大河ドラマも後半となり、舞台が京都に移りました。
前半は会津と京都を行ったり来たりしていましたが、主は京都となり、たまに会津が戦争後の消息は如何にといった感じで描かれています。
そして新しい登場人物が次々出てきますが、その分これまで主だった人のかなりが、登場しなくなりました。
歴史読本七月号から、それらの人々の消息を簡単に記してみます。
秋月悌次郎
秋月悌次郎はドラマでは藩主容保の命により、会津戦争終結の降伏文書を持って、新政府軍の陣営に駆け込んだ人です。
実際の降伏式は道路上に菰を敷き、さらにその上に非毛氈を重ねたそう・・・
式の後、藩の重臣達は毛氈を切り取り、「この日を忘れまい」と懐中に入れたと言われています。
秋月は明治5年に特赦となり政府に採用されましたが、その後教師として、東京大学予備門、第一高等中学、その後、熊本にある旧制第5高等学校の教授として赴任しました。熊本にはラフカディオ・ハーンがいて秋月のことを「先生は神のような存在だった」と語ったそうです。
晩年は東京に戻り77歳で永眠しました。
ちなみにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は1890(明治23)年に来日し、松江で英語教師をしていましたが、翌年11月に旧制第5高等学校に英語教師として赴任しました。
その後、1896年からは東京帝国大学で英文学を教え、1903年に退職しました。
後任は夏目漱石でした。
そして翌年1904年9月に狭心症により永眠、満54歳でした。
西郷頼母
ドラマではただ1人非戦恭順を唱え、藩から追放されました。もっとも白河の戦いにおいては軍事総督を任され、仙台藩と合わせて2500の大軍で700の薩摩軍に対峙しましたが、敢えなく敗北しました。貧弱な装備と戦術ミスが原因でした。追放された後北海道に渡り、榎本軍に参加しましたが戦いに敗れ、館林藩にお預けとなりました。
その後1880(明治13)年に日光東照宮の禰宜に迎えられました。
(禰宜とは宮司の補佐役)
藩主容保が宮司に就任したのと同時だったようです。容保が指名したのかもしれませんね。
70歳で会津若松に戻り明治36年に死去しました。享年74歳。
梶原平馬
会津戦争に先立って奥羽越列藩同盟成立のため奔走し、成立にこぎ着けました。その立役者です。
イギリスの外交官、アーネスト・サトウによると色白でかなりのイケメンだったそうです。
戦争後は妻(山川大蔵の長姉)を離縁し、北海道に渡りました。その後消息不明でしたが1988(昭和63)年、再婚した妻貞が根室の教育史に名をとどめていたことが発見されました。
貞は江戸から根室に赴任し、教職にありました。
平馬は文房具店を営んでいたそうですが、明治22年に永眠しました。享年47歳。
~続きます~
前半は会津と京都を行ったり来たりしていましたが、主は京都となり、たまに会津が戦争後の消息は如何にといった感じで描かれています。
そして新しい登場人物が次々出てきますが、その分これまで主だった人のかなりが、登場しなくなりました。
歴史読本七月号から、それらの人々の消息を簡単に記してみます。
秋月悌次郎
秋月悌次郎はドラマでは藩主容保の命により、会津戦争終結の降伏文書を持って、新政府軍の陣営に駆け込んだ人です。
実際の降伏式は道路上に菰を敷き、さらにその上に非毛氈を重ねたそう・・・
式の後、藩の重臣達は毛氈を切り取り、「この日を忘れまい」と懐中に入れたと言われています。
秋月は明治5年に特赦となり政府に採用されましたが、その後教師として、東京大学予備門、第一高等中学、その後、熊本にある旧制第5高等学校の教授として赴任しました。熊本にはラフカディオ・ハーンがいて秋月のことを「先生は神のような存在だった」と語ったそうです。
晩年は東京に戻り77歳で永眠しました。
ちなみにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は1890(明治23)年に来日し、松江で英語教師をしていましたが、翌年11月に旧制第5高等学校に英語教師として赴任しました。
その後、1896年からは東京帝国大学で英文学を教え、1903年に退職しました。
後任は夏目漱石でした。
そして翌年1904年9月に狭心症により永眠、満54歳でした。
西郷頼母
ドラマではただ1人非戦恭順を唱え、藩から追放されました。もっとも白河の戦いにおいては軍事総督を任され、仙台藩と合わせて2500の大軍で700の薩摩軍に対峙しましたが、敢えなく敗北しました。貧弱な装備と戦術ミスが原因でした。追放された後北海道に渡り、榎本軍に参加しましたが戦いに敗れ、館林藩にお預けとなりました。
その後1880(明治13)年に日光東照宮の禰宜に迎えられました。
(禰宜とは宮司の補佐役)
藩主容保が宮司に就任したのと同時だったようです。容保が指名したのかもしれませんね。
70歳で会津若松に戻り明治36年に死去しました。享年74歳。
梶原平馬
会津戦争に先立って奥羽越列藩同盟成立のため奔走し、成立にこぎ着けました。その立役者です。
イギリスの外交官、アーネスト・サトウによると色白でかなりのイケメンだったそうです。
戦争後は妻(山川大蔵の長姉)を離縁し、北海道に渡りました。その後消息不明でしたが1988(昭和63)年、再婚した妻貞が根室の教育史に名をとどめていたことが発見されました。
貞は江戸から根室に赴任し、教職にありました。
平馬は文房具店を営んでいたそうですが、明治22年に永眠しました。享年47歳。
~続きます~