、69歳)の突然の訃報には驚いた。「赤目四十八瀧心中未遂」で直木賞を受けたが、どうもいま一つよく判らなかった。映画化されて初めて少し判った気がした。その前の三島由紀夫賞、「鹽壺の匙」を読んだのが初めてだと思うけど、厳しすぎて僕の理解を超えていた。朝日新聞土曜版の人生相談の答えも、俗を超越し過ぎていたと僕には思えるのだった。こういう作家もいるものだとは思う。
(車谷長吉)
 扇田昭彦(せんだ・あきひこ、5.22没、74歳)は、朝日新聞の演劇記者として、ずっと劇評を読んできた。特に岩波新書にまとめられた「日本の現代演劇」は「ためになる本」だった。「アングラ」以後のさまざまな演劇の変容を並走して取材した人。いつ頃からか、この人の名前で劇評を読むようになった。他の人だったら、自分の感性も違っていたのかもしれない。

 吉川勇一(5.28没、84歳)は、「べ平連」の事務局長として非常に重要な人だった。もともと長い運動歴がある人で、日共の東大細胞でさまざまの活動に関わり退学になっている。その後も共産党系の大衆団体の専従歴が長く、事務能力の高さを見に付けた。共産党を除名後に、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の事務局長などを務めたわけだが、実務的に運動を支える役目だったが、やがて非常に有名な人になった。それは市民運動に「実務」に明るい人が少ない時代に、そういうことの重要性を身をもって示したからだと思う。「市民運動の宿題」などの著書にも、長い運動実務から来る民衆の知恵のようなものがあると思う。名前はずいぶん昔から知っているが、僕は直接会ったことはない。
(吉川勇一)
 フランス文学者で随筆家、杉本秀太郎(5.27没)は、京都のど真ん中、生家が重要文化財の杉本家住宅に指定されるという環境に生まれ育った。そこから独特の随筆を発表し、非常に高い評価を受けていた。そんなにずっと読んできた人ではないが、読んだことはある。俳優の今井雅之(5.28没、54歳)は、4月末に末期がんであることを公表していた。女性漫才の今いくよ(5.28没、67歳)の訃報は同じ日に伝えられたが、胃がんによる入退院を繰り返していたという。5月初めに滝田裕介(5.3没、84歳)の訃報もあった。俳優でテレビなどで活躍。NHKの「事件記者」と言われると知ってるけど、よく判らない。檀ヨソ子(4.24没、92歳)は、先月の訃報だが今月報道。檀一雄の妻だった人である。まだ生きていたんだという感じ。
(杉本秀太郎)
 外国では、ロシアのバレエダンサー、マイヤ・プリセツカヤ(5.2没、89歳)は「20世紀最高のプリマバレリーナ」と言われる存在だった。B・B・キング(5.14没、89歳)は「ブルースの王様」と言われていた。まあ、その程度の事は知っているんだけど、ではもっと詳しく語れるかというと、実は知らない。奇しくも同年で亡くなったけど、90歳という壁はあるようだ。ノーベル経済学賞受賞者のジョン・ナッシュ(5.23没、86歳)は、映画「ビューティフル・マインド」のモデルになった、統合失調症に悩みながら「ゲーム理論」を完成させた。死因は交通事故で、ノルウェーから賞を受けて帰国した時に、タクシーが事故を起こして妻も同時に亡くなったという。ルース・レンデル(5.2没、85歳)は、イギリスのミステリー作家。昔は日本でいっぱい翻訳が出ていた。ベン・E・キング(5.1没、70歳)は「スタンド・バイ・ミー」を歌った人。
(プリセツカヤ)(B・B・キング)
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映画「サンドラの週末」

2015年06月04日 22時50分41秒 |  〃  (新作外国映画)
 教師論はもう数回続くのだが、ちょっと間を置くことにして。ダルデンヌ兄弟の映画「サンドラの週末」の紹介。ダルデンヌ兄弟というのは、ジャン=ピエール(1951~)とリュック(1954~)の二人の兄弟が脚本、製作、監督を共同で務めるベルギーの映画監督。製作には他の人物が加わることが多いが、脚本、監督は大体兄弟二人だけがクレジットされている。主題として、こどもをめぐる社会問題、少年犯罪やネグレクトなんかを取り上げることが多い。しかし、今回は主演女優のマリオン・コティヤールが出ずっぱりの労働者問題を問う社会派映画になっている。
 
 マリオン・コティヤールは、映画ファンなら誰でも覚えているように、「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」で米国アカデミー賞の主演女優賞を取ってしまった人である。オスカーを外国人俳優が外国語映画の演技で取ることはめったに起こらない。だけど、「サンドラの週末」を見ているときには、ピアフを思い出す人はほとんどいないだろう。そのくらい、今回はサンドラという役を演じきっている。この作品でもアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。

 冒頭でサンドラは携帯電話で、解雇を告げられる。解雇というか、今はうつ病で休職中で、「サンドラの復帰か、皆のボーナスか」を会社が社員投票にかけ、ボーナス派が勝ったという同僚からの連絡である。ただし、「主任」が不当な圧力をかけていたので、社長にかけあって月曜に再投票を実施できるかもしれない。だから、今すぐ来てほしいというのだが、サンドラはなかなか出かけられない。夫に励まされて、何とか社長に会いに出かけて、再投票を認めさせる。そして、週末にかけて同僚を訪ねて、再投票ではサンドラの復帰に賛成してくれないかと呼びかけて回るのである。しかし、「サンドラの復帰=ボーナス不支給」である。一人ひとりにはさまざま事情があり、カネが必要だからボーナスに入れるという人もいる。そういうシビアな週末を描く映画である。

 だけど、どうもよく判らないところがある。こういう風に「分断」するのは、強いものの常套手段だろうが、「従業員の雇用」や「ボーナス支給の是非」は、日本で言えば「経営権の問題」として、労働組合の団体交渉のテーマにはなっても、社員投票などありえないだろう。この会社は、社員16人で、太陽光パネルを作っているらしいが、「アジアの国の脅威」で経営が難しくなっているとセリフにある。サンドラが休職して、臨時職員を入れているが、その態勢で週3時間の残業があれば十分だという。サンドラを復帰させる経営環境にはないので、その時にはボーナスを諦めろと言うことになる。ボーナスは1000ユーロという話で、本日のレートで1ユーロ=140円ほどなので、14万程度。日本の感覚ではボーナスというのもおこがましいような額である。主任の言動は、いわば「不当労働行為」みたいなものだから、再投票せよということだろうが、労働法制にかんする欧州と日本の違いがあるようだ。。

 さらに、同僚といえど、他人の住所を教えて、賛同を働きかける行為は、現代の日本なら「個人情報の漏えい」だとか言いだす人が必ずいそうである。でも、ベルギーではそういうことを言い出す人はいない。「悪いけど、ボーナスに入れる」と言い切る人もいる。日本だと、そういう風に自分の考えをはっきり言えないから、「迷惑なのが判らないか」「何で住所を知ったのか」などと問題をそらすんだろう。そんな中で、何人かは味方になってくれる。サッカーを子どもに教えていた男性同僚は、突然泣き出してよく来てくれたという。前に新人の自分によくしてくれたのに、ボーナスに一票を入れてしまって自分で後悔してたというのである。あるいは、ある女性の同僚は夫ともう一回話してみると言われ、返事が来ないからもう一回訪ねると、暴力的な夫にもう来るなと追い返される。それで終わりかと思うと、この同僚は何と夫の元を飛び出してくる。「人に言われて決めるのはやめる」んだと。あるいは、臨時職員を訪ねると、アフリカ系の人で味方したいが、主任に臨時職員の期限後に契約されなくなるのが怖いという。こういう風に、「普通の生活」の中にさまざまな「世界」が露出されていくのである。

 イギリスのケン・ローチも、移民だとか労働者の連帯などの映画をいっぱい作っている。それは非常に興味深いけど、基本的にオールド左翼の一本筋の通った映画で、方向性ははっきりしている。だけどダルデンヌ兄弟の映画は、もっと日常的で、結論もはっきりしないことが多い。「大きな絵」を描く映画ではないが、現代世界のリアルをもっとよく伝えると言える。誰が正しくて、誰が間違っているのか、よく判らない中で苦闘する現代という時代の姿を。今回も果たしてサンドラは(仮に復帰賛成派が多かったとしても)、やっていけるんだろうかという感じが最初はする。完治したというけど、薬が手放せず明らかに精神的にまだ不安定である。だけど、「自らのために立ち上がる」という体験がサンドラも変えていくかもしれない。今まで5回連続でカンヌ映画祭に出品して何かの賞を取ってきたダルデンヌ兄弟だが、6回目のこの作品は無冠に終わった。だけど、今回も素晴らしい作品だった。なお、ベルギーは北部がオランダ語、南部がフランス語地帯だが、ダルデンヌ兄弟はフランス語地帯の出身で、今回もフランス語の映画になっている。
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教員養成に「発声練習」を-私の教師論④

2015年06月03日 23時17分48秒 |  〃 (教師論)
 教師という仕事は、どういう仕事なんだろうか。「勉強を教える」というのが、普通最初に思い浮かべることだろう。実際、教師の毎日はほとんど授業をすることで費やされている。だけど、実際の感覚としては、「人間関係の調整」とか「人間観察」に追われている感じがする。よほどの進学校は別なのかもしれないが、大体の人は授業中も「学習内容」と同じぐらい「生徒の観察」に気持ちが向かっていると思う。ところで、実はもう一つ、案外教師が気付いていない仕事の特徴がある。それは「朝から夕方までしゃべり続け」ということである。授業であれ、その他の指導であれ、他の仕事以上に「言語的伝達」の重要性が高い。タテマエとして、言葉による説得が一番大事とされているからである。

 人間は言語だけでなく、相当の割合で「非言語的コミュニケーション」によって情報を伝達している。もちろん教師も同じだけど、目や手振りだけでは授業できないし、「あれ」「それ」「おい」とかだけでクラス経営はできない。生徒に明示的に指示しないと伝わりにくいから、他の仕事以上に「言葉による説明」を行っているのではないか。こうして、朝からしゃべり通しということになる。これはあまり言われていないが、「一種の特殊技能」だと思う。教師以外の人が急に同じことをやっても、のどが枯れたり、自分で何を言ってるのか訳が分からなくなってくるらしい。ずっと生徒から見られているという環境も特殊だし。外部講師を頼むと、「授業慣れ」していない人からは大変だったと言われるのである。

 「困った先生」にはさまざまなタイプがあるが、生徒全員に慕われる人もいないだろうと同じく、生徒全員に不評な場合も少ない。だけど、学級担任に持ち込まれて困ってしまうのは、「何を言っているのか判らない先生」や「声が聞こえにくい先生」に対する苦情である。「厳しすぎる(怖くてみんな萎縮している)」とか「おとなしすぎる(うるさい生徒を注意できない)」というのもあるが、こういう不満の方が対処しやすい。(理由は自分で考えれば判るだろう。)しかし、「何を言ってるのか判らない」というのは確かに困る。言語不明瞭もあれば、あちこち話が飛び過ぎる人もある。講演なんかなら面白い話で脱線するのも技だろうが、マジメすぎるような(ジョークもノートするような)生徒もいるので、脱線もほどほどにしないと「判らない」と言われたりする。空き時間に廊下から様子うかがいに行くと、確かに判んないなあという時もあって、そういう時は苦労する。

 今は採用試験のときに「模擬授業」をしたりするところが多いから、さすがに若手の中には「声が後ろまで聞こえない」という教師は少ないのではないか。だけど、昔は結構いた。大量採用時代もあったし、元気な志望者は学生運動でもやってたかと見なされ、おとなしそうな人を高評価した時代があるのかもしれない。生徒が静かに聞けば聞こえるだろうと、「静かに聞いてないオマエラが悪いんじゃ」というのは自分でもヘリクツだと思うが、そういうしかない場合もあったように思う。そういう先生も含めて、教師は言語を駆使するものに必要なレッスンを受けてない場合が多い。朝から晩までしゃべってるアナウンサーや俳優は、当然話し方や発声に関する研修、講習を受けているだろう。教師だけが、話の中身の問題は研修するけれど、発声の方法より生徒に通じるような言語コミュニケーションのあり方などを研鑽する機会がほとんどないのである。

 70年代から80年代にかけて、自己の「身体性」に対する関心が非常に高まった時期がある。学生運動が表面的には「言語的反乱」から始まりつつも、運動の担い手そのものが「肉体的な解放」から遠かった。また、60年代末には音楽、演劇などを中心に「肉体の解放」を追求するような新しい表現革命が起こっていた。だから、運動退潮後に「自己の生活」「自己の身体」を徹底して見つめ直す試みがあちこちにあった。そういう中で自己形成してきたから、「学校」という場は「肉体のこわばりをもたらす場」だという感じは抜けない。教師自体が役割意識を身にまとって、「自由な身体」を生きていない。しかし、それではごく当たり前の生活指導も生徒に受け入れられない。いじめに対処するにも、生徒が「先生は注意しているが、それは役割としてタテマエを言ってるだけだ」というメタ・メッセージを教師の身体から読み取ってしまうのである。

 自分自身は声を出すことに苦労したことはない。大きな声を出すのも苦にならない。年とともにだんだん滑舌が悪くなってきたような気はするが、まあ声を出すことそのものはあまり考えたことがなかった。だから学生時代に竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社、のちちくま文庫)には衝撃を受けた。その後、林竹二と組んだ定時制高校での授業なども注目してきた。「竹内レッスン」そのものに通ったことはないんだけれど、野口三千三さんの野口体操には直接通ったことがある。やはり教員が自己の身体が抑圧されているときには、生徒に正しいことを言っても、「タテマエ言ってるぞ」というメタ・メッセージとして伝わると思う。だから、教師の長時間労働などは本当に解消しないといけない。

 それと同時に、大学でもそうだし、教師になってからも「発声練習」などを含めた「演劇レッスン」をやった方がいいと思う。宿泊行事などで使える「ゲームの練習」なんかはあるけれど、ちゃんと自分の身体に向き合う訓練はしてない場合が多いと思う。では、どうすればいいかというと、自分で探して参加する道もあるが、まあ、せめて本を読むだけでも。先に挙げた竹内敏晴さんには、「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫)という本もある。簡単に手に入るのは、平田オリザの新書、講談社現代新書から3冊出ているが、毎日の教員ライフに役立つヒントがいっぱいある(という読んだときの記憶があるけど。)また、鴻上尚史の「発声と身体のレッスン」(ちくま文庫)、「あなたの思いを伝える表現力のレッスン」(講談社文庫)も役立つだろう。今、身近にすぐ見つかったのは鴻上さんの2冊なので、画像を載せておきたい。とにかく、教師というのは「発声」と「身体」によって情報を伝達する仕事、一種の役者なんだということを意識しておくだけで、ずいぶん救われる時もあると思う。それにこういう本は「ワザ」として知っておくということがあるだろう。
 
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「教師の事務的ミス」という大問題-私の教師論③

2015年06月02日 23時17分17秒 |  〃 (教師論)
 「教師の失敗」とはどんなものだろうか。懲戒免職になるような教員は、いつの時代にも一定数いるだろうが、ほとんどの場合は「教育上の失敗」ではない。でも、学校では校長による研修が行われ、「個人情報の流出」「体罰」「わいせつ」「飲酒運転」などは、絶対に起こしてはならないなどと、何度も何度も何度も…言われる。一年間に10回以上になるんじゃないか。もちろん、「いやあ、初めて知った。大問題だ。これから絶対に気を付けよう」などと思う人はいない。はい、はい、はい…、同じことを何度も言わなくちゃいけない職業は大変ですねえ、まあ時間のムダだけど、内職しながら聞いてるふりはしてあげましょうと言うことになる。大体、「生徒の個人情報を管理職の承認なしに校外に持ち出してはいけないことを知っていましたか」とか聞いてるアンケートになんと答えたらいいんだろうね。

 しかし、まあ「知らなかった」に○をして提出してどうなるというもんでもない。入れ墨アンケートじゃないんだから、「こんなものには答えられない」「教育行政に抵抗するぞ」などと力んでみても仕方ない。面倒には違いないが、5分か10分あれば書けるんだから、すぐ書いて提出すればいいじゃないか。ところが、毎日の多忙に紛れて、抵抗してるわけでもないのに、提出しない人がいる。忘れてしまうのである。そして、毎日毎日、違った問題が起き、書類も机上に積み上げられていく。そして、提出を忘れている人は今日中に提出をなどと言われて、あわてて机上整理から始めて、違う報告書類も発掘され、かくして30分も1時間も時間が取られてしまう。ただでさえ多忙な仕事を自ら「より多忙」にしている。

 教師に限らず、「説明責任」が問われるようになり、インターネットの発達に伴い、「情報公開」のための書類作成に追われるようになった。また、業績評価が「成績主義」になり、自分の仕事のまとめ、アピール等の書類作成にも追われる。だから、「仕事における事務処理能力」の重要性は昔の比ではない。だけど、多分教員養成の中で「事務処理能力の養成」なんて、ほとんど行われていないのではないかと思う。授業のやり方、授業の中身は誰でも考える。でも、ワードによるテスト問題作成採点エクセルによる採点処理(例えば、200人分の中間、期末の点数、課題の点数等を仮に打ち込んで、総計点をソートして上位から並べるといった程度でいい)を教員養成でもやったほうがいい。そして、40人を担任しているとして、通知表の所見を書いてみる。それを行ったうえで、自己評価シートをワードで完成させる。部活や保護者対応がないから、これは現実の教員生活よりずっと楽。こういう現実の教員生活で行われる「事務処理」こそ、「教師の日常」の中核をなすものだ。

 「教師としてのミス」の大部分も、単なる「事務処理ミス」から起きていると思う。非常に重大ないじめ事件、体罰問題などは現実には非常に少ない。でも、「ミスするつもりは全くない」にもかかわらず、「つい、うっかり」生徒や保護者対応を誤ることは現実に相当ある。もちろん、自分もやった。そんなに多くないかもしれないが、何回かはある。生徒にプリントを渡し忘れる、配り忘れる。欠席生徒もいるし、いつ配布してもいいような行政から来たお知らせもいっぱいある。「保護者会の出欠、出してないぞ」「えっ、貰ってません」とか、「え、出したと思うけど…」と言うから探したら、確かに他の書類に紛れてたとか。「探したけど、確かに出してないよ」「いや、昨日出したはずだけど…」「もしかして、それ、進路希望調査と間違えてない?」と言うことで、生徒の方が勘違いしてることもある。(実際のやり取りは、こんな丁寧なものではないが。)そういうことが日常茶飯事なのが学校である。

 学校に提出する書類は、しょせん「校内処理」だからどうとでもなるけど、一番大変な問題は「進路に関わる事務的ミス」である。大学や私立高校に出す書類、会社に出す就職用書類。それらは「学校が作成する」「学校から郵送する」と言うものがけっこうある。その日付を間違うと、そもそも相手側に「門前払い」になることもある。期限が決まってるのに、教師の方がミスして、生徒が希望の進路へ進めないという深刻なケースもある。そんなにないと思うけど、ないとはいえない。その反対に、一度決まった進路を生徒や保護者の側でホゴにして、違う進路にしたいと言ってくるケースもある。まあ、それなりに理由があるから、むげに退けられない場合もある。そういうケースを見聞きしたこともあるが、自分もやりかけたことがもあるし、書類間違いをしたこともあるから、あまり他人のことを言えない。だけど、と思うんだけど、生徒の側ももっと教師に確認しておくべきではなかったか。僕の場合は、センセー、わたしの書類、そろそろ出来てる?と聞いてきたから、間違えずに済んだわけで。

 事務室に提出する書類も多い。でも、よく見ていると、年末調整の書類、出てませんよと言われるような教員は大体いつも同じではないのか。細かく調べないと出せない書類はともかく、すぐ書ける書類は「すぐに出す」。これは個人的なものも同じで、とにかく「どうでもいいこと」ほどさっさとやらないといけない。それだけは僕は自信がある。どの学校の事務担当者にも、何の迷惑もかけていないはずである。それは僕が几帳面だからではなく、まさに正反対で「自分がいい加減だと知っているからできること」なのである。実際、どんどん忘れていく。見つからない書類を探して机を書きまわすのはよくある。だから、すぐ出さないとなくしてしまうと自分で判っているのである。生徒関連だと、いろいろあるからすぐやりたくてもできないこともある。だから、どうするか。きわめて丹念なノートを書き続けているような教師もいるし、パソコンで処理している人もいるが、僕にはできない。やっても続かないし、どうせ読み返さない。「当面やるべきこと」を紙に書いて、机にペタペタ貼っておくなんていう方が簡単で忘れないような気がする。結局、好きでやることではなし、本末転倒になってはいけない。
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