大学入試の「英語民間試験」導入が「延期」されたことは先に書いた。かなり前から反対の声を挙げてきた英語教育関係者、あるいは当事者として反対の動きを起こした高校生などがあってこその「延期」だったと思う。「延期」とあるけれど、「抜本的に見直す」ことが必要だ。さらに、国語・数学の「記述式」問題の是非も問われている。ここで問題なのは「記述式」そのものではない。「記述式」は「考える力」を見るなどと言うが、何十万もの受験生が受ける性格上、「公平性」担保のため限りなく「考える力」を問わない問題に近づいていく。そうじゃないと「アルバイト学生」が採点できない。
そんなに「考える力」を見たいなら、全部記述式にするべきだ。そのため採点にバラつきが出たとしても、それはやむを得ない。それが「記述式」というものだ。つまり本来は「大学教育にふさわしい受験生を選抜する」という目的で行うんだから、「小論文」というか「大論文」を書かせるのが一番良い。そじて大学関係者が自ら採点する。基礎学力の有無は、高校の成績で判断する。
もちろん、それは現実的ではない。各高校、各地域の学力には違いがある。だから、基礎学力の確認がいることになる。それなら「基礎学力」だけを見るテストをすればいい。英語の4技能だの、国数の記述式だの、そんな面倒なことをする必要はない。受験生の「英語を話す力」を知りたい大学は、独自に二次試験をすればいいだけだ。(その時に検定等の結果をもって代用する大学もあって良い。)
なぜ文部科学省が「民間試験」や「記述式」導入に固執してきたのか。それは大学入試を変えることで、高校以下の授業を変えたいからだろう。実際、私立学校などは新テスト対応を進めてきたから、いまさらやめるなと言ってきた。それはつまり、「英語の4技能」とか「アクティブラーニング」とか、お題目は立派でも、高校現場的には「入試対策をして乗りきる」ものでしかないのだ。大量に何十万も採点するとなれば、それは「マニュアル化」可能なものでなければ不可能だ。英語の民間試験だって同じだろう。中国の文化大革命当時に言われたというが、「上に政策あれば、下に対策あり」である。
さらに指摘すれば、「全国学力テスト」の弊害である。大量にデータ処理するから、民間業者に委託せざるを得ない。それが当たり前になってしまった。だから文科省は、記述式を始めたら下請けさせればいいとしか思ってなかっただろう。受験生に大きな不満と不安を呼ぶだろうという感性を失ってしまった。全国の教育を競争的にしてきた一番の要因も、全国学力テストだ。民主党政権時代に「抽出」で行われたことがある。「抽出」でも「悉皆」でも、ほとんど違いはなかった。もう何年もやってみて、結果も毎年ほぼ同じだ。かつて60年代に実施された学力テストは教員組合の反対が強く、数年で中止された。教員組合の弱体化が間違った政策を続けさせている。
ところで、この問題は「大学入試はどうあるべきか」という問題から、「そもそも大学教育はどうあるべきか」や「教育政策全般に見られる官僚的・強権的体質をどう変えていくか」へと考えを進めていかないと展望を持てない問題だろう。今そこまで全部書くのは大変なので、ここでは「考えるヒント」だけ。まず、「大学教育」に関する思い込みを排することだ。普通は大学では高度な勉強をするから、それに対応できる希望者を入試で選抜するのが当たり前だと思われている。
以前書いたけれど、その前提を崩して「希望者を全員受け入れる」ことにしたらどうだろう。教室のキャパシティの限界があるから、大学へ入っても全員が授業には出られない。だから、「大学へ入れるか」競争から、「講義を受講できるか」競争になる。大学教員は自分の権限で、どんどん落とせばいいだけのことだ。これは極論としても、そもそも「入試をなくして、全員を推薦で選抜する」方が正しいんじゃないだろうか。そういう大学が何故出て来ないんだろうか。もちろん、その推薦選抜時には英語の外部テストの結果を高く評価する大学が多くなるだろう。
日本で「大学入試」がこれほど問題になるのは何故か。それは入れば大体卒業するからだ。つまり、高校3年、または浪人する場合もあるが、そこで「最終学歴」が決まってしまい人生に大きな影響を与える。だから入試の「公平性」が大きな問題になる。「就活」というものが可能になるのも、3年まで行ったらほぼ卒業できると学生も企業も思ってるからだ。でも、本当は4年生で単位を落とす可能性だってあるはずだ。いま、文科省は大学に「入学者定員の厳守」を求める。
だが、これを反対にして「卒業者定員の厳守」にしてみたら、どうか。大学は自由に入学者を決められる。だが、現在の水準以上の卒業生を出すことは認めないのである。そうなれば、大学入試などどうでも良くなるだろう。しかし、卒業認定をめぐる透明性、公平性が厳しく問われる。卒業の方が全然難しいのである。全員は卒業出来ないのである。ホントの競争が必要になるし、自分の能力よりずっと上の大学へ無理して入る人はいなくなる。そして、内定を出しても半数は卒業出来ないとなれば、就活という悪習もなくなる。「入試改革」より、大学でホントに勉強する方が大事だと思うけど。
そんなに「考える力」を見たいなら、全部記述式にするべきだ。そのため採点にバラつきが出たとしても、それはやむを得ない。それが「記述式」というものだ。つまり本来は「大学教育にふさわしい受験生を選抜する」という目的で行うんだから、「小論文」というか「大論文」を書かせるのが一番良い。そじて大学関係者が自ら採点する。基礎学力の有無は、高校の成績で判断する。
もちろん、それは現実的ではない。各高校、各地域の学力には違いがある。だから、基礎学力の確認がいることになる。それなら「基礎学力」だけを見るテストをすればいい。英語の4技能だの、国数の記述式だの、そんな面倒なことをする必要はない。受験生の「英語を話す力」を知りたい大学は、独自に二次試験をすればいいだけだ。(その時に検定等の結果をもって代用する大学もあって良い。)
なぜ文部科学省が「民間試験」や「記述式」導入に固執してきたのか。それは大学入試を変えることで、高校以下の授業を変えたいからだろう。実際、私立学校などは新テスト対応を進めてきたから、いまさらやめるなと言ってきた。それはつまり、「英語の4技能」とか「アクティブラーニング」とか、お題目は立派でも、高校現場的には「入試対策をして乗りきる」ものでしかないのだ。大量に何十万も採点するとなれば、それは「マニュアル化」可能なものでなければ不可能だ。英語の民間試験だって同じだろう。中国の文化大革命当時に言われたというが、「上に政策あれば、下に対策あり」である。
さらに指摘すれば、「全国学力テスト」の弊害である。大量にデータ処理するから、民間業者に委託せざるを得ない。それが当たり前になってしまった。だから文科省は、記述式を始めたら下請けさせればいいとしか思ってなかっただろう。受験生に大きな不満と不安を呼ぶだろうという感性を失ってしまった。全国の教育を競争的にしてきた一番の要因も、全国学力テストだ。民主党政権時代に「抽出」で行われたことがある。「抽出」でも「悉皆」でも、ほとんど違いはなかった。もう何年もやってみて、結果も毎年ほぼ同じだ。かつて60年代に実施された学力テストは教員組合の反対が強く、数年で中止された。教員組合の弱体化が間違った政策を続けさせている。
ところで、この問題は「大学入試はどうあるべきか」という問題から、「そもそも大学教育はどうあるべきか」や「教育政策全般に見られる官僚的・強権的体質をどう変えていくか」へと考えを進めていかないと展望を持てない問題だろう。今そこまで全部書くのは大変なので、ここでは「考えるヒント」だけ。まず、「大学教育」に関する思い込みを排することだ。普通は大学では高度な勉強をするから、それに対応できる希望者を入試で選抜するのが当たり前だと思われている。
以前書いたけれど、その前提を崩して「希望者を全員受け入れる」ことにしたらどうだろう。教室のキャパシティの限界があるから、大学へ入っても全員が授業には出られない。だから、「大学へ入れるか」競争から、「講義を受講できるか」競争になる。大学教員は自分の権限で、どんどん落とせばいいだけのことだ。これは極論としても、そもそも「入試をなくして、全員を推薦で選抜する」方が正しいんじゃないだろうか。そういう大学が何故出て来ないんだろうか。もちろん、その推薦選抜時には英語の外部テストの結果を高く評価する大学が多くなるだろう。
日本で「大学入試」がこれほど問題になるのは何故か。それは入れば大体卒業するからだ。つまり、高校3年、または浪人する場合もあるが、そこで「最終学歴」が決まってしまい人生に大きな影響を与える。だから入試の「公平性」が大きな問題になる。「就活」というものが可能になるのも、3年まで行ったらほぼ卒業できると学生も企業も思ってるからだ。でも、本当は4年生で単位を落とす可能性だってあるはずだ。いま、文科省は大学に「入学者定員の厳守」を求める。
だが、これを反対にして「卒業者定員の厳守」にしてみたら、どうか。大学は自由に入学者を決められる。だが、現在の水準以上の卒業生を出すことは認めないのである。そうなれば、大学入試などどうでも良くなるだろう。しかし、卒業認定をめぐる透明性、公平性が厳しく問われる。卒業の方が全然難しいのである。全員は卒業出来ないのである。ホントの競争が必要になるし、自分の能力よりずっと上の大学へ無理して入る人はいなくなる。そして、内定を出しても半数は卒業出来ないとなれば、就活という悪習もなくなる。「入試改革」より、大学でホントに勉強する方が大事だと思うけど。