prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「あのこは貴族」

2021年03月08日 | 映画
冒頭の親族が集まっているところに門脇麦が遅刻してきてからのやりとりが、テーブルをはさんで対角線上の席にいる篠原ゆき子が微妙に突っ込んできて、その手前の席の子供がずっとゲームをやっているのを入れている画面設計が確かで、この演出は期待できるなと思ったら、ほぼ期待を裏切らず終始した。

まず金持ちの生活を浮わつかず一定のリアリティを持って描けたのは日本映画としてはヒット。

門脇麦が高良健吾の親族に紹介されるシーンで、障子を開け閉てして座敷に入り許しが出てから座布団につくまでの端正な所作など茶道をやっているのかと思わせ、今どき珍しい家事手伝いをてらいなくやってられる身分なのがわかる。
そして、そういう身分(医者の一族)であってももっと上の特権階級があることも、わかってくる。

(余談だが、日本マナーOJTインストラクター協会なる団体がエンドタイトルに出てくる。
同団体のHPを見るとマナーは今や資格の対象らしく、新社会人の頃、先輩に礼儀は武器だぞと言われたのを思い出した。)

水原希子の富山の貧困層(と言ってしまっていいだろう)出身の慶大生が一流ホテルでアフタヌーンティーの値段が4200円というのに目をむくあたりの、目の前にうず高く飾られている食べもしない美麗なスイーツと共にご学友との生活水準の違いをまざまざと見せる。

初めの方で門脇麦が見合いその他で会う男のクズっぷりの描出がさりげなくも辛辣。
カネのあるなしに関わらずなんともいえない不潔感やだらしなさが服装や振る舞いにちらちらとのぞいて、口には出さないけれどとても我慢できないのがありありとわかる。

それだけに高良健吾が出てくるととびぬけていい男ぶりが目立つし(テーブルを挟んで相対して座るのではなく、斜向かいに座って不躾さを避けしかも親密さを演出している)、下手すると生まれ育ちも王子さまになってもおかしくない設定なのだが、実はそれだけに悪気なく男の高慢さを身につけているのがわかってくる。

タイトルの貴族とは大げさなと思ったが、戦前だったら爵位を持っているような家柄なのだな。
慶応を幼稚舎からエスカレーター式に上がってきて東大の大学院という笑ってしまうような経歴で、これは早稲田ではなく慶応ではないといけないところ。
慶応の中でも幼稚舎からいるのと大学受験で入ってくるのとでは身分が違うというわけ。

門脇の頭を平気で子供にするように撫でる、その動作に何か人を(女を)ナメた感じが自然に出る。
雨男だと自ら言うのだが、本当に出てくるシーンの外でたいてい雨が降っている、その不吉なニュアンス。

親族に政治家がいるというだけでなく、高良自身が地盤を継いで出馬するという話が勝手に進んでいるあたり、おそらく今の日本の政権の中枢にいるのはこういうガラスの高下駄をはいた無神経な連中なのだなと思わせる。

このままでは“政治家の妻”として“内助の功”を強要されるのであろうことが断りもなしに決められるのがはっきりわかる、真綿で首を絞めるような嫌らしさ。
さらに後継ぎをしきりと強要されるプレッシャーの耐え難さ。

説明的だったりあからさまではなくても、描写ひとつひとつのリアリティーと微妙なニュアンスがはっきり一つの世界観に掌握されている。

格差社会とは昨今良く言われるが、格差といったものではなくてはっきり身分制社会といっていい。
というか、日本の近代社会のふりをした化けの皮が剥がれてもとからの地金の封建体質があからさまになってきた。

ヒロイン二人が男一人をはさむ構図には違いないのだが、、“身分”の違いが対立のもとにならず、むしろ打ち消しあってそれぞれ自分の行く道を模索するのに迷わなくなるのが爽やか。

シスターフッドという言葉を正確に理解しているかわからないが、そういって良いのではないか。

門脇麦が上流階級で、水原希子が下層階級というのは容貌からすると逆のようだが、ドメスティックなのと外部の違いとして捉えていいのだろうか。





「ある人質 生還までの398日」

2021年03月07日 | 映画

主人公が体操選手としていいところまでいったのだが思わぬケガその他で挫折し、カメラマンとしてシリアを訪れるまでのなりゆきがかなり丹念に描かれ、必ずしも望んで行ったわけではないのがわかる。

勝手に危険な場所に行って拘束されたのだから自己責任、助ける必要などないという日本の“世論”に釘をさしているようだ。
そういう“世論”は日本だけのものではないのかもしれない。

解放されるには身代金を払うしかないのだが、そうするとテロリストに資金を提供することになるとして各国の政府は応じないことに決めている。
だから政府は助けてくれず、人質の家族が自力で集められるだけ集めて、足りない分は何とか寄付を募ることになる。
その苦心と、人質生活の過酷さが交互に描かれる。最後の一押しの援助に公助ならぬ体制側のたてまえ破りを暗示しているのは示唆的。

当人も家族も共に本当に辛い状況なのだが、映画とすると場面に変化がつくことになり、飽かせない工夫にもなっている。

ISのリーダーが英語も話せるし西洋的な教育も受けていそうなのを歪めた形で利用しているらしいのが、まことに見ていて腹立たしい。




「リーサル・ストーム」

2021年03月06日 | 映画
明らかに「リーサル・ウェポン」にあやかったタイトルだし、広告でもメル・ギブソンが一番大きいが、ビリング(配役序列)では三番目。
よくある一番おしまいに別格扱いで名前を出す(トメというらしい)のとも違う感じで、メルがユダヤ人差別発言その他でかなり映画界での地位が微妙になったのが伺われる。

原題はForce of Nature 自然の力。ただし、タイトルとは裏腹に自然災害をスペクタクルとして見せるようには作っていない。

プエルトリコに来た台風の最中に安アパートに残っているそれぞれいわくありげな住人たちに避難を促しに来た警官ふたりが、そのアパートにあるお宝を狙って侵入してきた狂暴なギャングたちと戦うという、「ダイ・ハード」と「フラッド」を足して二で割ったみたいな話。まずこういう設定だとつまらなくなりようがないのだが、それ以上の上積みを要求したくなるのは痛し痒し。

アパート内部の部屋の位置関係や空間描写が今ひとつで、主人公の警官がトラウマを克服するあたりも「ダイ・ハード」の脇筋っぽいが、比べてしまう分、損でもある。

住人たちがとんでもない動物を飼っていたり、「トレマーズ」のマイケル・グロスみたいにやたら大量の銃を部屋に隠し持っているのがいたり、お宝の隠し方といった工夫は色々楽しいのだけれど、それらが必ずしも充分に機能しないのは惜しい。




「牝猫たちの夜」

2021年03月05日 | 映画
1972年製作。日活ロマンポルノ二年目、田中登監督デビュー二作目。
今では使えなくなったトルコ風呂という言葉が堂々と使われている(ソープランドに改名されたのは1984年のこと)。

三人のトルコ嬢が友人の玉の輿婚の後で、いい男いないかしらとソーセージにナポリタンというダイエットとはおよそ無縁のメニューをぱくつくところから昭和の匂いがむんむんする。

新宿の街の撮り方もそれほど街の区画は変わっていないのだが、それだけに店の変わりようがありありとわかる。
ラストシーンが今はみずほ銀行に合併させられてしまった富士銀行の前ですからね。
朝の9時になってシャッターが一斉に開く光景が街を生き物のように捉えていて強い印象を残す。

年かさの男が若い男に女の面倒をみるのがホモセクシュアルとホモソーシャルが混ざっているみたいな感じ。
若い男が教会音楽がかかってないと役に立たなくなるという設定がフシギだが感覚的に面白い。

客の銀行員にテクニックを褒められたトルコ嬢が「練習よ、銀行員のソロバンと同じ」というのがなんだか可笑しい。
調べてみると、電卓の価格が急激に下がって普及したのが1971年から72年にかけてなのだ。
この銀行員が人の金をガメて逃げるというのも、らしい話。

人が落ちるのをビニール傘が落ちるカットで表すなど、死語を使うとアングラ的で、田中登らしい美学的な演出とも言える。






「七つまでは神のうち」

2021年03月04日 | 映画
出だしで乳母車の中の赤ん坊がいなくなっているのを特に強調しないでロングで撮っているのが新鮮で、その後も画面の組み立て、コンティニュイティに意表をつくところが随所にある。

失踪=神隠しというオカルト的な恐怖と拉致監禁の現実的な恐怖の両方に足をかけてどうまとめるのかと思うと、むしろどうオープンな形で終わらせるかに腐心したような作り。

監督脚本の三宅隆太は日本で数少ないスクリプトドクター(脚本の問題を洗いだし解決する職能)だが、理性的な組み立てとそれを外す技とを併用している感あり。





「風たちの午後」

2021年03月03日 | 映画

国立映画アーカイブの上映前に音声のボリュームレベルが低いのは元からの指定によるものという意味のアナウンスがあったけれど、これがなかったら確実に上映ミスだと思ってクレームをつけに行っていただろう。
それくらい音が小さくて、セリフもまるで聞こえず、効果音もついているのかどうかわからないくらいの実験的な作り。

完全なサイレント映画というのならまだわかるのだが、なまじっかぼそぼそ言っているのはわかるので正直かなりのストレスになる。
本当にここまで小さいのかとも思ったが、初公開('80)当時の批評からも、監督の矢崎仁司がデジタルリマスターDVDのHPで「聞こえてくる音を幽かに残し、『観る』ことの映画を作りたかった。上映中の音量を下げるために、すべての上映に付き添った。」と書いていることからもあれでいいらしい。

上映されたのはデジタルリマスター版で、リマスターにあたったスタッフもエンドタイトルに出た。
しかし監督がすべて上映に付き添うとは、自主映画らしい。というか、それができるのが物理的にできるできないは別として本当という気もする。

日本の同性愛映画としてはエポックメーキングな作品だと早稲田大学のLGBTQ映画展の展示で紹介されていた。

同じ頃('79)カナダ人のクロード・ガニオンが日本の若い女性(スズキケイコという思いきり平凡な名前にしてある)を主人公にして、日本人が気づかない日本の日常を描いた「Keiko」でも自然に同性愛が出てきて、日本の若い女性の仲のよさというのは外国人には同性愛的に見えるのではないかという意見も出ていた。

今の目で見ると、同性愛自体それほど特殊でもタブーでもないので、当時のちょっと気だるいようなリアルな日常の空気感を定着させたものと見える。

出だしでシャボン玉を吹いている女の子の髪型が中森明菜みたいと思ったら、明菜は1982年5月1日デビューなので逆に当時の髪型に寄せていたということか。

協力タイトルに山本政志など後年も映画に携わり続けている名前が散見する





「ファーストラヴ」

2021年03月02日 | 映画
父親殺しの犯人として逮捕された女子大学生と接見を許された心理療法士のヒロインが、深入りするにつれて自分自身の内部にある被告と共鳴する部分が表に出てくる。

オープニングの厚手のガラスを潜り抜け死体を見つけるカメラワーク(デジタル処理だろうけど)や、面会室のガラスに隔てられた二人の顔がだぶるのを正面から捉えたカットなどさりげなく凝った画が続く導入部は期待させたけれど、困るのは展開が途中から被告のそれからヒロインに移ってしまう、つまり話が脱線する格好になり、その分散漫になってしまうこと。

これに義弟でもあり昔関係があった弁護士と一緒に仕事するうちに焼け木杭に火状態に近くなるが、あくまで今の夫がいい人なものでこれまた話が止まってしまう。
回想で被告とヒロインの過去の体験を画にしていくのは、下手すると後知恵の絵解きになってしまうのだが、現にそうなっている。

核心部分になるのはずいぶんデリケートかつグロテスクな問題で、体験した人になってはそう簡単に克服したり解決したりできることではないのをどうもお手軽に済ませてしまっている印象は拭えない。
音楽が甘くて感動させようとしているのが先立っているのも鼻白む。

北川景子が全カットファッショングラビアから抜け出てきたみたいに綺麗すぎるくらい綺麗なのはいいけれど、映画自体の綺麗事化にも影響している。




2021年2月に読んだ本

2021年03月01日 | 映画
読んだ本の数:19
読んだページ数:6688
ナイス数:1

読了日:02月01日 





 
読了日:02月06日 著者:花輪和一






読了日:02月07日 著者:ヤマザキ マリ






拳闘界、格闘界が戦前の汎アジア思想、戦後の右翼との結びつきが強く、格闘家が労組のスト破りに駆り出されることがよくあったのに触れているところが興味深かった。 ボクシングの試合を組むための資金調達や駆け引きなども具体的に描かれて面白い。
読了日:02月08日 著者:細田 昌志




読了日:02月08日 著者:フレドリック・ブラウン






読了日:02月11日 著者:平川 克美







読了日:02月13日 著者:押井 守






























短いブロックに区切った文章を重ねていくスタイルはヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のようでもあるが、近代から現代に至る哲学史を振り返りながら吟味し位置付ける流れはヘーゲルの「精神現象学」のような一種の物語性を持つ。 総体として哲学を現実の暴力論理に抗するものとして位置付け、絶対的存在や価値に還元するのではなく、誰でも参加できる言語ゲームとして互いの信憑を目掛けて絶えず書き直されるところに、現代思想が陥り勝ちなニヒリズムや相対主義から抜きん出た健全さを見てとれる。
読了日:02月21日 著者:竹田 青嗣






終盤の美と芸術についての本質観取が読みごたえがあり、著者が元は文芸評論家だったことを思い出させる。
読了日:02月21日 著者:竹田 青嗣,吉増 剛造


























読了日:02月25日 著者:三浦英之






読了日:02月27日 著者:山本崇一朗






読了日:02月27日 著者:山本崇一朗