尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

阪本順治監督「エルネスト」

2017年10月12日 21時11分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 「エルネスト」という映画が公開された。近くのシネコンでは、公開2週目でもうほとんど上映がなくなっちゃうので、珍しくすぐに見に行った。他のヒットしている映画は後回し。なんだか寂しいほどの人数しかいなかったし、僕も傑作だとは言わないけれど、題材が興味深いので簡単に紹介。

 「エルネスト」と言えば、エルネスト・チェ・ゲバラだと思い浮かばない人には、この映画は関係ない。でも、正史ともいうべきソダーバーグの「チェ」2部作、あるいは若き日のゲバラを描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」などがあるのに、またゲバラの映画を何で日本で作ったのか。と思うと、この「エルネスト」という題には二重の意味があった。これはフレディ・マエムラ(前村)という日系ボリビア人の物語なのである。彼はキューバに医学の勉強に行き、ボリビアに革命戦士として帰った。

 このフレディをオダギリジョーがやっていて、キャストの中でただ一人の日本人という難役にスペイン語で奮闘している。フレディはボリビアで反体制とみなされ大学へ進学できない。そこでキューバの奨学金を得てハバナ大学へ行く。そこで様々な出会いを経ながらも、祖国ボリビアで軍事クーデタが起こると帰国してゲリラを目指す。大学にはゲバラフィデル・カストロ(どっちもそっくりさんが演じている)、学生の悩みを聞きながら気さくに応答している。

 冒頭に「日本・キューバ合作映画」と出る。キューバとの合作なんて「キューバの恋人」(1969、黒木和雄監督)以来だろう。そこでキューバロケも可能になり、魅力的なキューバの様子を見ることができる。だけど、ゲバラやカストロは今や「伝説的偉人」であり、キューバでは革命体制の建設者である。そのゲバラに従ってボリビアに帰ったフレディも、偉人化されるのは仕方ないのだろうか。まるで映像で顕彰するかのように、画面がクローズアップされていく。ちょっと参った。

 脚本・監督は阪本順治で、阪本監督は「どついたるねん」「」など傑作も作っているが、結構外すこともある。前作「団地」もオイオイという展開にあ然としたが、今回はあ然とする箇所もなくストレートに立派な人物なので、これも困った。ちょっと聞くと波瀾万丈な人生なんだけど、医学生としても優秀、ゲリラとしても強健でいうところなし。だがゲリラ活動を始めて間もなく捕まって殺される。案外淡々としているので、どうもこの映画も外したかな、否定的要素のどこにもない主人公ってどうなんだと思う。

 冒頭、1959年にキューバ代表団として来日したゲバラが出てくる。外務省へ電話があり、日本政府は止めて欲しかったのに、ゲバラは勝手に大阪から広島へ向かったという。ゲバラが広島を訪問したことがあるという話は知っていたけど、細かい事情は知らなかった。ゲバラなんて誰も知らなかった時代である。そして彼は何を見て何を感じたのか。この冒頭シーンは必見だと思う。最近の様々なニュースを思い浮かべて、胸に刺さるものがある。そしてゲバラはキューバ危機に際して世界に訴える。「核戦争に誰も勝者はいない」と。これこそ日本映画が世界に発するメッセージである。
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「多元主義」と「グローバル化」-「リベラル」って何だろう③

2017年10月11日 23時35分54秒 | 政治
 社会がだんだん豊かになってくると、いろいろ変化が起こってくる。日本でも高度成長が一段落した70年代以後、大きな変容が起こった。それまでは労働運動学生運動が激しかったが、それに対して「私生活優先」の風潮が一般的になる。新しく豊かさを享受できる世代は、それまでの大量生産品に満足できず、「個性的」で「独自」のものを愛好した。それらの人々は、自分たちは「上流階級」ではないにせよ、「下層」は脱して「中流」に属すると考えていた。

 60年代にはまだ海外旅行が自由にできなかったけれど、そういう時代に外国を訪れた人は「アメリカの豊かさ」を驚きの目で見つめた。スーパーマーケットに商品があふれ、人々は自動車で大量に買っていく。こんな豊かな国と戦争をしてしまったのか! それに対し、その時点では理想と思っていた人も多かったソ連(ソヴィエト連邦)を訪れた人は、商品のバリエーションが少なく、人々は「西側」に憧れていると知ってショックを受けた人も多かった。70年代以後になると自由に海外旅行ができるようになり、「社会主義への憧れ」は急速に薄れていった。

 「発展した資本主義国」では、大量に同じものを作って大々的に売る時代から、多くの様々な商品を並べた「多品種少量生産」の時代になっていった。そういう時代になってもう30年ぐらい経つけれど、多くの人が年末になると「紅白歌合戦で知っている歌が少なくなった」とぼやくようになった。国民誰もが口ずさめる大ヒットソングなんか、もうほとんど生まれなくなった。だけど、クラシックでもポピュラーでも、世界の有名な人は皆日本でコンサートを開いた。民族音楽なんかのかなり珍しい公演も日本で行われた。何でも聴けるから、好き好きなジャンルに特化して生きていけるわけだ。

 こうして、文化的な「多元主義」(プルーラリズム=pluralism)が当たり前になっていった。映画で言えば、多くの映画館でたくさん上映される大作もあれば、ミニシアターでずっと上映されるアートシネマもある。かつては年末のベストテン選びでは、芸術映画や社会派映画ばかり選ばれていたが、80年ぐらいからはエンターテインメント映画の傑作も当たり前に選ばれるようになった。そういう風に、「権威」によって一元的に決められた価値ではなく、それぞれの人がそれぞれの価値を認め合う「多元化」が起こってくるのである。

 そういう「多元主義」が当たり前になってくると、「革命」を掲げる左派も魅力がなくなる。しかし、同時に戦前復古的で、「平和憲法」や「個人の自由」を変えたい(と見える)自民党政治にも拒否感を持つ。自民党政治では「ロッキード事件」「リクルート事件」など疑獄が相次ぎ、政治家は老人ばかりで引退すると二世議員が「世襲」する。安倍首相は「新党ブームが日本を滅ぼす」みたいなことを言ったけれど、90年代以後に何度か「新党」が人気を集めたのは、自民党でも「左派」でもない「多元主義」的な政治を求める「中流国民」が存在したということだと思う。

 「価値の多元化」とは、つまり「権威からの自由化」ということだから、それを「リベラル」と呼んでもいいだろう。この「リベラル」に時代には、商品が個性化されるように、人々の個人的な問題関心も「多品種」化される。私生活優先主義も一つの生き方だけど、自分の関心が高い社会問題に取り組むのも、「趣味」の範囲として許容される。ある人は環境問題に関心を持つが、その中でもカヌーが趣味だから水質汚染にこだわる、動物が好きだから野生動物保護やペットの殺処分反対にこだわる…。

 そして、そういう中でそれまでは「問題」とされていなかった問題が「社会問題」と意識されるようになった。「タバコの喫煙」はその代表だろう。男の大部分が喫煙者だったときは問題視されなかったけど、本当はタバコの煙が嫌だった人はいっぱいいるんだと思う。だけど、それは「自分でガマンするべきことだ」と思われていた。そういうことだと思う。それは「セクハラ」も同様。職場ではそういうことも多少はあるもんだとされていたんだろうが、やっぱり嫌だったに違いない。

 でも産業社会がさらに高度化し、「情報社会」などと言われるようになると、また新たな問題が起こってくる。資本は国境を越え、多国籍企業が当たり前になる。大企業だけでなく、日本の中小企業も中国や東南アジアに工場を移してしまい、「産業の空洞化」と言われるようになった。「多品種少量生産」は同じなんだけど、裏をよく見てみれば「メイド・イン・チャイナ」と書いてあることでは同じ。「価値は多元化」したけれど、生産構造は「一元化」に戻ってしまったのである。

 企業が海外に移るのは、国内の人件費が高いからだから、当然国内では「労働者の解雇」が起こった。「リストラ」と言い換えて、なんだか大変じゃないように表現されたが、要するにクビである。しかし、「リベラル」は基本的に産業政策的にも自由主義だから「自由貿易」などにも賛同することが多い。「労働法制の緩和」には反対はしても、なかなか現実の深刻さに対応できない。「リベラル」が「多元主義」を掲げても、それを支持する「中流」の国民が崩壊して「拠って立つ基盤」がなくなってしまう

 日本の国内で深刻な分断が起きていても、「リベラル」がなかなか対応できない社会が作られてしまった。産業的な意味合いでは「多品種少量生産」は続くけれど、絶え間ない「個性化」に消費者の方も疲れてしまう。何でもいいんだよ、安くてそれなりならば。それがホンネである。そうなると「多元主義」もうさん臭く見えてくる。すべての価値は多元的に平等だなんて、間違ってる。自分たちに利益をもたらすのが「価値」であり、マイノリティの価値を同等に見るのはおかしい。そうなって、「グローバル化」の中で「リベラル」が「弱者の味方」視されてしまう原因になっていったのだと思う。

 じゃあ、どうすればいいのかは改めて別に。とりあえず「中流」の時代に「リベラル化」が進み、グローバル化の中で「リベラル化」が弱まるという話。しかし、「リベラル」を考えるには、ヨーロッパでは宗教を、日本では平和問題を考えないといけない。
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「リベラル」が「保守」だったころ-「リベラル」って何だろう②

2017年10月10日 18時33分43秒 | 政治
 「リベラル」って何だろうと考えて、まず最初に世界の「自由民主主義」というものを考えた。次に、日本の「保守」と「革新」の歴史。日本は1950年代にはまだ「農村社会」と言っても良かった。「保守勢力」には地方の農村の「名望家」が多く、家父長制的な意識が強かった。彼らは「帝国軍隊」と「家族制度」を取り戻すことが「保守」だと思い込んでいて、「自主憲法制定」をスローガンに掲げた。

 一方、反反体制の中心は社会党で、「社会主義」を目指して「革新勢力」と呼ばれていた。社会主義の意味は多少違いつつ、「選挙で社会主義を実現する」を目指していた。労働組合は資本と対決して自分たちの権利を獲得しようと「革新政党」を支援した。このような「保守」対「革新」の時代は、大体80年ごろまで続いた。若い人はもう「保革激突」とか「保革逆転」なんて言葉も知らないだろう。

 その頃には、今で言う「リベラル」勢力は政界には存在しない。「復古保守」と「革命左派」がいただけである。左翼政党では「リベラリズム」(自由主義)を受け入れる余地がない。社会党はいつも路線争いがあり、左右の対立が続いていた。共産党は1949年の総選挙で35議席を獲得したが、50年代に武装闘争や分裂で支持を失い、国政への影響力を失っていた。党内では理論闘争が続いて、特に60年以後の中ソ対立の中で多くの除名者を出した。革命を目指す前衛党なんだから、リベラルな言論が許されるはずもなく「鉄の規律」が必要なのは当然だっただろう。

 だが、60年代以後の高度経済成長都市化の中で、農村から都市へ多くの若い労働人口が移動した。それらの人々は自民党や社会党の組織票にならずに、浮動票や新党に流れることも多かった。1960年に社会党右派が離党して民社党を結成した。また1964年には公明党が正式に結成され、1967年の総選挙で一挙に25議席を獲得した。(それ以前に参議院や都議会には出ていた。)共産党も60年代末に長い低迷を脱し、1969年に14議席、1972年には38議席と躍進して、公明、民社を抜いた。これらは「多党化現象」と呼ばれ、この「主要5党時代」は長く続いた。

 そのあおりを受けたのが社会党で、次第に議席を減らして行った。それは「長期低落傾向」と呼ばれていた。1958年に166議席と最高を記録して以来、145、144、144となり、1969年には沖縄返還を業績に選挙に臨んだ佐藤内閣に対し、なんと90議席と大敗してしまう。その後、100議席以上は回復するが、社会党単独での政権獲得は明らかに不可能だった。「多党化」現象は、今から見れば都市中間階層の激増による「価値観の多様化」の産物である。社会党は時代の変化に乗り遅れたのだ。

 ヨーロッパを見れば、やはり多くの国で「保守対革新」の構図が成り立っていた。しかし、労働者と労働組合に支持されながらも、イギリスの労働党西ドイツ(当時)の社会民主党は、「革命」を放棄して資本主義システムの中で「労働者の福祉の充実」を目指す方向に転換した。西欧諸国はソ連の「脅威」に直面していたから、共産党はそのままでは国民の支持を得られなかった。イタリアでは、強い勢力を持つイタリア共産党も70年代に、「ユーロコミュニズム」を掲げソ連を批判して、実質的に「社会民主主義」に転換していった。こうした発想はなかなか日本では受け入れられなかった。

 ところで、党是に改憲を掲げた自民党は70年代には事実上改憲を先送りしていた。国民の中に根強い平和主義と戦前への復古拒否があり、国会で3分の2を取ることができない。そのうち、国民の間に憲法は定着しているという考えも出てくる。国民の中間層が多くなり、左の革命イデオロギーに拒否感を持つだけでなく、右の戦前復古イデオロギーにも拒否感があり、そのままでは「保守」が立ち行かなくなると考える人々が登場する。「新しい」「柔軟な」「改革」を目指す「保守勢力」

 日本でもともと「リベラル勢力」と言われた人々は、このような自民党内の「ハト派」と言われた人々だろう。もともと60年代後半に、アメリカのベトナム戦争に追随する佐藤内閣に対して、中国との国交などを求めた「アジアアフリカ研究会」が源流だろう。こうして自民党内に「ハト派」勢力が誕生した。もとは宇都宮徳馬や田川誠一など、さらに河野洋平や加藤紘一などの人々だ。

 1976年にロッキード事件が発覚し、自民党が揺れる中で河野洋平、田川誠一、西岡武夫らが「新自由クラブ」を結成する。新自由クラブは一時自民党と連立を組んだのち、最後は自民党に復党した。その後、93年に「新生党」(小沢一郎、羽田孜らのグループ)や「新党さきがけ」(武村正義や鳩山由紀夫らのグループ)が自民党を離党した。その結果、自民党内に旧福田派の流れをくむ「タカ派」が残って影響力を増し、「リベラル」と言えば自民党以外という印象を持つ人が多くなる。

 このように、リベラル派は日本ではもともと「保守勢力内で社会変化に柔軟な改革グループ」と言ったイメージで語られる人々だった。しかし90年以後、世界の在り方が大きく変わり、「新自由主義的改革」が世界で行われると、「リベラル」の意味がまた変わってくる。また世界各国にはそれぞれ独自の事情がある。日本では「日本国憲法をどう考えるか」が「リベラル」の測り方になっている。普通は憲法を守るのが「保守」だと思うが、日本では「憲法を変える」と言うのが「保守」である。一方、日本では世俗社会が定着していて、宗教が政治問題になることはほとんどないが、世界では「リベラル」とは宗教にどう向き合うかという問題と密接に絡んでいる。そのあたりの問題をもう少し。
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「リベラル」って何だろう①-自由民主義体制とは

2017年10月10日 00時07分00秒 | 政治
 この前「リベラル新党が必要だ」と書いたけど、だからと言って「立憲民主党」がそのリベラル新党だとか、自分がその政党を自動的に支持するとかいうわけではない。そういうことと別に、その時点ではヨーロッパで「中道左派」にあたるような政党がないと選択肢がなくなるという話。その時は「リベラル」の意味については書かなかった。かなり誤解している人も多いようなので、一度書いておきたいと思っていた。この機会に何回か続けて書いてみたい。

 世の中には「リベラルは嫌い」なんていう人もいるらしいけど、そういう人は当然、党名にリベラルをうたう「Liberal Democratic Party of Japan」が嫌いなんだろうと思うと、支持政党が「自由民主党」だったりする。リベラル嫌いだと公言する人が弾圧もされずに生きていられるのは、リベラル社会が定着しているからなんだから、あまり悪口を言うもんじゃないだろう。

 また逆に自民党嫌いの人の中には、「自由」も「民主」もない「自由民主党」なんて悪口を言う人もいるけど、それもおかしいだろう。自由民主党は1955年に、「自由党」と「民主党」が合同した政党で、だから「自由民主党」なんだけど、この合同は当時「保守合同」と呼ばれた。世界の「先進国」、経済的に発展した資本主義国では、保守政党によく「自由」とか「民主」の名前が付けられる

 それは世界の経済先進国が政治的には「自由民主主義体制」を取っているからである。G7に集まるような国は、みな「自由民主主義」だと言える。国によって「キリスト教」が付いたリ、「保守」「共和」などと言う場合もある。でも、少しづつニュアンスが違いながらも、ベースは「自由主義」と「民主主義」のミックスである。そのあたりの問題を歴史的に考えてみたい。

 大昔はどこの国も身分社会専制国家である。それが18世紀後半からの「市民革命」によって、人民の自由権が認められていく。アメリカ独立宣言(1776)では「すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と高らかに宣言した。でも、「すべての人間は生まれながらに平等」なんだったら、なぜアメリカで奴隷制度が長く続いたのか。先住民の土地を奪い続けたのか。選挙権は男性だけで、女性の選挙権がずっと認められなかったのか。(全米で認められたのは1920年。)

 つまり、宣言の起草当時には「すべての人」とは「白人男子のこと」だいうのが自明視されていたのだ。そういう「歴史的限界」があっても、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言などの「歴史的価値」は計り知れない。白人成人男子のみだとしても、人間に自由に生きる権利があると認めたことは大変なことだった。そして「自由権」の基本となる「思想の自由」とか「結社の自由」などは、「先進国」ではほとんど問題にならない。いくら右翼的な政党であっても、共産党を禁止せよとは言えない。極左、極右のグループも、(時には警察に監視されながらも)基本的には結成できる。

 もうそのような「自由」があるのは当たり前すぎて、自分の国の政治体制が「自由主義」(liberalism=リベラリズム)だと意識しないぐらいだ。でも、このような「自由主義」を本当に必要としたのは、貧しい人々ではなく、ブルジョワジー(都市中産階級)と呼ばれた商工業者である。それまでは王家や貴族階級に結び付いた特権商人が暴利を得ていた。そこに「経済活動の自由」を得た人々が、折からの「産業革命」の波に乗って、産業資本家の時代が訪れたのである。

 この時代の国家のあり方を、よく「夜警国家」と言うのを聞いたことがあるかもしれない。国家は外敵と犯罪者から「私有財産」を守る役割だけあればいいという考えである。国民にはできる限りの自由を与えるべきで、国家は余計なことをするなと考える。そうすると福祉や教育、文化や環境の保護などはみんな無くていいことになる。極端な自由を主張する考えをアメリカでは「リバタリアン」と呼んでいて、一定の影響力を持っている。

 だが、世の中に完全な自由はない。「自由」というと、確かに「不自由」よりいい感じがする。でも「自由にしていいよ」と言われても、先立つお金がなければ何もできない。自由は強い者にとってこそ役に立つ。結局、市民革命と産業革命を経た先進国は、産業資本家による「弱肉強食」社会になってしまった。そして、そのような資本主義を根本的に転換する「社会主義革命」を志向する考え方も現れてきた。それは困るということもあり、もう19世紀ドイツのビスマルク時代から、革命党弾圧だけでなく「社会政策」を進めていった。社会保障や労働者保護という考え方である。

 第一次世界大戦後、ドイツのワイマール憲法で「生存権」という考えが認められた。第二次世界大戦以後に作られた日本国憲法でも生存権が認められた。「労働組合結成」などの労働三権、教育を受ける権利なども保証している。国家によって国民の貧困を解消していくべきだという考え方に立っている。もう単なる「自由主義国家」とだけ言っている段階ではないのである。

 これは「自由民主党」も認めているところである。安倍首相の祖父である岸信介元首相は憲法改正を主張する戦前指向の右派的政治家だったけれど、実は岸内閣の時代に国民皆保険最低賃金制が実現したのは割と知られている。自民党は大企業の経済活動を保証する「自由主義」政党だけど、同時に社会福祉に膨大な予算を支出する「福祉社会」を作ってきた。

 これが現代の「自由民主主義国家」というもので、多くの先進資本主義国は大体そういう構造になっている。そういう歴史の中で、「自由主義」(リベラリズム)はもう当たり前の前提になってしまって、むしろ「企業の自由な活動をどう抑制するか」の方が課題になってきたわけだ。ところが、資本主義が高度情報社会と言われるようなものに変容するとともに「自由主義」の問題も変わってくる。それ以前に「社会主義革命」がある程度現実的なものとして語られていた時代もちょっと前まではあった。そのころは「リベラル」はどう語られていたのか。その問題を次回に。
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映画「サーミの血」-スウェーデンの少数民族

2017年10月07日 21時43分12秒 |  〃  (新作外国映画)
 フィルムセンターで黒澤明監督「デルス・ウザーラ」の70ミリフィルム上映があったんだけど一回目の上映はもう満員だった。これは予想していたのに遅くなった自分が悪い。家を出るときは2回目4時でも良いつもりだったけど、間が長すぎるから他へ行くことにした。(ちなみに黒澤がソ連で撮った「デルス・ウザーラ」は、上映機会が少ないから見てない人も多いだろう。僕は公開当時見て感動したけど、それは70ミリじゃないはずだ。まあ40年前なので再見してみたかったが。)

 時間を見て、新宿武蔵野館で「サーミの血」を見てから、渋谷のユーロスペースで「米軍が最も怖れた男 その名はカメジロー」と見てきた。後者は米軍統治下の沖縄で「不屈」の抵抗運動をした瀬永亀次郎を描くドキュメント。かなり評判になったが見てなかった。丹念な取材で興味深く作られている。まあ沖縄戦後史の「常識」なんだけど、学校じゃ出てこないから「本土」ではほとんど知らない人が多いだろう。70年の本土復帰選挙で衆議院議員に当選した5人の一人である。

 ここでは「サーミの血」を紹介しておきたい。そんな映画やってるのかと知らない人も多いだろうけど、これは思った以上に傑作だった。去年の東京国際映画祭で審査委員特別賞と最優秀女優賞を取っている。北欧映画祭なんかで上映されたので名前は知ってたけど、見るチャンスがなかった。美しい風景厳しい差別、そして主人公の少女の生き方をどう考えるか、映像に引き込まれて目が離せない傑作だった。単にスウェーデンだけの問題ではなくマイノリティの在り方を考えさせる。

 「サーミ人」というのは、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーなどの北部「ラップランド」(辺境という意味の蔑称)に住む人々のことで、主にトナカイを飼って暮らしていた。この映画は1930年代のスウェーデン北部で、サーミ人少女が集められた学校が舞台になっている。そこでは「差別」がまかり通っている。この学校を出ても進学することはできない。サーミ人の頭脳は進学に適さない。けっこう親切そうだった女性教師も冷たくそう言い放つ。時にはエライ人たちが「人類学的調査」に来る。

 冒頭に自動車で葬儀に向かう老女の姿が出てくる。妹が亡くなったらしい。その女性が「エレ・マリャ」でサーミ人らしいが、あまり葬儀にも行きたくないらしい。これが現代のシーンで、その後30年代のシーンになる。エレ・マリャは実はスウェーデンの学校へ進んで、どこかで教師をしていたらしい。今までこういうマイノリティの民族を描く映画だと、「同化」を迫る学校が「敵」で、それに抵抗して民族文化を守り抜く主人公が出てくることが多い。

 だけど、この映画が面白いのは、「同化」を選んで家族との伝統的生活を捨てた主人公が出てくること。スウェーデン社会の中で、差別や好奇のまなざしにさらされながら、「勉強ができる」主人公はスウェーデン社会を選んでいく。だけど、いつも「くさい」と言われて気にしている描写など、繊細に描かれた「差別の内面化」が痛ましい。「先住民」にも「学校」を作って少し「文明化」させる。これは全世界で共通している。支配者の言語を教えて、納税や徴兵の義務を果たせるようにする。そういう必要が「近代国家」には必要なのである。

 だけど、「学校」で文明の一端に触れると、先祖伝来の生活ではなく、文明化された生活を担いたいと思う人も出てくる。能力が劣っていると支配者側は思い込んでいるが、もちろんそんなことはないわけだから、マイノリティの中に「文明」の力を使って文化を発信したいと思う人も出てくる。この主人公は、スウェーデン人のダンスパーティにもぐりこんで、男子学生と知り合う。この主人公のありようをじっくり描いて心に響く。サーミ人の民族音楽という「ヨイク」を歌うシーンも忘れがたい。

 監督はサーミ人の父とスウェーデン人の母の間に生まれたアマンダ・シェーネル監督(1986~)という若い女性。非常に才能があると思う。主人公を演じたのは、レーネ=セシリア・スパルロク(1997~)でノルウェーで実際にトナカイ飼育に従事しているという。映画の中でヨイクを歌ったり、トナカイを捕まえたりしているのも納得。スウェーデン北部の風景やトナカイとの生活など、興味深いシーンも多い。なかなか複雑な感動を味わう映画だった。
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「定住外国人地方参政権」問題をどう考えるか

2017年10月06日 23時12分53秒 | 政治
 「希望の党」が公認候補に求めた政策協定書に「外国人に対する地方参政権の付与に反対すること。」という一項が入っている。改めて注目されたこの問題をどう考えればいいのだろうか。

 僕は今タイトルに「定住外国人地方参政権」と書いた。「定住」と書くのは当たり前すぎるので、以下では省略したいと思う。時々これを理解してないような人も見受けられるが、旅行者が旅先で投票できないのは、日本人だって同じである。「定住」の意味は、すでに「外国人地方参政権」を認めている国によって違っている。居住期間を定めて「〇年以上」としている国が多い。

 問題は「地方参政権」である。ちゃんと理解していない人は、「国政選挙の選挙権を与えるのか」などと思っている人も時々見かける。世界で定住外国人にも国政選挙の選挙権を与えている国はほとんどない。「ほとんど」と書くのは、ウルグアイのように、憲法で15年以上定住の外国人に選挙権があると決めている国があるから。(ウィキペディアによる。なお、被選挙権はない。)また、重要な関係のある国に限って例外的に認めている国もある。イギリスでは英連邦内の国民に認めているし、ポルトガルはブラジル人に、ブラジルはポルトガル人に認めているようだ。

 日本では「外国人の国政選挙権」は問題にならない。かつて行われた「外国人参政権訴訟」の最高裁判決(95.2.28)で、憲法上「外国人参政権」は認められないとしている。現行憲法の解釈上、それは常識的な考え方だと思うし、国政参政権を要求している大きな運動もないだろう。(ただ、「傍論」において「地方レベルの参政権については法律による付与は憲法上許容される」との記述があった。この裁判の詳細や判決の解釈に関して細かく知りたい人は、自分で調べて欲しい。)

 一方、「在外日本人」、つまり仕事などで外国で何年も暮らしている日本国民の選挙権も、昔は保証されていなかった。要するに、当日海外旅行していて投票できない人と同じ扱いだったわけである。それに対し違憲訴訟が起こされ、2005年の最高裁判決で違憲判断が下された。そのような「先人の苦闘」があって、今は在外日本人の参政権が保証されるようになったわけである。

 そのような流れは諸外国でも同様だ。例えばトルコの選挙で在外投票にトルコ大使館前に集まったトルコ人とクルド人が衝突して問題になった事件を覚えている人も多いだろう。アメリカ大統領選挙でも日本在住のアメリカ人の投票風景がニュースになった。今年の韓国大統領選でも在外投票が行われている。事前登録が必要だということで、登録者は3万8千人ほどだったという。

 このように、「国政選挙権は、国籍所有国に限られる(ただし、特別な関係にある外国人には例外的に認められる)」というのが、大体の国の共通点だろう。それに対して「地方参政権」は違っている。それは「国民」と「住民」は違うからだろう。同じ国民であっても、例えば東京都にずっと住んでいない日本国民は都議会議員選挙で投票できない。それを逆に考えれば、「同じ地域にずっと住んでいる人は、国籍が違っても地方選挙で投票出来てもいいのではないか」という発想になる。
 
 これは世界的にもかなり広がっている考え方である。EU加盟国は、同じEU諸国民には地方参政権を認めている国が多い。英仏独伊などヨーロッパの主要国は、EU以外の外国人には認めていないが、オランダ、ベルギーやスウェーデン、デンマークなど北欧諸国はどこに国の人でも認めている。ロシア、ニュージーランド、チリ、韓国、香港なども認めている。アメリカ、カナダ、スイス、オーストラリアなどは、国としては認めていないが、州ごと、あるいは都市ごとに認めているところもある。

 日本でも、小池知事や「維新」の人々は、地方分権を進める改憲をしようとかよく言う。「地方分権」や「地方主権」とか、そういう言葉が好きらしい。だったら、地方の住民である定住外国人の権利を大切にしてもいいと思うが…。各地で行われている「住民投票」の中には、定住外国人の投票を認めているところもある。住民投票は条例で決めるから、公職選挙法による国籍制限をなくせる。

 自治体の合併をめぐる住民投票などで、もう実際に投票したケースがある。それこそ「地域住民の声を聞くべきテーマ」だし、実施しても何の問題も起きなかった。何を恐れているのか知らないが、地域の問題を決めるときに、その地域に長らく住んでいる人の声を聞くというのは、当然ではないだろうか。特定の外国人が集住している地域もないではないが、日本人より多いというわけではない。そういうところの行政当局は、外国人住民と対話しないとやっていけない。外国人住民のインテグレーション(統合)を進めるうえでも、むしろ地方参政権がある方がやりやすいんじゃないか。

 離島などで「ある特定の外国人が集団で住み着いた場合」などと言う人がいる。(小池氏もかつてそう言ったらしい。)なんか、こういう「被害妄想」みたいな話を聞くと、リアリズムの政治家ではないなあと思う。選挙結果を左右するために、ある特定集団が移住してきたら、日本人だって選挙違反である。外国人参政権が認められれば、そういうことをした外国人ももちろん選挙違反になる。

 それに選挙結果を左右するほどの大量の外国人が、定住して参政権が認められるまで(諸外国では少なくても5年程度)、ずっと住んで外国人登録をしないといけない。その間何をしているのか。働きもしないで、母国の誰かが養っているのなら、それは「住民」とは言えない。そんなことをするために何十億円もかかるだろうから、どこの国もやろうとは思わないだろう。そういうことをして、日本全体の国政を左右できるならともかく、たかが小さな離島の村長や村議会選挙に関わるわけがない。

 それよりも、韓国は外国人地方選挙権を認めているんだから、右派の日本人が韓国へ住みつけば、韓国の地方政治を変えられることになる。韓国の「慰安婦像」問題を大きく取り上げる人がかなり多いが、公道を管理する権限は地方自治体にあるようだ。韓国は「永住資格取得後3年以上が経過した19歳以上の外国人」に認めている。もちろん、そのためには実際に住みついて仕事をして地域に溶け込まないといけない。何千人も人がそういうことがするわけだ。そんなことができるわけがないだろう。自分ができないことは、当然相手の国の人もできないし、するわけがない。

 その国に定住している人は、国政選挙権と地方選挙権を共に持っている。日本でも、どの国でも同じだ。だけど、さまざまな事情で外国に住んでいる人は、今は国政選挙は投票できるが、その地域の選挙では投票できない国もある。そういう風に考えれば、国家集権を主張する人は別として、地方自治を大事にする人なら、定住期間などの制限を付けて、一定の外国人にも地方選挙権を認めるという方がスッキリする。国によっては、被選挙権も認めている国もあって、ロシアやオランダでは日本人が地方議会の議員になったこともある。それもいいなと思うけど。

*(ところで、今は外国人一般を考えたけれど、日本にとって韓国・朝鮮人、台湾などの旧植民地出身の「特別永住者」は本当はちょっと違う問題である。イギリス等は、旧植民地の独立にあたっては、国籍選択の自由を与えたことが多い。軍人恩給などでももちろん差別などない。そういう「特別な関係にある外国人」には、特別の待遇をするということが、植民地宗主国の責任だということだろう。)
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羽田孜、中村雄二郎、林えいだい等-2017年8月、9月の訃報

2017年10月04日 23時41分58秒 | 追悼
 7月には、日野原重明、平尾昌晃、劉暁波、ジャンヌ・モローなど大きく取り上げられた訃報が相次いだ。8月はそれほど大きな訃報が少なく、9月当初は関東大震災関係の記事を書いていたから翌月回しにしようと思った。9月もあまり大きな訃報はなかったけれど、一応2カ月のまとめ。

 第80代の総理大臣だった羽田孜(はた・つとむ)が8月28日に死去。82歳。この2カ月間で一面に載った訃報はこの人だけ。1993年に非自民連立の細川護熙内閣ができたが、翌年4月に辞職。それを受けて羽田内閣が成立したが、在任64日で総辞職した。(戦後2番目の短命内閣。)

 竹下派が分裂した時に、「羽田派」と「小渕派」となった。小渕派は橋本龍太郎が総理候補。羽田派は実質的リーダーは小沢一郎だが、看板に羽田を担いだ。小沢は参謀タイプで裏が好き、表の仕事を任せられるのが羽田だったわけ。93年国会の不信任案に与党内から賛成して脱党、新生党を結成して党首となった。全部細かく振り返ると長くなっちゃうが、結局「小沢一郎」との、時に手を結び、時に争った因縁が政治生活だった。最後は小沢が民主党を去り、羽田は残って別れて終わった。

 この人は「立派過ぎない政治家」と言われ、「与野党から惜しむ声」と書かれた。腰の軽い人で、裏もない感じで、政治的には賛同しがたいところも多かったが、なんだか嫌いになれない人だった。「人柄の政治家」だった。だが、病気をしたとは言え、82歳で「老衰」とは今では早すぎるのではないか。やはり中曽根元首相のような「悪人」でないと長生きできないということなのかもしれない。

 政治家では沖縄の上原康助氏が8月6日に死去した。84歳。この人は60年代の沖縄で、本土復帰運動の旗手と言えた。「全軍労」(今の全駐労、つまりアメリカ軍基地で働く労働者の組合)の「輝ける委員長」で、本土のニュースにも毎日のように名前が出てきた。1970年に復帰前の「国政参加特別選挙」が行われ、全県区に社会党から出て当選し、96年まで連続当選した。沖縄政界の有力者と言えば、自民党の西銘順治なんだけど、知事に転じたため大臣になれなかった。だから、93年の細川政権で、国土庁や沖縄開発庁長官になった上原氏が「沖縄選出政治家初の大臣就任」となった。
  (上原康助、長島忠美)
 2004年の中越地震で大被害を出した新潟県の山古志村の村長だった長島忠美氏が8月18日に死去、66歳。全村避難を指揮し、全国的に知られたが、山古志村は2005年に長岡市に合併。折しも05年夏に郵政解散となり、小泉首相に誘われ比例区1位で当選した。その後2012年には新潟5区の小選挙区に転じて、田中真紀子を落選に追い込むという「歴史的役割」を担うことになった。

 ノンフィクション作家の林えいだい氏が死去。9月1日、83歳。本名は「栄代=しげのり」。北九州市役所に勤めながら公害問題を告発、やがて退職して作家活動に専念した。筑豊の炭鉱の問題、そこに連行された朝鮮人労働者や外国人捕虜など、硬派のテーマを負い続けた。若いころに何冊か読んだと思うけど、大変なことをずっと続けたのが凄い。九州にはそういう人が何人もいる。最近記録映画にもなった。筑豊という地帯は炭鉱閉鎖後に、日本の縮図のような矛盾の集中地域だった。そこに腰を据えて発信し続けた人が何人かいるが、その最後の一人と言ってよいだろうか。
   (林えいだい、中村雄二郎、阿部進)
 哲学者の中村雄二郎氏が、8月26日に死去、91歳。70年代に「共通感覚論」などを続々と刊行、新しい哲学の世界を展開した。雑誌の座談会などでは何度か読んでると思うんだけど、僕は哲学系はほとんど読んだことがなく、多分一冊もちゃんと読んでないと思うから詳しく書けない。
 教育評論家の阿部進氏が8月10日に死去。今ではほとんど忘れられているだろうが、今の尾木直樹や水谷修氏よりもいっぱいテレビやラジオに出て、「カバゴン」と呼ばれた超有名人だった。「現代っ子」というのは、高度成長期のベビーブーマーを指して阿部氏が造語した歴史的用語である。

 長崎原爆の被爆者で「赤い背中の少年」と呼ばれた写真の被写体だった被団協代表委員の谷口稜曄(すみてる)氏が死去。8月30日、88歳。海外にも何度も出掛け、反核運動を続けてきた。9月2日には、元長崎大学長で長崎の核廃絶運動のリーダーだった土山秀夫氏も死去。兄を原爆で亡くし、映画「母と暮らせば」のモデルという。反核、被爆者運動を担ってきた人々が続々と亡くなりつつある。 
 (谷口氏)
 映画演劇関係。8月1日に映画監督の西村昭五郎氏が死去、87歳。ロマンポルノの「団地妻」シリーズの監督で、営々とロマンポルノの娯楽作を作り続けた。でも会社に不評のデビュー作、小沢昭一主演「競輪上人行状記」(1963)の面白さが残るんだろう。
 女優の真理明美が8月8日に死去、76歳。テレビの「プレイガール」が割と有名だけど、映画監督の須川栄三監督夫人であまり活動期間は長くない。デビューが「モンローのような女」(渋谷実監督)という珍品で、松竹で「お色気路線」で売ってもという感じだが、変な映画ではあった。
 8月20日、アメリカの喜劇俳優、ジェリー・ルイスが死去、91歳。ディーン・マーティンとの「底抜けシリーズ」で知られる。名前は有名だけど、僕の世代になるとほとんど語ることがない感じだ。
  (ジェリー・ルイス、ミレーユ・ダルク)
 それより、8月26日に74歳で亡くなったトビー・フーパ―。「悪魔のいけにえ」(1974)の監督だけど、あれは怖かった。チェーンソーで追いかけてくるだけのような映画だけど、ホラーの古典と言える。
 8月28日にはフランスの女優、ミレーユ・ダルクが死去、79歳。アラン・ドロンの愛人として知られた人で、訃報にももうそれしか出ていない。僕も何本か見たと思うけど、名前も出てこない。今調べてみると、「狼どもの報酬」かな。「エヴァの匂い」やゴダールの「ウィークエンド」にも出てた。
 
 9月1日に、演出家の青井陽治氏が死去、69歳。「真夜中のパーティ」や「ラヴ・レターズ」など多くの海外演劇を翻訳、演出した。非常に大事な仕事したと思うんだけど、訃報は小さかった。
 ところで、黒澤映画の脇役などで知られた土屋嘉男氏が、2月8日に亡くなっていたと9月になって報じられた。89歳。黒澤映画もいいけど、やはり「ガス人間第一号」のガス人間なんじゃないかあ。
 (土屋嘉男)
 その他の訃報をまとめて。気象キャスターの先駆けで、うつ病体験を公にして「やまない雨はない」を刊行した倉嶋厚氏(8.4没、93歳)、初代ゴジラの着ぐるみに入っていた中島春雄氏(8.7没、88歳)、成田空港反対運動の中で、三里塚芝山空港反対同盟北原派事務局長の北原鉱治氏(8.9没、95歳)は熱田派と分裂後も、一貫して反対を続けていた。両角良彦(もろずみ。よしひこ、8.11没、97歳)は元通産省事務次官で、城山三郎「官僚たちの夏」のモデルだが、ナポレオン研究家としても知られ、「一八一二年の雪 モスクワからの敗走」は名著だった。詩人の藤冨保男(9.1没、89歳)は、昔角川文庫にあった現代詩選集で読んで、その言葉の使い方にぶっ飛んだ思いがある。

 アメリカのカントリー歌手グレン・キャンベル(8.3没、81歳)、俳優のハリー・ディーン・スタントン(9.15没、91歳)はなんといっても「パリ、テキサス」の主役として永遠に記憶に残るだろう。アメリかで雑誌「PLAYBOY」を創刊したヒュー・ヘフナー(9.27没、91歳)は多くの女性と浮名を流したことでも知られるが、ヌードグラビアの雑誌で知られ全世界で有名になった。一種の文化革新者というか「反文化人」というか、大衆文化史に残る人ではある。他にも色々いますが、この辺で。
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「行人」-漱石を読む⑦B

2017年10月01日 22時33分34秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石を読むシリーズで「行人」を読み終わった。数日前になるから忘れないうちに書いちゃいたい。文庫本で430頁もあるから、「吾輩は猫である」や「明暗」と並ぶ巨編である。でもあまり取り上げられないし、読んでる人も他の作品に比べれば少ないんじゃないか。でも会話が多いうえドラマチックな映像的描写も多く、案外読みやすい。なかなか重要な作品だと思う。

 「行人」は1912年12月から1913年11月まで朝日新聞に連載された。ただし、途中で胃潰瘍のため、5カ月の中断期間があった。1912年の7月30日に明治天皇がなくなり、大正と改元された。だから、漱石では「彼岸過迄」が明治最後の作品で、「行人」が大正時代に書かれた最初の作品となる。

 内容は4部に分かれていて、「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の4章。当初は後に長野二郎という名前だと判る人物が、高野山に友だちと行こうとして大阪に行く。一緒に行く友達の「三沢」を待ってる間、東京の実家でかつて書生だった「岡田」という家に泊まる。ということで、何が起こるのか判らないんだけど、実はこの二郎は語り手であって、真の主人公は兄の一郎だということが判ってくる。

 三沢がなかなかやってこない間、二郎は長野家で「下女」をしている「お貞」の結婚相手に会う。岡田とその妻「お兼」(昔長野家に仕えていた)が進めている縁談である。こういう風に最初は「結婚」をめぐる社会小説かと思うと、今度は三沢が大阪で入院していると判る。その病院で入院している女をめぐってあれこれと語り合う。そんな感じでなんだか判らないんだけど、大阪が舞台。

 そこへ2章になって、兄夫婦と母が大阪へやってくることになる。この際どこかを訪れようと、和歌の浦に行くことになる。このように名所が出てきて、そういう面白さもある。だんだん判ってくるのは、兄夫婦の不和。兄の妻「直」には一女があるが、結婚前から二郎と知り合いらしく、兄は自分になれず、弟には親しんでいると疑っているらしい。そこで兄は弟に、妻を連れ出して心の内を確かめてくれと言い、二人で和歌山へ行く。ところが突然集中豪雨になって、帰りの電車が不通となり市内に一泊せざるを得ない。天候の急変と兄嫁との関係が絡み合い名場面になっている。

 その後、東京へ帰るが、家じゅうが兄を敬遠している感じで、学究肌の兄もみなに親しまない。二郎は実家を出ることにする。妹の「お重」も出てくるが、結局兄の一郎をどう理解するか。癇癪持ちで、父親さえ接しあぐねている。二郎は三沢を通じて、兄を旅行に連れ出してもらおうとする。そして、同行のHさんから来た長い長い手紙で物語は突然に終わってしまう。

 どうも病気がはさまって、やっぱり構成がよくない。でも、悩む本人の語りではなく、周りの人物の目で描かれるので、だいぶん本格小説っぽい感じがする。それに大阪や和歌山、あるいは東京でも舞楽の会に行くなど、動きがあって面白い。当初は主題が「結婚」のように進行していて、兄夫婦、それに二郎や友人の三沢、妹のお重などずいぶん人物も出てくるので、そういう風に結婚をめぐって展開するのかなと思う。だが、やっぱり途中で転回してしまう。

 それは兄の一郎の「悩める知識人」という問題である。これは漱石にもそういう部分があるから書けるんだと思う。大きく言えば、急激な近代化の中で、自分の拠り所を持てない知識人の自我の悩み。だけど、現実には周りに人間がみな愚かに見えて、自分の悩みを判ってくれないと思い、周囲の人物を疑っていく。それは明らかに精神疾患に近いと思われる。彼の学問そのものが、外国のものを日本の現状を無視して受けいれるものだった。そういう中で精神のバランスを失っていったのだ。

 都市知識人の苦悩、というよりも、初老期の被害妄想あるいはうつ病に近い感じを僕は受けたけど、それが結構よく書けている。ただし、その救いが宗教にあるかもと思うようなところに、時代の限界があるかもしれない。案外面白く書けてて、割と読みやすいけど、やっぱり基本的にはもう古いような気はする。
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