音楽の喜び フルートとともに

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大阪城に行ってみた。

2022-01-08 21:44:55 | 日本
夫が仕事を忘れてきたと、職場まで母と次男と私でお付き合い。
道具をまとめている間に、大阪城で散歩。

お堀には屋形船。

大きいですが、これはレプリカ。本物はもっと大きかったそうです。

散歩するだけのはずが、「せっかく来たから」と母が言い出し。

昇ってしまいました。

大学生の時以来。
早稲田マンドリンクラブの面々をご案内。
天守閣から生駒山を見て、「山が見える❗」と驚いていたのが最後の記憶です。

中には武具や屏風絵、黄金の茶室、映像展示がありましたが、撮影できるのはレプリカだけ。
縁起物の寅と天守の鯱。
キンキラキン!
秀吉らしい。

天正の少年使節とは
右上・伊東、右下・千々石、左上・中浦、左下・原。中央・メスキータ神父[
1582年
キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代としてローマに派遣された使節
です。

この絵画はグーテンベルグの活版印刷で使節の日本からの来訪をドイツのアウグスブルクで報じられたものだそうです。

印刷機を日本に持ち帰り、日本語版で出版したのでキリシタン版とも言われていたそうです。

13歳から14歳の少年で、ローマ教皇、スペイン、ポルトガルの王に日本での布教の精神的支援を求めるものだったそうです。

伊藤マンショとローマ教皇グレゴリオ13世の謁見

1590年任務を果たして、日本に帰国します。

1591年1月8日
聚楽第で豊臣秀吉の前で少年使節は、ジョスカン デ プレ(1450-1521年)
の曲を演奏します。

マンショがヴィオラ ダ ガンバ、ミゲルがチェンバロ、マルティノがハープ、ジュリアンがリュートを演奏、秀吉は3回もアンコールをするほどでした。
聚楽第、8年で秀吉によって打ち壊された。金箔の瓦、白壁の壮大美麗な建物だったとされています。

以前にも書きましたが、行って来ただけで演奏できるものか?と疑問でした。

四人はセミナリヨという、日本各地に建てられたキリシタンの教育施設で育てられました。

そこではカトリック必要なラテン語、古典、日本の古典が教えられ、音楽と体育も必須科目でした。

フルートとクラヴォ(クラヴィコード?)、オルガンを学び、グレゴリオ聖歌、多声聖歌も学びました。
ピクニックもあり、文化祭では劇や歌が披露されました。

九州のキリシタン大名の名代なので、おそらく九州南島原市のセミナリヨで教育を受けていたのではないかと思われます。
1587年バテレン追放令が出て、帰国を赦されるも、
1614年徳川家康による禁教令が出て、

伊藤マンショは1612年病死。
千々石ミゲルは棄教。
中浦ジュリアンは1633年穴吊るしの刑で殉教。
原マルチノはマカオに追放されそこで亡くなりました。

ジョスカン デ プレ