尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「建国記念の日」の真実(2022年版)

2022年02月11日 22時22分13秒 |  〃 (歴史・地理)
 以下の記事は2012年2月5日に投稿したものを基にしている。「建国記念の日」とは何かという由来を解説したものだ。10年経って時代も変わったし、また載せてもいいかなと思う。古い記事は読まれないが、自分ではまだ意味があると思うものもある。2022年の「建国記念の日」はニュースでもほとんど報道されていない。ニュースは「コロナ」と「北京五輪」ばかりである。今日はスノーボード(ハープパイプ)で平野歩夢が金メダルを獲得したというニュースを大きく報じている。コロナ禍で今年は「奉祝派」も「反対派」も大きな集会を開けずニュースにも出て来ないのだろう。

 2月11日は「建国記念の日」になっている。この日は、1873年(明治6年)に「紀元節」(きげんせつ)と定められた。戦後になって廃止されたが、占領終了後から紀元節復活運動が起こった。天皇中心に歴史を考える「皇国史観」の代表的な祝日だったから、「神の国」復古を警戒する幅広い反対運動が起こった。古代オリエント学者として有名だった三笠宮(昭和天皇の末弟)も疑問を表明した。(三笠宮は弟宮として陸軍に従軍して、中国戦線での日本軍の蛮行を見聞し批判した。戦後、歴史学に進み、文明の起源であるオリエント研究を行った人物である。)1966年、佐藤栄作内閣によって「強行採決」により成立、1967年から実施された。
(国会での強行採決)
 もはや「紀元節」と言われても判らない人が大多数だろう。だから「建国記念の日」がなぜ2月11日なのかを知らない人も増えていると思う。「建国記念日」と言ってしまう人も多い。これは「大間違い」で、単なる「うっかりミス」では済まない。「の」を落とすことは許されない。法律制定(祝日法改正)時に、「建国記念日」から、反対論に配慮して「の」を入れた経緯があるからだ。「の」がない場合、「2・11が建国の日だ」ということになる。それは「非科学的」なので、自民党内閣としても一字加えた。「建国の日」ではなく、「建国を記念するための日」と取り繕うために。

 2月11日は「日本書紀」で初代天皇とされる神武(じんむ)天皇が即位した日として「紀元節」とされた。それが何で「歴史的に間違い」なのだろうか。「書紀」では紀元前660年(とされる年)1月1日に即位したとある。それを太陽暦に直すと、2月11日になるという。もちろん、それは歴史的にはありえない。考古学的には、縄文時代末期か弥生時代初期である。(弥生時代の開始時期には論争がある。)何にせよ、国家形成以前であることは明らかだ。「国家」が存在しない以上、「大王」(オオキミ、後の「天皇」)もいない。だから神武天皇は伝説の人物である。(真の初代天皇は、10代崇神(すじん)天皇ではないかという説が強い。ただし、天皇陵古墳の発掘調査ができない現在は、不明なことが多い。)
(建国記念の日奉祝集会=2016年)
 では、何で紀元前660年なのか。現在の通説では、中国の辛酉革命説の影響とされる。辛酉は「しんゆう」と読み、中国で大事件が起こるという「かのと・とり」の年のこと。特に1260年ごとに重大事があるとされ、601年の推古天皇9年が辛酉の年だった。「日本書紀」ではそこから1260年さかのぼらせたと考える。何で推古天皇時代から数えるかなど疑問もあるものの、「神武天皇即位」という出来事があったわけではない。だから、「2月11日」という日付には、歴史学的に全く意味がないということになる。

 その年を基準にする数え方を「皇紀」と呼ぶ。昭和15年、つまり1940年は皇紀2600年に当たった。当時は「皇紀2600年祭」と言われる行事が挙行され、ホントは最初の東京オリンピックが開かれるはずだった。(日中戦争中の日本に余裕がなく、五輪を返上した。1939年には第二次大戦も始まって、五輪は中止となった。)それはさておき、歴史的には何の意味もないとしても、「日本は天皇を中心とした神の国」だから、伝説に基づく祝日もありと考える人がいるかもしれない。しかし、その場合こそ、2月11日には何の意味もない。旧暦の1月1日に即位したと記載されているのであって、毎年旧暦の元日(旧正月)を「建国記念日」にしないとおかしい。「日本書紀」の日付を太陽暦に直して、その日を祝日にする意味が理解できない。
(大阪の反対集会チラシ=2021年)
 大昔の「日本」は、中国の史書に「倭国」と表記される国だった。その「倭国」という国家ができ、後に「天皇」という称号を名乗る王家が形成されていった。(「王」の名乗りは、当初は「やまと言葉」で「オオキミ」だった。漢字表記は「大王」。)それは確かに一つの「建国」であるが、「倭国」には、沖縄(後に琉球王国が建国される)と北海道(蝦夷地と言われた)や、東北地方の北部も入っていない。そもそも「ヤマト政権」誕生を全国民で祝うべきなのかという疑問がある。

 「国にも誕生日が欲しい」なんて言う人が時々いる。しかし、誕生日を祝う風習自体が、明治以後の西洋のマネであって、日本の伝統ではない。(もともと日本では「数え年」である。生まれたら1歳で、正月が来たら年齢がアップする。だから個別の誕生日を意識するわけがない。旧暦には「うるう月」があって、誕生日を何月何日と決める意味がない。)外国の王家は途中で王朝が交代してるから、王朝の開始の日が判る。日本の保守派は「天皇家が男系で続いている」ことを重視している。そういう国では、真の初代天皇がいつ位に就いたかなんて、判らないものだ。日本は「そのくらい歴史の古い国」なのだ。戦前にあった「紀元節」自体が、日本の伝統ではない。(明治以前にはなかった。)

 思えば、「国歌」君が代とか、「靖国神社」とか、いずれも日本の伝統ではない。明治時代に人工的に作ったものを「日本の伝統」だとする「創られた伝統」である。ありがたがることを強要するのはおかしい。これらは西洋列強に対抗するために「作られたものなのである。最近は神話を本気で信じる(?)人までいるようである。ちゃんとした本を読まないのである。そして「国家神道」(こっかしんとう)がいかに恐ろしい力を及ぼしたかも知らない。こういう日を祝おうという人は「真に伝統を尊ぶ」人ではなく、「近代の帝国主義者」なんだろうと思っている。
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ルイス・ブニュエル監督晩年の映画再見

2022年02月10日 22時52分37秒 |  〃 (世界の映画監督)
 もう今日(2月10日)で終わってしまったのだが、ルイス・ブニュエル監督(1900~1983)の6作品の上映が角川シネマ有楽町で行われた。スペインに生まれ、メキシコやフランスで活躍したルイス・ブニュエルは僕のとても好きな映画監督だった。1970年(日本公開1971年)の「哀しみのトリスターナ」以後は同時代に見ているが、若い頃はよく判らなかった。同時代には未公開だった作品が多く、日本では80年代以後のミニシアター・ブームで初公開された作品も多い。数年前には「ビリディアナ」「皆殺しの天使」「砂漠のシモン」が上映され、僕は「冒涜の映画作家、ルイス・ブニュエル再見」(2018.1.5)を書いた。

 2021年には「アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生」(1955)というメキシコ時代の奇怪な作品も初公開され、まだまだ発見を待っている映画作家なのではないか。今回は晩年の6作品を集めたBlu-ray BOXが発売されるのに合わせた上映企画で、撮影はスペインのものもあるが製作はフランス(あるいはイタリアとの合作)が多い。その中で「小間使いの日記」(1964)、「哀しみのトリスターナ」(1970)、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(1972)、「自由の幻想」(1974)の4作品を見直した。「昼顔」(1967)と「欲望のあいまいな対象」(1984)は見逃したが、見た作品をまとめておきたい。

 製作の逆順で「自由の幻想」から。1977年に岩波ホールで公開され、あまりにも自由でぶっ飛んだ作風に驚いた。その年の僕のベストワン(キネ旬4位)。何の関係もないようなエピソードが羅列的に出て来るが、いずれも「常識」を外した展開になっている。人々が食事に集まると椅子がトイレになっている(下の画像)。あるいは公演で男が幼女に写真をあげる。両親が見て、なんて写真だと憤慨する。普通ならわいせつ写真かと思うところ、凱旋門やエッフェル塔の写真なのである。寝室でニワトリやダチョウが後ろを通り過ぎるなど、何をしてもいいんだという映画。「夢」のようで理解しがたいシーンの連続だが、常識の反対をやってるのが昔見て痛快だった。でも今見ると「悪ふざけ」に見えるシーンもあるかも。
(「自由の幻想」)
 「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」はアカデミー賞で外国語映画賞を受賞した。日本では1974年にATG(アートシアター)で公開され、6位。でも僕は公開当時はよく判らなかった。10代では無理だよなという映画。「皆殺しの天使」ではパーティから誰も帰れない。この映画では、皆が食べるために集まると、何か障害が起こって決まって食べられない。その皮肉が面白く、こんなに面白かったのかと再発見した。ブルジョワジーといっても、南米某国の大使である。外交官特権を利用して麻薬の密輸をしている。カネはあるが、これはブルジョワじゃないだろう。そういうところに集まってくる男3人とその妻3人。不条理劇を映像化するとこういう映画になるというお手本。皮肉な眼差しがたまらない。
(「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」)
 「哀しみのトリスターナ」はトリスターナ(カトリーヌ・ドヌーヴ)を養女にした老人フェルナンド・レイの物語。この人はブニュエルのお気に入りで、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」で主演し、「ビリディアナ」「欲望のあいまいな対象」にも出た。美しい養女を妻にしてしまうが、トリスターナは町で画家のフランコ・ネロと知り合って…。一時は彼と出ていくが、病気になって戻り片足を切ることになる。トリスターナは最後にどういう行動を取るか。人間性の深淵を見つめた運命と悪意の物語。夢に出てくる夫の首も凄まじい。スペインの世界遺産の町トレドで撮影された。ドヌーヴ主演だから通常公開され、7位に選ばれた。
(「哀しみのトリスターナ」)
 1964年の「小間使いの日記」はシュールレアリストのブニュエルの中でもっともリアリズムの映画だとされる。オクターヴ・ミルボーの1900年の同名小説の映画化。映画は1930年代に時代を移し、ジャンヌ・モローがパリから来た小間使いを絶妙に演じている。田舎の人々は精神的に腐敗して、勤め先のモンテイユ家も先がない。靴フェチの老人、仲が悪い隣家の元軍人、怪しげな下男、そんな中で幼女殺しが起きるが犯人が判らない。小間使いの目を通して、大領主の腐敗、台頭する右翼などをあぶり出す。66年にATGで公開され8位。僕はどこかで前に見ていて、その時から凄い映画だと思った。ジャンヌ・モローの演技は彼女の中でもベスト級だと思う。シュールレアリストとされるブニュエルだが、このリアリズム映画でも「悪意」を描くことは今まで書いた映画と同じ。
(「小間使いの日記」)
 見たくないようなものを突きつけてくるのがブニュエル映画。あまりにも悪意、悪ふざけに満ちていると、もういい加減にしてくれという感じもする。だけど、「感動」を安売り、押し売りするような映画ばかりが多い中で、こういう映画も必要。スペインのフランコ独裁に反対する中で、反カトリック、反ブルジョワ意識が強くなった。メキシコに逃れて国籍も取得、メキシコで多数の娯楽作を作っている。晩年にフランスを中心に活動するようになり、有名スターが出演して映画祭でも受賞した。そこで得た名声で晩年は自由に夢のような悪ふざけのような映画をたくさん作ったわけである。それが実に魅力的で、どこかでやってたら是非。
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映画「ボストン市庁舎」(フレデリック・ワイズマン監督)を見る

2022年02月09日 22時39分25秒 |  〃  (新作外国映画)
 2021年のキネマ旬報ベストテンが発表されたが、外国映画のベストワンはもちろん「ノマドランド」の圧勝である。これは誰が見てもはっきりしているが、ジェーン・カンピオン監督の「パワー・オブ・ザ・ドッグ」が8位というのは特別上映なので見てない評論家が多いのではないか。それにしてもフレデリック・ワイズマン監督「ボストン市庁舎」が2位に入っているのには驚いた。最近日本でも評価が高いドキュメンタリー映画の巨匠だが、あまりにも長い映画だからロードショーではうっかり見逃してしまった。

 今キネカ大森でやっているので見に行ったが、上映時間は272分である。「ドライブ・マイ・カー」は179分、「水俣曼荼羅」は372分である。どれも時間を感じずに見ることが出来たが、中でも「ボストン市庁舎」が一番面白いかもしれない。比較には意味がないが、実は恥ずかしながらフレデリック・ワイズマンの映画を初めて見たので発見が多かったのである。そう言っても世の中の大部分の人はフレデリック・ワイズマンの名を知らないだろう。でも僕はこれだけ映画について書いているのに、今まで見てなかったのである。ではフレデリック・ワイズマン監督とはどういう人か。
(フレデリック・ワイズマン)
 フレデリック・ワイズマン(Frederick Wiseman)は何と1930年1月1日生まれだから、92歳になったわけである。アメリカを代表するドキュメンタリー映画作家だが、日本での紹介は遅かった。精神病院を描く「チチカット・フォーリーズ」(1967)以来、学校や病院、さらには警察や軍隊、裁判所、障害者、DVなどアメリカ社会の諸相に密着する社会派として知られた。その後、20世紀終わり頃からアート映画を手掛けて「アメリカン・バレエ・シアターの世界」(1995)や「コメディ・フランセーズ 演じられた愛」(1996)などは日本でも公開されたと思う。21世紀になっても活躍を続け「パリ・オペラ座のすべて」(2009)、「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」(2014)など評判になったが、どれも時間が3時間を越えるような長い映画なのである。

 その後も衰えを見せず、再び社会派に戻ったかのような「ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ」(2015、189分)、「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」 (2017、205分)は日本でも高く評価された。ホントはここら辺でそろそろ見ておかないといけなかったのだが、やはりどれも長時間なので時間が取れないまま終わってしまった。今度の「ボストン市庁舎」はさらに長い272分なんだから、実に困った監督である。しかも、日本の記録映画を見慣れていると、例えば原一男の映画でもそうだが、大体は監督本人が映画に登場して対象と一緒になって闘うような映画が多い。

 それに対して、ワイズマンの映画は完全に「ノー・ナレーション」で、作家の影はどこにも感じられない。ただ「観察」して映像を提示する。その編集リズムが心地よい。演説などは固定カメラ、誰かの家では手持ちカメラで見つめる。日本の想田和弘監督の「観察映画」はワイズマン監督の影響である。しかし想田監督の映画は題材が私的な世界が多いが、ワイズマンの映画は驚くほど広い対象に密着している。まあ、日本では警察や学校を自由に密着撮影させてくれるところは見つからないだろう。この映画のように「市庁舎」を自由に撮りまくるというのも恐らく無理。ワイズマンの信用というかキャリアにして許されることかもしれない。もはや映画祭やアカデミー賞などの対象にはならないのだが、アメリカ映画の至宝である。
(演説する市長)
 マサチューセッツ州ボストンは監督の出身地である。そこで映画を撮ったのは明確に反トランプの意思表示だという。マサチューセッツ州はケネディが出た民主党の牙城だが、2013年から務めるマーティ・ウォルシュ市長ももちろん民主党である。(ウォルシュはバイデン政権の労働長官になり、後任にはアジア系女性のミシェル・リーが当選した。)2018年から2019年に掛けてワイズマン監督は市長と市政に密着した。レッドソックスのワールドシリーズ優勝に始まり、市政の様々な断面を描き出す。警察、保健、高齢者、障害者、ホームレス支援などに加えて、同性婚の承認、民族的多様性支援など実に多岐にわたる行政サービスが出て来て驚く。特に興味深かったのはヴェテラン(退役軍人)の日の集会で人々が話す人生の深み。

 市長は多くの会合に出席し、演説を続ける。自らのアイルランド系、カトリック、貧困地区出身、アルコール中毒からのサバイバーなどを明かしながら、人々に語りかける。これほど言葉で表現し、人々もまたちゃんと聞いて質問する。日本の会議と全く違う。日本だと「お手元の資料をご覧ください」などと説明抜きで済ますこともある。そして「原案通りで御異議ありませんか」なんて、討議もなく決められてしまう。そんなことはアメリカではあり得ないことが判る。そこがアメリカの底力だと思う。市長以外でも多くの人がきちんと話をする。小さい頃から一般の人もスピーチのトレーニングを積み重ねてきたということだろう。これが「アクティブラーニング」の目指すものかと感慨深い。
(障害者の集会)
 そしてアメリカでは人種、性別の差別をなくすことに尽力している。地球温暖化についても、「今の大統領は関心がないようだが、市がリードして政策を進める」と言う。そういう試みをずっと見つめる。多くの人が出てきて話す。映画の取材に答えるのではない。集会をただ撮影すると、人々が皆質問するのである。特にラスト近くの「大麻の店を開く」問題は実に興味深かった。事情がよく判らないが(説明ナレーションも字幕もない)、恐らくマリファナが自由化された州なんだろうが、店を開くには自治体の許可と地元住民の了解がいる。人々は集会に集まり、口々に不安を訴える。コミュニティのリーダーは白人が多く、アフリカ系には心配が多いんだという。開店側には中国系の人もいる。そんな様子が描かれるのである。

 「ラ・マンチャの男」で理想に向かって行動する事の大切さを感じた。この映画の人々は60年代の公民権運動を引き継いでいるが、同時に「現場の実務能力」の重要性も語られる。これも重要なところで、市庁舎には実に雑多な電話が寄せられるが、そこにこそ「現場」がある。それを一つ一つこなしていく「実務」の世界である。それが「公務」の世界で、とても面白いのである。「公務員」の仕事は、実はとても面白いということを示す映画でもある。ところで市長の演説はもちろん字幕なしでは僕は理解出来ない。これを理解して、即座に英語で質問出来るか。そういう風になりたいなと思わせる映画でもある。
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ミュージカル「ラ・マンチャの男」に感動

2022年02月08日 23時04分23秒 | 演劇
 2月7日にミュージカル「ラ・マンチャの男」を見た。「松本白鸚、魂を揺さぶる渾身のファイナル公演!」である。まさに奇跡的な舞台を目の当たりにした。僕はずっと心配だった。コロナ禍で緊急事態宣言が発出され、すべての公演が中止にならないか。出演者の誰かが感染して公演が出来なくならないか。実際、僕が見た翌日には「公演関係者の新型コロナウイルス感染症の陽性反応が確認されたことから、本日 2 月 8 日(火)18:00 公演を、やむを得ず中止とさせていただきます」とのお知らせがホームページに掲載されているではないか。僕が無事に見られたのは、まさに奇跡だったのである。

 もちろん、それだけではない。1969年に日本で初めて公演されたとき、当時の市川染五郎はまだ27歳だった。松本幸四郎を経て、今は2代目白鸚を名乗って今年の夏には齡80歳となる。実弟中村吉右衛門は先に逝ってしまった。記者会見では、年齢を重ねてからは菊田一夫と父初代白鸚へのレクイエムとして演じてきたが、今回は対象がもう一人増えてしまったと痛切に語っている。だからこそラスト「見果てぬ夢」の大合唱で「胸に悲しみを秘めて 我は勇みて行かん」と歌い上げる時、涙なしに聴くことは出来なかった。わが人生で何回目かのスタンディング・オベーションのカーテンコールとなった。
(ファイナル公演に向けた記者会見) 
 「ラ・マンチャの男」を見るのは実は初めてである。僕はほとんどミュージカルを見てないけれど、別に嫌いというわけではなくチケットが高いのである。今まで夫婦の温泉旅行の方が断然優先度が高く、1万5千円の宿なら安いと思うのに同額のチケットだと高いと思う。とはいっても、これほど評判高いミュージカルは是非見ておきたいと思って、大分前だけどチケットを取ったことがある。確か土曜の午後だった。勤務時間外である。しかし、行けなくなってしまった。よく教員の労働問題で部活動や授業準備などが大変と言われる。しかし、僕に言わせればそれは何とかなるが、どうにもならないのが保護者会などだ。担任してると抜けられない。多分そういうものが臨時に入ったんだと思う。そういう事が時々あるので高いチケットは買えなくなった。

 それはともかく、かくして満を持してようやく見られた「ラ・マンチャの男」である。物語がよく出来ている。歌が素晴らしい。そして主演の松本白鸚が圧倒的な存在感である。そりゃまあ、恐らく歌も演技も全盛期ではないんだと思う。だけど声量は豊かだし、存在感が半端ない。思い姫ドルシネーア、実は娼婦のアルドンザは2002年から12年の公演以来10年ぶりで松たか子が演じる。年齢を重ねて円熟味が増したと思う熱演で、高齢の父を娘が支える共演である。サンチョは駒田一、牢名主が上条恒彦というキャストはここしばらくと同じ。6時に始まって8時15分には終わるという休憩なしの一気見で、それも興趣を盛り上げる。
(松本白鸚)
 「ラ・マンチャの男」は言うまでもなくセルバンテスの「ドン・キホーテ」を基にした作品だ。デイル・ワッサーマン脚本、ミッチ・リー作曲で1965年にブロードウェイで初演された。こういう機会じゃないと読まないと思って、昔買ってあった「ドン・キホーテ」を今読んでいる。(その感想はまた別に書きたい。)前編を読んだ限りでは「ドン・キホーテ」と「ラ・マンチャの男」の関係は、まあ濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」と村上春樹みたいなもんだと思った。つまり確かに作品世界の大枠を借りているけれど、両者違う物という感じである。

 僕は事前に調べて行ったから驚かなかったが、「ラ・マンチャの男」では作者セルバンテス本人が出て来る。彼が教会を冒涜したとして逮捕され牢獄に放り込まれる。そして牢名主や囚人たちに身ぐるみ剥がれて、「ドン・キホーテ」の原稿も焼かれかかる。何とか作品を守りたいと、獄中で「ドン・キホーテ」の物語を劇中劇として演じることになる。セルバンテスが創作した郷士アロンソ・キハーナ、キハーナが妄想した騎士ドン・キホーテという三重構成を、牢獄内の囚人が演じる。そしてそれらを現実の役者が演じて、周りの観客が見ている。幾重にも絡み合った構成の中に、世界の重層性が現れるという卓抜な着想である。この構成にすることで、ドン・キホーテが突進する風車などの大道具も不要になる。すべてが地下の牢獄で行われる劇中劇だから。

 その結果、元の「ドン・キホーテ」とはかなりニュアンスが変わった。ドン・キホーテはあくまでも理想に向かって戦い続ける「永遠に夢見る人」。サンチョはそんな主人が好きで付いていくと歌い上げる。まさに「同志」である。意外なことに原作では全く違っていて、損得高い計算で付いていく愚者として描かれている。ドルシネア姫は原作では妄想の産物だが、「ラ・マンチャの男」ではアルドンザという形で具現化される。獄中にいる最下層の人々に「ドン・キホーテ」の思いは届くのか。ドン・キホーテにとっては、届くか届かないかではなく、人は理想に向かって歩み続けなければならないというのである。人生は勝ち負けではない。最後の最後にアルドンザがキハーナに夢を思い出させるとき、この劇に込められた深い思いに心揺さぶられた。
(松たか子のアルドンザ)
 1965年にニューヨークで「dream」という言葉を使うとき、ほとんどの人は1963年のワシントン大行進におけるキング牧師の「I Have a Dream」演説を思い出したのではないだろうか。半世紀経って、今もなお「ブラック・ライブズ・マター」が起こる重い現実がある。それを判った上で、やはり60年代の公民権運動はとても重要だった。ドン・キホーテが歌う「見果てぬ夢」とはキング牧師の夢でもあっただろう。どうしたってそう思ってしまう。まさに60年代理想主義の香り高いミュージカルではないか。60年代アメリカで、「ドン・キホーテ」を自らの物語として読み直したのである。

 「汚れ果てし この世から 正しきを救うために いかに望み薄く 遙かなりとも やがて いつの日にか 光満ちて 永遠の眠りに就くその日まで たとえ傷つくとも 力ふり絞りて 我は歩み続けん あの星の許へ

 フェイクニュースにあふれ、正義のために闘う人には足を引っ張るような声が殺到する。そんな「汚れ果てし」世になってしまったが、それでもたとえ傷つくとも、胸に悲しみを秘めながら、我らは歩みを続けて行こうではないか。そう受け取ったのだが、間違いだろうか。多くの人の心に今も力を与えてくれる、素晴らしいミュージカルだった。最後の最後に見られて本当に良かった。
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海部俊樹、水島新司、池明観、松岡享子等ー2022年1月の訃報②

2022年02月06日 22時21分50秒 | 追悼
 1回目で長く書いたので、2回目は他の人々を簡単に書きたい。と言ってもずいぶん多くの訃報があった。まあ総理大臣経験者ということで、海部俊樹(かいふ・としき)から。第76、77代の内閣総理大臣1989年8月から1991年11月まで務めた。早大弁論部で活躍後、自民党の河野金昇の秘書となるが、58年に河野が急死。一回未亡人をはさみ、60年に後継となって29歳で全国最年少の衆議院議員となった。党内弱小の三木派、河本派に所属していたため、現実の総裁候補とは誰も考えていなかった。しかし、88年のリクルート事件によって、自民党有力者が軒並み総裁選に出られなくなって、89年参院選大敗、宇野首相辞任後にクリーンなイメージの海部が擁立されたのである。総裁選の対抗馬は林義郎(林芳正外相の父)、石原慎太郎だった。
(首相当時)
 弱体総理の割に印象にあるのは、戦後史最大の転換点にぶつかったからだ。89年の冷戦終結から91年の湾岸戦争の時期に首相だった。「自衛隊の貢献」を求められ、国論も大きく揺れた。その間、小沢一郎幹事長の権力が強く、党内基盤がないため再選が難しくなって退陣した。しかし、その後思わぬ波乱の晩年を送った。94年に自民党が社会党村山委員長を担いで政権復帰したとき、小沢一郎らに擁立されて離党して対立候補となったのである。負けた後には、新進党党首に就任した。小選挙区制移行後は、愛知9区から、96年新進党、00年保守党、03年保守新党、復党して05年自民党と毎回違う党から当選し、09年の政権交代選挙で敗北して引退した。当選回数16回、約49年間の議員生活だった。90年だか91年だかの夏に、いとこの天文学者海部宣男が所長をしていた野辺山天文台を訪れ、その後草津に泊まった年がある。その年に僕も草津を訪れていて、昨日首相が来ていたと話題になっていた。
(晩年の海部俊樹)
 漫画家の水島新司が10日死去、82歳。野球漫画で知られ、「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩」などで知られた。現実の球団、選手が登場したり、少女投手の水原勇気(「野球狂の詩」)の活躍など、時代に先駆けた描写が多い。しかし、メジャー挑戦や五輪などはほとんど描かれていないという。あくまでも日本のプロ野球を愛していた時代の人なんだろう。新潟市出身で、中学の隣にあった新潟明訓高校に行きたかったが経済的事情で断念。中卒で働きながら貸本漫画家になった世代である。最初のヒットが70年から連載開始の「男どアホウ甲子園」。高校野球とプロ野球を愛し描いた漫画家だった。
(水島新司)(「ドカベン」)
 長崎県立国見高校サッカー部を率いて、全国高校選手権で6回の優勝を果たした小嶺忠敏が7日死去、76歳。1968年に母校の島原商業高校に就任し、インターハイで1回優勝。84年に国見高校へ転勤し、97年から教頭、00年から定年の05年まで校長を務めた。教育公務員にあって、長崎に多い離島に一度も赴任することなく、同じ学校で教頭、校長をずっと務めるのは極めて異例だろう。サッカー部強化を求める県外私立への流出を恐れた特別措置だという。J1最多得点の大久保嘉人は教え子だった。記事で知ったが、自らバスを運転して他校との練習試合に連れて行ったという。東京都なら処分される事案だろう。地方では事情が違うと思うが、いろいろと許された時代だったんだろう。2007年参院選に自民公認で立候補して敗れた。
(小嶺忠敏)
 児童文学者、翻訳家の松岡享子が25日に死去、86歳。図書館学を学び、アメリカに留学して児童図書館学を専攻した。日米で図書館に勤務したあと、1974年に石井桃子らと東京子ども図書館を開設し、40年以上理事長を務めた。この間、マイケル・ボンド「くまのバディントン」シリーズ、ディック・ブルーナの「うさこちゃん」シリーズなど数多くの翻訳を刊行した。同時に、アジアの子どもたちに共通の読み物を作ろうというユネスコのアジア共同出版計画に関わり、アジア各国の昔話などを共同出版した。
(松岡享子)(「くまのパディントン」)
 美術史家、評論家、武蔵野美大名誉学長の水尾比呂志が3日死去、91歳。柳宗悦に師事して民藝を学び、多くの研究書がある。「評伝柳宗悦」も書いた。日本の古典美術を研究し「わび」「琳派」などの著書もある。しかし、単なる研究者ではなく、若い頃から詩人としても活躍し、ラジオやテレビのシナリオも書いている。総合的な表現者だったというべきだろう。
(水尾比呂志)
 作家、翻訳家の中田耕治が11月26日に死去していたことが2月になった公表された。94歳。評論や演劇の演出でも活躍したとウィキペディアに出ていたが、やはり翻訳と小説が大きな仕事だろう。特に50年代からたくさん手掛けたアメリカのミステリーやSFの翻訳は後の世代にも大きな影響を与えていると思う。スピレイン「裁くのは俺だ」、レヴィン「死の接吻」、ベスター「虎よ、虎よ」などである。ハードボイルドなどは実作も多く書いたし、60年代初期の忍者ブームでは忍者小説も書いた。(「異聞猿飛佐助」は篠田正浩監督によって映画化された。)しかし、僕が思うに最高の仕事は1975年刊の評伝「ルクレツィア・ボルジア」ではないか。「メディチ家の人々」「メディチ家の没落」とイタリア・ルネサンス三部作となった。当時はずいぶん評判になったし、僕も読んだ記憶があるが、いつのまにか忘れられてしまった。翻訳では後進育成にも尽力したという。
(中田耕治)

 韓国の宗教哲学者で元東京女子大教授の池明観チ・ミョングァン)が1月1日に死去、97歳。72年に朴正熙政権の弾圧を逃れて日本へ渡り、東京女子大で教授として勤めた。70年代半ばには立教大学に非常勤講師で来ていて、僕はその時代から名前を知っていた。時間が合わずに受講はしていないが、まさかその池明観氏が「T・K生」だったとは本当に驚いた。この名前で岩波書店の月刊誌「世界」に73年から88年まで「韓国からの通信」を連載したのである。僕はある時期、この通信を読むためだけに「世界」を買っていた。日本でも韓国民主化運動、政治犯救援運動への連帯の動きが強かった時代である。僕はある種「むさぼるように」読んだのだが、80年に初めて韓国へ行き、83年に就職すると、次第にキリスト教会を中心とした弾圧情報に偏している気もしてきた。93年に韓国へ帰国し、翰林大学教授。金大中政権では対日政策のブレーンとなった。それが「日本文化開放」につながった。市民の連帯を信頼した大切な人だった。
(池明観)(「韓国からの通信」)
 スペインの建築家、リカルド・ボフィルが14日に死去、83歳。バルセロナに生まれ、フランコ独裁に抵抗してジュネーブで建築を学んだ。63年にバルセロナに戻り、世界各地で活躍した。バルセロナの国立カタルーニャ劇場、マドリッド市議会などの他、日本でも銀座資生堂ビル、ラゾーナ川崎プラザなどを手掛けている。
(リカルド・ボフィル)(銀座資生堂ビル)
 ザ・ベンチャーズの結成メンバーだったドン・ウィルソンが22日に死去、88歳。1959年にドン・ウィルソンとボブ・ボーグルによって結成された。二人ともギタリストだったが、後ベースとドラムを加え、60年の「ウォーク・ドント・ラン」がヒットした。他に「パイプライン」「ダイヤモンド・ヘッズ」など。1965年に2回目の来日時から人気が出て、大エレキギター・ブームを起こし、日本のポピュラー音楽に大きな影響を与えた。インストゥルメンタル音楽だったため言語の壁がなく、アメリカよりも日本では長く人気を保った。毎年のように来日し叙勲もされた。米国でも「ロックの殿堂」入りを果たしている。
(ドン・ウィルソン)
 フランスの俳優ギャスパー・ウリエル(Gaspard Ulliel)がスキー場の衝突事故で死亡した。19日死去、37歳。「ロング・エンゲージメント」(2004)でセザール賞有望若手男優賞を受けた。その後、「ハンニバル・ライジング」の若き日のハンニバル・レクター役に抜てきされ、またシャネルのイメージモデルにも採用された。「サンローラン」(2014)のタイトルロールを演じて評価され、2016年のグザヴィエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」でセザール賞主演男優賞を獲得した。
(ギャスパー・ウリエル)

竹内一夫、12月8日死去、98歳。脳外科医、杏林大学名誉学長。85年に厚生省研究班で「脳死判定基準」(竹内基準)をまとめた。
川田孝子、12月31日死去、85歳。元童謡歌手。姉の川田正子とともに活躍し、紅白に2度出場。59年に結婚で引退した。「見てござる」など。
泉眞也、2日死去、91歳。博覧会プロデューサー。大阪万博、沖縄海洋博、つくば科学万博、愛知万博などに関わった。
比屋根吉信、4日死去、70歳。元興南高校野球部監督として80年代に6回甲子園に出場。09~12年に京大野球部監督を務めた。
田中慶秋(けいしゅう)、4日死去、83歳。民社党、新進党を経て、元民主党副代表、野田内閣で法相。暴力団との関わりなどを指摘され3週間で辞任。
梅沢武生、16日死去、82歳。大衆演劇を父から受け継ぎ、「梅沢武生劇団」座長を1963年から2012年まで務めた。弟の梅沢富美男が「下町の玉三郎」と呼ばれて人気を博した。
西太一郎、19日死去、89歳。三和酒類元会長。大分県宇佐に生まれ、家業を継いで麦焼酎「いいちこ」でブームを起こした。
杵屋浄貢(きねや・じょうぐ)、19日死去、84歳。長唄三味線で人間国宝。56年に7代目杵屋巳太郎を継ぎ、2012年に8代目に譲って浄貢を称した。
宮崎蕗冬(ふき)、20日死去、96歳。華道家、歌人。柳原白蓮、宮崎龍介の長女に生まれ、子育て終了後に華道を始めて山村御流名誉華務職を務めた。また母が主催した短歌結社「ことだま」を主宰した。兄が学徒出陣で戦死し、また祖父宮崎滔天の活動を受け継ぐ意味もあり、日中友好、反戦活動に力を尽くした。母白蓮を伝える著作を数冊書いている。
坂本孝、26日死去、81歳。「ブックオフ」創業者。不正会計問題で07年に辞任。その後「俺のフレンチ・俺のイタリアン」を創業した。

ミートローフ、20日死去、74歳。アメリカのロック歌手・俳優。77年のアルバム「地獄のロック・ライダー」が大ヒット。93年の「愛にすべてを捧ぐ」でグラミー賞を受けた。俳優としても活躍、「ロッキー・ホラー・ショー」や「ファイトクラブ」に出演。
ティエリー・ミュグレー、23日死去、73歳。フランスの世界的ファッションデザイナー。74年に自身の名を冠したブランドを創設、80年代のファッション界を席巻した。香水でも成功した。デヴィッド・ボウイやビヨンセの衣装をデザインした。
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ポワチエ、ボグダノビッチ、ベネックス、恩地日出夫ー2022年1月の訃報①

2022年02月05日 22時18分51秒 | 追悼
 2022年1月の訃報特集。映画監督の訃報が相次いだので、1回目はそれをまとめて。そう言えば2月1日没の石原慎太郎も監督した映画がある。1958年の「若い獣」と1962年の国際オムニバス映画「二十歳の恋」である。これは他国編がアンジェイ・ワイダ、フランソワ・トリュフォーなどなので、なんで日本編に石原慎太郎が選ばれたのか不思議だ。

 まずはシドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)で、1月6日没、94歳。シドニー・ポワチエは「黒人初のアカデミー主演男優賞受賞者」として知られる。受賞したのは1963年の「野のユリ」だが、テレビでも見ていない。1958年の「手錠のままの脱獄」で知られたが、これはテレビで見て面白かった。1967年の「招かれざる客」「夜の大捜査線」などでは「立派な黒人」を演じている。後に「優等生役」ばかりだとして批判されたが、時代を切り開いた意味は大きい。彼あってこそデンゼル・ワシントンモーガン・フリーマンが出て来られた。2001年にアカデミー名誉賞を受け、2009年には大統領自由勲章をオバマ大統領から授与された。
(オバマ大統領から勲章を受ける)
 巨大資本で作られるハリウッド映画では、時代の制約が大きい。ポワチエはその時代に求められたものを演じるしかなかった。では立派ではない「普通の黒人」は差別されても良いのか。あるいは俳優は善人も悪人も演じられてこそ本物ではないか。本人も役柄には不満があったようで、72年の「ブラック・ライダー」から監督も兼ねるようになった。ウィキペディアには8本が載っている。娯楽作が多く、僕も見た記憶はない。あまり評価はされなかったが、そういう作品もやりたかったんだろう。「夜の大捜査線」は後に劇場で見たが、たまたま南部に来ていたポワチエが殺人事件の容疑者になる。しかし、彼は実はフィラデルフィア警察殺人課の敏腕刑事だった。彼はやむなく人種差別的な署長と協力せざるを得なくなる。アカデミー作品賞を受賞した立派な映画だった。
(「夜の大捜査線」)
 映画監督のピーター・ボグダノビッチ(Peter Bogdanovich)が6日に死去、82歳。この名前はセルビア系だと言うが、僕は若い頃に覚えてしまった。1971年の「ラスト・ショー」(キネ旬1位)、72年の「おかしなおかしな大追跡」、73年の「ペーパー・ムーン」(キネ旬5位)の3連打によって、当時の若い映画ファンは彼の名前を記憶した。その後、76年「ニッケルオデオン」、81年「ニューヨークの恋人たち」(オードリー・ヘップバーン最後の作品)、84年「マスク」(シェールがカンヌ映画祭女優賞)、90年「ラスト・ショー2」、93年「愛と呼ばれるもの」(リバー・フェニックスの遺作)などなかなか興味深そうな作品がある。2014年の「マイ・ファニー・レディ」まで何本か公開されているが、僕は見た記憶がない。あまり評判にもならなかったと思う。
(ピーター・ボグダノビッチ)
 「おかしなおかしな大追跡」はバーブラ・ストライサンド、ライアン・オニール主演のスラップスティック喜劇でとても面白かった。「ペーパー・ムーン」は聖書を売りつける詐欺師親子を描き、テイタム・オニールが史上最年少の10歳でアカデミー賞助演女優賞を受けた。テイタムは女子野球を描く「がんばれ!ベアーズ」などで名子役スターだったが、その後は不本意な人生だったようだ。テニス選手ジョン・マッケンローと結婚するも、彼女の麻薬中毒で離婚。父親のライアン・オニールからも虐待されたと告発している。しかし、その親子で出た「ペーパー・ムーン」は最高に面白いコメディ映画だった。と言いつつも、やはり何といっても「ラスト・ショー」(The Last Picture Show)が最高の思い出である。
(「ラスト・ショー」)
 50年代初頭、テキサス州の小さな町。若者たちが集まる場所は映画館ぐらいしかない。その映画館もとうとう閉館になるという。題名はその最終上映のことで、最後は西部劇の「紅い河」。この町で高校生が愛し合い、悩みながら様々な人生行路を送る。日本では72年夏に公開された。同じ年に日本では「旅の重さ」があった。自分も高校生だから、高校生が出て来る青春映画に思い入れした。カップルがもめたり、フットボールコーチの年上の妻に惹かれたり、何やってるんだの傷つき傷つけ合う若き日々。そして思い出の映画館にも最後の日が訪れる。いや、心で泣いた。そして主演のシビル・シェパードに憧れたのだった。
(シビル・シェパード)
 フランスの映画監督ジャン=ジャック・ベネックス(Jean-Jacques Beineix)が13日に死去、75歳。80年代初期にデビューしたリュック・ベンソンレオス・カラックスとともに、フランス映画の「恐るべき子どもたち」、BBCなどと呼ばれたが、もう亡くなる人が出る時代なのか。81年の「ディーバ」で注目され、83年の「溝の中の月」を経て、86年の「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」が代表作となった。89年に「ロザリンとライオン」92年の「IP5/愛を探す旅人たち」を作った。その後ドキュメンタリーを作ったりしているが、2001年の「青い夢の女」が最後の長編劇映画になった。闘病が長かったといわれる。僕は最後の方は見てなくて、やはり「ベティ・ブルー」なんだろうなと思う。80年代に活躍が集中していて、自分が仕事で忙しかったこともあるが、やはりフランス映画はゴダール、トリュフォー、ロメールだと思っていて、あまり見てないのである。
(ジャン=ジャック・ベネックス)
 日本の映画監督、恩地日出夫(おんち・ひでお)が20日死去、88歳。僕にとって恩地監督は東宝青春映画なのだが、訃報ではテレビの「傷だらけの天使」を見出しにしていた。テレビドラマの演出家はあまり意識してなかったけど、サスペンス劇場みたいなドラマを多数作っている。1960年に監督に昇進、66年の内藤洋子主演「あこがれ」、68年の酒井和歌子主演「めぐりあい」で知られた。劇映画では91年の「四万十川」、03年の「蕨野行」も立派な映画だった。また85年「生きてみたいもう一度・新宿バス放火事件」は見てる人が少ないと思うけど、テーマに関心があったので確か新宿の小さな映画館に見に行った。発掘・再評価されて欲しい映画。初期作品の「女体」「あこがれ」「めぐりあい」は武満徹が音楽を担当していて、4月上旬にシネマヴェーラ渋谷の武満映画音楽特集で上映される。特に「めぐりあい」の抒情的なテーマは有名で、見てない人には大切な機会だろう。
(恩地日出夫)
 ついこの間「勝負は夜つけろ」(1964)について書いたばかりだが、その井上昭監督が9日に死去した。93歳。大映で中野学校、座頭市、眠狂四郎などのシリーズを担当した。後にテレビで「ザ・ガードマン」や「遠山の金さん」など多数を演出した。
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石原慎太郎をめぐってーいくつかの断章

2022年02月03日 23時04分54秒 | 追悼
 石原慎太郎が2月1日に亡くなった。89歳。毎月訃報のまとめを書いているが、1日だから来月では遅すぎるので簡単に書いておきたい。いろいろな肩書きがあったが、主には「作家」「政治家」になるだろう。葬儀は家族で行い、後でしのぶ会を開くと言うが、これはコロナ禍での通例である。その場合、しばらく訃報が伏せられることが多い。(映画監督の恩地日出夫の訃報が3日の朝刊に載っていたが、1月20日死去と出ていた。)しかし、石原慎太郎の場合、三男が衆議院議員でいま国会開会中、また次男はテレビで幾つものレギュラー番組を持っている。理由を言わずに欠席すれば、コロナ感染かと周囲を混乱させかねない。次男、三男が「公人」だったことが、訃報がすぐに発表された理由なんだろうなと思った。
(訃報を伝えるテレビニュース)
 今まで石原慎太郎に関しては何回か書いた。東京都知事をまとめて振り返った時に、「石原都政に「実績」はあったか-都政と都知事を考える③」(2016.6.23)を書いた。しかし、その前に書いた「鈴木都政に行きつく問題-都政と都知事を考える②」も読んで貰った方がいい。よく「左」系の人は石原都政から教育がゆがめられたように言うことがあるが、それは間違いであると指摘した。当時を知っている人でも忘れていることがあるが、鈴木知事、青島知事時代に確立した都庁官僚支配体制ですでに鬱陶しい時代が始まっていた。作家の分野に関しては、「石原慎太郎「太陽の季節」「星と舵」などを読んでみた」(2021.4.20)を書いた。

 石原慎太郎は最近まで新刊を出していたが、現役作家というよりは「文学史上の人」だろう。政界も引退していたから、きちんとした「石原慎太郎論」を考えるべきだろう。ずいぶんいろんなことをした人だが、50年代には映画俳優もした。慎太郎原作、裕次郎主演映画に特別出演したのもあるが、本格的な主演もある。鈴木英夫監督「危険な英雄」(1957)では誘拐を追う新聞記者で主演している。名演とまでは言わないが、ちゃんと演技している。(川島雄三監督「接吻泥棒」(1960)もある。)一方、増村保造監督「からっ風野郎」(1960)は三島由紀夫が主演したが、実に惨憺たる結果に終わった。この違いがどこにあるのかは興味深い。文学的な違いと当時に、だから石原慎太郎は政治家になれたのだと思う。
(慎太郎、裕次郎兄弟)
 1958年の岸内閣による警察官職務執行法改正案には大きな批判が起こった。この時、新世代の旗手として活躍していた若き「文化人」たちが集まって「若い日本の会」を結成した。60年安保まで活動したという。ウィキペディアを見ると、以下のような人々が参加していた。「石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔、大江健三郎、黛敏郎、福田善之、寺山修司、江藤淳、開高健、寺山修司、浅利慶太、羽仁進、武満徹、山田正弘、大坪直行」などである。山田正弘は脚本家、大坪直行は詩人・編集者で、後に石原のすすめで「いんなあとりっぷ」編集長になったという。しかし、実に驚くべき顔ぶれである。ここで挙げられた中で、石原慎太郎黛敏郎江藤淳浅利慶太は後に保守派として知られてゆく。どこに分岐点があったのだろうか。それが戦後史の分岐だろう。

 石原慎太郎は10年以上僕の「ボス」だった。つまり「上司」である。教育公務員の給与は都道府県が負担するので、区立中学勤務の時から給与明細の「給与支払者」は都知事だった。まあ、それは「形式」であって、何も知事から給料を貰ってると思っていたわけではないが。その当時のことを思い出してみれば、やはり上意下達型のとんでもない知事だったと思う。何も政治的な主張が違うから嫌いということではない。むしろ組合に入ってない「幹部」教員の方が敬遠していた気がする。それも当然の話で、上から降ってくる様々な(それまではあり得ないような)教育行政の新機軸を、現場の反対を押し切りながら具体的に実施して行くことを求められる。そういう立場の人ほど、五輪招致話が出て来たときにウンザリしていた。

 同僚に組合幹部になって都労連で活動していた人がいたが、石原都知事は「悔しいけどカッコいい」と評していた。長身で足も長くスタイルが良い。だから人気が出るのも判るという話だった。ふーん.そういうものかと思った思い出がある。石原慎太郎を読んでみた記事で書いているが、僕は長いこと一つも読んでこなかった。まあ存命中に読みたいと思って、石原慎太郎や大江健三郎を去年読んだわけだが、「太陽の季節」から始まる文体の現代性は今も生きていると思った。

 だが内容的に特に女性描写には問題がある。サンフランシスコからハワイを目指すヨットレースを描く「星と舵」には驚いた。ヨットレースが始まるまでは、ほとんどが女性の話。メキシコまで娼婦を買いに行く話も出てくる。だからダメというのではなく、それが「自我」に何の関係もない自慢話なのである。政治家になってからの「失言」「暴言」には根深いものがあると思う。
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石炭をどう評価するかー地球温暖化の論点③

2022年02月02日 22時21分54秒 | 社会(世の中の出来事)
 地球温暖化論をちょっと違った観点から考える最後は、「石炭」(coal)の評価をめぐる問題。今では若い人は「石炭」を知らない。昔の映画に蒸気機関車が出て来ると、機関助士(窯焚き)が一生懸命火室に石炭をくべている。60年ぐらい前までは学校でも石炭ストーブを使っていたから、僕の世代だと全員が石炭を触ったことがあるだろう。大昔の植物といっても、化石化しているわけだから、まあ石である。硬いけれど崩れやすい。触ると手が真っ黒になる。学校の裏手にある石炭小屋に当番が毎日取りに行くのだが、なかなか大変な仕事だった。(当時はもちろん夏の冷房なんてなく、家の風呂は薪で焚いていた時代である。)
(石炭)
 この石炭は現在では非常に評判が悪い。特に石炭火力発電所は「地球温暖化の主犯」扱いされている。確かに火力発電の中でも液化天然ガス(LNG=Liquefied Natural Gas)と比べて、二酸化炭素排出が多い発電方法であるのは明らかだ(下記画像)。また石炭を燃焼させると、二酸化炭素(CO₂)というそれ自体は無害なものばかりではなく、二酸化硫黄(SO₂)などの有害物質を発生させる。石油は石油化学の原料として様々な物質(プラスチック、ビニール、ナイロンなどの化学繊維、合成ゴムなど)として現代社会を支えている。石炭も石炭化学でガス化する技術などが開発されているが、石油ほどの重要性はない。
(火力発電における二酸化炭素発生効率)
 日本では60年代に「エネルギー革命」が起こって、石炭産業がほぼ壊滅した。それまで福岡の筑豊炭田三池炭田、北海道の石狩炭田、福島の常磐炭田など日本各地に大きな炭鉱が存在した。それらは地理の教科書に出てきて、小学校で覚えさせられたものだ。しかし、中東地域から原油を輸入する時代となって、ほとんどの炭鉱は潰れてしまった。その過程で無理な経営によって、大きな事故が頻発した。また労働者の解雇をめぐって大規模な争議が起こった。解雇された労働者の中には中南米などへの移民となった人も多い。地域社会が崩壊し、日本社会は大きな傷を負うことになった。

 今では北海道の釧路炭鉱のみが採掘を続けている。ここも2002年に太平洋炭礦が閉山したが、その後に地元資本による「釧路コールマイン株式会社」が設立され、機械によって採掘しているという。この石炭を利用する釧路火力発電所が2017年から建設され、2020年に営業運転を開始した。バイオマスとの混合燃焼を行って、他の火力発電より二酸化炭素排出を抑えられていると釧路市のホームページに出ている。これは「エネルギーの地産地消」だと主張している。もっとも騒音が激しく、反対運動も起こっている。石炭はほとんど残っていないという話もあって、大気汚染も心配。火力発電所を作るより、太陽光などの再生可能エネルギーを模索するべきだという。現時点で稼働しているかどうかは不明である。
(釧路火力発電所)
 ただ僕は世界的に考えれば、石炭が「地産地消」になる地域は存在するのではないかと思う。遠い中東地域から運んでくる原油、あるいは-162℃以下に冷却した液化天然ガスなどに比べると、石炭の方が効率がいいことはありうる。またレアメタルであるウランを濃縮しなかればならない原子力に比べれば、「原料としての効率」は全体的には石炭の方が有利なのではないか。何故かといえば、アメリカやオーストラリアでは「露天掘り」が可能な炭鉱が数多くあるからである。
(オーストラリアの露天掘り炭鉱)
 つまり、ここで言いたいことは「発電」だけを見るのではなく、「燃料がどのように得られるか」を合わせて考えるべきではないかということだ。ウランを濃縮するにはものすごくエネルギーを消費するし、その濃縮ウランを日本の原発まで運ぶのも厳重な警備も含めて一大作業である。それらに掛かるエネルギーを合計して温室効果に換算すれば、一体どういう数字になるんだろう。それに対して、露天掘りで採掘可能な石炭がもし優良なもの(炭素分が多い無煙炭など)だったら、エネルギー効率はとても良くなるという場合もあるだろう。もっともその場合では二酸化硫黄などをゼロにすることは難しいかもしれないが。

 日本のJ-POWER(電源開発株式会社)のホームページでは、日本の石炭火力の最新技術では石炭火力から出る大気汚染物質は90%以上除去出来ていると主張している。また二酸化炭素の排出もバイオマスを混合させたり、効率的な発電方法を取っているという。それらの主張の科学的な当否は判断できないけれど、そういう主張もあるということだ。石炭の産出量が多い国は、アメリカ、ロシア、中国、オーストラリア、インドなどである。これらの国で急激に脱石炭化を進めると、かつての日本で起こったような大きな社会問題が起こりうる。アメリカの石炭産出地域はさびれてトランプ支持地域になっている。ロシアや中国、インドでも同じような社会不安を起きれば、大国だけに制御できなくなることが心配だ。

 中国やインドの深刻な大気汚染は、石炭由来のものが多いとされる。特に中国では石炭を家庭で暖房に使っている。そういう意味でも石炭から脱却していく必要はあると思うが、急激に進めると逆効果も起こる。僕は石炭火力だけを悪者視する一方で、原発を進めるような言動には何かおかしな意図があるのではと思ってしまう。特に石炭を擁護したいわけではなく、燃料発掘から輸送、発電、その後の廃棄物までを総合的にエネルギー効率で考えるべきだということだ。そうすれば場合によっては価格が安定している石炭の有利性もあるのではないか。
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原子力発電が「温暖化」を進めるー地球温暖化の論点②

2022年02月01日 22時34分30秒 |  〃 (原発)
 「地球温暖化」を防ぐために「二酸化炭素を排出しない原子力発電所」を増設するべきだという議論がある。ヨーロッパではドイツのショルツ新政権は脱原発と脱火力発電をともに目指す姿勢を受け継いでいるが、フランスは原発回帰が明確である。1月1日にはEUの欧州委員会(European Commission)が「原発と天然ガスをグリーンエネルギーと認定する」とし「投資を歓迎する」という方針を出した。(欧州委員会は、加盟国一人の合計27人で構成される政策執行機関。)これに対し、日本の元首相5人が再考を求める書簡を送ったという。(この元首相は、小泉純一郎、細川護熙、菅直人、鳩山由紀夫、村山富市の5人。)
(欧州委員会の方針を伝えるニュース)
 こういうような「温暖化防止のための原発推進」には多くの批判もある。それらは大体「事故が起きた場合の重大被害」あるいは「放射性廃棄物の処分方法がない」(現状ではどこかの場所に数百年厳重に保管する以外なく、日本ではその最終処分場が決まっていない)という反対論が多い。また日本では福島第一原発事故で多くの人々が家に戻れないままなのに原発を推進するのは倫理的に許されないという考えもある。僕もこれらの意見には賛成だが、原発と地球温暖化の問題はどう考えるべきなんだろうか。

 原子力発電では発電過程では二酸化炭素を排出しないというのは、もちろんその通りである。発電というのは、太陽光そのもののエネルギーを電気に変換する太陽光発電は別として、大体の場合は発電用のタービンを回して電気を作っている。「位置エネルギー」を利用してタービンを回す水力、風力もあるが、多くは熱によって水蒸気を発生させてタービンを回す。その意味では火力発電も原子力発電も「蒸気機関」の一種になる。そして火力発電の場合は、化石燃料を燃焼させて酸化エネルギーを利用する。一方、原子力発電の場合は、原子核分裂を人工的に起こして得られたエネルギーで水を温めることになる。
(フランスは圧倒的に原発に依存)
 酸化の副産物が二酸化炭素だから、核分裂の熱を利用する原子力発電では確かに「温室効果ガス」を出さない。しかし、問題は幾つもあって、最大の問題は排出熱量が大きすぎることである。火力発電の場合は止めればいいだけだが、原発は経済効率的な観点から発電を開始したら(核分裂反応を始めたら)ずっと続けることになる。そのため発電に必要な量を上回るエネルギーが発生する。そこでタービンを回した後の蒸気を水に戻して海に排出する。これが「温排水」だが、ところによっては本来の海温より7度も高いという。原発は点検中のものも多いが、全世界で434基もあるという。それだけ原発が作られて温排水を出していることは地球温暖化の大きな原因の一つなのではないだろうか。

 次に原発の燃料の濃縮ウランの問題。石炭はただ燃やすことも可能だが、原子力の燃料であるウランはそのままでは使えない。核分裂を起こさない大部分のウラン238から、核分裂を起こすウラン235(ウランの0.7%)を取り出す必要がある。これがウラン濃縮で、様々な方法が存在するようだが、どれもものすごく大きなエネルギーを必要とするようだ。日本では原発に使える効率のいいウランは存在せず、核濃縮も(政治的に)出来ないことになっているから、濃縮ウランは全量を輸入している。このウラン燃料の濃縮過程で必要な膨大なエネルギーを温室効果ガスに換算するれば、一体どのくらいになるか。誰かちゃんと計算して欲しい。
(フランスの原発)
 また原発では建設までに膨大な審査がある。そのために火力発電とは比べものにならないぐらい厳格なシステムが作られている。核廃棄物の処理にかかる手間もあるし、危険な核燃料を保管する原発は厳重な警備が(他の発電所以上に)必要になっているはずだ。そのような諸々の(発電以外の)外部費用を全部計算すれば、原発は恐ろしいぐらいに効率が悪くなるのではないか。もちろん火力発電所だって大きな問題はあるが、原発が二酸化炭素を出さないという認識には問題が多い。発電以外の、燃料濃縮、建設までの諸問題、温排水、廃棄物処理など、ものすごい熱を排出しているのが原発ではないか。
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