尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大学入試はどうあるべきか問題

2019年11月12日 22時52分53秒 |  〃 (教育行政)
 大学入試の「英語民間試験」導入が「延期」されたことは先に書いた。かなり前から反対の声を挙げてきた英語教育関係者、あるいは当事者として反対の動きを起こした高校生などがあってこその「延期」だったと思う。「延期」とあるけれど、「抜本的に見直す」ことが必要だ。さらに、国語・数学の「記述式」問題の是非も問われている。ここで問題なのは「記述式」そのものではない。「記述式」は「考える力」を見るなどと言うが、何十万もの受験生が受ける性格上、「公平性」担保のため限りなく「考える力」を問わない問題に近づいていく。そうじゃないと「アルバイト学生」が採点できない。

 そんなに「考える力」を見たいなら、全部記述式にするべきだ。そのため採点にバラつきが出たとしても、それはやむを得ない。それが「記述式」というものだ。つまり本来は「大学教育にふさわしい受験生を選抜する」という目的で行うんだから、「小論文」というか「大論文」を書かせるのが一番良い。そじて大学関係者が自ら採点する。基礎学力の有無は、高校の成績で判断する

 もちろん、それは現実的ではない。各高校、各地域の学力には違いがある。だから、基礎学力の確認がいることになる。それなら「基礎学力」だけを見るテストをすればいい。英語の4技能だの、国数の記述式だの、そんな面倒なことをする必要はない。受験生の「英語を話す力」を知りたい大学は、独自に二次試験をすればいいだけだ。(その時に検定等の結果をもって代用する大学もあって良い。)

 なぜ文部科学省が「民間試験」や「記述式」導入に固執してきたのか。それは大学入試を変えることで、高校以下の授業を変えたいからだろう。実際、私立学校などは新テスト対応を進めてきたから、いまさらやめるなと言ってきた。それはつまり、「英語の4技能」とか「アクティブラーニング」とか、お題目は立派でも、高校現場的には「入試対策をして乗りきる」ものでしかないのだ。大量に何十万も採点するとなれば、それは「マニュアル化」可能なものでなければ不可能だ。英語の民間試験だって同じだろう。中国の文化大革命当時に言われたというが、「上に政策あれば、下に対策あり」である。

 さらに指摘すれば、「全国学力テスト」の弊害である。大量にデータ処理するから、民間業者に委託せざるを得ない。それが当たり前になってしまった。だから文科省は、記述式を始めたら下請けさせればいいとしか思ってなかっただろう。受験生に大きな不満と不安を呼ぶだろうという感性を失ってしまった。全国の教育を競争的にしてきた一番の要因も、全国学力テストだ。民主党政権時代に「抽出」で行われたことがある。「抽出」でも「悉皆」でも、ほとんど違いはなかった。もう何年もやってみて、結果も毎年ほぼ同じだ。かつて60年代に実施された学力テストは教員組合の反対が強く、数年で中止された。教員組合の弱体化が間違った政策を続けさせている。

 ところで、この問題は「大学入試はどうあるべきか」という問題から、「そもそも大学教育はどうあるべきか」や「教育政策全般に見られる官僚的・強権的体質をどう変えていくか」へと考えを進めていかないと展望を持てない問題だろう。今そこまで全部書くのは大変なので、ここでは「考えるヒント」だけ。まず、「大学教育」に関する思い込みを排することだ。普通は大学では高度な勉強をするから、それに対応できる希望者を入試で選抜するのが当たり前だと思われている。

 以前書いたけれど、その前提を崩して「希望者を全員受け入れる」ことにしたらどうだろう。教室のキャパシティの限界があるから、大学へ入っても全員が授業には出られない。だから、「大学へ入れるか」競争から、「講義を受講できるか」競争になる。大学教員は自分の権限で、どんどん落とせばいいだけのことだ。これは極論としても、そもそも「入試をなくして、全員を推薦で選抜する」方が正しいんじゃないだろうか。そういう大学が何故出て来ないんだろうか。もちろん、その推薦選抜時には英語の外部テストの結果を高く評価する大学が多くなるだろう。

 日本で「大学入試」がこれほど問題になるのは何故か。それは入れば大体卒業するからだ。つまり、高校3年、または浪人する場合もあるが、そこで「最終学歴」が決まってしまい人生に大きな影響を与える。だから入試の「公平性」が大きな問題になる。「就活」というものが可能になるのも、3年まで行ったらほぼ卒業できると学生も企業も思ってるからだ。でも、本当は4年生で単位を落とす可能性だってあるはずだ。いま、文科省は大学に「入学者定員の厳守」を求める。

 だが、これを反対にして「卒業者定員の厳守」にしてみたら、どうか。大学は自由に入学者を決められる。だが、現在の水準以上の卒業生を出すことは認めないのである。そうなれば、大学入試などどうでも良くなるだろう。しかし、卒業認定をめぐる透明性、公平性が厳しく問われる。卒業の方が全然難しいのである。全員は卒業出来ないのである。ホントの競争が必要になるし、自分の能力よりずっと上の大学へ無理して入る人はいなくなる。そして、内定を出しても半数は卒業出来ないとなれば、就活という悪習もなくなる。「入試改革」より、大学でホントに勉強する方が大事だと思うけど。
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小痴楽再びー国立演芸場11月中席

2019年11月11日 22時52分32秒 | 落語(講談・浪曲)
 10月7日に「柳亭小痴楽真打昇進披露興行」を書いた。面白かったので、もう一回国立演芸場11月中席の披露興行に行ってきた。東京の真打披露興行は(落語芸術協会の場合)、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場と回って、国立演芸場で終わる。(上野鈴本演芸場は芸協が出演できない。)国立演芸場は他と違って指定席制である。(鈴本なども正月、5月上旬、お盆期間などは指定席だが。)他より時間が短いが、その分安いし(2100円)、都の旧職員向け割引もある。

 今回は夫婦で見に行った。口上に会長の春風亭昇太に加え、三遊亭小遊三滝川鯉昇と芸協を代表するビッグネームが揃うから、中席一日目に行くことにした。ネットでは割引が効かないので、わざわざチケットを買いに行った。ちなみに一番人気は神田松之丞で、19日(火)はあっという間に売り切れていた。今日は披露の口上が、後で小痴楽が言ってたけど「大喜利状態」で小遊三なんか「高校三年生」を歌って終わり。小痴楽は先代痴楽の子どもで、昇太は小痴楽の幼い頃を暴露して笑えた。

 弟弟子の柳亭明楽の「転失気」(てんしき)はなかなか味はあるけど、もう少し頑張ってという感じ。二つ目の「成金」グループは11人いるので、先頭を切って昇進した小痴楽の披露興行に一日一人ずつ出ている。今日は春風亭柳若で、滝川鯉昇の前座時代の名を名乗る弟子。「猫の皿」という街道を歩いていて、古い茶屋で猫の小皿に名品を見つける話。威勢がよくて面白かった。江戸屋まねき猫の動物物真似を挟んで、小遊三鮑のし」と昇太猿後家」で中入り。

 昇太は結婚ネタでしばらくマクラを持たせるんだろう。自由に生きてきて、急に元タカラジェンヌと「ご成婚」じゃ、言いたいネタは山のようにある。「家の温度」だけで爆笑させるんだから、確かにうまい。でも段々発想が平板になってきたかも。まあ寄席とホール落語じゃ少し違うのかもしれない。会長になったのを機会に、もっと寄席でやって欲しいなと思う。「猿後家」はマクラがいつの間にか噺に入ってて、羽織を脱がずに一席が終わるのを初めて見た気がする。うまいし、そのことを観客も判っていて、期待に応えるんだからすごい。でも以前の爆発的面白さは変わってきたのかもしれない。

 口上の後は、滝川鯉昇の「粗忽釘」で相変わらず非常にうまい。省エネ主義みたいな芸風がうまく効かない時もあるけど、今日はなんだか一番おかしかったかも。展開が判っているのに笑わせるのが落語だから、中味より語り口の妙が技になる。この人ほど「独自の面白さ」を維持している人も珍しい。小痴楽の師匠、柳亭楽輔代わり目」は、よく演じられる噺で時間を考えたかエッセンスだけだったか。

 東京ボーイズをはさんで、最後に小痴楽干物箱」。これが大熱演で、やはり小痴楽は華がある。道楽息子と小言親父。よくあるパターンに息子の声色が得意なもうひとりを出してきて、演じ分ける。判っているけど、おかしい。熱演もあるし、芸もあるだろうが、どうも雰囲気そのものが道楽息子風で落語の世界っぽいのである。でもうちの奥さんの言うには、先代のように病気が心配の感じだと。自愛を望むと同時に、「やまいだれ」が名前を覆うのもどうなんだろうと思ったりもする。

 国立演芸場は最近売店が閉店してしまった。一回の奥の展示場では紙切りの特集をやっていた。どうもダラダラした感想だけですいませんの記事ですね。たまに夫婦で落語を聞きに行くのもいいかと記憶にインプットする。国立演芸場は、やはりお国が芸能も守ります感がしてしまうけど、案外の穴場。
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キューポラと洋館ー川口散歩

2019年11月10日 22時50分00秒 | 東京関東散歩
 埼玉県川口市を散歩してきた。JRがやってる「駅からハイキング」に「学生駅ハイ」という企画があって、川村学園女子大学観光文化学科の学生が企画した「川口の歴史と文化に触れる」である。川口と言えば、どうしても「キューポラのある街」を思い出す。今はもう鋳物産業の町じゃないのは知ってるけど、一度は行ってみたいと思っていた。予約不要で、9時~11時に受付。まあ無理する気はなかったけど、何しろ休暇村とムーミンでバイキング3連続。少し歩きたいと思ったわけだが、帰ってスマホを見ると、2万7千歩も歩いてたのはビックリ。

 川口は京浜東北線で埼玉県最初の駅である。東京都北区の赤羽駅の次。案外近いんだけど、降りたのは初めて。2011年に鳩ヶ谷市を合併して、人口は59万人もある。政令指定都市以外では船橋市に次いで第二位だという。駅前の商業施設が「キュポ・ラ」、駅前広場が「キュポ・ラ広場」と名前に歴史を留めている。駅前にキューポラのモニュメントがある。キューポラ(cupola)というのは、鉄を溶かして液状にする溶解炉のことで、かつては屋根から突き出る姿が川口のシンボルと言われた。戦争直後には川口が日本の三分の一を占めた。「働く歓び」という鋳物労働者の彫像もある。
  
 川口の鋳物は、国立競技場の聖火台に使われた。1958年の第3回アジア大会に使われたもので、川口鋳物の代表作と言われた。鈴木万之助・文吾親子(完成品は文吾の作)が製造。1964年の東京オリンピックでも使われた。その聖火台が駅前に展示されている。国立競技場の建て替えに伴って、東北各地を回った後、2020年春まで置かれているという。鋳物産業は70年代が最盛期で、その後激減している。しかし、残っている会社もあって、日曜休みで見られなかったが、今回のコースに「日本唯一のベーゴマ製造」の「日三鋳造所」もあった。ここで作ってはいないが、ベーゴマ資料室がある。
  
 駅前から10分ほどで南へ行って川口神社がある。川口の総鎮守であり、鋳物の神とされる金山彦命も祀っている。鳥居の裏にも鋳物工業繁栄の印が残されている。
 
 神社から少し歩いて「母子父子福祉センター」へ。ここは「旧鋳物問屋鍋平別邸」として国登録の有形文化財に指定されている。こういうところは気がつかずに通り過ぎてしまいやすい。企画地図があってこそ行く場所だ。普段は公開していないので、見学には事前連絡が必要。古い建物もあるらしいが、現在の姿になったのは1941年頃という。洋館に和室があり、離れも付いている。庭園も見事で、ちょっと前のお金持ちの家の風情がよく残っている。鋳物産業の繁栄を今に伝える貴重な文化財。
   
 それから川口市立文化財センターへ。施設だから写真は載せない。川口市の歴史について、とても勉強になった。実は僕の住んでる足立区と川口市は隣同士である。横どうしの交通がないから、行かないだけ。「赤山街道」という道が近くにあるんだけど、どういう意味か知らなかった。ここで初めて由来が判った。その後延々と荒川土手を歩いて工場地帯を下に見る。

 「大泉工場」というところでマルシェをやってたが、ちょっと見て通り過ぎてしまった。先ほど調べたら、この工場は実に面白いところらしくて、残念。また延々と歩き、「デイジー本店」でパンを買う。美味しそうなパンがいっぱいだが、食べ過ぎると来た目的を失う。かなり飽きてきたので地図のコースを離れてショートカット。ぶらぶら歩いていると、なかなか面白い民家が多い。最後に埼玉高速鉄道川口元郷駅近くの「旧田中家住宅」へ。ここはすごい。「君は旧田中家住宅を知っていたか?
   
 「旧田中家住宅」なんて言うと古民家みたいだけど、実は埼玉を代表する洋館建築。2018年12月に国の重要文化財に指定された。近代の重文は、未来の国宝だ。上の写真は最初の3枚が、国道122号の反対側から撮影。国道に面しているのである。外観は壮麗な洋館だが、中には和室と庭園がある。建てたのは4代目田中徳兵衛で、1923年に洋館が完成した。和館は1934年の増築。
   
 中はまあ普通の洋館建築なんだけど、なんと3階まである。東京の洋館は2階建てだ。そして3階まで開放している。周りは道路とマンションばかりだけど、庭を上から見られる。もともと田中家は農家だったが、明治初期に2代目が麦麹味噌を始めて「上田一」(じょうたいち)のブランドで全国で販売したという。4代目は埼玉味噌醸造組合長に就任、県会議員から貴族院議員になった。これが多くの客を接待する洋館を建てさせた動機なんだろう。だから自分用に和館が必要になる。
   
 最初の2枚が3階にある大広間。一番上に案内されて、客も驚いただろう。後の2枚は1階奥の和室棟。こういうところもないと、当時の日本人は暮らせない。そこから池泉回遊式の庭園が見渡せる。東京間近の国道沿いに、これほどの建築が公開されていたとは。ここの不思議な面白さは一見の価値がある。全然知らなかったけど、今日一番の収穫だった。
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滝口悠生の小説を読む

2019年11月09日 22時07分17秒 | 本 (日本文学)
 滝口悠生の小説を読んで、すごく面白かった。近年の芥川賞受賞作家だが、まず名前は「たきぐち・ゆうしょう」である。1982年10月18日生まれ。文庫本には「東京生まれ」とあるが、ウィキペディアを見るとそれは八丈島。でも一歳半で埼玉県入間市に移り、埼玉県立所沢高校卒業、早稲田大学第二文学部退学と出ている。父親は「古文教師」と不思議な表現になっているが、都立高校の国語教員かなんかなのだろうか。今までに5冊の短編集と一冊の長編「高架線」が刊行されている。

 3つの短編集が文庫化されていて、その3冊を読んだ。僕は芥川賞作品ぐらいは読んでおきたいと思っている。昔は単行本で買ってたけど、読まないうちに数年経って文庫化されたりする。読んでない本はいっぱいあるから、待ってればいいと思うようになった。最近、山下澄人しんせかい」が文庫に入って、第157回(2017年7月)の沼田真佑影裏」まで文庫に入っている。

 滝口悠生は「死んでいない者」(2015)で、154回芥川賞(2015年下半期)を受けた。本谷有希子異類婚姻譚」と同時受賞。その前回が羽田圭介スクラップ・アンド・ビルド」と又吉直樹火花」。その次が村田沙耶香コンビニ人間」だった。この5人の中では、滝口悠生が一番地味というか、知られてないんじゃないかと思う。でも読んだらすごく面白くて、他の文庫本も読んでみようと思った。

 「死んでいない者」(文春文庫)という題名は、「死んでしまって、もういない者」と「まだ死んでいなくて、生きている者」という両義的な解釈ができる。どっちなんだろうと思ったら、読んでみたら両方の意味がそのまま描かれていた。ある高齢男性が死んで、通夜と葬儀に多くの家族・知人が集まる。子ども、孫、ひ孫世代までいる。故人には子どもが5人いて、孫は10人にもなる。ある世代には、このぐらいの子どもがいたもんだった。孫の一人(女)は外国人と結婚したので、通夜の席には夫のダニエルと3歳の男児も来ている。東京から遠くない農村地帯で、葬儀会場は地区の公民館を使う。
「生きていない者」
 そんな感じで始まるので、最初は人名が判らない。家系図を載せてくれと思うが、そのうちあまり気にならなくなる。「楡家の人々」のような、家族をもとに社会と時代を描き出す本格小説じゃないのである。葬儀を舞台にして、人間の記憶を考える短編なのである。180ページほどしかないけど、読後感はすごく大きな世界に触れた感じがする。家族が多いから、登場人物も多くて視点がどんどん変わる。最初はなじめないが、そういうもんだと思って次第になれてくる。故人の妻は亡くなっているが、子どもや孫は生きている。しかし、中には「行方不明」や「引きこもり」で不在の者もいる。
(滝口悠生)
 もう高齢の大往生だから、その場に哀しみはない。それそれが人生を思い出すような場である。年長者が朝まで棺を見守ることになり、その前に皆で近くの温泉施設に行く。ダニエルも誘われていき、初めて湯あたりする。「外国人の義理の孫」という立場のダニエルの思いが語られる。

 孫の一人は中学から不登校になるが、理由が親にも判らない。いろいろあって、最後は祖父の家に行って物置で暮らしていた。時々は祖父の食事を作ったりもしていた。そのことは親は知らないけど、実は10歳離れた妹は時々携帯電話で連絡を取っていた。葬儀に来なかった兄に電話すると、通夜振る舞いの残りを持ってきてと頼まれる。年の近い世代が集まって、祖父の家に行く。特に事件も起こらないシーンの中に、自分にもそんな場面があったような気がしてくる。故人が友人たちと行っていた近くのスナックのママ(と思われる)を主人公にした「夜曲」が併載。そこで彼らは「時の流れに身をまかせ」を歌っていた。若い世代には誰の歌かも判らないけど、曲は伝わっていた。

 特に大きな「事件」が小説の中で起こるわけでもないのに、何となく自分の人生も思い起こしてしまう「死んでいない者」。それより取っつきやすいのが、一つ前の小説「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(2015、新潮文庫)だろう。「青春小説」の枠組みで書かれている。最初はなんだか判りにくいが、どうも大学生がバイクで東北へ行って事故を起こす。無事だったけど、それが2001年。その時「房子」はアメリカへ行っていて、行方不明。この房子の正体が判った頃から、小説は俄然面白くなってくる。ちょっと普通の常識では許されないような関係である。今は2015年、東北で会った人々の消息を尋ねる。この小説は「9・11」と「3・11」が小説で重要な日付として出てくる。

(ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス)
 東北をバイクで旅する道中を描きながら、過去と現在を往復している。映画を撮ると言って大学へも行かなかった友人のこと。ずっと合っていたんだけど、結局映画は完成せず、最近は会うことも少ない。30過ぎれば、それなりの自分の生活があって、誰も若い日の友人と会う時間がなくなる。「房子」が消えた後、大学生協のバイトで知った先輩に恋してしまう。その頃ジミ・ヘンドリックスを真似てギターの練習をしていた。ある日、野外でギター練習中に先輩の彼女に会ってしまうシーンは忘れがたい。

 「ジミヘン」の前の著者2冊目の短編集が「愛と人生」(2015、講談社文庫)で、野間文芸新人賞を受けた。野間賞は芥川、三島と並ぶ新人三賞の一つで、これで新人と認められたと言える。帯に『「男はつらいよ」の世界が小説になった』と出ている。一体何なのかと思ったら、本当に寅さん世界の登場人物が自分の思いを語っているのだった。こんな不思議な小説は読んだ記憶がないような感じ。作品設定が不思議なのはいくらも読んでるが、これは誰もが知る「男はつらいよ」、つまりは脚本の山田洋次作品の二次的解釈のような世界である。
「愛と人生」
 特に不思議なのは、さくらと博の息子である満男は「満男」と書かれるのに、「美保純」が役者の名で出てくること。美保純の役名は「あけみ」で、裏の印刷屋のタコ社長の娘である。そんな人が出てたのかと思う人もいるだろうが、1984年の第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」から1987年の第39作「寅次郎物語」まで準レギュラーで出ていたという。僕はその頃の作品はほとんど見ていないので、全然知らない。小説中に「美保純が」とか出てくるのが実におかしい。

 「寅次郎物語」にはテキ屋の父が死んで「寅次郎を訪ねろ」と言われた子どもが出てくる。その子の内面にも入っていく。「テキ屋」は「敵屋」だと思い込んでいたとか。エンタメ作品の寅さん世界を「純文学」してみましたというような趣向で、けっして読みやすい小説じゃないけど、そのフシギ感は触れてみる価値がある。「かまち」と「泥棒」という短編が併載されている。落語や山田かまちが語られる不思議な感触の作品。若い世代の作家として、今後も注目していきたい人だ。
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ムーミンバレーパーク

2019年11月08日 22時53分22秒 | 東京関東散歩
 仕事の旅行で「ムーミンバレーパーク」に行った。今まで仕事の旅行は記事に書いてないけど、出来たばかりの「ムーミンバレーパーク」には興味ある人もいるかと思う。僕の関わってきた「地域生活支援センター」の旅行だけど、それは細かく書かない。自分の旅行じゃないから、あまり写真を撮ってない。それに僕は「ムーミン」を全然知らない。読んでもいないし、(アニメを)見てもいない。どうもこれはかなり珍しいらしいけど、ホントに知らないのである。それを前提に。

 前日は「休暇村奥武蔵」に泊まった。そこから「ムーミンバレーパーク」に送ってもらえるプランがある。日帰りで行く時は、西武池袋線飯能(はんのう)駅から直通バスがたくさん出ていて、10分ぐらい。かなり混んでて、どうも似たような障害者団体の行事も多いようだった。テーマパークというと、ディズニーランドとかUSJとか駅直近だけど、ここはバスを降りてから、さらにずいぶん歩く。もともと宮沢湖という人造湖(ダム)があって、西武が動物園や遊園地をやっていた。今は別施設の温泉施設以外はすべて撤去され、ムーミンバレーパークのみになった。2019年3月に開業したばかりである。
   
 3枚目の写真のような道を歩いて、お店やレストランなどの建物を通り過ぎ、ようやく入り口。2枚目のような門が立ち並ぶ。行く途中に案内板があった。よく見ると、「ヘルシンキ 7781㎞」とある。
  
 入り口から入ってすぐ、湖に突き出て「水浴び小屋」が建っている。「物語に何度も出てくる重要な場所」なんだそうだ。中には入れないが、様子は見られる。よく晴れていて宮沢湖もキレイ。
   
 水浴び小屋から少し歩くと、メインの「ムーミン谷エリア」になる。最初の写真の左側にある大きな丸い屋根が「エンマの劇場」。1日3回ムーミンのアトラクション(横からだけど2枚目写真)がある。野外劇場なので雨の日は無理かな。多くの施設はアトラクションを見るときに入場料と別に料金が発生するが「エンマの劇場」は無料。青い塔のような建物は「ムーミン屋敷」。ここはウェブで見ると面白そうなんだけど、30分のガイドツァー(1000円)なので、今回は時間が取れなかった。
 
 見たのは「リトルミィのプレイスポット」と「海のオーケストラ号」。前者の写真は撮らなかった。上の写真の建物は「海のオーケストラ号」で、2枚目の写真は中へ入る前の部屋にあったもの。このアトラクションはなかなか面白かったけど、ちょっと水が降りすぎかな。
   
 ムーミン谷の奥に「コケムス」がある。ここは食堂や売店もあるけど、2階3階はムーミン世界に関する展示がジオラマ等でなされている。「フォトスポット満載」と出ている。家族友人で行くときは使える写真が撮れそう。最後の写真はムーミン谷のジオラマを上から撮ったもの。
   
 食事の後で戻ってさらに奥の「おさびし山エリア」へ行く。えっ、これだけという感じで、なるほど「おさびし」状態。最初が「灯台」で、次がどん詰まりにある「スナフキンのテント」。その周りに木の椅子があって、スナフキンの言葉が書いてある。拡大して読んでみてください。
  
 「休暇村奥武蔵」は西武秩父線吾野駅から送迎がある。案外大きな道のそばだが、裏に出れば高麗川が流れている。ログハウス棟もある。夜のバイキングはなかなか美味しかった。新館は屋上に出られて、朝行ったらこんな風景が見られた。温泉じゃないのが残念。
  
 行き帰りに西武の新しい特急「ラビュー」に乗った。こんな感じの窓の大きな車両。まあ飯能までじゃ景色を見る意味もほとんどないけれど。ところで、宿の夜の食事にも、ムーミンバレーパークのレストラン棟の昼のバイキングにも、「ヤンソンさんの誘惑」という料理が出ていた。食べてみると、なんだか単なるポテトグラタンみたいなんだけど、トーベ・ヤンソンさんに関係するの? と帰ってから妻に話したら、そういえばカツ代さんの本に出てたかもという。小林カツ代さんの「じゃがいも大好き」に出てるじゃないか。これはムーミンとはなんの関係もなく、スウェーデンでよく食べられていた料理だそうだ。基本は「アンチョビとジャガイモのキャセロール」。(ウィキペディア参照。)
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金田正一、上田薫等ー2019年10月の訃報③

2019年11月06日 23時23分22秒 | 追悼
 日本プロ野球史上、最高レベルの投手だった金田正一(かねだ・まさいち)が死去した。1933年8月1日~2019年10月6日、86歳。破格の記録ホルダーで、勝利数が400勝というのは、今では考えられない数だが、同時に298敗という最多敗戦投手という記録もある。どちらも2位は米田哲也で、350勝285敗。通算奪三振4490という記録も持つ。あまりにもすごい記録で、誰も抜くことが出来ないだろう。その他投手としてのいくつもの記録を持つが、完全試合1回(1957年8月21日)、ノーヒットノーラン1回(1951年9月5日、18歳35日という最年少記録)も達成していてどっちも1対0の試合だった。

 どこのチームにいたかというと、国鉄スワローズである。国鉄が直接持ってはいけなかったようで、一応外郭団体が親会社だった。2リーグ制になって、国鉄のノンプロ選手がどんどん引き抜かれるので、それなら自分で球団を持とうということだったらしい。1949年から1964年までが国鉄で、その後産経新聞が所有し(一時はサンケイ・アトムズといった)、1970年からヤクルトが親会社となって1975年に名前をスワローズに戻した。金田は高校3年生だった1950年に、夏の甲子園予選敗退後に退学して、プロに入団した。この入団経緯も空前絶後だろう。その年は8勝12敗。

 その翌年の1951年に22勝して、以来1964年まで14年連続で20勝以上している。それなのに、その間最多勝利は3回しかなかった。1955年など29勝もしているのに。じゃあ誰が最多勝利かというと、巨人の大友工、広島の長谷川良平という投手が30勝しているのだった。時代が違うと言えばそれまでだが、よくそんなことがあったものだ。僕は今データを調べて書いている。自分の誕生前後のことは記憶にない。だけど沢村栄治スタルヒンなどと違って、後の金田はテレビで何度も見ている。そして国鉄は弱小で金田がいくら勝っても、1961年の3位が最高で、後はBクラスなのだった。

 やはり野球選手としては優勝がしたいだろう。金田は1964年末に巨人へ移籍した。1965年から1969年まで5年間所属して、45勝している。僕は小学生ながら、なんで弱いチームを見捨てて強いチームに行くんだと義憤を感じた。相撲でも優勝を重ねる大鵬が好きじゃなく、ちょっと弱い方のファンだった。しかし、「国鉄」は翌年から「サンケイスワローズ」になる。経営委譲をめぐる産経のやり方を見て移籍したとウィキペディアには出ている。自分の思いは間違っていたのかも。

 引退後は1973年~79年、1990年~91年にロッテの監督を務め、1974年に日本一となった。いろいろと話題を呼ぶ言動が多く、引退後も有名人だった。マスコミは全く触れてないけど、誰もが知るように、元々「朝鮮人」で、後に日本の国籍を取得した。「在日韓国人」とウィキペディアには書いてあるが、日韓国交樹立は1965年なんだから、国鉄で活躍していたときは「朝鮮籍」である。(「朝鮮籍」というのは、旧植民地出身者の日本国籍を勅令で奪ったあとの「記号」である。)「在日」という表現もずっと後で生まれたもので、当時はただ「朝鮮人」と呼んだ。大人たちは差別的なイメージもあっただろうが、僕たちは張本勲金田を見て朝鮮人はすごいなと思っていた。なお、実弟で東映、ロッテ、広島で活躍した投手、金田留広はほぼ一年前の2018年10月2日に死去している。

文化人類学者原ひろ子が死去。10月7日没、85歳。「極北のインディアン」「ヘヤー・インディアンとその世界」などで知られている。カナダ北部の先住民を主な研究対象にしていた。それらの見地をもとに、後にはジェンダー研究を中心として家族や育児について多くの発言をした。
・元衆院議員の長谷百合子が死去。10月13日没、72歳。学生運動に参加し、お茶の水女子大を中退。その後に新宿ゴールデン街でバーを開き、評論活動も行った。その経歴が注目され1989年の衆院選に社会党から立候補、土井たか子委員長時代の「マドンナブーム」に乗って当選した。結局、一回務めただけに終わったが。「ベレー帽」で有名で、国会内でも着用を求めてもめたことがある。
 (前=原ひろ子、後=長谷百合子)
ジンジャー・ベイカー、6日没、80歳。「クリーム」のドラマー
森川万智子、6日没、72歳。フリーライターで韓国人元慰安婦、文玉珠さんの聞き書きをまとめた。
吉川貴久、12日没、83歳。ローマ、東京五輪で2大会続けて射撃で銅メダルを獲得。
高木護、16日没、92歳。詩人。「放浪の詩人」として知られ「野垂れ死に考」「人夫考」など。
吾妻ひでお、13日没、69歳。漫画家、「不条理日記」「失踪日記」など。
大野玄妙、25日没、71歳。法隆寺第129世住職。
吉田博美、26日没、70歳。自民党前参議院幹事長。今年7月の参院選に立候補せず引退した。
松沢哲成、9月22日没、79歳。日本近現代思想史、東京女子大名誉教授。
福岡翼、4月20日没、79歳。芸能リポーターだが、僕には映画評論家の印象が強かった。

 さて、写真が見当たらないのだが、最後に上田薫氏の訃報を書いておきたい。10月1日没、99歳。教育学者で、都留文科大元学長を1984年から1990年まで務めた。上田薫著作集全15巻、上田薫社会科著作集全5巻がある。戦後の社会科教育、道徳教育などの分野で教育哲学を論じた。

 元都留文科大学長と報道されるのは当然だが、その前は立教大学、さらにその前は東京教育大学に勤務していた。僕は上田薫先生の講義を大学時代に受講している。先月来、僕が受講した先生方の訃報が続き、僕はかなりショックだ。何で取ったかというと、僕の興味関心の分野だったからでもあるけれど、それ以上に僕の父親の旧制武蔵中学時代の同級生なのである。同級生と言っても、上田氏の方が少し年上である。そのことを聞いていたので、一度受けてみたいと思っていた。正直内容は覚えてないんだけど、それは違和感を持つような内容じゃなかったと言うことなんだろう。

 なんで東京教育大から立教へ移ったかというと、筑波大への改組に反対したからである。「筑波闘争」なんて言っても、もう覚えている人は少ないだろう。僕は家永三郎氏の「東京教育大学文学部」(1978)という本を読んで、上田先生が反対派だったと知った。この本はどこかで再刊して欲しい本だ。筑波大というのは、単なる移転ではなく、「教授会自治」をなくして「学長独裁」に道を開くものだった。自然科学系のノーベル賞受賞者が出るたびに「昭和の遺産だ」という声が出る。つまり、それは大学のあり方が「筑波化」されていった結果であり、自民党教育行政のもくろみ通りになってきたわけだ。
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山谷初男、川又昂、西岡善信-2019年10月の訃報②

2019年11月05日 22時43分41秒 | 追悼
 八千草薫さんや和田誠さんの他にも、映画関係者の訃報があったのでまとめて書いておきたい。まず、俳優の山谷初男(やまたに・はつお)。10月31日没、85歳。秋田の角館出身で、実家は旅館「やまや」をやっている。元は舞台俳優だが、60年代末から若松プロや日活ロマンポルノなどにものすごくたくさん出ていた。だから、そういう「異能」の俳優のようなイメージがあるんだけど、訃報ではテレビで知られた人のように出ていて、そんなにテレビに出てたんだと思った。

 蜷川幸雄演出の舞台などにも多数出ているから、もしかしたらナマで見てるのかもしれないが覚えてない。出演映画を見ても、「赫い髪の女」「ツィゴイネルワイゼン」「火宅の人」など、僕が好きで何度も見てる映画がいっぱいあるけど、山谷初男がどんな役だったかよく思い出せない。だからこそ、俳優二人だけの「異常性愛」映画「胎児が密猟する時」(1966、若松孝二監督」が思い出される。何しろ役名が丸木戸定男というんだからすごい。林美雄がやってたラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」によく出てきて歌っていたような気がする。若い頃よく見た映画を思い出す俳優。

 映画の技術系スタッフはあまり注目されないが、かつての日本映画を支えた二人の人物が亡くなった。まず、撮影監督川又昂(かわまた・たかし)、10月5日没、93歳。1945年に松竹に入社して、戦後の小津作品では助手を務めている。「晩春」「麦秋」「東京物語」などで、1958年の「彼岸花」まで続いている。(撮影監督は厚田雄春。)1959年に昇格して、主に野村芳太郎監督と大島渚監督の映画を担当した。大島の「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」をすべて撮影した。「日本の夜と霧」はともかく、「青春残酷物語」の成功は撮影にも負っている。
(川又昂)
 野村監督は清張原作の大作で知られるが、60年代を通して様々な娯楽映画を量産していた。ラブコメでもミステリーでも何でもござれで、それらの映画を川又の撮影が支えている。「ゼロの焦点」「左ききの狙撃者・東京湾」「拝啓天皇陛下様」などは撮影の功績が大きい。そして「砂の器」「八つ墓村」「鬼畜」などの代表作を撮る。そして最高の達成は、モノクロで撮った今村昌平の「黒い雨」となる。川又昂が見つめた戦後社会を追うと、それが日本の戦後史に重なる。そのような重要な映画人だった。

 西岡善信は主に大映映画美術を担当した人である。10月11日没、97歳。撮影以上に美術に注目して映画を見る人は少ないだろう。でも時代劇などで壮大なセットを作り上げるのは美術監督なのである。マスコミの訃報でまず「地獄門」と出ている。カンヌ映画祭グランプリを受賞した時代劇だが、その美術は伊藤熹朔である。まだ助手だったのかと思う。しかし、「炎上」(「金閣寺」の映画化、1958年)では西岡の名前になっている。若尾文子主演の「越前竹人形」や「華岡青洲の妻」なども担当した。忘れがたい映像世界が西岡の作り上げたものだ。
(西岡善信)
 それらの業績は大きいが、この人の最高の仕事はそこではない。市川崑や増村保造と組んで素晴らしい仕事を続けてきた大映という会社が1971年に倒産してしまったのだ。その時に西岡が社長となって株式会社「映像京都」を作って、大映の優れた技術スタッフが四散しないようにしたのである。1972年の市川崑監督のテレビ映画「木枯らし紋次郎」に始まり、70年代以後のテレビ時代劇の多くがここで撮影された。そして「鬼龍院花子の生涯」「陽暉楼」「利休」「忠臣蔵四谷怪談」などの壮大なセットを西岡が作り上げた。映画の成功に西岡の美術が大きく貢献したのは間違いない。
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八千草薫と緒方貞子ー2019年10月の訃報①

2019年11月04日 23時12分27秒 | 追悼
 2019年10月は重要な訃報が多かった。月末になって、八千草薫緒方貞子の逝去が伝えられた。どちらも特別に一回書いてもいいかとも思ったけど、もうすぐ月が変わるからまとめて書けばいいかなと思った。

 二人の生没年を書いてみると、以下のようになる。
 八千草薫 1931.1.6~2019.10.24 88歳
 緒方貞子 1927.9.16~2019.10.22 92歳
 二人には特に関連したところはないように思えるが、どちらもほぼ同じ時代を生きて人生の終わり近くまで活躍を続けた。訃報が伝えられた時も、非常に大きく報道された。マスコミで報じられたときには、葬儀は近親者で営まれていた。(最近はそういうことが多い。)この二人の一番大きな共通性は「身長」かもしれない。二人とも150㎝強で、今では小柄な印象がする。しかし、かつての日本女性はほとんど同じぐらいで、心身ともに頑丈なことに誇りを持っていた。
(八千草薫)
 八千草薫の話は多分一度聞いてると思う。どこだったか忘れてしまったけど。その時の印象として、年齢を感じさせない美人だったこととすごく小柄だなと思ったことを覚えている。元は宝塚女優で、第34期生になる。これは1946年入学、47年卒業で、戦後初の入学世代になる。同期に淀かほる、35期に寿美花代、36期に有馬稲子がいた。宝塚では1952年に「源氏物語」の若紫で人気を得たとウィキペディアにある。在籍中から映画に出ていて、「宮本武蔵」や「蝶々夫人」で人気を得た。
(若い頃の八千草薫)
 「宮本武蔵」(1954、稲垣浩監督)は米国アカデミー賞の外国語映画賞を受けた名作で、当時大ヒットした。内田吐夢監督の宮本武蔵5部作が作られ、それ以前の稲垣版が忘れられている。この映画で「お通」を演じた八千草薫の可憐さはちょっと忘れがたい。イタリアで撮った「蝶々夫人」も見た記憶があるが、こちらも八千草薫が素晴らしい。宝塚だから東宝でスターになったのは当然に思えるけど、他社と契約した人の方が多い。女性映画が少ない東宝は不利だったかもしれないが、1957年に19歳年上の谷口千吉監督と結婚したのは東宝だったから。そして2007年の夫の死まで添い遂げた。

 その後、映画、舞台、テレビで長く活躍を続けた。テレビの「岸辺のアルバム」(1977)が有名だが、僕は見てなかったから判らない。初期の映画では「ガス人間第一号」がいいなと思う。中期では寺山修司の「田園に死す」、晩年は「ディア・ドクター」。どうしても「お姫様」的な役柄を求められ続けて、晩年になってようやく「素」で演じるような役がオファーされた感じだ。だから21世紀になって、多くの演技賞を受けることになった。大阪出身、父が早く死んで恵まれない環境で、自分の才能で生き抜いた。

 緒方貞子は、戦前の首相犬養毅のひ孫とよく書かれる。その通りだけど、旧姓は中村である。犬養の娘が犬養内閣の外相を務めた芳沢謙吉と結婚し、さらにその娘が外交官中村豊一と結婚した。中村はほとんど知られていないが、親に付いて貞子も米国や中国で小学5年生まで過ごした。つまり「帰国子女」である。普通の家庭とは違うが、爵位を持つような特権階級ではなく、だから学問で身を立てたわけである。女性として外国の大学で博士課程まで修了したのは、50年代初期には珍しい。
(緒方貞子)
 緒方性を名乗るのは、日銀理事等を歴任した緒方四十郎と結婚したから。この人は緒方竹虎の三男である。緒方竹虎といっても、もはや誰ですかという感じだろうが、戦前は朝日新聞主筆、戦中戦後に政治家として活躍した。吉田茂内閣総辞職後、自由党総裁の地位にあったから、「保守合同」で自由民主党が出来たときに総裁の最有力候補だった。1956年1月28日に急死しなかったら、50年代後半に首相になっていた可能性は非常に大きいだろう。(その場合、岸信介内閣はなかったかもしれない。)緒方竹虎が首相になっていたら、「嫁」の貞子の人生も変わっていたかもしれない。

 緒方貞子は国連難民高等弁務官を務めた印象ばかり強いけれど、もともとの政治学者としての業績が忘れられている。国際基督教大学に勤務し学者として終わるはずのところ、1976年に国連公使となって、国連との関わりが生まれた。その後のことはよく知られているが、日本が「大国」として国連への関与を求められるとき、女性としていくつもの人道問題に関わることになった。それは何故か、僕はよく知らない。クリスチャンであること曾祖父が軍部クーデタで殺害されたことと関わっているのかもしれない。母の従姉妹である犬養道子も似たような人生を歩んでいる。どこか共通する文化的環境があったんだと思う。

 僕は緒方貞子さんの講演などを聞いたことがない。そういうものがあったのかどうかも知らない。表記は違うものの同じ「おがた」であり、「緒形拳」の没後は一番有名な「おがた」だった。実は尾形光琳を見に行ったことがないんだけど、なんかちょっと避けてしまうんだな。犬養道子は読んでたけれど。だから立派でありつつ、限界もあったかと思うが、あまりちゃんと考えたことがない。
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清澄庭園ー東京の庭園③

2019年11月02日 23時24分55秒 | 東京関東散歩
 東京の庭園を訪ねる散歩、3回目は清澄庭園(きよすみていえん)。今までの向島百花園と旧古河庭園は、行ってから書くまでしばらく放っておいた。10月に31日あるうち、東京はなんと25日も雨が降ったという。だからあまり散歩する気になれなかった。10月下旬にようやく晴れ渡り、映画館や劇場が大好きな僕も町へ出たくなる。この地域は以前は駅から遠かったが、都営地下鉄大江戸線(2000年)、東京メトロ半蔵門線(2003年)の清澄白河駅が開業して、行きやすい地区になった。
   
 清澄庭園は上の写真で判るように、典型的な「池泉回遊式庭園」である。今は「清澄公園」として無料開放されている西側地域も、元々は同じだった。江戸時代には紀伊國屋文左衛門の屋敷だったが、大名庭園となり明治になって荒廃したという。その土地を三菱の岩崎家が買い取り、従業員慰安や接待のために整備した。一時はコンドル設計の大きな洋館もあったが、関東大震災で焼失してしまった。そして三菱が東京市に西半分を寄贈して、1932年に開園した。そのような経緯から、六義園や小石川後楽園に比べて面積も半分ぐらいだ。また国指定名勝ではなく東京都指定名勝に止まっている。   
   
 行った日は最近になく快晴で風もなく、もう水面は鏡のような感じ。この庭園はちょっと奥まった地点もあるが、ベースとしては大きな池をグルッと歩道があるだけのシンプルな構造になっている。だから写真を撮っても、同じような写真ばかりになってしまう。でも水面と松の風景が美しく、見応えがある。駅から近くて行きやすいし、僕も久しぶりに行って堪能できた。建物としては、「大正記念館」と「涼亭」がある。涼亭は池に面して張り出して美しいが、貸し出し施設のためただの客は入れない。 
   
 先の3枚の写真を拡大すれば、見えてくるのが涼亭。1909年建造で、都選定歴史的建造物。ただ1985年に全面的に改築されたという。最後の写真は大正記念館。戦災で焼失し、1953年に再建され、さらに1989年に全面改築されたという。なんで「大正記念」かというと、もとは大正天皇の葬儀に際して、参列者が並ぶ葬場殿と移築したから。どちらも集会などで借りられる。
   
 清澄白河駅A3出口を出て、徒歩3分とある。しかし信号を渡らないいけないので、もっと待つ感じ。案内表示は多いから迷うことはないだろう。上の最初が入り口。大きな通りではなく、少し入ったところに出入り口がある。最初は池が見えないが、すぐ見えてくる。後はずっと回るだけ。池は鴨がいて、冬は確かもっと多いと思う。駅からこんな近くに大きな池があるのにビックリするような場所だ。
   
 涼亭の近くに門があって、広場がある。菖蒲田があって、季節にはキレイなんじゃないか。ここに松尾芭蕉の「古池や」の句碑があった。この庭園の池を詠んだ句ではないが、実は近くに芭蕉の庵があった。少し行ったところに「芭蕉記念館」もある。案外東京の人も知らないけど、蛙が飛び込んだ古池は深川にあったのである。「奥の細道」もそこから旅立った。それを記念して句碑が建てられた。

 上に載せた写真、自分でも同じ写真を載せてるんじゃないかと心配。基本的に同じような光景が広がる庭園なのである。ただ池と空の風景は、晴れていれば気分がいい。この近くには「深川江戸資料館」など江戸情緒も残る。そもそも清澄白河の「白河」は白河藩主松平定信のことで、近くには墓も残っている。一方で東京都現代美術館もあって、近年はギャラリーがいっぱい出来てアートの街になっている。最近は「第三世代コーヒー」の聖地とも言われる。東京有数の観光スポットになりつつある地域で、芭蕉記念館などはまた別に近々散歩したいなと思っている。
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延期の力学、英語民間試験問題

2019年11月01日 23時16分17秒 |  〃 (教育行政)
 11月1日、萩生田文科相英語民間試験の導入を延期すると発表した。僕は10月29日付で「延期幻想を持つべきでない」と書いた。では、どうして見込みが違って延期が決定されたのか。以下で僕の分析を示しておきたい。まず第一は、10月31日に河井克行法相が辞任したことだ。その日発売の「週刊文春」に、7月の参院選広島選挙区で当選した河合法相の妻、河合案里陣営に選挙違反があったと報じられた。前日にウェブ版の週刊文春に報じられた時点で問題視され、翌日の朝には辞表を提出した。普通は「これからよく調査する」とか言って一週間ぐらい経ってしまうもんだ。
(延期を発表する萩生田文科相)
 この河合法相辞任がもう少し遅かったら、「すでにID申請が始まっている」というロジックで止められない可能性が高くなっていたところだ。(11月1日から民間試験のためのID申請が始まる予定になっていた。)本当にギリギリのところで、延期が決まったことになる。歴史にはこのような「偶然」が突然事態を動かすことが時々起こる。今回は民間試験の導入自体に大きな問題があり、少なくとも柴山前文科相の段階で止めているべきだった。この決定は複雑な政治的思惑が絡んでなされたもので、間違っても「われわれの声が届いた」的な幻想を持つべきではない。

 河合法相問題で国会の審議も止まってしまった。今後野党側が延期法案審議を求めてその上で英語民間試験問題がもめて混乱が広がった場合、今度は萩生田文科相の責任問題に広がってゆく。安倍政権としては「辞任三連発」だけは避けたい。そうなったら皆が「第一次安倍政権を思い出す」と言い始める。所詮は菅(官房長官)の子分である菅原一秀(経産相)や河合克之(法相)と違って、萩生田は安倍直属であり、加計問題のまさに当事者である。だからこそ文科省に送りこんだわけで、その辞任は政権を直撃し加計問題を再燃させかねない。英語民間試験なんか安倍政権にとっては二の次であり、要するに大事なのは「萩生田文科相を守る」ことなのだ。

 僕は延期を主張していたから、今の段階であっても「延期自体は強行実施するよりは良い」と考える。文科省を信じて頑張っていた学校が梯子を外されたという意見もあるが、決まったら従わざるを得ないが、そもそも文科省の教育政策を信じることが間違いだ。今までも教育行政は行き当たりばったりが続いてきて、およそまともな教育関係者なら本気で信じ込んだりしない。文部官僚の信用が地に落ちたとも言うが、それこ今後の教育には望ましいことである。

 ただ考えておくべきことは、「検定そのものは意味がある」のである。英語の「話す力」重視は今後も続いてゆく。大学へ入っても英語の勉強は続く。高校時代に英語をきちんと修得していないと、大学に入っても苦労することになる。英語に限らず、今は様々な検定が存在し、推薦入試などで有利に使える。特に英語は今までも外部検定が重視されているから、英語の諸検定に向けて頑張ることは必要なことだ。問題はその結果だけを大学の合否判定に使うことである。これは本質的に改善不可能で、制度設計そのものに無理があるのだ。

 ところで、政治家にとって「今の最大関心事」はなんだろうか。「台風被害の復旧」「日米貿易摩擦」「日韓問題」なんかではないだろう。「東京五輪」でも「憲法改正」でもないだろうと思う。じゃあ何かというと、「ポスト安倍」とその前にあると想定される「解散・総選挙」である。もう街頭ではポスターや演説が目立ち始めている。衆議院議員4年の任期がほぼ半分終わり、政局的にはいつ解散があってもおかしくない時期に入っている。野党の準備が整わないうちに不意打ちをすることが好きな安倍首相としては、本来「いま」も想定にあっただろうと思っている。

 秋には台風が相次ぎ、東日本各地に甚大な被害が生じた。しかし、それは見通せないことで、台風がほとんど来ない年もあった。もし台風がなかったとすれば、そこには「ラグビー・ワールドカップ」と「即位の礼」だけがある。ラグビーの結果は予想できないが、この日程を見たら選挙したくならないだろうか。ただし前回のように「臨時国会冒頭解散」はできない。10月4日召集だったが、そこで解散すると「即位の礼」に引っかかる。現実には9月の台風15号の千葉県の大被害で選挙の可能性が消えた。

 となると、解散・総選挙は2020年である。安倍首相の自民党総裁としての任期は、2021年9月までだ。2021年になると、任期満了色が強まり安倍政権自体も「終わり」感が出てきかねない。そこで今一番予想されているのは、2020年の東京五輪、パラリンピック終了後である。パラリンピック終了は9月6日。そこから9月末の国連総会、その頃予想される内閣改造を考えると、2017年のような10月10日公示、22日投票という日程は無理だ。2020年はオリ・パラで政治日程も後押しになる。

 となると、11月か12月の選挙が予想されてくる。そうなると、早生まれの生徒を除き、ほとんどの高校3年生に選挙権が生じているのである。まさに当事者の地方の高校3年生、その親がどういう投票行動をするだろうか。その時は棄権せず、延期を主張した野党側に一票を投じるのではないか。そして改めて萩生田発言が選挙戦に持ち出される。地方の有権者はどう判断するだろうか。地元の高校生に不利益が生じる教育政策を推し進めた政党に批判が集まるのではないか。おそらく今回の延期判断の底流には、そのような「地方選出政治家」の選挙への不安があったのではないかと思う。
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