先週の土曜日に図書館で、詩の本を借りました。
行ったときには、そのつもりはまったくなく、調べ物をして帰る前に、いつものように絵本の部屋へ寄り、そしてなんとなく、その日にかぎって詩のコーナーへ足が向きました。
そのメールを開いたのは、日曜日の夕方でした。大学時代の同級生が、昨年の1月に亡くなっていたことを、その友人と同郷の先輩が知らせてくれたのです。いつも行動をともにしていたわけではなく、卒業してからも、誰かの結婚式の2次会のパーティであって話した程度・・・。それでも、驚きが胸を満たし、彼女を知っている同級生のさIさんに、メールで知らせるのがやっとでした。
月曜日の昼間。亡くなった友人のだんなさまが書かれた手記を、Iさんが見つけて送ってくれました。 彼女が、写真家として残した1冊の本のタイトルしか知らなかった私に、その手記は、彼女の年月の断片と、彼女が残した3人の娘さんのことを教えてくれました。彼女が亡くなったとき、一番上のお嬢さんは、まだ7歳・・・。
目がきらきらと輝いていて、明るくくったくのない笑顔で手を振ってくれた彼女と、よく似た美人の3姉妹を思い浮かべては、ただただ私は涙を流すことしかできません。
偶然、私の手の届くところにあった詩の本。その中にこんな箇所がありました。
だがお前さんもいつかはばあさんになる
それは信じられぬほどすばらしいこと
うそだと思ったら
ずうっと生きてってごらん
うろたえたり居直ったり
げらげら笑ったりめそめそ泣いたり
ぼんやりしたりしゃかりきになったり
そのちっちゃなおっぱいがふくらんで
まあるくなってぴちぴちになって
やがてゆっくりしぼむまで
谷川俊太郎『あかんぼがいる』より
たまたま借りてきていた本なのだから、「偶然」なのでしょうが、それでも谷川俊太郎さんの詩を噛みしめるように読んでいると、その本が「たまたま」私の手の届くところにあったとは、思えなくなってきます。
『あかんぼがいる』に表われた風景は、孫娘の成長を慈しんで見つめるおじいさんの視点で描かれていますが、母親であったなら、その想いはどれだけのものであっただろうと、想像するまでもないことで、それを思っては泣き、詩を読んではまた泣くのでした。
去年の秋。
父の葬儀の間中、私の頭の中にあったのは、やはり谷川俊太郎さんの詩、『死と炎』。ずっと前から、特別な思い入れがあった詩に、あらたな「思い出」が予期せぬ形で加わりました。そして、今回の「偶然」を思うと、それはそういう、めぐりあわせだったのだと、思わずにはいられない気持ちです。
詩という形で表わされた言葉を、何度繰り返してみたところで、それは悲しみを直接、薄めてくれるものではありません。けれど、繰り返すたびに涙があふれても、それはそれでいいんだよ、と私の泣くという行為を肯定してくれているように思えます。
亡くなった友人は、写真家としてもきっと多くの人に感動を与えることができた人だったと思います。今後、彼女の遺作が、写真展や写真集という形になってくれることを心より願いつつ。
そうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂のいちばんおいしいところを
私にくれた
谷川俊太郎『魂のいちばんおいしいところ』より
行ったときには、そのつもりはまったくなく、調べ物をして帰る前に、いつものように絵本の部屋へ寄り、そしてなんとなく、その日にかぎって詩のコーナーへ足が向きました。
そのメールを開いたのは、日曜日の夕方でした。大学時代の同級生が、昨年の1月に亡くなっていたことを、その友人と同郷の先輩が知らせてくれたのです。いつも行動をともにしていたわけではなく、卒業してからも、誰かの結婚式の2次会のパーティであって話した程度・・・。それでも、驚きが胸を満たし、彼女を知っている同級生のさIさんに、メールで知らせるのがやっとでした。
月曜日の昼間。亡くなった友人のだんなさまが書かれた手記を、Iさんが見つけて送ってくれました。 彼女が、写真家として残した1冊の本のタイトルしか知らなかった私に、その手記は、彼女の年月の断片と、彼女が残した3人の娘さんのことを教えてくれました。彼女が亡くなったとき、一番上のお嬢さんは、まだ7歳・・・。
目がきらきらと輝いていて、明るくくったくのない笑顔で手を振ってくれた彼女と、よく似た美人の3姉妹を思い浮かべては、ただただ私は涙を流すことしかできません。
偶然、私の手の届くところにあった詩の本。その中にこんな箇所がありました。
だがお前さんもいつかはばあさんになる
それは信じられぬほどすばらしいこと
うそだと思ったら
ずうっと生きてってごらん
うろたえたり居直ったり
げらげら笑ったりめそめそ泣いたり
ぼんやりしたりしゃかりきになったり
そのちっちゃなおっぱいがふくらんで
まあるくなってぴちぴちになって
やがてゆっくりしぼむまで
谷川俊太郎『あかんぼがいる』より
たまたま借りてきていた本なのだから、「偶然」なのでしょうが、それでも谷川俊太郎さんの詩を噛みしめるように読んでいると、その本が「たまたま」私の手の届くところにあったとは、思えなくなってきます。
『あかんぼがいる』に表われた風景は、孫娘の成長を慈しんで見つめるおじいさんの視点で描かれていますが、母親であったなら、その想いはどれだけのものであっただろうと、想像するまでもないことで、それを思っては泣き、詩を読んではまた泣くのでした。
去年の秋。
父の葬儀の間中、私の頭の中にあったのは、やはり谷川俊太郎さんの詩、『死と炎』。ずっと前から、特別な思い入れがあった詩に、あらたな「思い出」が予期せぬ形で加わりました。そして、今回の「偶然」を思うと、それはそういう、めぐりあわせだったのだと、思わずにはいられない気持ちです。
詩という形で表わされた言葉を、何度繰り返してみたところで、それは悲しみを直接、薄めてくれるものではありません。けれど、繰り返すたびに涙があふれても、それはそれでいいんだよ、と私の泣くという行為を肯定してくれているように思えます。
亡くなった友人は、写真家としてもきっと多くの人に感動を与えることができた人だったと思います。今後、彼女の遺作が、写真展や写真集という形になってくれることを心より願いつつ。
そうしてあなたは自分でも気づかずに
あなたの魂のいちばんおいしいところを
私にくれた
谷川俊太郎『魂のいちばんおいしいところ』より