豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サリンジャー「フラニーとズーイ」

2024年06月19日 | 本と雑誌
 
 サリンジャー/鈴木武樹訳「フラニーとズーイ」(角川文庫、1969年)も断念。昔買ってあったので「ナイン・ストーリーズ」につづけて読みだしたのだが、読み進めることはできなかった。

 1969年に野崎孝訳で読んだ「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)は、ぼくの人生に影響を与えた10冊の本の中に入るだろう。同じ年に読んだマルタン・デュ・ガール/山内義雄訳「チボー家の人々(全11巻?)」(これも白水社だった)、樺美智子「人知れず微笑まん」(三一新書)も10傑に入るだろう。
 そう言えば、6月15日は樺さんの命日だった。2、3週間前のNHK「映像の世紀」(だったか?)で、60年安保闘争のドキュメントをやっていたが、その中で、樺さんの遺体が無造作に警察かどこかのベンチに布をかけて置かれている(一輪の花が添えられていたが)映像が写っていた。ショックだった。

 「ライ麦畑・・・」は良かったし、最近になって読んだサリンジャー選集(荒地出版社)の「若者たち」と「倒錯の森」に収められた初期の短編集、鈴木の分類に従えば「初期短編物語群」に分類される短編も良かったが、「グラス家物語」ないし「グラッドウォーラー・コーフィールド物語群」といわれるグループに含まれるらしい短編は、どうやらぼくには縁のない話ばかりのように思えてきた。ただし後者の中でも、「フランスの少年兵」「最後の休暇の最後の日」「マディソン街外れのささやかな反乱」など数編はよかった。
 しかし「フラニー」は最初の16頁で限界に達した。野崎訳(新潮文庫)だったらどうだろう・・・、とも思ったが、おそらく駄目だろう。せっかくなので、きょう病院の待ち時間の間に、巻末の武田勝彦解説だけを読んだ。そして、いよいよぼくには縁のない本に思えてきた。この解説は、ぼくのように、サタデー・イブニング・ポストに載るような小説のほうが面白いと思う凡人にとっては役に立ったが、まさにサリンジャーが自著に解説をつけることを拒絶する気持ちがわかるような解説だった。

 「ズーイ」などの作品は、初期の習作時代の作品に比べて、象徴主義、前衛的手法がまさってきているそうだ。ぼくは根が単純なので即物的なストーリーでないと理解できない。彼によれば “Newyorker” 誌は、大学教授などのインテリたちには軽く扱われているが、「都会的センスを求める知的大衆」にとっては「生活のバイブルである」そうだ。サリンジャーの解説で、よくぞ「知的大衆」などという言葉が使えたものである。
 「知的」ではない「大衆」の1人であるぼくにとっては「生活のバイブル」ではないが、ニューヨークの若者の生態を知ることができるところだけは確かに良かった。
 武田の解説で、「フラニー」の中には、マーティーニのオリーブの実は食べるべきか否かという会話が出てくるとあった。オリーブを添えたマーティーニは「ライ麦畑・・・」の中にも出てきた。いかにも美味そうな描写だったので、サラリーマンになってから行きつけのバーで注文したことがあった。不味かった。オリーブの実を食うか否か以前の問題である。何でアメリカ人はこんな不味い酒を有り難がるのか分からなかった。あまりに不味かったので、口直しにバイオレット・フィズを注文した。サントリーの各種カクテルがトリス・バーの棚に並べてあった時代である。

   

 実は、野崎孝訳「大工よ屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」(新潮文庫)を1週間ほど前に amazon で注文したのが先日届いた。しかし、これもだめだろう。到着と同時に未読書コーナー行きになってしまった。「1924年ハプワース16日」も持っていないが、どうせ読めないだろうから買わないでおこう。 
 サリンジャーは、1969年の「ライ麦畑・・・」と、2022~4年の「若者たち」と「倒錯の森」(荒地出版社)、そして先週の「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)で打ち止めにしよう。
 2021年の末頃に、娘の書いた「我が父サリンジャー」と、スラウェンスキー「サリンジャー」を近所の図書館で見つけて読んだときから始まったぼくの「サリンジャー復興」はどうやら終焉を迎えたようだ。

 2024年6月18日 記

M・J・サンデル「リベラリズムと正義の限界」

2024年06月17日 | 本と雑誌
 
 読書断念シリーズ第2弾!
 本の断捨離がなかなか進まないので、「未読書整理コーナー」を設けることにした。一定期間(1年間くらいか)このコーナーにおかれたまま放置された本は処分する(つもりである)。断捨離の執行猶予のようなものである。
 ルイス・ナイザー「私の法廷生活」に続く第2弾は、マイケル・J・サンデル/菊池理夫訳「リベラリズムと正義の限界(原書第2版)」(勁草書房、2009年)である。
 気になりつづけていたので、1か月ほど前に読み始めたが、残念ながら40頁ほどで挫折した。悪戦苦闘したのだが、時間の無駄と覚ったので、この先を読むのはやめる(諦める)ことにした。

 ローデル「正義論」「公正としての正義」に示されたリベラリズム論への反論の書である。かと言ってコミュニタリアニズムに同意するものでもないらしい。
 黒人の公民権を求めるキング牧師らのデモ行進は表現の自由の行使として認めるが、ホロコーストの生存者が多く住む町の中をネオ・ナチがデモ行進することは(そういう事件があったようだ)認めないという結論は、表現内容に対して中立の立場をとるリベラル派にとっても、コミュニティに優勢な価値にしたがって権利を定義するコミュニタリアンにとっても、原理的に不可能であるとサンデルはいう。
 前者(キング牧師の行進)を肯定し、後者(ネオナチの行進)を否定するという結論(それが常識にかなっている)はどのような原理によって可能か、というのがサンデルの出発点のようである(ⅻ頁)。この結論をリベラル派は支持するだろうが、その正当化はリベラル派がいう「正」「正義」論では不可能であるとサンデルはいう。

 ぼくは、キング牧師らのデモと、人種差別主義者のデモが等値関係にあるとは思えない。キング牧師のデモは整然としてシュプレヒコールすらなしに行われるのに対して(先日NHKテレビ「映像の世紀」でキング牧師の公民権デモ行進の映像を見た)、ネオナチのデモはユダヤ系の多く住む街で行われたという一事をとっただけでもキング牧師らのデモとは違いがある。仮定の事例としても、キング牧師のデモとネオナチのデモを等置して、前者は認め後者は否定する正当な論理は何かと問うこと自体に違和感を覚える。
 どうしても両者を等置したうえで、キング牧師らのデモを正当化し、ネオナチのデモを否定しろというなら、表現内容に踏み込んで、人種間の平等を目ざして黒人への公民権付与を唱えるデモは民主主義国家の理念に合致しているのに対して、人種間の差別や少数人種への憎悪や排除を唱えるデモは民主主義国家の理念に反するからと答えるだろう。こういう結論はコミュニタリアン的態度というのだろうか。
 それならそれでもぼくは構わない。リベラルかコミュニタリアンかが問題の本質とは思わない。

 しかし、法哲学の世界ではそんな簡単に結論づけることはできず、この結論に到達するには1冊の本が必要なようだ。
 法哲学の世界では、「正・正義(right)」対「善(good)」という対立項が根本にあるらしい。「正義」派の代表はカントで、現代におけるその主唱者がロールズらしい。したがって、ロールズの「無知のヴェール」(+無関心の傍観者)を論ずるためには、その前にカントを検討しなければならないらしい。
 しかし、カントも苦手だ。数十年前に天野貞祐訳「純粋理性批判」(講談社学術文庫、1979年。全5巻だったか?、いつの間にか手元からなくなってしまった)を買ったが、1巻の10ページも読まずに断念した。ぼくには縁のない本だった。
 学生の頃ゼミの飲み会で夜遅くなり、その一人を湘南電車の下り終電で平塚まで送って行ったところ、彼女のお父さんが泊っていきなさいと言ってくれたので、彼女の家に泊めてもらったことがあった。彼女の部屋の本棚に、カントの「純粋理性批判」(岩波文庫だった)が並んでいたので、手に取って見ると、最初の10数頁のところにしおりが挟んであって、その後は読んだ気配がなかった。カントに挑戦はしたものの、読み通すことはできなかった彼女をますます好きになった(またしても・・・)。

 それから50年が経って、今回はサンデルに挫折した。
 「正義の限界」に到達するはるか手前で、ぼく自身の「能力の限界」が来てしまった。
 20年前に、川本隆史「現代倫理学の冒険」(創文社、1995年、手元の本は2003年5刷)を読んで、納得した記憶がある。内容はほとんど忘れてしまったが、リベラリズムはあの本(の記憶)で良しとしよう。 

 2024年6月17日 記

ルイス・ナイザー「私の法廷生活」

2024年06月15日 | 本と雑誌
 
 ルイス・ナイザー/安部剛・河合伸一訳「私の法廷生活--弁護士の回想」(弘文堂、1964年)を読み始めたのは数週間前のこと。しかし第1章を読んだところでしばらく放置したままになっていたが、結局これ以上読み続けるのは断念することにした。

 第1章は名誉棄損事件、第2章は離婚事件を取りあげていて、テーマ自体に興味はあるのだが、残念ながら今のぼくにとってその内容は面白くなかった。臨場感というか、ダイナミックさがないのである。登場人物も知らない者が多い。自分が担当した裁判の訴訟記録か何かを読みかえしながら、書いているような印象を受けた。
 弁護側の証拠調べ手続に向けての証拠の収集、証人との打ち合わせなどの公判準備や、反対尋問の手法など、法廷技術に興味のある人なら参考になるだろうが、過去の裁判事件を興味本位で知りたいぼくにとっては期待外れだった。
 訳者は二人とも、アメリカ留学経験を持つ法律実務家だが、新刑事訴訟法を英米流に運用することを目ざして翻訳したのではないか。“Law and Tactics” なんてケースブック(全5巻だった)が出るくらい、英米では法廷技術をマスターすることが重要らしいから、本書のような有名弁護士による法廷の思い出話、自慢話も後輩弁護士たちに有用なのだろう。

 なぜか、この本の原書(といってもペーパーバック版)も持っていた(下の写真の左側)。
 Louis Nizer, “My Life in Court” (Pyramid Books, 1963)95¢ とある。東京泰文社のラベルが貼ってあった。懐かしい神保町の古書店である。今もあるのだろうか。もちろん読んでいない。その表紙の宣伝文句には「175万部を売り上げた」とある。

   

 ナイザーの本と一緒に、P. Packer et al. “The Massie Case--The Most Notorious Rape Case of the Century” (Bantam Books, 1966)というのも出てきた(上の右側)。同じく東京泰文社のラベルが貼ってあった。いずれもかなり汚れているが、1980年代まではアメリカ兵(?)が残していったような洋書がけっこう神田の古本屋にも並んでいた。
 “Massie Case” は1931年に(!)ハワイで起きた殺人事件である。海軍少尉の妻が、5人の原地人によって強姦されたと夫に訴えた。夫の少尉はそのうちの1人を拉致したうえで殺害したとして、妻の母親とともに起訴された。母親はセオドア・ローズヴェルトの親戚という社交界の名士であり、有名な弁護士クラレンス・ダロウ(C. Darrow)が2万5000ドルの報酬で弁護人となったこともあり、全米に一大センセーションを巻き起こした事件だったらしい。1963年にヒロイン(?)の Massie 夫人が薬物中毒で亡くなったのを機に執筆されたようだ。
 実際に強姦があったのかも争点となったようだが、なぜこのような事件をダロウが受任したのかも興味が湧く。表紙によれば、ダロウは被告らの弁護によって「ハワイの白人優越主義者たちの英雄になった」とある(ということは被告側が勝訴したのだろう)。著者は当時のハワイにおける白人優越主義をテーマにしているようで、「強姦と殺人と人種的偏見とが、楽園の島ハワイを暴力の噴火山に変えてしまった」という表紙の惹句に魅かれて4、50年前に買ったのだろうが、今となってはもう読む気力はない。
 これも永遠の未読書の1冊になるだろう。

 2024年6月15日 記

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

2024年06月13日 | 本と雑誌
 
 J・D・サリンジャー/野崎孝訳「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫、1974年)から、「小舟のほとりで」「エズミに捧ぐ--愛と汚辱のうちに」「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」「テディ」を読んだ。
 「ナイン・ストーリーズ」(1953年)は、それまでに発表した29編の短編の中から9編をサリンジャー自身が選んで、発表年代順に並べた唯一の短編集である(野崎解説による)。
 
 「ライ麦畑でつかまえて」に捉えられていた頃は、本書の冒頭の「バナナフィッシュに最良の日」とか「コネティカットのひょこひょこおじさん」などといった題名自体に強い拒否反応があって、読まないままでいた。それが50年の時を経て、昨年来から荒地出版社の「サリンジャー選集」に収録された短編を読んで以来、今度は「ライ麦畑・・・」とはまったく異質の「アメリカ戦後作家」としてのサリンジャーが気に入ってしまった。
 K・スラウェンスキーによる伝記「サリンジャーーー生涯91年の真実」(田中啓史訳、晶文社、2013年)を読んで、(1960~70年代には謎だった)サリンジャーの生涯に照らして彼の短編を読むことができるようになった。それによると、「ナイン・ストーリーズ」に発表年順に収められた9編の短編は、「小舟のほとりで」までの絶望期から、それ以降の間で変化を来たしているという(383頁)。20代の頃に読んだのは絶望期の作品で、今回読んだのは変化後(恢復期?)のものだったようだ。

 なお「ナイン・ストーリーズ」のうち、「バナナフィッシュ・・・」と「コネティカットの・・・」は、2年ほど前のぼくに訪れたサリンジャー再評価(ルネッサンス)時代に読んだのだが、やはり好きになれなかった。しかし、その折に「コネティカット・・・」が映画化されていたことを知った。
 映画「愚かなり我が心」(“My Foolish Heart”)である。この映画の脚色に懲りて(怒って)、サリンジャーはその後一切の映画化(や登場人物のイラスト)を拒絶したという。エリア・カザンによる「ライ麦畑・・・」の映画化など、見たかった気持ちもあるが、「理由なき反抗」と同工異曲のような映画になってしまったかもしれない。ニューヨーカーのホールデンをジェームス・ディーンが演じるわけにもいかないだろうし。この映画のテーマソングは良かった。

 今回読んだ中では「エズミに捧ぐ」が一番良かった。
 イギリス人少女エズミと主人公(サリンジャー?)との独特の会話は、おそらく上品なクイーンズ・イングリッシュとアメリカ英語で交されているのだろうけど、清水義範の「永遠のジャック&ベティ」を思い出した。7歳の少女があんな言葉を発するだろうかとは思うが、女の子の言語能力は恐ろしいばかりだから、あり得ないことではない。それよりも、ストーリーの展開と結末がよかった。やっぱりサリンジャーの短編小説はいいと思った。
 ノルマンディ上陸作戦の準備のために滞在したイギリス、デボンシャー州が舞台だが、サリンジャーは、ほんとうにエズミのような少女に出会ったのだろうか。なお、“Esme”(e はアクサンテギュつき)はエズメではないのか(他の訳ではエズメになっている)。江角マキコの面影がちらついた。

 「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」は読める。
 例によって、喫煙シーンの頻出には参ったが、ストーリーは面白い。モントリオールに通信制の絵画学校があったとは(本当にあったのか?)。 
 「テディ」は苦手。
 戦争後遺症(PTSD)に悩む戦後のサリンジャーは、(スラウェンスキー「サリンジャー」だったかによれば)新興宗教や飲尿にまで依存したということだったが、「テディ」は未消化というか、その実体験が小説にまで昇華されていない印象。エズミの会話は素直に聞くことができたのだが、テディの饒舌は受け容れがたかった。年をとったせいか・・・。

 「小舟のほとりで」も良かったのだが、「良かった」では済まされない衝撃作。
 とくに結末のライオネル少年の言葉に衝撃を受けた。冒頭の黒人と思われるメイド同士の会話が(あの会話は野崎の翻訳文法に従えば黒人同士の会話だろう)、あのような結末の伏線だったとは。しかも、それを子どもっぽい「凧」との混同で韜晦するあたりに、かえってライオネルの心の傷の深さを感じた。
 荒地出版社の「サリンジャー選集(3) 倒錯の森」の解説(大竹勝)によれば、「小舟のほとりで」はサリンジャーがユダヤ人問題を扱った唯一の小説だという(165頁)。主人公がユダヤ系であることはいくつかの作品の背景でも描かれているが、たしかに「小舟のほとりで」のように直截に扱った作品はなかったかもしれない。
 ライオネルのくり返される「家出」の話題を煩わしく思いながら読んでいたのだが、それだけにその「家出」の理由が分かった時は衝撃だった。

 2024年6月13日 記

 ※ 気になったので、未読だった「対エスキモー戦争の前夜」、「笑い男」、「愛らしき口もと目は緑」も義務的に読んだ。
 「対エスキモー・・・」はつまらなかったが、1940年代のニューヨークの中流階級の若者の生態の一端を伺うことはできた。「笑い男」はよかった。1920年代末のニューヨークを舞台にした野球少年たちと若い監督(ニューヨーク大学法科の学生)の交流の物語である。ストーリー展開のテンポがいい。サリンジャーのテンポなのか、野崎孝の訳文のテンポなのかは分からないが、おそらく野崎の訳文のテンポがサリンジャーの英文をよく表しているのだろう。ジャイアンツが当時は「ニューヨーク・ジャイアンツ」だったことを知った。「ブルックリン・ドジャース」だったことは知っていたが、ぼくが物心ついた頃にはもう「サンフランシスコ・ジャイアンツ」だった。「愛らしき口もと・・・」もダメだった。
 以下に各編の初出年と初出誌を書いておく。スラウェンスキー「サリンジャー」の年譜による。
 「バナナフィッシュにうってつけの日」ニューヨーカー1948年1月31日号
 「コネティカットのひょこひょこおじさん」同誌3月20日号
 「対エスキモー戦争の前夜」同誌6月5日号
 「笑い男」同誌1949年3月19日号
 「小舟のほとりで」ハーパーズ誌4月号
 「エズミに捧ぐ」ニューヨーカー誌1950年4月8日号(O・ヘンリー賞受賞)
 「愛らしき口もと目は緑」同誌1951年7月14日号
 ※「ライ麦畑でつかまえて」刊行1951年7月16日リトルブラウン
 「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」ワールド・レビュー誌(イギリス)1952年5月号
 「テディ」ニューヨーカー誌1953年1月31日号 
 サリンジャー公認の短編集は本書だけだというが、サリンジャーの初期の短編小説(未公認の短編集「若者たち」や「倒錯の森」に収録されている)の中には「ナイン・ストーリーズ」に収録されたものより良いものがいくつもあると思う。本書の取捨の基準は何だったのか。

 2024年6月13日 追記

「アイリッシュ短編集 1、3」(創元推理文庫)

2024年05月30日 | 本と雑誌
 
 ウィリアム・アイリッシュ「さらばニューヨーク」(晶文社)を読んでから、この本に収録された短編は、その昔に読んだ「アイリッシュ短編集」に収録された短編と重複しているのではないかと疑念が生じ、持っている「アイリッシュ短編集・1」(宇野利泰訳、創元推理文庫、1972年)と、「同・3」(村上博基訳、同文庫、1973年)を開いてみた。
 「アイリッシュ短編集・1」、「同・3」の収録作品には、「さらばニューヨーク」に収録された短編との重複は1つもなかった。

 「アイリッシュ短編集・1」は、 “After-dinner Story -- and Other Stories” という短編集の邦訳で(アメリカでそういう書名の短編集が出ていたのかは分からないが、創元推理文庫版の表紙と扉にはそう書いてある)、巻末に厚木淳による詳しい解説がついている。
 厚木によれば、1940年代の推理小説は、アイリッシュ=サスペンス派、チャンドラー=ハードボイルド派、アンブラー=エスピオナージュ派が鼎立した時代だったという。アイリッシュは純粋な推理小説ではなく、ホレーショ・ウォルポールらゴシック・ロマンの影響を受けた作家であるという評論家があったらしいが、これに対して厚木は、たしかにその傾向はあるがアイリッシュはゴシックロマンの手法を現代推理小説に導入した作家であると反論している。
 さらに、長編、短編ともに成功した作家として、フレデリック・ブラウンとアイリッシュをあげ、ウィットとユーモアではブラウンがまさり、サスペンスではアイリッシュがまさると評している。残念ながら、ぼくは、アンブラーとブラウンは1つも読んだことがない。
 ※ 息子が学生時代の英文学史の講義で、ウォルポール「オルトラン城」についての報告を割り当てられ、文献探しを手伝ったことがあった。当時はウォルポールの何たるかを知らなかったので、なんでこんなマイナーな作家を割り当てられたのかと訝しく不満に思ったのだが、歴史に残る大作家だったのだ。しかもわが愛したアイリッシュに影響を与えた作家だったとは。

 「短編集・1」の目次には各短編に対するぼくの採点が記してあった(教師根性?)。
 「晩餐会後の物語」78点、「遺贈」65点、「階下で待ってて」60点、「金髪ごろし」68点、「射的の名手」採点なし(読んでないか?)、「三文作家」97点、丸印つき、「盛装した死体」70点、「ヨシワラ殺人事件」採点なし。
 けっこう厳しい採点だが、おそらく「黒いカーテン」「幻の女」「黒衣の花嫁」などの長編で好きになったアイリッシュに対する期待値が高かったのだろう。なお、厚木の解説には、収録作品の原題は載っているが初出の年度が書いていないので、アイリッシュの成長過程を知ることはできない。
 最終ページに「1976・8・24(火)夕刻、軽井沢旧道 三芳屋にて購入。1976・8・29(日)平年より5℃低い」と書き込みがあった。24日に買って、29日に読み終えたのだろう。

   

 「アイリッシュ短編集・3」は “Somebody on the Phone -- and Other Stories” というのの邦訳のようで、「裏窓」(“It Had to Be Murder” 後に “Rear Window” と改題、1942年初出)ほか、9編が収録されている。
 こちらには、各短編の採点は書いてないが、表紙と扉頁の間に映画の新聞広告が挟んであった(上の写真。日付けは不明だが、映画の公開日からして1984年1月下旬ころだろう)。「1983年10月ロス、ニューヨークで巻き起こったヒッチコック・ブームはロンドンをも巻き込み、いよいよ日本に上陸する」という惹句がついているが、そんなブームがあったのか!
 ヒチコックのサスペンス映画3本の連続上演の予告だが(映画館の名前も懐かしい)、「裏窓」がアイリッシュ原作作品の映画化なので挟んだのだろう。3作ともジェームス・ステュアートが主演で、共演女優は「裏窓」がグレース・ケリー、「知りすぎていた男」がドリス・デイ、「めまい」がキム・ノヴァクである。そう言えば、「さらばニューヨーク」に収録された短編のどれかにドリス・デイの名前が出ていたと思う。
 「短編集・3」には解説はないが、巻末に、各編の原題名(改題名)、初出誌名、初出年度が載っている。「裏窓」だけが1942年の発表で、それ以外はすべて1935~39年の作品である。

 なお、「アイリッシュ短編集・2」は持っていない。
 ※ 創元推理文庫からは「アイリッシュ短編集」が全部で6巻刊行されたらしい。後の方の巻には「さらばニューヨーク」なども収録されているから、稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社)収録作品との重複もあるのだろう。

 2024年5月30日 記

W・アイリッシュ「さらばニューヨーク」

2024年05月29日 | 本と雑誌
 
 ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社、1976年)を読んだ。

 アイリッシュを読むのは何年ぶりだろうか。最後に読んでから20年以上は経っているはずである。
 先日、ふとこの本が目にとまって、何気なく読み始めたのである。懐かしいアイリッシュ節(?)を味わうことができた。
 ※宇野利泰訳「アイリッシュ短編集・1」(創元推理文庫)巻末の解説を見たら、解説者の厚木淳が、アイリッシュを評して「強烈なサスペンスと少々美文調の文体によるアイリッシュ節ともいうべき特異な持ち味」と書いているのを発見した。「アイリッシュ節」には強調の傍点が振ってある。

 何気ない日常のようでいてどこか不穏な雰囲気の漂う冒頭部分(スティーヴン・キング風?)、心理的に(時には物理的にも)スリリングな展開の中間部分、そして意表をつくアイロニカルな結末部分というアイリッシュの公式に従った短編が8話収められている。
 巻頭の「セントルイス・ブルース」は一番良かった。この歌を口ずさむ殺人犯の息子と、息子を庇う盲目の母との交情。稲葉解説によって、アイリッシュと母親の関係を知ったうえで読むとよいかも。
 「靴」は、ドライザー「アメリカの悲劇」のような趣向(どちらが先か?)で、中間部分は悪くはなかったが、結末が微妙。最後はないほうがよかった。
 「抜け穴」は、アイリッシュとしては失敗作の部類だろう。「ぎろちん」も、いまいち。舞台がフランスというのも破調を来たしている。死刑執行吏が執行日に死亡した場合には死刑囚は特赦によって解放されるという慣習は本当のことだろうか。ギロチンの刃の部分は執行吏が自宅においてあって執行の日に自分で刑場に持参するというのも本当なのか。「ワイルド・ビル・ヒカップ」は、そもそも題名の意味が何だったかも忘れてしまったほどの駄作。
 「青いリボン」はまずまず。一度は引退したボクサーが再起を期した試合で終盤まで劣勢にあるのだが、観客の中に「青いリボン」の女性を見た(ような気がして)一気に逆転勝利する。しかし、その女性が本当にそこにいたのかどうかは分からない、「幻の女」だった・・・。「青いリボン」が何かは冒頭で語られる。
 そして、本書の題名にも選ばれた「さらば、ニューヨーク」。アイリッシュの水準作といえようか。ストーリーは明かさないでおくが、ニューヨークのダウンタウン風景、街角の新聞売り、地下鉄の切符売り場、改札口の入り方などの細部が描かれていて、一時代前のニューヨークを知る人にはたまらなく懐かしいだろう。

 巻末の稲葉解説によると、アイリッシュこと本名コーネル・ウールリッチは、1903年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学卒業直後に病いを得たが、恢復期に書いた小説が雑誌に掲載され、原稿料をもらったのを契機に職業作家の道に進んだ。1940年の「黒衣の花嫁」でブレイクし、1942年の「幻の女」、1944年の「暁の死線」とヒット作を連発したが(江戸川乱歩はこの3作をアイリッシュの代表作と見た)、実は1920、30年代から習作をパルプ・マガジンに数多く発表していたという。
 アイリッシュは、生涯独身で、ロマンスの話題すらなく、(シングルマザーだった)母と一緒にホテル住まいをしており、亡くなった際にもわずかな知人しか葬儀に参列しなかったという。稲葉によれば、友人の作家がアイリッシュの母は死ぬまでアイリッシュの首を絞め続けたと非難したという。1957年にその母が83歳で亡くなり、アイリッシュは1968年に64歳で亡くなっている。
 病気がちで寂しい人生だったと思っていたが、実際には作品が多数映画化されるなどしたため巨万の富を残しており、その遺産を若手作家の育成目的のためにコロンビア大学に寄付したという。このエピソードを知って、少し救われた気になった。

 2024年5月29日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その7(補遺)

2024年05月23日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴(その1~6)の落穂ひろい。探偵小説が並んでいる本棚の写真を中心に。

 ぼくにとって最初の探偵小説は、岩波少年文庫で読んだ E・ケストナー/小松太郎訳「エミールと探偵たち」だった(上の写真)。
 つづいて、同じく岩波少年文庫の A・リンドグレーン/尾崎義訳「名探偵カッレくん」のシリーズ(といっても3冊)。
   

 中学校の図書館で見つけた、あかね書房「少年少女世界推理文学全集」の W・アイリッシュ/福島正実訳「恐怖の黒いカーテン」は、扉に挟んであった黒いパラフィン紙とともに思い出に残っている。あかね書房版は持っていないが、創元推理文庫版は持っている。アイリッシュ/亀山龍樹訳「黒衣の花嫁」(文研出版、1977年)、同/稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社、1976年)という単行本も見つかった。1976~7年頃は、まだアイリッシュに関心があったのだ。
   

 旺文社の「中学時代3年生」か、学研の「高校コース1年生」の付録についていた「赤毛のレッドメインズ」の要約版を読んだのをきっかけに、E・フィルポッツ「赤毛のレッドメイン家」(創元推理文庫)を読んだ。高1の時の担任の先生が、読んだ本の感想を書いた「読書ノート」を毎週提出させていたが、スタインベックなどの他に、「赤毛の~」の感想文を書いた記憶がある。中身は忘れた。
 この頃から文庫本で探偵小説を読むようになったと思う。
 ドイル、クリスティー、クイーン「Yの悲劇」、カー「火刑法廷」、ダイン「僧正殺人事件」、ノックス「陸橋殺人事件」などから、ガードナー「ペリー・メイスン」、チャンドラー、カトリーヌ・アルレー、セバスチャン・ジャプリゾなども読んだようだが、2冊以上読む気になった作家はあまりなかった。「本格」とか「謎解き」といったジャンルは好きになれなかった。

 ぼくは中学、高校の通学のバスの中ではいつも文庫本を読んでいた。毎日片道30分、往復で1時間である。揺れるバスの中で、よくそんな読書ができたと思う。サラリーマンになって以降も、出歩くときはいつも鞄の中に本を持って出かけた。一度中央線に乗っていた時に停電か人身事故で、国分寺・小金井間で1時間以上車内に閉じ込められたことがあった。たまたまその時は本を持っていなかったので、活字の禁断症状が出た。
 文春文庫か新潮文庫がビル・プロンジーニとコリン・ウィルコックスを派手に宣伝していたので、「容疑者は雨に消える」とか「依頼人は三度襲われる」といった題名につられて読んだが(「失踪当時の服装は」や「事件当夜は雨」といった題名が好きだったので)、ちっとも面白くなかった。これを契機に探偵小説から足が遠のいた。

   
   

 探偵小説を読み始めた最初のうちは創元推理文庫が多かったが、そのうちに早川書房の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」(HPM)で、87分署シリーズや、ファン・デル・ベルク警部(「雨の国の王者」)、ギデオン警部などを読むようになった。シムノンやボワロ = ナルスジャックも HPM で何冊か読んだ。新書版サイズで、勝呂忠装丁の表紙の本を持ち歩くことがお洒落だと思っていた。
 角川書店や早川書房の単行本も何冊も買ったが、定年退職後にかなり断捨離してしまった。ジョゼフ・ウォンボー・村上博基訳「オニオン・フィールド」(早川書房、1975年)と、フレデリック・フォーサイス/篠原慎訳「オデッサ・ファイル」(角川書店、1975年)だけが残っていた。何か捨てがたい気持があったのか・・・。

   
        

 角川書店から出ていたマイ・シューバル、ペール・ヴァ―ルー夫妻の「マルティン・ベック警部シリーズ」は文庫本と単行本で10冊すべて読んだ。第6作の「サボイ・ホテルの殺人」には「1976・4・30 am 0:40 Good !」と書き込みがあり、第9作の「警官殺し」には「1979・3・25(日)pm 6:25 冗漫」と書き込みがあった。 ちょうど飽きが来た頃に、ほどよくシリーズも終わったようだ。
   
   

 河出書房から長島良三の企画で「メグレ警部」シリーズが出た時は、最初の20冊はすべて読んだ。それが全24巻になり、全30巻になり、最後は全50巻になったのだろうか。フランス人(ベルギー人?)なのにワインを飲まずにビールを飲み、サンドイッチを食べて、パイプをくゆらすメグレは好きな探偵だし、事件の描き方もよいが、30冊、50冊も読むほどではない。
   

 犯罪実話もの、クライム・ノベルは、いまだに興味が続いている。
 オカルトものも含めて、コリン・ウィルソンにはまっていた時期もあった。ウィルソンのテレパシー実在説を信じて、吉祥寺の東急通りで、数メートル先を歩いていた成蹊の女子高生の後ろ姿に向かって念力を送ったところ、彼女が振り向いたことがあった。信ずれば通ずる。
 切り裂きジャックもの(?)については前にも書いたが、ドナルド・ランベロー/宮祐二訳「十人の切裂きジャック」(草思社、1980年)という本も出てきた。この本の中に、通称「ヨークシャー・リッパ―」という1970年代にイギリス、ヨークシャー州で13人の女性を殺した連続殺人犯に関する新聞記事が何枚か挟んであった。犯人はリーズ近辺で犯行を繰り返し、最後は何とシェフィールドで逮捕されたのだった。
 現在、BSテレビ 560ch のミステリー・チャンネルで、この実在の事件をモデルにした「ヨークシャー連続殺人事件」を放映している。

   
 
 小津安二郎や西部劇などの映画でも、その他何でも解説本を読まないと身につかないというか、海馬の中の収まるべき場所に収まらない習性がぼくにはある。探偵小説についても、江戸川乱歩「幻影城」や松本清張、有馬頼義らの探偵(推理)小説論を何冊も読んだ。
 以下はその一部だが、シャーロキアン、リッパロロジスト(?)を目ざすほどにのめり込む気質は持ち合わせていなかった。

   
   

 昨日からは、懐かしさもあってアイリッシュの「さらばニューヨーク」を読んでいる。
 結局1960~70年頃から今日まで、数十年にわたって興味が持続したのは、メグレ警部などの警察ものと、ヨークシャー・リッパ―などの犯罪実話もの(クライム・ノベル)だけだった。
 最近は探偵小説だけでなく小説も読んでみたいという気になる作品が見当たらず、ほとんど読まなくなってしまった。「事実は小説より奇なり」で、小説やドラマの「作り物」ぽさがそらぞらしくて、テレビ番組も「映像の世紀」などのドキュメントや、ニュースばかり見ている。
 わずかにテレビドラマでは、ミステリー・チャンネル(BS 560ch)などで放送している「フロスト」「モース」「ダルグリッシュ」「ルイス」「ジョージ・ジェントリー」「ヴェラ」などなど、警察ものばかり見ている。ほとんどすべて見てしまったので、いよいよ最近は見るものがなくなりつつある。

 2024年5月23日 記   
 

三宅正太郎「法律 女の一生」

2024年05月15日 | 本と雑誌
 
 三宅正太郎「法律 女の一生」(中央公論社、昭和9年、婦人公論11月号付録)を読んだ。

 「日本の弁護士」の海野普吉のページを撮影するために、ページを押さえておくだけの目的で書棚から引っぱり出してきたのだが、読んでみると面白いことも書いてあったので、ほぼ全ページを読んでしまった。
 女性の一生の人生行路(ライフ・ステージ)にしたがって、各ステージで遭遇するであろう法律問題を取り上げるという形式を期待したが、残念ながらそうではなく、多少は女性の立場に配慮しながら、法と裁判を概説した法律入門書といったほうがふさわしい。婦人公論編集部と三宅は、女性だからといって特別な法律入門があるわけではなく、女性であっても明治憲法、明治民法下の法律問題について基礎知識を持っていてほしいと思ったのだろう。
 全体は11章からなっている。「結婚と離婚」「親と子」「借地借家人の法律」「証書と証券」「遺言と相続」「戸籍・寄留」「検挙の手続」「刑事裁判」「損害賠償」「保証と抵当」「法律の将来」および(民法を主とした法令集)からなる。「借地借家」と「証書、証券」はスルー。
 なお、「婦人公論の読者方へ」と題した穂積重遠の前書きがついている。私生子保護のために、当時は認められていなかった死後認知の立法の必要などを説いている(死後認知は戦争遺児(胎児)救済のため昭和17年に立法化された)。

 「結婚と離婚」では、婚姻の成立要件、婚姻の法的効果、離婚の要件などが簡単に紹介される。イトコ婚の例として鳩山一郎氏の令嬢と鳩山秀夫氏の令息の結婚が紹介されている。当時そんなことがあったのだ。いわゆる「男子(夫)の貞操義務」を認めた判例の紹介もあるが、当該事案で損害賠償を命じられたのは夫ではなく、不倫相手の女性だった。
 「親と子」では、法的親子関係の種別を概説した後に、私生子(婚外子)問題を検討する。三宅は、私生子の保護をいう一方で、ドイツ1919年憲法の「婚姻は家族生活及び民族の保持並びに増殖の基礎なるを以って憲法の特別の保護を受く」を援用して、婚姻の保護との調整の必要を指摘する。その調整策として、三宅は、婚姻家庭の主婦の処置、すなわち、妻が夫の過ちを許して、夫がその私生子を認知することを認めるか否かに委ねることを提案する。
 私生子を妊娠した女性(西荻窪のカフェ女給とある)が将来を悲観して、(杉並区)上荻窪730番先の中央線踏切で(神明中学校のすぐ近くではないか!)自殺した事件の記事を紹介しておきながら(38頁)、ずいぶん微温湯的な提案ではないか。
 「春の驟雨」という洋画の紹介もある。私生子(娘)を産んが女性がその娘を養育院に奪われ、旅路の果てに命を落として天に召されるが、天国からわが子を見守り、救いの手を差し伸べる。娘が悪い男にだまされそうなまさにその瞬間に、雨を降らせて娘を危機から守るというのだが、その雨が「春の驟雨」だそうだ。映画「ゴースト」のようなストーリーである。

 「戸籍・寄留」は、居住の自由によって戸籍(本籍)と現住所が異なる人間が増えたことによる不便を回避するために、大正3年に制定された寄留法の届出励行を促す。現在では住民票を移すことによって解決される問題である。ぼくも先祖の戸籍を見ながら、寄留地と紐づけされていたら先祖が実際に生活していた土地に近づくことができるのに、と思った。
 戸籍の名の変更に関しては、「山本権兵衛」にあやかって「権兵衛」と命名された子は迷惑をこうむるだろうとある。昭和初期でも「権兵衛」は古めかしい名前だったのだ。シーメンス事件にかかわったのは山本だったか・・・。戦後にも、「角栄」と命名された「田中角栄」くんが、ロッキード事件後に名の変更を申し立てて認められた審判例があった。

 「女の一生」と銘うっているのだから、「検挙、刑事裁判」では女性独自の犯罪を取りあげればよいのにと思ったが、紹介されたのはすべて男の事件である。
 「焼鳥食い逃げ事件」などは悲惨である。親戚に貸した1000円を回収してそれを元手に仕事を始めようと上京した兄弟が、貸した金を返してもらうことができないまま生活に困窮し、目黒区上目黒7丁目の目黒川にかかる東山橋近くの露店の焼鳥店で焼き鳥40串、代金80銭を食い逃げし、追手に捕まった兄は、懐中に用意してあった短刀で自刃したという事件である。不憫に思った警察は弟は訓戒のみで放免したという。
 家族制度の時代に、こんな非情な「親戚」もいたのだ。春になると桜の花見で賑わうあの目黒川の東山橋(あの橋だろうか?)近くで、昭和の初めにこんな悲しい事件があったとは!

 「損害賠償」のうち、義務(債務)不履行による損害賠償の例として、婚姻予約不履行(当時は「貞操蹂躙の訴え」と言われていたらしい)が取り上げられる。
 大正4年の大審院判決までは、婚姻予約の不履行は一切法律上の保護を受けられなかったが、同年の判例変更によって不当な婚約破棄に対して損害賠償の請求ができるようになった。婚約不履行事件153件中、男性が訴えた事件は11件、女性が訴えた事件は142件、うち、同棲前の女性からの訴えが1件、同棲後の女性からの訴えが141件である。
 「婚姻予約不履行」といいながら、実際には同棲開始以後(婚姻届出前)の内縁関係ないし足入れ婚(試し婚)的な関係を不当に破棄された女性からの訴えが圧倒的に多いことが分かる。純粋な婚約(同棲前の婚約関係)の不当破棄の事案は実際にはもっとあったと思うが、「疵物」視されることを恐れて提訴を躊躇する女性も多かっただろう。
 賠償額は、同棲前の女性が原告の場合は、100円以下が1件、100円台が3件、200円台が10件、300円台が23件、同棲後の女性の場合は、500円台が43件、1000円台が19件、1500円台が7件、2000円台が5件、3000円台が2件となっている(166頁)。当時の物価に比べて高額だったように見える。訴えられた男は金持ちが多かったのだろう。「無い袖は振れぬ」だから、貧しい男を訴えても仕方ない。

 不法行為による損害賠償としては自動車事故を取り上げる。
 昭和3年(1928年)当時、わが国の自動車保有台数は約7万台のところ、同年の自動車事故件数は2万7000件、死者617人、負傷者1万9500人とある。自動車3台につき1台以上が事故を起しており、3・5台につき1件の負傷事故を起こしている。驚くべき高い数字ではないか。ちなみに、鉄道事故は8008件、死者2602人、負傷者3119人とある。
  
 「保証」では、保証人になるくらいなら現金を渡して(その人間と)縁を切れと書いて、絶対に保証人になってはいけない、保証は怖いということを諭している。
 最終章の「法律の将来」において、三宅は、明治維新以来わが国はヨーロッパの法律を模倣して、法文至上主義、概念法学の道を歩んできたが、大正デモクラシーの風潮のもとヨーロッパの自由法思想を受け入れ自由主義的法律学が広まったが(借地借家法、調停制度、陪審制、社会法、判例研究など)、最近はそれへの反動から国家主義的ないし唯心論的な議論が起こっている。
 「わが国の法律学はこれまでの自由主義的な明朗さを持ちつづけると同時に、・・・日本の社会のいいところを更に輝かすべき方向に進むべきものと考えております」と結ばれる。東京地方裁判所所長の言葉として、これ以上を期待するのは望蜀の嘆というべきか。

 きょうのNHK大相撲中継で、昭和生まれの幕内力士は3人しかいないと言っていた。昭和も遠くなったのだ。三宅の本書によって、昭和戦前期の日本社会の一端を「法律と裁判」という偏光鏡で眺めた気分になった。

 2024年5月15日 記

アラン・マクファーレン『イギリス個人主義の起源』

2024年04月05日 | 本と雑誌
 
 アラン・マクファーレン/酒田利夫訳『イギリス個人主義の起源--家族・財産・社会変化』(リブロポート、1990年)を読んだ。
 100頁の余白に「'93・9・8」と書き込みがある。20年前にはここで断念したのだろう。

 イギリスの13世紀以降の中世史がテーマで、中世イングランドにおける「小農」(ペザント peasant とルビ)社会は、通説よりも早く13世紀にはすでに消滅していたという主張のようである。イングランドの土地所有の法概念も分からないし、イングランドの地理に関する基本的な知識すらないので、読み進めるのは難渋を極めた。1日に10ページくらいしか進まない日もあり、途中で旅行に行ったりしたので、3週間近くかかったがとにかく読み終えた。字面を追っただけに近い個所も少なくない。
 ※という訳で、以下の記述は正確な要約ではなく、適切な批評でない可能性がある。あくまでも「個人の感想」である。

 ロビン・フォックスの「生殖と世代継承」(法大出版局)は、近代史における「個人主義」の発展という図式および現実の動向に疑問を提示し、「親族」の復権を唱えるものであった(と読んだ)が、今回のマクファーレンは反対に(一昔前の学生だったら「真逆に」というだろう)、イングランドにおける「個人主義」は、他の北欧(西欧)諸国よりもかなり早く、13世紀にはすでに成立していたと主張する。
 主張のメインストリームは、13世紀頃のイングランドは「小農」社会であったという通説を否定し、その当時からすでにイングランドにおける土地所有の主体は「家族」ではなく「個人」であったということに向けられる。

 著者によれば、「小農」社会は「特定の個人に帰属する絶対的な所有が欠如していること」が主要な特徴であり、財産保有の単位は永続的な「団体」であり、個人はこの団体に属して労働を提供するが、個人が家族財産の持分を売却することはできず、息子をもつ父親は(窮乏した場合以外は)土地を売却することができないし、女性は個人的・排他的な財産権をもつことはないという社会である(131頁)。
 マルクスは、中世イングランドにおいては、ノルマン征服(1066年)以降「家族制的生産様式」による「小農」社会が存続し、15世紀後半に至って土地保有上の革命が起って、「私有財産」が成立し、貨幣地代、無産労働者の発生を伴う「資本的生産様式」への移行が始まったとした。
 ウェーバーも、小農者が土地から解放され、土地が小農層から解放されることによって、16世紀に自由な労働市場が成立し、無限の営利追求を特徴とする資本主義が成立したとする。イングランドは17世紀までには貨幣地代に依存する貴族社会となったが、その理由として、イングランドが島国であり、大規模な陸軍が不要だったこと、ノルマン征服後に中央集権国家が成立し、合法的な法と市場が発展したことを挙げる(66~80頁)。

 これに対して、著者は、イングランドにおいては、すでに13世紀には、大多数の庶民は、親族関係、社会生活において自由な個人主義者となっており、居住地域や職業などに関して社会流動性(移動の可能性)をもち、土地を含む自由な市場を志向する合理的で、自己中心的な存在になっていたという(268頁)。
 彼が自説の論拠として提出するのは、土地売買証書や、マナ(荘園)裁判所判決、人頭税徴税簿、教会簿冊など社会史の文献に頻出する古文書や、それらに基づいて統計的、人口学的分析を行った先行研究である。イングランドにおける土地所有や利用制度の変遷にまったく不案内であるだけでなく、イングランドの地名やその地方の特性もよく分からないので、著者が援用する土地の売買や土地利用の記録がその地方の特殊事情によるのか、イングランドに一般的な現象なのかを想像することすらできない。

 13世紀頃から、「家族の土地」という感情をもたずに土地を売却する者がいて、それに伴って所生の土地(故郷)を離れて他郷に移動する者たちが存在したことを示す記録が少なからず残っていることは理解できたが、それが当時のイングランドで普遍的な現象だったのか、特殊な事例だったのかは理解できなかった。さらに「小農」社会の早期の消滅が、その反面において「個人主義」の成立をもたらしたという因果関係も理解できなかった。13世紀から、祖先の土地に縛られない独立覇気のイングランド人が生まれ始めたというくらいのことなら了解できるが、それを「個人主義の起源」とまで言えるのか。

 いずれにしても、あくまでイングランドの13世紀の話であって、日本における「個人主義」の誕生(もし生まれていたとして)に裨益する知見はない(少ない)ように思う。
 個人的なことだが、ぼくの父方の曽祖父(祖父の父。武士階層の出ではなく、維新後の職業も不詳だが、陶工だった可能性が濃厚)が明治初年に居住していた佐賀の本籍地には、150年後の現在でも子孫(祖父の長兄の末娘の子の未亡人)が住んでいるが(末子相続?)、父方のもう1人の曽祖父(祖母の父)は彦根藩の下級武士だったが、祖先が幕藩時代から住んでいて、維新後には曽祖父も住んでいたはずの本籍地の(土地および)住居はすでに人手に渡っているようだった。
 明治民法の家族法では、祖先から子孫へと未来永劫続くべき「家」(団体)が基本とされ、「家」に属する家族が居住する家屋や家族の生計を維持する田畑などは本来は「家」団体に属する財産(「家産」)だが、法形式上は戸主の個人財産とされた。現在では日本の全土地のうち、九州の総面積に匹敵する土地が所有者不明になっているというのだから、明治民法の時代に戸主が独断で(あるいは家族の了解のもとに)譲渡した土地や、150年のうちに誰も居住しなくなってしまった土地も少なくないだろう。
 マクファーレンのような手法で、明治・大正・昭和前期の日本の土地売買の社会史を記述した本はあるのだろうか。

 ブラクトン、メイン、ブラックストン、メイトランド、プラクネットその他、法律の世界でも名前の知れた学者も何人か登場する。中大出版部や東大出版会、創文社などから出ていた彼らの本(邦訳)の何冊かを持っていたが、退職の際にすべて後輩の研究者にあげてしまった。惜しいことをしたとも思うが、ぼくの手元にあったとしても大した役には立たなかっただろう。ぼくが死蔵してしまうよりも、後輩のほうが少しは役に立ててくれるだろうと思って諦めることにする。
 退職前には、定年後にどんな人生が待っていて、どんなことに関心を抱くか、自分自身でも分からなかった。

 2024年4月5日 記

鳥山明「ドラゴンボール」

2024年03月10日 | 本と雑誌
 
 「ドラゴンボール」の漫画家鳥山明が3月1日に亡くなったと、8日のニュースが報じた。
 漫画やアニメには疎いので、「ドラゴンボール」や「Dr.スランプ」「アラレちゃん」やその作者の鳥山明という名前には聞き覚えがあったが、作者のことや作品の中身はほとんど知らなかった。
 3月8日のテレビ・ニュースでは、中国外交部の報道官までもが追悼の言葉を述べているのを見てびっくりした。いつもは厳しい顔をして日本政府の言動を批判しているあの女性が、である。

 「ドラゴンボール」も「アラレちゃん」も、息子たちがテレビで見ていたので、一緒に見たことがあった。
 ぼくの記憶に残っているのは、「ドラゴンボール」の第1回だったかで、悟空がカメ仙人に弟子入りするために貢ぎ物としてエロ本を持参したところ、カメ仙人が鼻血を出して喜んで即入門が認められたシーンと(笑)、アラレちゃんが三輪車に乗った刈上げの女の子のうなじに犬の糞に突き刺した割り箸をなすりつけるシーンだけである。
 中国外交部がコメントを出すほどの、そんな世界中に影響を与えた大漫画家だとは、(申し訳ないことに)つゆ知らなかった。

 わが家には「ドラゴンボール」や「アラレちゃん」の漫画本は1冊もない。ぼくが買ってやらなかったからだろう。
 漫画本はないが、わが家には「ドラゴンボール」にまつわる物品が一つだけある。それは「ドラゴンボール」に出てくる人物のフィギュアである。「BULMA」というネーム・プレートを胸につけているから「ブルマ」という名前なのだろう。息子が、近所の西友OZ大泉店前の広場で開かれた催し物のUFOキャッチャー風のゲームで釣り上げたものである。
 西友OZの隣りは「ドラゴンボール」のアニメを制作した東映動画だったし、こんな景品が当たったことからすると、東映動画主催の催し物だったかもしれない。ほかのフィギュアに比べてかなり大きかったので、周りで見ていた子どもたちが羨ましそうな顔をしていた。
 それから30年以上、息子たちの使っていた洋服ダンスの奥にしまい込んだままだったが、今回の訃報に接してひっぱり出してきて、ぼくの本棚に飾ってやった(上の写真)。
 
 実はもう1つ、息子が中国留学中に買って持ち帰った「ドラゴンボール」の中国語版が1冊あったのだが、見つからない。そんな大漫画家だとは思っていなかったので、放ったらかしているうちに見つからなくなってしまった。 
 「クリリン」という登場人物がいたが、悟空が彼のことを呼ぶシーンの吹き出しが「小林!」だったのが印象にある。「小林」は中国語読みでは「クリリン」に近い発音なのだろう。

 今回、訃報を知らせるニュースで彼の作品を見ていて、彼の描くクルマがきれいな曲線と鮮やかな色づかいで、独特の雰囲気をもっていることを知った。
 濃密な人生を歩んだのだろうが、それにしても68歳は若すぎる。 

 2024年3月10日 記

芥川龍之介「魔術」、太宰治「新樹の言葉」ほか

2024年03月07日 | 本と雑誌
 
 2月末、小学校4年の孫がインフルエンザに罹患し、40℃近い熱が出た。ほどなく37℃台に下がって本を読んでいるというので、寝ながらでも聞くことができるように、短編小説を音読してボイスレコーダーに吹き込んで持って行ってやった。
 定年から4年が経ち、授業で鍛えてきたはずの声にも衰えが目立ってきた自覚があるので、ぼく自身の喉、声のリハビリも兼ねた作業のつもりである。
 息子たちが小学生だった30年近く前に買い与えた本の中から適当なものを探した。

 芥川龍之介「杜子春・トロッコ・魔術」(講談社青い鳥文庫、1992年)は発行年からして、上の息子が中学受験の頃に読ませたものだろう。
 この本から、まず「魔術」を選んだ。ぼく自身が中学校1年の時に教科書で読んで、今でも記憶に残っている短編である。
 本文を(何の注釈も加えないで)そのまま読んでしまったが、分かりにくい言葉や人物などには注釈をつけてやればよかったと反省。森繁久弥やNHKアナウンサーによる「耳で聞く短編小説」風を気取りすぎてしまった。本文約20頁、音読で10分29秒だった。
 
 次は何にしようか。
 芥川なら「杜子春」や「鼻」がいいのだが、登場人物の中国人の名前は音読では分かりにくいのと、インフルで40℃の熱を出した子どもが聞くのには「鼻」は話の内容がつらいかもしれない。「トロッコ」も好きな作品だが、インフルの病床で夕暮れ時に聞いたのでは不安な気持ちがいや増すかもしれないからやめた。この本に収められた12作品をぱらぱらと眺めて、「たばこと悪魔」を選んだ。
 「たばこと悪魔」という小説をぼくは初めて読んだが、なかなか面白い。宣教師に成りすましてザビエルと一緒に日本に上陸した悪魔が日本の牛商人と賭けをした。牛商人が賭けに勝って、悪魔が所有するたばこ畑を手に入れるのだが、その結果、それまでは勤勉だった日本中の農民に煙草の習慣(悪習)が広まってしまうという内容である。
 芥川はヘビー・スモーカーだったようだが、そんな「煙草」観をもっていたとは知らなかった。「たばこ=悪」という図式を今の小学生が理解できたかどうか。本文21頁、音読で12分29秒かかった。

 毎日午前中に1話を音読して孫に届け、2日目のここまでで孫の熱は下がったのだが、ぼく自身の喉のリハビリのためにさらに続けることにした。
 今度は太宰治「走れメロス」(ポプラ社文庫、1992年)。これも発行年からして、上の息子の中学受験の時に買った本だろう。
 「走れメロス」は登場人物のギリシャ人の名前が読みにくかったのでスルー。「思い出」は悪くないが、音読するには長すぎる。「富嶽百景」もいい、ぼく自身が忘れられない井伏鱒二先生が放屁する場面などはとくに小学生に喜ばれそうだが、心象風景が中心で出来事が起伏にかける憾みがある。

 この本の最終ページに、上の息子の「1994年2月18日(金)小6」という書込みと、下の息子の「2001年7月27日(金)小5.「新樹の言葉」が印象に残った」という書き込みがあった。下の息子は兄貴の「お下がり」を読んだのだった。下の息子の言葉を信じて、「新樹の言葉」を読むことにした。
 作家として行き詰っていた太宰が、井伏鱒二の助言を受けて山梨県の甲府に居を移し、下宿を借りて作家修行をしていた時期(昭和14年)の作品である。
 ある時、郵便配達が太宰に話しかけてきて、下宿の近所に太宰の兄弟だという男がいると言う。不審に思いながら会ってみると、津軽で乳幼児期の太宰を育てた乳母つるの息子だと判明する。
 大丸デパートの店員をしているというこの男に誘われて、甲府の高級料亭で酒を飲むことになる。後から男の妹もやって来て同席する。実はこの立派な料亭の建物は、かつては乳兄妹である彼らの実家の呉服屋だったという。乳母が嫁いだ夫は丁稚奉公を経て、甲府で呉服屋を開業して羽振りがよかった時期もあったが、後に没落して家は人手に渡ってしまったのだった。
 その2日後の午前2時ころ、太宰が徹夜で小説を書いていると、町の方から火事を知らせる激しい半鐘の音が聞こえてくる。下宿を飛び出し城跡に登って見物していると、乳兄妹に出会う。燃えているのはあの料亭だった。「全焼ですね。知らずに死んだ父母も幸せでした」と彼がいう。
 家の一軒、二軒などどうにでもなる、自分の小説を期待して待っていると言ってくれたこの乳兄妹のためにも、ぼくはよい小説を書かねばならない、と太宰は心を新たにする。「新樹の言葉」とはこの乳兄妹の言葉のことか、この話の全体が、太宰の心に芽生えた「新樹」の「言葉」ということか。

 下の息子のコメント通り、いい話だった。
 音読も3作目になって少し慣れてきたので、会話の場面は笠智衆と佐田啓二の会話をまねて小津調でやってみたりした(つもりである)。
 「新樹の言葉」は、本文32頁、音読は21分05秒かかった。最後のほうは喉が嗄れて、ややしわがれ声になってしまった。現役時代には90分の授業の間じゅう、一人で喋りつづけて少しも疲れなかったのに情けない。
 しかも、レコーダーを再生してみると、「さ」行の発音が空気が抜けるようで聞き苦しいところがある。さ行が聞き取りにくいなどとは全く自覚していなかった。現役時代から「ふ」の発音が口笛を吹いているように聞こえることがあるのは自覚しており、授業評価で学生に指摘されたこともあった。しかし「さしすせそ」が不明瞭になるとは・・・。
 ぼくの祖父は佐賀出身で、最後まで九州弁が抜けなかったと亡母が言っていたが、ぼくが生まれる前に亡くなった祖父方の先祖の九州弁 DNA が今ごろになってぼくに発現するはずもない。やっぱり、喉と声帯と口元の筋肉と歯の衰えなのだろう。
 ぼくにとって、70歳の定年はいい潮時だったと思う。

 2024年3月7日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その6

2024年03月03日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第6回は日本の探偵小説。

 日本の探偵小説作家というと、松本清張が真っ先に思い浮かぶ。
 松本清張の中では「黒い福音」(手元にあるのは文春版全集)と「小説帝銀事件」(同じく角川文庫)が、ぼくとしてはベスト2か。短編ではわが先祖の出身地佐賀が舞台の「張込み」(新潮文庫)がいい。謎解きには興味がないので、「点と線」(新潮文庫)の他は、彼の代表作と言われている小説は読んだことがない。
 「日本の黒い霧」(文春文庫)は探偵小説とはいえないが、著者の推理作家としての才能が戦後日本の歴史に向けられた作品といえよう。昭和25年生まれのぼくは、同時代を生きた者の1人として、戦後日本に垂れ込めていた「黒い霧」をリアルに実感することができる最後の世代かもしれない。「昭和史発掘」(文芸春秋)も同様で、興味のある事件を何冊か読んだ。「日光中宮祠事件」(角川文庫)もノンフィクションだったか・・・。
   

 佐木隆三「復讐するは我にあり」(講談社文庫)は彼の直木賞受賞作で、九州で実際に起きた連続殺人犯をモデルにしたノンフィクション・ノベルズ。その後のこの手のドキュメント小説流行の先駆けとなった。    
 森村誠一も、推理小説で読んだのは「人間の証明」(角川文庫)くらいで、むしろ「悪魔の飽食」などのノンフィクションのほうが記憶に残る。「人間の証明」は舞台が東京の四ツ谷(ニューオータニ)と碓氷峠の見晴台(から霧積温泉)だったので、記憶に残っている。映画化された時のジョー山中の主題歌もよかった。
 最近、というよりぼくが最後に読んだ中で一番のおすすめは、森下香枝「真犯人--グリコ・森永事件「最終報告」」(朝日文庫、2010年)。あの事件の捜査をめぐる大阪府警、京都府警、滋賀県警の確執が印象的だった。リークもあったのだろうが、取材力に感嘆した。著者は日刊ゲンダイ、週刊文春の記者を経て朝日新聞記者になったと紹介がある。

 
 松本清張「黒い手帖」(中公文庫)、江戸川乱歩・松本清張編「推理小説作法」と木々高太郎・有馬頼義編「推理小説入門」(光文社文庫)、佐野洋「推理小説実習」(新潮文庫)などは、いずれも推理小説の創作技法を伝授するような形式をとりながら、内容の多くは各推理作家の推理小説観ないし社会観を伝えている。
 佐野洋「検察審査会の午後」(光文社文庫)は、雑誌連載時に毎回検察審査会事務局の助言を受けて執筆したとある。最近(といっても10年以上前になる)では高村薫「マークスの山」(講談社文庫)が圧巻。これも助言を受けた元刑事への謝辞がある。

   
 まったく傾向は違うが、一時期、小峰元や辻真先の「学園探偵」ものを読んだ。
 小峰は「アルキメデスは手を汚さない」、「ソクラテス最後の弁明」(講談社文庫)など、題名と和田誠が描いた表紙だけは印象に残っているが、話の中味は忘れてしまった。忘れてしまったけれど、3作目くらいまで読んだ記憶がある。小峰は江戸川乱歩賞を受賞したのだったか。
 
 辻真先「仮題・中学殺人事件」(朝日ソノラマ文庫)も小峰と同じく「学園推理もの」とでもいうべき推理小説。最終ページに「1976・10・31(日)、Good! 93点」と書き込みがある。よかったのだろう。朝日ソノラマ文庫のラインアップを見ると、第1作が「宇宙戦艦ヤマト」で、辻のほかにも、光瀬龍、加納一朗、福島正実らの作品が並んでいる。どれも面白そうな感じがする。なお、辻の本職は放送作家だったようで、テレビ番組のタイトルに彼の名前を見つけることが何度かあった。
 辻には「たかが殺人じゃないか--昭和24年の推理小説」(創元推理文庫、2023年)という新作があることを知った。内容紹介を読むと、昭和25年生まれのぼくには面白そうである。 旧制中学が新制高校に移行する時期を舞台にした「学園もの」のようだ。

 ※東京新聞3月7日夕刊に辻真先へのインタビュー記事が載っていた。現在91歳だそうだ! 先日の漫画家の死亡をきっかけに話題になった原作者と脚本家との関係について語っている。
 辻は、子どもの頃にぼくも見ていたテレビアニメ番組「鉄腕アトム」の脚本を書いていたという! その経歴の長さにまず驚いた。時には手塚治虫の原作が間に合わないので、辻が(手塚と協議しながら)オリジナルの脚本を書いたこともあったという。脚本、脚色は原作者と脚本家とのクリエーター同士の信頼関係があって成り立つものであり、その間にサラリーマンにすぎないテレビ局のプロデューサーが介在するようになったことに問題の根がある旨を語っている。
 草創期から長い間テレビの現場にいて経験を積んできた人の発言だけに説得的である。しかしサラリーマンであるテレビ局プロデューサーが、原作者や脚本家よりもスポンサーの意向を忖度し優先する現状が改まることはないように思う。 (2024年3月8日 追記)

 海外では、ジェームズ・ヒルトン「学校の殺人」(創元推理文庫)、ライア・マテラ「殺人はロー・スクールで」(同、読み始めたものの面白くなかったので読んでいない)など。コリン・デクスター「森を抜ける道」(ハヤカワ・ポケットミステリ文庫)などのオックスフォード大学が舞台になった「モース警部」シリーズも、学寮長やチャプレン人事をめぐる殺人事件などの話題が多いから「学園もの」といえるか・・・。
 テレビドラマでは、モースの死後、部下だったルイスが警部になってからの「ルイス警部」や、モースの若かりし日々を描いた「刑事モース」のほうが、ぼくには面白く感じられた。

 2024年3月3日 記

ロビン・フォックス「生殖と世代継承」・その2

2024年02月26日 | 本と雑誌
 
 ロビン・フォックス「生殖と世代継承」(法政大学出版局、2000年)、第2回で取り上げるのは、第1部第1章「一夫多妻のモルモン教徒の事件」について。

 一夫多妻を推奨するモルモン教の信者である警察官(ポッター)が、一夫多妻であることを理由にユタ州マレー市警を1982年に解雇されたため、解雇無効を訴えた(ポッター対マレー市事件)。
 アメリカ諸州では、1862年のモリル法から1887年のエドマンズ・タッカー法に至る一連の法律によって一夫多妻は違法とされてきた。ユタ州では、州に昇格する際の「ユタ州憲章」(1894年)の第1条で、宗教感情への寛容は認められるが、一夫多妻婚ないし複数婚は永久に禁止されると規定した。
 1820年代に東海岸で共同生活、共同農業を始め、最終的にはユタ州に集住することになったモルモン教の信者であるポッターは、モルモン教徒にとって一夫多妻は救済のために必要な宗教的信条であり、解雇は連邦憲法修正1条が保障する信教の自由およびプライバシー権を侵害する、一夫多妻を禁止するユタ州憲章も憲法に違反すると主張した。第1審のユタ州裁判所は即決裁判でポッターの訴えを却下し、連邦控訴裁判所も第1審を支持し、連邦最高裁判所は上訴を受理しなかった。

 ポッター事件判決を検討する前提として、著者が検討したレイノルズ対合衆国事件(1878年)連邦最高裁判決は、一夫多妻制は「良俗」違反であるという理由で、モルモン教徒の一夫多妻を禁止したモリル法を合憲とし、クリーブランド対合衆国事件(1946年)連邦最高裁判決は、一夫多妻はアジア・アフリカでのみ行われることで、西欧では「悪習」である(イギリスでは犯罪である)として、一夫多妻禁止を合憲とした。
 これらの判旨に対して、著者は西欧における一夫多妻(的な婚姻慣行)の実例を多数指摘して、連邦最高裁の「良俗違反」論、「悪習」論に反駁を加える。多数派のキリスト教会は、反セックスの立場から、教会によって聖別された結婚のみが唯一の合法的性交、生殖の手段であるとした。しかしこれも歴史的に一貫したものではなく、グレゴリウス帝が一夫一婦制を強制する600年頃までは、西方・北方民族においても一夫多妻制は「悪習」ではなかったし、その後も教会による禁止は実効性をもつことはなく、貴族や王家の間では複数婚は普通のことであり、複数の女性をもつ法王すら存在した(38頁)。
 一夫一婦制が強制されることになったのはメロヴィング朝の終焉に至った後のことである。キリスト教の一夫一婦制は、女性嫌悪、狂信的な独身主義、反セックスによるものであると著者はいう。イギリスでも、1603年にジェームズ1世が一夫多妻を犯罪化するまでは、(世俗のイギリス)国家は複数婚に関心がなく、教会裁判所の管轄に委ねていたが、1753年のハードウィック婚姻法によって教会は婚姻を完全に支配下に置くことになった。

 レイノルズ判決は、一夫多妻制は家父長制を助長し、独裁専制政治を招くというリーバー説(コロンビア大学教授!)を援用したが、過度の一夫一婦制をとるドイツにおいて独裁者ヒットラーが登場したように、一夫多妻制と独裁政治とは関係がないと反論する。 
 国家が教会とともに一夫一婦制を強制するようになったのは、国家は官僚を必要とし、教会は神職を必要とするが、彼らが(一夫多妻によって)親族集団を形成することを避けるためであったという。
 一夫一婦制の下でも、離婚が増加することによって子どもは両親から引き離され、継親との関係で苦労することになる。一夫一婦制の下で離婚と再婚を繰り返す夫婦は、「時系列的複数婚」と見ることができるし、移動性の高まりによってニューヨークに法的妻をもち、他州に複数の愛人をもつ(著者の知り合いの)弁護士の例などと複数婚的な関係も存在する。
 人類学的には、一夫多妻制のほうが一夫一婦制よりも安定的であったと著者はいう。安定化のための工夫として、複数の妻は原則として姉妹とする、複数の妻は別居するが財産は平等に共有する、複数妻の性的、経済的地位を平等とする、年長の妻に優位な地位を与え若い妻の魅力に対抗させるなどのルールが形成されている(53頁)。複数婚の際には、最初の妻に同意権を与えるとか、女性の婚姻年齢を下げる一方で男性の婚姻年齢を引き上げるなどの方策も書いてあった。
 一夫多妻制は、権力をもった男のための制度であるという批判に対して、著者は、それは一夫一婦制の下で権力のある男が複数性交できるのと同じであると反論する。

 次に、著者は、宗教上の行為に州政府が介入するためには、州は「止むを得ざる理由」が存在すること、すなわち「公共の福利が危険にさらされること」を証明しなければならないとしたウィスコンシン対ヨーダー事件連邦最高裁判決(1972年)などとの整合性を検討する。
 連邦憲法で認められた「結婚の権利」に干渉するためには、州には「絶対不可欠な理由」を示す「厳格な審査」が必要とされるとして(マイヤー対ネブラスカ、スキナー対オクラホマ判決)、ラビング対ヴァージニア判決は、白人と黒人との異人種結婚を禁じた州法を連邦憲法14条違反で違憲無効とした。
 ところが、ポッター事件判決は、「止むを得ざる理由」の審理に際しては近代社会において現に行われている習慣を考慮せよという主張を退け、一夫一婦制はわれわれの社会の中に不可分に組み込まれており、われわれの文化はこの制度の上に築かれている、結婚は家族および社会の基盤であり、この基本的価値に照らして、州は複数婚の禁止を強制し、一夫一婦制の結婚関係を擁護する止むを得ざる必要性があると(根拠を示すことなく)判示した(60頁)。 
 著者は、ユタ州が実際に一夫一婦制の基盤の上の成立しているという証拠は何も示されていないばかりか、離婚の容易化によって一夫一婦制による核家族の終焉に力を貸してきた立法や法廷のほうが、結婚の神聖さを主張する一夫多妻制の擁護者より、「われわれの文化の基盤」に対してよほど深刻な打撃を与えていると批判する(66頁)。

 最後に著者は、一夫一婦制は「自然」であるとの主張を反駁する。
 戦争などによって男女の性比が不均衡になった場合、多くの女性は夫をもてず、女児殺しが増え、独身のままでいるか、売春婦、尼僧になるといった現象が発生するのに対して、一夫多妻制ではすべての女性に家庭と家族を約束できた(一夫多妻のほうが「自然」であった)という議論も可能であるという。モルモン教が一夫多妻制を採用したのも、発足当初は女性信者が男性信者より2000人も多かったからだったという。
 そして一夫多妻のモルモン教徒の養子縁組に関する判例において、変化の兆しが現われていることなどを指摘して本章は終わる。

 ぼくたちは、一夫一婦制の陰に隠れて行われてきた一夫多妻的な現実から目をそらしてはいないだろうか。一夫一婦制を規定したわが明治民法の下でも一夫多妻的な妾を抱えた既婚男性の実例は500例以上紹介されている(黒岩涙香「畜妾の実例」社会思想社)。一夫多妻制を支持するかどうかはともかく、一夫多妻制は検討の余地のない「悪習」であるとか、一夫一婦制でさえあれば無条件で一夫多妻制に優越すると主張するのがはばかられる程度には説得的な論旨であった。
 モルモン教の一夫多妻制は、最近の離婚に許容的な一夫一婦制の婚姻よりはるかに「結婚の神聖」を重視しており、信仰に無縁のぼくなどは世俗化の極点に近づきつつある最近の一夫一婦婚のほうが気楽そうで親近感を覚えるくらいである。

 2024年2月26日 記

 ※なお、第2部「世代継承」の主たるテーマである「母方のオジ」の親族関係上の地位は、著者によればインセスト(近親相姦)禁止よりも人類学上重要なテーマであるというが、ぼくの理解をこえるので省略する。ただ、ここでも著者は、国家法による広範囲に及ぶ近親婚禁止は、近親婚によって親族集団が強大化することを国家が恐れたからであると指摘して、近親婚禁止も「国家と親族集団との戦い」の一端であると指摘していることを紹介しておこう。著者によれば、個人主義の(個人の)ほうが国家にとっては親族集団よりも与しやすいというのである。

ロビン・フォックス「生殖と世代継承」・その1

2024年02月24日 | 本と雑誌
 
 ロビン・フォックス/平野秀秋訳「生殖と世代継承」(法政大学出版局、2000年)を読んだ。
 第1部「生殖」は、第1章「一夫多妻の警察官事件」、第2章「子供を渡さない代理母の事件」、第2部「世代継承」は、第3章「乙女とゴッドファーザー」、第4章「姉妹の息子たちと猿のオジ」という全4章からなる。著者は人類学者らしい。ぼくの恩師だった先生は、アメリカでは法律家以外の、医師や看護師、社会学者、人類学者らが堂々の判例批評を執筆することを羨んでいたが、この著者もその一人であろう。 
 かなり以前に、いわゆるベビーM事件を扱った第2章だけは読んでいたが、それ以外の3章は今回初めて読んだ。モルモン教徒たちの一夫多妻制を擁護する第1章なども大へんに面白かったが、今回は「ベビーM事件」の復習から。

 第2章のベビーM事件も、忘却のかなたにあったが、第1審判決(およびその前段階としてベビーMの身柄を依頼者に引き渡すよう命じた暫定決定。ともにソルコフ判事による判断)の内容に改めて驚いた。著者は(とくに第1審の)判事が採用した「親としての国家(parens patriae)が親に代わって子の最善の利益を保護する」という裁判所の権限、および「契約は履行されるべし」という法律上のルールに対して反対を表明する。
 著者は、代理母(ホワイトヘッド夫人)が、生まれた子Mを依頼者夫婦に引き渡すことができずにアメリカ中を逃げ回った行動に同情を示す。彼が依拠するのは、母親(実母)が妊娠中そして出産時に胎内の子との間に形成する「母と子の絆」に関する心理学的知見である。この「母と子の絆」論に従って、著者は母親という身分から子を奪うことは契約の対象にすることはできないし、インフォームド・コンセントの点からも本件代理母契約は無効であるという。生んだ子を奪われないという母の利益は子の利益でもあるともいう。

 著者はメイン「古代法」が唱えた「身分から契約へ」という法の近代化の図式にもかかわらず、子を産んだ母という「身分」は、「契約は履行されるべし」というルールに優先すべきであるといい、さらにニュージャージー州最高裁判所衡平部家庭部門が1947年に採用した「親としての国家(parenns patriae)」論は、国家が親族組織から子を養育する権限を剥奪する理論であると非難する。
 著者にとっては、近代法の「発展」は、国家が親族組織(家族や親も含まれる)から権限を簒奪して、国家の権限を強化する歴史だった。そもそも近代法は「個人主義」の名の下に、孤立した「個人」を国家と対峙させることによって、(国家にとって最大の敵対者であった)親族組織を弱体化させてきた。ロックら社会契約論者が想定した「個人の個人の間の契約による国家の設立」は歴史的事実ではなく、ホッブズが「自然状態では個人と個人の弱肉強食の闘争状態だった」というのも誤りで、実際の自然状態では「部族と部族の間の闘争状態だった」という。
 中学校の公民科以来、社会契約論になじみ、立憲民主主義を信奉してきたぼくにとってはショッキングな立論である。

 著者は、ベビーM事件の「M」は “money” の「M」であると揶揄した論者の意見を肯定的に紹介する。
 依頼人(スターン夫婦)の妻は実は不妊症ではなかったこと、夫はホロコーストから家族内で唯一生き残ったユダヤ人だったことも忘れていた。
 著者は、代理母であるホワイトヘッド夫婦の親としての不適切さとして裁判所が挙げた「不品行」の数々ーー夫の職業が清掃作業員であり、妻がかつてゴーゴー・ガールをしていたことや、夫婦が居所を転々として親族家庭に居候したり、パンダの大型の縫いぐるみを上の子に買い与えたこと(!)などーーを、労働者階級の文化として文化相対主義の立場から擁護する、というか少なくともマイナス材料として衡量することを批判する。

 代理母契約は、弱者である代理母を依頼人が搾取するものであるという批判は、代理母が臨床で実施され始めた当初はかなり強く主張されたが、その後は(日本以外の諸外国では)議論の主流ではなくなった感がある。「親族」組織の復権を唱えるらしい著者の立場からすると、不妊女性の母親や姉妹(オバや従姉妹なども)が代理母となる代理母契約はどういう評価になるのだろうか。親族間の代理母でも認められないのか、親族間なら認められるのか。
 著者は、金持ちは決して代理母になることはなく、貧乏人が依頼者になることも決してないとして、「搾取」論を補強していたが、親族間での代理母契約であれば、金持ちが代理母になり、貧乏人が依頼者になることもあるだろう。そもそも「無償」の代理母契約であれば認められるのだろうか。

 第1章の「一夫多妻制」、第3、4章の「世代継承」における「母の兄弟(=息子にとってのオジ)」の問題も、「目から鱗」の面白さがあったが、次回につづく。

 2024年2月24日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その5

2024年02月19日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴、第5回

 ★フェーマス・トライアルズ(日本評論新社)
 犯罪実話小説というべきか、法廷小説というべきか迷うが、実際に起きた有名犯罪事件(刑事裁判)のドキュメントがある。英米では、実際の裁判記録(訴訟記録)を、起訴状、陪審員の選定過程、冒頭陳述、証拠調べ(主として証人尋問、とくに反対尋問)、最終弁論、裁判官による陪審への説示、陪審員の評決、そして判決までを、原資料に基づいて記録したシリーズものがいく種類か出版されている。中には100巻近く出ているものもあるらしい。
 「フェーマス・トライアルズ」シリーズ(日本評論新社、1961~2年)はその一部の翻訳である。
 「白い炎」(西迪夫訳)、「浴槽の花嫁」(古賀正義訳)、「S型の傷」(平出禾訳)、「冷たい目」(小松正富訳)、「山に消えた男」(時国康夫、中根宏訳)の全5巻だが、訳者は英米法に詳しい弁護士や検事だけでなく、アメリカに留学した(当時)現役の裁判官まで含まれており、戦後の新刑事訴訟法(英米刑事司法型の当事者主義)に対する裁判官も含めたわが法曹の意気込みが感じられる。「浴槽の花嫁」は副題にもなっているジョージ・ジョセフ・スミス事件の裁判記録で、この事件は牧逸馬「浴槽の花嫁」のネタでもある。

 ★「実録裁判」シリーズ(旺文社文庫)
 法廷小説といえば、ガードナーの「ペリー・メイスン」ものがまず思い浮かぶが、R・トレイヴァ―「裁判(上・下)」(創元推理文庫)はそのものズバリの題名。同書の帯には、「私は本書に想を得て「事件」を書いた」という大岡昇平の推薦文コピーが記されている。大岡昇平「事件」(新潮社、1977年)は、出版当時ベストセラーになり、映画化もされた。後に創元推理文庫にも収録されたようだ(未見)。トレイヴァ―には「地方検事」(東京創元文庫)というのもある。著者はミシガン州の元地方検事、州最高裁判事だそうだ(上の写真)。
 学習参考書の旺文社から出た旺文社文庫というのがかつてあった。漱石、芥川、中島敦など教科書に採用された小説が多かったが、その旺文社文庫から「実録裁判」シリーズという裁判ものが何点か出た。
 E・R・ワトソン編「実録裁判・謀殺--ジョージ・ジョセフ・スミス事件」(1981年)などを刊行した(上の写真)。「謀殺」はいわゆる「浴槽の花嫁」事件の実録。巻末の解説で、平野竜一教授が陪審への不信感を述べている。
 この「実録裁判シリーズ」は、「謀殺」の他にも、「目撃者--オスカー・スレイター事件(上・下)」「疑惑ーーミセス・メイブリック事件」「情事ーージャン・ピエール・ヴァキエ事件」「密会ーーマンドレイ・スミス事件」の全5巻があったようだが、ぼくは「謀殺」しか持っていない。読むのが相当しんどくて、1冊で投げ出したのだと思う。
 実録裁判シリーズのほかにも、F・L・ウェルマン「反対尋問」(1980年)、被告の伊藤整自らがチャタレー裁判を記録した伊藤整「裁判(上・下)」(もとは新潮社)、や八海(やかい)事件や「首なし事件」などで有名な正木ひろし弁護士の戦時下の時評集「近きより(1~5)」も同文庫で復刊した。ぼくは法律雑誌の編集者だった頃に、その旺文社文庫の担当編集者とお会いしたことがあった。エネルギッシュな方だった印象がある。なお、ウェルマン「反対尋問の技術(上・下)」は、わが社の先輩編集者だった林勝郎さんの翻訳で青甲社から出ていた。 

 ★医療(裁判)小説
 日本のものでは黒岩重吾「背徳のメス」(角川文庫)、札幌医大で実施された日本最初の心臓移植に疑問を呈した渡辺淳一「白い宴」(角川文庫、1976)などが思い浮かぶ。
 アメリカでは、マイケル・クライトン「緊急の場合は」(ハヤカワ文庫)が有名だった。ロビン・クック「ハームフル・インテントーー医療裁判」(ハヤカワ文庫、1991年)がぼくが最後に読んだ医療推理小説だった。最終ページに「最後まで読みはしたが、噴飯ものだ! 1991.8.23」と書き込みがしてあるが、内容はまったく覚えていない。訳者は林克己さん。ぼくが1960年代の子ども時代に読んだアームストロング「海に育つ」(岩波少年文庫)の訳者だろう。息の長い翻訳家である。
 帯に「身に覚えのない医療ミスで告発された麻酔医が、病院に潜む真犯人を追いつめる」とあるので、興味をもったのだろう。慈恵医大青戸病院において腹腔鏡手術による死亡をめぐって執刀医が逮捕起訴された実際の事件を想起させるコピーである。この事件については、小松秀樹「慈恵医大青戸病院事件ーー医療の構造と実践的倫理」(日本経済評論社、2004年)を参照。(つづく)

 2024年2月19日 記