椿の木がきれいな花をたくさん咲かせていました。
尾高尚忠(1911-1951年)
東京生まれ、名古屋没
旧制高等学校成城文科を半年で中退、1931年ウィーンに留学。ピアノと音楽理論を学んだ後、一時帰国し武蔵野音楽学校で教鞭を取ります。
1934年ウィーンに戻り、ピアノ、指揮、作曲を学び、1938年ウィーン交響楽団、ベルリン フィルハーモニー交響楽団の指揮をしたり自作を披露するなどして活躍します。
1940年帰国、41年新交響楽団を指揮。
新交響楽団が日本交響楽団に改組、山田和男とともに専任指揮者になります。
戦前、戦中、戦後と日本交響楽団の指揮を各地でふりつづけましたが1951年1月12日名古屋公演の後、倒れ、39歳で死にました。
ハードワークぶりは日響機関誌の寄稿でよく知られていて、NHKが糾弾され、その後日本交響楽団はNHK交響楽団となり、「尾高賞」がもうけられるなど楽団の待遇改善に務めました。
フルート協奏曲1949年
小編成オーケストラ版が初演され、オーケストラ版への改定がすすめられましたが、尾高の死去で未完に終わりました。
小編成オーケストラ版が初演され、オーケストラ版への改定がすすめられましたが、尾高の死去で未完に終わりました。
フルート奏者の森正の依頼で作曲をはじめ、助言を受けながら2ヶ月で完成。
オーケストラ版は作業がはかどらず1951年2月16日の尾高は他界します。
弟子の当時19歳の林光が完成しました。
吉田雅夫のフルートで追悼演奏会で初演されました。
後に尾高惇忠によってピアノ伴奏版も作られています。