尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

歴史の中の藤原氏

2018年02月06日 23時42分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 ハプスブルク家と藤原氏の本を続けて読んで、日本史教員としては藤原氏は「知ってる感」が全然違うと思った。藤原氏抜きの日本史は考えられない。それが倉本一宏「藤原氏」(中公新書)を読んだ最初の感想。この本は注や参考文献を含めて300頁ほどで、手に取りやすく新書に最適。

 帯の裏側に「常に日本史の主役であり続けた一族」と書いてある。藤原氏がそこまで言えるかどうか。古代、中世はともかく、近世や近代はそうでもないという方が正しいだろう。ただ、藤原氏が違う姓を名乗って、各地に広がって行ったことは間違いない。「藤」が付く名字の人を全部集めれば、日本で圧倒的に多いだろう。そして、「日本」という国号が定まったのは、天武・持統朝と考えるなら確かに「日本史」の始まりから藤原氏は主役だったと言ってもいい。

 よく知られているように、藤原氏はもともと「中臣鎌足」(なかとみの・かまたり)である。中大兄皇子と組んで蘇我入鹿を殺害した「乙巳の変」(いっしのへん)の主役。中大兄皇子は後の天智天皇となり、鎌足晩年に「藤原姓」と「大織冠」を与えた。その大織冠らしきものも発見されているが、異論もあるよし。その子不比等(史)も律令制定に力を注ぎ勢力を伸ばした。その娘が聖武天皇の皇后、光明皇后で臣下初の皇后となった。

 不比等の4人の男児から、藤原氏が4つに分かれた。そして、その4人は737年に相次いで流行病(天然痘)で没してしまう。一時的に藤原氏は沈滞するが、やがて4人の子らの世代が活躍するようになる。その理由として、「蔭位」(おんい)という仕組みがあった。これは有力者の子どもは、初めから「父祖の功績」で高い位が与えられる制度。社長の子どもは最初から課長になれるといった感じ。律令に規定されているが、日本は唐より優遇度が高い。この時代、皇族以外で高い位にあったのは、鎌足、不比等しかいないので、その子孫は圧倒的に出世に有利だった。
(弐百円札の藤原鎌足)
 藤原4家の中で、後の摂関家となるのは「北家」。僕の「知ってる感」も圧倒的に北家に偏っている。北家の出世にまつわる暗闘史は大体知っている。でも、じゃあ、南家式家京家はその後、どうなった? ちゃんと判る人はほとんどいないだろう。大体4兄弟の名前がすぐには出てこない。長男武智麻呂(むちまろ)が南家だが、奈良時代末期に藤原仲麻呂の変を起こして自滅してしまう。それでも一族が多く、その後もそこそこ出世している。

 次男房前(ふささき)が北家だが、三男真楯の次男内麻呂、さらにその次男の冬嗣が嵯峨天皇の蔵人頭になって、その系統が摂関家になる。つまり長男が出世していない。次も冬嗣の次男良房が史上初の藤原氏摂政となった。そういうのはその後も続くのが面白い。なお、系図を見ると摂関家以外にも膨大な一族があって、それぞれ名を残している。三男宇合(うまかい)の式家は孫の種継が長岡京で暗殺された事件で有名。四男麻呂京家は当初からほとんど振るわなかった。

 しかしながら、北家以外の特に出世もしなかった系列は、別に知らなくてもいいだろうと言えばその通り。一種の歴史マニア的関心から、フーンそうだったんだと思う。面倒くさいと思う人はいるだろう。その後、道長の子どもの世代に、天皇の妃となって後継ぎを産んだ娘が出なかった。「天皇の女系の祖父」(外戚)として「摂政」になるというやり方が成り立たなくなった。日本社会も大きく変わっていく時代で、「家」の成立により貴族社会も大きく変わる。藤原氏は近衛、九条、二条、一条、鷹司の「五摂家」に分立し、当主がかわるがわる摂政、関白に就く。

 藤原氏の名前が鎌倉時代以後教科書に全然出てこないから、どうなってるんだと思う人が時々いる。実はそんな仕組みが出来上がって、江戸時代末まで続いたわけである。他の一族も様々な家業(日記、蹴鞠、和歌などを代々受け継ぐ)とする一族が出来上がる。そういう貴族は大部分が藤原氏出身。一部に源氏もあったが、日本の朝廷は藤原氏が支えたのは間違いない。そして、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)に始まる武家藤原氏もあった。奥州藤原氏もその流れ、歌人西行も一族である。関東の武士に多く、結城氏、小山氏などがそれ。
(藤原道長の日記、御堂関白記)
 ハプスブルク家は王家だが、藤原氏はもちろん臣下である。ヨーロッパの王家は王家どうしで政略結婚するが、日本の皇族は外国王家との結婚はしない。島国だから、そのような問題が生じない。その代わりに、王家に妃を送り込む「ミウチ」の臣下が必要になる。藤原以前はそれが蘇我氏だった。藤原氏はいくら勢力が強大になっても、皇位をうかがうことだけはできない。娘の産んだ幼い皇子を天皇に立てて、その代理人になることしかできない。この構造がある意味で日本史を規定したと言える。武士の時代とされる中世、近世も、征夷大将軍というのは、制度的には「天皇の代理人」だったわけである。

 著者の倉本氏は紹介を読んで「蘇我氏」(中公新書)も読んでいたことを思い出した。他にも特に藤原氏に関する一般書をたくさん書いている。藤原道長の日記「御堂関白記」の現代語訳も講談社学術文庫から出している。細かな叙述が歴史ファンには楽しめる一冊だけど、一般的にはこれほど細かな藤原氏の知識はいらないだろう。でも藤原氏を通して日本の歴史を考えるときのヒントがいっぱいある。
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ハプスブルク家の歴史

2018年02月05日 22時57分05秒 |  〃 (歴史・地理)
 そろそろ歴史の本が読みたくなって、新書で出た「ハプスブルク王朝」と「藤原氏」を読もうと思った。ちょっと人名が大変なんだけど、日本史、世界史を考えるときに絶対出てくる一族だし、歴史ファンなら面白く読める。(逆に言えば、こういう本を面白く読めない人は歴史ファンじゃない。)細かい事実がいっぱい出てくるのが楽しいのである。

 講談社現代新書で2017年8月に出た岩崎周一「ハプスブルク王朝」は、新書本なのに400頁を超えている。ズッシリとした重みに、買おうかどうか迷う本だが、これほど読みでがある本もめったにない。渋谷のBunkamuraで「ルドルフ2世の驚異の世界」展が開かれているが、このルドルフ2世がハプスブルク家である。最近はハプスブルク家に関連した展覧会も多いが、音楽でもモーツァルトやベートーヴェン、あるいはヨハン・シュトラウスやマーラー…みなハプスブルグ帝国の人だった。それなのに、簡単に入手できる入門書がなかった。

 先にチェコ人カレル・チャペックによる旅行記を紹介したが、チャペックはスペインやオランダでハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」を発見して感慨にふけった。ハプスブルク(Habsburg)家は、今のスイスの端っこで10世紀ころから勢力を伸ばしたドイツ系貴族である。それが何でスペインやオランダまで支配したのかというと、複雑な政略結婚による。大航海時代のスペインはハプスブルク家だし、スペインやオランダの画家を理解するためにもこの一族の知識は欠かせない。系図を何度も見返さないと判らないけれど、ヨーロッパの王家は複雑に結び合ってきた。

 ヨーロッパ史で理解しにくいことの一つが「神聖ローマ帝国」である。ローマ帝国の栄光を引き継ぐ皇帝を意味するが、事実上「ドイツ王」の意味しか持たない。後にヴォルテールに「神聖でもローマ的でもないどころか、帝国でさえない」と言われてしまった。弱小のハプスブルク家は次第に勢力を伸ばして、1273年にはルドルフ4世がドイツ王(ドイツ王としてはルドルフ1世)に選ばれ「神聖ローマ帝国皇帝」の資格を得る。王に選ばれるというのも、日本の感覚では判りにくい。ドイツ諸邦の有力者が「選帝侯」と呼ばれて「選挙」をするのである。ハプスブルク帝国では一貫して、諸邦、諸身分の力が強かったことも意外な驚きだ。(だから「帝国じゃない」となる。)

 カール5世フェリーペ2世の時代にラテンアメリカを支配し世界に冠たる帝国となる。その後、スペイン系オーストリア系に分かれ、スペイン系は後継ぎがなく絶えてしまう。オーストリア系では、18世紀に有名な女帝マリア・テレジアが現れる。その娘がフランス王妃マリー・アントワネット。フランス革命とナポレオン戦争後には、1814年にウィーン会議が開かれ、宰相メッテルニヒのもとヨーロッパの秩序を定めた。「会議は踊る」と言われるが、けっこうちゃんとした会議だったと出ている。

 第一次世界大戦に負けたハプスブルク帝国は崩壊するが、その国を教科書では「オーストリア=ハンガリー二重帝国」と書いてある。これは何だろうというのも疑問だった。その経緯もこの本に詳しいが、複雑な民族構成を持つハプスブルク帝国は、もともとオスマン帝国や中国の諸王朝なども同様に諸民族を支配する「帝国」だった。しかし、ヨーロッパでイングランドやフランスが「国民国家」として成長してくると、ハプスブルク帝国でもドイツ系の国なのか、諸民族の国なのかという問題が起こって来た。

 そこで帝国内で人口的にも政治的にも重きをなしていたハンガリー人ドイツ人と同格の地位を与えて「二重帝国」という仕組みを作ったのである。今のハンガリーは小国というイメージだが、当時はトランシルバニア(現ルーマニア)などもハンガリーだったのである。そこで「排除」されたのが、チェコ人やクロアチア人などのスラヴ系諸民族。チェコ人にも同等の資格を与えて、「三重帝国」にするべきだという意見も相当強かったという。結局第一次大戦後に、スラヴ系民族は「チェコスロヴァキア共和国」と「ユーゴ(南)スラヴィア王国」という国になった。

 1848年のウィーン三月革命のあとで18歳で即位したフランツ=ヨーゼフ1世は、第一次大戦中の1916年に亡くなるまで延々と在位を続けた。長男は謎の心中事件で死亡し、ミュージカルにもなった皇后エリーザベト(バイエルン家出身)は暗殺され、1914年には皇位継承者のフランツ・フェルディナントがサラエヴォで暗殺された。長命したことで悲劇の皇帝となったけれど、その長い長い治世の印象が強く、どうしてもハプスブルク家には停滞のイメージが強い。しかし、現代の欧州統合の中で再評価の声もあるということだ。ハプスブルク家の後裔も活躍している。
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川島雄三監督生誕百年

2018年02月03日 23時14分14秒 |  〃  (日本の映画監督)
 日本映画史上に異彩を放つ映画監督、川島雄三生誕百年になる。川島雄三は1918年2月4日に青森県田名部町(むつ市)に生まれ、1963年6月11日に亡くなった。享年45歳筋萎縮性側索硬化症という難病を若い時から患っていて、晩年は歩行が不自由だったという。脚本家時代に弟子だった作家藤本義一は、「生きいそぎの記」と題した本を書いている。生地のむつ市で特集上映が行われ、衛星放送では50本の放映が行われるというが、東京では(今のところ)大々的な回顧上映が企画されていない。ここで川島雄三再評価の機運を高めたいと思って振り返ってみたい。
 (川島雄三監督)
 川島雄三は松竹映画還って来た男」で1944年に監督デビューしている。「戦中派」だったのかとちょっとビックリするが、その後、日活東宝に移籍し、また重要作品を大映で3本撮っている。今まで生誕百年が大々的に回顧された監督は、小津安二郎なら松竹、黒澤明なら東宝と中心になる会社があった。まあ小津や黒澤も他社で重要作を撮っているが、川島ほど各社にまたがってはいない。中心になって回顧してくれる会社がないのは川島雄三にふさわしい感じもあるが。

 川島作品はキネ旬ベストテンには2作しか入選していない。一つは1957年の「幕末太陽傳」の4位、もう一つは1963年の「しとやかな獣」の6位。「幕末太陽傳」はキネマ旬報が2009年に行ったオールタイムベストテン投票でも、堂々の4位になっている。(1位は「東京物語」、続いて「七人の侍」「浮雲」で、5位が「仁義なき戦い」になっている。)日活で作られた「幕末太陽傳」はどんどん評価が高まっているが、川島雄三の最高傑作だということは、誰が見ても揺るがないだろう。

 この2作品は僕も若いころから何度か見ているが、昔は他の作品がほとんど上映されなかった。1956年の「洲崎パラダイス 赤信号」や1962年の「雁の寺」ぐらいしか見られなかったものだ。「雁の寺」は水上勉の直木賞作品の映画化で、若尾文子の名演もあって15位にはなっている。でも、「洲崎パラダイス 赤信号」は今見ればすごい傑作だけど、当時のベストテンでは28位にしか入ってない。でも入れた人がいるだけいいので、川島作品の多くはほとんどが作品的には忘れられていた。
 (「洲崎パラダイス 赤信号」)
 最近は古い日本映画を専門的に上映するところが東京に複数出来て、川島作品もずいぶんやっている。主演級だった俳優が亡くなって追悼上映があったりすると、各社で撮っていただけあって川島作品がよく入っている。そうやって川島映画をかなり見られるようになると、「文芸映画の名手」という面と「時代を突き抜けたカルト作家」という側面が見えてくる。「しとやかな獣」は今見ても強い毒がインパクトがある。設定も構図や色彩なども、かなりぶっ飛んでいるから、調子が悪い時に見ると入り込めない時もある。でも間違いなく傑作である。
 (「しとやかな獣」)
 しかし、どうも時代が早すぎたようなブラックユーモア作品も多い。どちらも1959年東京映画作品の「グラマ島の誘惑」「貸間あり」などは、もう笑えないレベルすれすれ。飯田匡原作の「グラマ島の誘惑」なんか、皇族と慰安婦が遭難して同じ島に漂着するという設定だから、そんな映画があったんだと驚いてしまう。井伏鱒二の原作「貸間あり」も怪しい間借り人が集まるアパートのセットがすごい。フランキー堺、桂小金治の主要キャストも共通している。落語家の桂小金治をスカウトしたのは川島監督だった。「人も歩けば」「縞の背広の親分衆」「イチかバチか」(遺作)など、後期の東宝作品にブラックユーモア色が強いのは健康状態もあったのだろうか。

 一方同時期でも1960年「赤坂の姉妹 夜の肌」(原作由起しげ子)、1961年「特急にっぽん」(原作獅子文六)、「花影」(原作大岡昇平)、1962年の「青べか物語」(原作山本周五郎)、「箱根山」(原作獅子文六)などの安定した文芸作品を連発している。今見ると、これらの映画は風俗的にも興味深く、原作を巧みに映像化した手腕にしびれる。今なら名作と評価されたに違いない。だが、これほど連発することは会社の映画でないと難しい。この時代の最高傑作は、大映で撮った冨田常雄原作の「女は二度生まれる」だろう。神楽坂の芸者、若尾文子の男性遍歴を丹念に描いて、社会批判を忍ばせる。

 後期の東宝、大映作品で長くなってしまったが、一番多くの作品を撮っている松竹映画は見てないものも多い。デビュー作の「還って来た男」は織田作之助原作で、教師の田中絹代と帰還した兵士の話。その後24本も撮っている。「とんかつ大将」(1952)、「東京マダムと大阪夫人」(1953)などは傑作コメディ。後者は芦川いづみのデビュー作品。「適齢三人娘」(1951)、「明日は月給日」(1952)は、占領下で復興していく世相も興味深く、コメディとしてなかなか面白いと思う。

 日活に移った後は、最初の「愛のお荷物」(1955)が非常に出来が良いコメディ。今と違って、日本は人口抑制が課題と考えられていて、そのことを厚生大臣一家を題材に面白おかしく描いている。最後は山村聰の大臣にも子供が出来てしまう。「あした来る人」や「風船」「わが町」など原作ものも多いが、やはりこの時代は「幕末太陽傳」ということになる。こう見てくると、喜劇的才能を発揮した感じだが、社会風刺やブラックユーモアのスパイスが効いている作品が多い。

 安定して原作を任せられると考えられていたと思うが、今見ると当時の世相の映像が貴重である。当時の箱根や浦安は今や川島作品を見るしかない。また「特急にっぽん」は獅子文六ん「七時間半」の映画化だが、新幹線以前の東海道線の最速特急「こだま号」の姿を堪能できる。また売防法施行直前の「洲崎パラダイス」も貴重だ。そのような意味も含めて、川島雄三作品は今も新しい感じで楽しめる。今後も初期作品を中心に発掘が進むことを期待したい。まだ全貌が見えていないと思う。
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玉川奈々福さんの浪曲を聞きに行く

2018年02月03日 00時37分37秒 | 落語(講談・浪曲)
 女性浪曲師玉川奈々福さんの名前は、2017年12月16日まで知らなかった。そういう人は多いと思う。その日の朝日新聞土曜版「be」の「フロントランナー」に奈々福さんが取り上げられていたのを読んだわけ。日にちがすぐに特定できるのは、その日が「高石ともや年忘れコンサート」の日だったからで、僕は夫婦で亀戸カメリアホールに行った。そこでもらったカメリアホールのチラシを見ると、1月27日の玉川奈々福さんの浪曲と映画の会のチラシがあった。それを見て、僕はこの人どっかに出てたよねと言ったら、今日の土曜版じゃないと言われた。そうか。
 (玉川奈々福)
 その会に是非行ってみたいと妻はチケットを取ってしまったけど、僕はまあいいかと思った。その会がすごく面白かったということで、今度は2月2日の「奈々福×吉坊 二人会」のチケットを2枚買ってきてしまった。うーん、どうしようかな。ホントはフィルムセンターで山際永三監督の「狂熱の果て」を見ようと思っていたのである。でも、まあせっかくだしなあと思って、浅草の木馬亭に出かけた。木馬亭というのは、月の初めに浪曲の定席を開いているところで、そんな場所は他にない。僕は初めて。

 けっこういっぱい入っていて、「みちゆき」と題した二人会も5回目だという。桂吉坊も初めてだけど、上方落語の期待の若手。今日は吉坊が「三十石夢乃通路」(さんじっこくゆめのかよいじ)という1時間かかる大ネタをやったので、浪曲の方は短めだった。この「三十石」が抜群に面白く、こんなに何も起こらないような、普通の意味の起承転結のない噺があるなんて知らなかった。大阪から伊勢参りをした後で京都を見て、伏見から船で大阪へ帰る二人組。どこまでも船に揺られて続くような心地よさ。
 (桂吉坊)
 その前の奈々福さんは「石松金毘羅代参」で、次郎長ものである。次郎長が森の石松に讃岐のこんぴらさんに代参を命じる。ただし石松は酒を飲むと訳が分からなくなるから道中は酒を飲むな。それは無理だから、引き受けられねえというくだりである。どうしてもマキノ雅弘監督の名作「次郎長三国志」の森繁久彌が思い浮かんでしまう。石松は三十石船で「寿司食いねえ」となる。広沢虎造との掛け合いも楽しく、虎造の浪曲も頭の中に浮かんでくる。今回は「三十石」つながりなんだろうけど、落語が長いから浪曲は抑え目。奈々福さんはこの前の方が面白いと妻の言。

 しかし、浪曲を聞きに行くとは我ながら思わなかった。でも、すごく面白かったのでクセになるかも。今回だけじゃ、玉川奈々福さんは語れない。後半の二人のトークが抜群に面白い。吉坊が桂米朝に付き添って旅に出たときの話なんか、抱腹絶倒である。今度は5月1日に予定。夜の浅草がライトアップされていて、9時半過ぎでも外国人がけっこう浅草寺の写真を撮りに来ているのも驚いた。
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「部活指導員」と「部活講師」-部活を考える⑦

2018年02月01日 22時53分43秒 |  〃 (教育問題一般)
 部活問題も長くなってしまった。番外編はまだあるんだけど、制度論は終わりにしてしまおう。教員の長時間労働問題を解決しないといけないという問題意識が最初にある。部活を変えない限り、教員の長時間労働も解決しない。少子化に伴い、生徒数も教員数も少なくなるから、学校に今までのように多くの部活動を置くことはできなくなる。だから、試合に勝つことを目指すような活動は、地域全体で取り組む以外にできなくなる。それは前に書いた。しかし、一律に学校での部活はなくせないし、「勉強系部活」を中心に生徒の要望は大きいんだろうと思う。

 一方、文科省は教員の働き方のモデルを作るというけど、そこに「サービス残業」があったらおかしい。公立学校の教員に対して、「朝7時45分学校着、8時から登校指導(ボランティア)」とか、「17時勤務時間終了 18時まで部活動指導(ボランティア)」とか書くわけにはいかない。生徒に対して「喫煙は法律違反だ」と指導し、教員に対しては「職務命令だから、卒業式の国歌斉唱時には起立せよ」と言う。そんな教育行政が、職務命令も出せないのに法律違反のボランティアを強制することはできない。(そもそも「ボランティア」は「強制」できないが。)

 じゃあ、どこに解決法があるか。あるとすれば、当面は3つだけだと思う。一つは「部活休養日」に「部活による勤務超過」の代替を認めることだ。もっともこれは実際は難しい。各部交代で部活休養日を設けたとしても、会議は連日のようにあるから早帰りは難しい。特に中学校は労基法に定められた「一斉の休憩時間」が取れない。タテマエ上は昼休みが休憩なのかもしれないが、そこには「給食指導」がある。ある意味授業以上に気を遣う時間で、とても職場を離脱する自由などはない。(休憩時間は職場を離れてもいいはずだが。)

 昔は労基法上の「休憩時間」と「休息時間」を授業終了後に「まとめ取り」するような「職場慣行」があったところも多いと思う。会議や部活動がない日に関しては、他の日の代替として4時ころで早帰りも認めるといった「慣行」である。しかし、それは労基法上は本来できないので、かつての「公務員バッシング」時代にほとんどなくなってしまったと思う。学校では校長の権限が強いので、校長判断でできる余地があるかもしれないが、労基法の改正で特例措置が公認されない限り事実上は難しい。

 そうなると、部活は「部活指導員」が担当するという方向に変えていくしかないのではないか。一挙に全学校の全部活で、土日も放課後も担当する「部活指導員」が見つかるはずがない。だから、10年間程度の猶予を認めて、全教員に「部活指導員」資格を無条件で付与する。部活動の時間は「職務専念義務の免除」を申請して、部活指導員として行う。(当初は学校全体で「職免」手続きを行うしかないだろう。)当然のこととして、「部活指導員」には最低賃金以上の報酬が支払われる。

 当面は部活動と勤務時間の問題をクリアーするためには、このような「奇手」を使うしかないのではないか。家庭事情で部活を担当できない教員は、当初から「部活指導員」資格を申請しないことを認めればいい。大体今の部活顧問には資格も何もない。まあ卓球部やマンガ部なんかならともかく、柔道部や吹奏楽部なんかは「法律的には誰でも顧問になれます」とか言われても困ってしまう。では資格があればいいのかというと、それも違う。その競技の専門的な経験、実績がある人ほど、「熱心」な指導、つまりはパワハラなどが起こりやすい。だが、そういう問題も含めて、やがて「部活指導員資格」は整備されざるを得ないのではないか。特に「危険性の高いスポーツ」を中心に。

 もう一つ、前に書いた「部活動軽減」制度がある。担任のない教員が勤務時間をずらし、部活後の下校指導を担当する。それ以外の教員は勤務時間を過ぎたら上っていい。実際は難しいかもしれないが。今は終了時に部活ごとにあいさつをすることが多い。そういうのはまとめてやればいいし、体育館や部室の鍵かけなどは部活軽減教員がやればいい。そういうことが考えられるが、いずれにせよ新しい予算措置が必要になる。しかし、できる地方自治体から取り組んでいくしかない。

 それより僕が将来的に考えて欲しいのが、「部活講師」制度だ。今は講師は授業を担当するためにしか雇用されない。雇用期間も不安定である。特に音楽などは授業時間数が中学でも高校でも半端が出やすく講師時数が多い。また女性教員が多いから、産育休代替の需要も多い。産育休代替は全日勤務だから部活もできるが、講師は部活を持てない。でも、音楽を学んで教員免許も持つ人だったら、吹奏楽や合唱などの経験者が多いに違いない。部活も担当してもらってはいけないのか。

 常勤講師として雇用し、勤務時間をずらして3時間目ぐらいから後の授業と部活動を担当する。場合によっては、部活動の場所は近隣のスポーツセンターなどの場合も考えられる。まとめて近隣地域の生徒の指導に当たるわけである。ただの部活指導員でもいいんだけど、やはり授業も少しは担当した方が生徒のことがよく判る。体育や音楽の教員希望の人なら、「常勤の部活講師」になりたい人もいるのではないか。スポーツや音楽、ダンスなどを目指す若者は多いが、現実にプロになれる人は少ない。やがて指導者になることも考え、教員免許を取得して部活講師になるという人生の選択肢を作ってはどうだろう。

 もっともそれは待遇的に一生続けるという仕事にはならないだろう。やはり若いときの仕事ということになる。「部活講師」になった若者も、やはりホンモノの教員を目指すというならば教員試験で優遇すればいい。一方、部活の実績を上げ強豪私立高校の監督に迎えられる、スポーツの審判員や関連団体で働く、地方自治体職員の方に専念して社会教育を担当するなど、いくつかの人生コースが考えられる。バイトしながらスポーツや文化活動(音楽、ダンス、演劇等)をしている若い人はものすごくいっぱいいる。勉強への意欲を高める意味でも、ぜひ検討して欲しいと思う。
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