豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

川本三郎「荷風語録」

2024年07月12日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風語録」(岩波現代文庫、2000年)を読んだ。

 「小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写である」と荷風自身が「濹東綺譚」(本書173頁に引用あり)で書いているように、荷風作品の情景描写には荷風が下町散歩の観察から得た情報が細部にまで再現されている。
 本書は、川本が「荷風と東京」という視点から、荷風作品に見られる往時の東京風景を作品の発表年代順に再録(抄録もある)したものである(ⅳ頁)。第1部「明治・大正の作品」、第2部「戦前の作品」、第3部「戦後の作品」、第4部「『断腸亭日乗』の世界」という構成で、各部の冒頭に川本の解題がつく。

 「語録」という書名から、本書は「老い」とか「家族」とか「娼婦」とかいったテーマ「語」や場所ごとに、荷風の考えや見方がわかる文章を集めた本かと思ったが、しかしこれは嬉しい誤算で、実際には「荷風短編傑作選」とでもいった内容の本であった。 
 ぼくは、川本が「老いの荷風」や「荷風好日」の中で評価していた戦後の荷風の小品ーー「勲章」「にぎり飯」「吾妻橋」などを読んでみたいと思っていたので、これらを本書第3部で読むことができたのが最大の収穫だった。第3部に収められた「草紅葉」「老人」も良かったが、できれば「羊羹」も読みたかった。

 「勲章」の主人公は、浅草オペラ館の楽屋に出前を運んでくる爺さんである。日露戦争に召集された自慢をしたところ、ある日踊り子らにおだてられ、楽屋に置いてあった舞台衣装の軍服を着て、日露戦争の際の勲八等の勲章をつけた写真を荷風に撮ってもらい、いつになく嬉しそうな顔を見せる。しかし、その写真の現像ができる前に爺さんは人知れず死んでしまう(「勲章」昭和17年)。同じくオペラ館で、いつも楽屋手前の通路で風呂焚きをしていた爺さんは、戦後の薪不足で解雇され、その後の消息は分からない。誰にも知られずに死んでしまったのだろう(「草紅葉」昭和21年)。
 オペラ館の踊り子で、荷風原作のオペラ「葛飾情話」にも出ていた栄子は、三社祭の当日、いつも世話になっているからと言って、おっかさんが作った強飯を楽屋の荷風に差し入れる。その後オペラ館を去った栄子は東京大空襲でどうなったのか。荷風は「栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆に居残っている事を心から祈っている」と書く(同、226頁)。
 この2作品と「吾妻橋」が荷風の戦後作品ベストスリーだとぼくは思った。

 その他、空襲で生き別れになった(内縁の)夫が死んだものと思って別の男と結婚した女が、生きていた夫と偶然に再会してしまう話は(「にぎり飯」昭和22年)、戦後それほど珍しくなかった「失踪宣告」ものだが(ソフィア・ローレン「ひまわり」など)、内縁だったので法的な問題は小さいし、話の結末もややあっけない。
 「老人」(昭和25年)の登場人物は、亡くなった妻の葬儀を終えた夫(元は病院の会計係だった)と、離れて遠くに住む中年になった一人娘と従妹の3人だけ。葬儀を終えた3人は、残された夫の今後について語り合う。夫は、なかなか上京できないだろうからといって妻の着物を形見分けに持って帰ることをすすめ、娘たちはそそくさと品定めをする。「東京物語」の長女杉村春子を思い出すが、「老人」では父親のほうから形見分けを言い出している。
 「吾妻橋」(昭和28年)の主人公道子は、浅草の街娼である。貧しい大工だった父親は空襲で亡くなり兄も戦死したため、周旋する者があって街娼となる。小津安二郎「風の中の雌鶏」の娼婦役、文谷千代子が思い浮かんだ。ある日道子は思い立って亡母の墓所を探しに松戸の寺を訪ねる。遺骨のまま放置されていた亡母のために、道子は7000円を払って墓石を建立する。1日で1500円稼げるから7000円くらい何とかなる。道子のモデルは「断腸亭日乗」に出てくる、あの浅草駅ホームで荷風が300円を渡した娼婦だという。やっぱり荷風は300円(後日さらに300円)を渡して小説のネタを仕入れていたのだ・・・。
 
 どの作品も、山の手の人間が勝手に抱く「下町情緒」に訴える雰囲気はあるが、浅草や立石をほとんど知らないぼくには、これらの作品の場所が浅草、立石でなければならない必然性は分からなかった。浅草、立石を知らなくても、登場する老人や娼婦たちの好ましい性格は十分に伝わってきた。道子たちは「駅馬車」や「ウィンチェスター銃 73」の娼婦(後者はシェリー・ウィンタース)を思わせる。
 第3部に収録された諸作品は、いわゆる「人情もの」として読めた。石川淳は戦後の荷風作品を酷評したというが、石川に嫌われたとしても、ぼくは人情ものとして好ければそれでいいと思う。

 第1部では、荷風の「散歩」の原点というべき「日和下駄」(大正4年)がいい。
 身長180センチを超える荷風は、いつも日和下駄を履き蝙蝠傘をもって散歩に出た(76頁~)。雨が降っても、泥濘を歩くにも便利だからという。日和下駄というのがどんな下駄なのかぼくは分からないが、革靴の中に雨水が漏れるより、いっそ裸足に下駄履きのほうがマシであるという気持ちは分かる。
 13、4歳頃の荷風は、麹町永田町の自宅(親の官舎)から、半蔵門、吹上御苑、竹橋、平川口、一ツ橋に出て、神田錦町の私立英学校まで歩いて通ったという。これだけでも結構な距離だが、登下校の際に寄り道をして通学路の近辺を歩いたのが荷風の散歩の始まりだという。
 その後の東京市中の散歩は、生まれてから今日に至るまでの過去の生涯に対する追憶の道を辿り、日々名所古跡を破壊してゆく時勢の変遷に無常悲哀の寂しい詩趣を感じるためであったという(78頁)。荷風は「ノスタルジー作家」である。

 川本の第1部解説によれば、荷風は、四ツ谷見附から東京の市電(街鉄)に乗ると「女学生と軍人が多い」と書いている(5、6頁)。荷風は女学生と軍人を毛虫の如く嫌っており、それが築地への引越しの一因だったと川本は推測する。安岡章太郎も、青山は軍人が作った町だったと書いているという(5、6頁)。戦前の六本木には陸軍第一連隊があり、青山には陸軍大学、市ヶ谷には陸軍省があった。
 川本は「現在の感覚では考えられないが、山の手は戦前までは軍人の町だった」と書く(6頁)。ぼくは浅草や玉の井のことは分からないが、祖父が(荷風が毛虫の如く嫌う)軍人で、余丁町の官舎から青山、六本木に通っていたと聞いていたので、青山や六本木が軍人の町だったことはよく分かる。須賀町にあった出版社のサラリーマン時代、信濃町から青山への外苑東通りを歩くと、その昔祖父もこの通りを通ったのだと時空を超えた感慨を覚えた。われわれのDNAには先祖の記憶が刻印されていると聞いたが、本当だろうか(デジャブ)。
 荷風の住んだ余丁町の近くには市ヶ谷監獄があった。そこで大逆事件の幸徳秋水らが処刑されたことは「断腸亭日乗」に書いてあったが、荷風は「花火」(大正8年)で、この事件ほど「嫌な心持のした事はなかった」と書き、これを契機にいわゆる「戯作者宣言」をしたという(14、5頁)。余丁町から三輪田に通っていた伯母は、監獄前の通りで足枷をはめられた囚人服(着物)姿の囚人が帚で道を掃いていて、その脇を通るのが怖かったという思い出を話していた。

 第2部に収録「つゆのあとさき」(昭和6年、抄録)の主人公は、その頃から流行し始めたというカフェの女給である。芸妓(吉原)、公娼(どこ?)、私娼(玉の井、浅草)の区別も十分に実感できないうちに、新たにカフェ女給(銀座?)という職種が登場してきた。
 民法の講義で「カフェ丸玉女給事件」という判例を読んだ(大審院判決昭和10年4月25日)。女給が馴染客から400円をもらう贈与契約を結んだが、客が履行しないとして訴えた事件。大審院は、この債務は客が任意に履行すれば女給は受領してよいが、任意に履行しない場合には裁判所に訴えても裁判所は履行を命じないとして(「自然債務」という)、請求を退けた。
 ※久しぶりに判決を見たら、何と差戻審で女給側が逆転勝訴していた。女給の窮状を認定するその理由づけが荷風的である。 
 「寺じまの記」(昭和11年)。題名の「寺じま」とは何だろうと思っていたら、これは玉の井の旧町名「寺島町」に由来するという(103頁)。この話は、玉の井の娼家の構造とそこに棲む娼婦の顔貌までもが微細に描写されている。当時の読者にとって、風俗店ガイドブックの用も果たしたのではないか。

 第4部「断腸亭・・・」はこれまでに書いたので省略。

 2024年7月12日 記

川本三郎「老いの荷風」

2024年07月09日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「老いの荷風」(白水社、2017年)を読んだ。
 
 永井荷風の作品を、荷風の老いと単身者という側面に焦点を当てて、「老人文学」「隠棲者文学」とみる立場から読み解く随筆集である。
 川本が、荷風作品の現場を歩き、先行書に表れた当事者の発言などを渉猟しながら分析する記述は、ミステリー小説の謎解きを読むような興趣があった。

 例えば、発禁となったにもかかわらず、少部数だけ世の中に出回った「ふらんす物語」初版本をめぐるエピソードがある(77頁~)。
 発売前(それどころか製本前)に発禁になった「ふらんす物語」が少なくとも11冊は流布していたことを川本は突き止める。流出のルートとして、出版社(博文館)、印刷所、製本業者などの関係者から流出したものが転々流通して、古本屋や屑屋などを経て現在の所有者の手に収まる顚末が追跡される。中には、検閲した側の内務省の役人が戦後になって古本屋に売ったものもあった。この手の内務省マル秘本は、ぼくも何冊か古本屋で手に入れたことがある。
 荷風が捜していたフランス語訳「聖書」を、網野菊が匿名で寄贈したエピソードもいい(107頁)。

 荷風の葬儀、通夜に参列しながら、名前を名のることもなくひそやかに去っていった謎の女性が、昭和18年以降「断腸亭・・・」に50回以上登場する「阿部雪子」だったとある(180、4頁)。
 阿部雪子のエピソードの初出は、川本が「週刊朝日」平成22年7月2日号に書いたエッセイで暗示された謎が、毎日新聞平成25年5月26日付の書評でタネ明かしされる。初出時の読者はタネ明かしまでに2年以上待たされたことになるが、本書では並んで掲載されている。
 同じく「断腸亭・・・」に登場する、荷風が浅草駅のホームで300円を渡した私娼が、後に「吾妻橋」の主人公として描かれる話(229頁)なども、荷風作品の登場人物の謎解きの趣きがある。

 荷風の最晩年に通いのお手伝いとして身の回りの世話をし(やるべき仕事はそれほどなかったらしい)、遺体の発見者にもなった福田とよという女性の消息を尋ねて、彼女を知る3姉妹に巡り合うエピソードも(143頁~。出会いのきっかけが市役所職員からの情報提供というのは減点材料だが)、川本の調査への熱意が伝わる。
 この女性を半藤一利は「文字が読めない」と書いたが、川本の会った3姉妹たちは「教養のある人」だったと言い、文字も読めたと言った。川本は3姉妹に与する書き方だが、真相は分からない。文字が読めなくても教養のある人はいるだろう。文字は読めるけれど教養のない人もいるように。

 本書に、吉屋信子「岡崎えん女の一生」という小説が紹介されている(109頁)。このエピソードもまた「事実は小説より奇なり」の面白さがある。
 吉屋は昭和38年11月の新聞で、養護老人ホームに住む岡崎えいさん(70歳)が京成線小岩近くの踏切で電車にはねられ即死したという記事を目にする。この女性は、昭和30年から生活保護を受けて老人ホームに入っていたが、かつては日本橋の料亭の一人娘で雙葉女学校出のインテリだと記事で紹介されていた。
 これに興味をもった吉屋が調べると、彼女は荷風の「断腸亭日乗」に「岡崎栄」「お艶」として登場する女性だったことが分かる。彼女は、かつては銀座の裏通りで酒場や料理屋を営んでおり、その店には泉鏡花、水上瀧太郎らのほか荷風も通っていて、店には荷風の扁額が飾られていたという。戦時中の物資不足の折には荷風に食料を送ったりしているが、空襲にあって店は焼失し、戦後は女中などをしながら最後は老人ホームで過ごした。
 「岡崎えん女」の名で俳句も詠んでいた彼女は、大木喬任(たかとう)と芸妓だった母親との間に生まれた子だったとある。

 このような事情に詳しいわが愛読書、黒岩涙香「弊風一斑 蓄妾の実例」(元は萬朝報、社会思想社、1992年)を探してみると、はたして大木が登場する(83頁~)。
 伯爵大木(67歳)は「好色家」にして、自分の子どもくらいの年齢のきよ(36歳)を妾とし、その妹きせ(19歳)も準妾としたとある。この女性のいずれかが岡崎の母親なのかは、川本と黒岩の本だけからは分からない。
 法律を専攻した者としては、大木喬任と妾との間の娘という人物の生涯には興味が湧く。
 大木は明治初期政府の司法卿として民法制定に携わった。最初江藤新平が箕作麟祥に命じて作成させた民法草案(明治11年)が、フランス民法の翻訳調にすぎるとして却下され、改めて大木司法卿のもとで、お雇い外国人ボアソナードに起稿させた原案をもとに民法草案が起草された。家族法に当たる人事編の部分は明治19年頃に完成したが、これが後に「民法出て忠孝亡ぶ」と穂積八束らに批判されて結局は施行延期される旧民法人事編の草案である(石井良助編「明治文化史料叢書(3)法律篇(上)」3頁~、風間書房、1959年)。

 ちなみに、黒岩の本には、伊藤博文、山縣有朋らの政府高官から、鳩山和夫、磯部四郎、尾崎三良らの法学者、新札で話題の渋沢栄一、北里柴三郎その他、国会議員、大臣・官僚、財界人・実業家、学者、医師、弁護士から市井の人まで500名余の蓄妾の実例が紹介してある。
 かつては「好色小説」「花柳小説」作家などのレッテルを貼られた荷風を「フェミニンな作家」だったと評価する女性評論家が登場するご時世だというから(175頁)、大木や渋沢、北里たちが妾を囲っていたことをとやかく言う時代ではなくなったのかもしれないが、紙幣の肖像にまでなるとは!ぼくは蓄妾を日本の弊風として告発した黒岩涙香の側で、こんな紙幣を使うことは愉快ではない。
 
 本書でも荷風の散歩への言及はたくさん出てくる。
 老人で単独者、食事は外食ばかり、新聞も雑誌も読まず、ラジオも聴かなかった(もちろんテレビなど見なかっただろう)という荷風は、散歩でもしなければ時間がつぶれなかっただろう。小津安二郎「東京物語」の終章近くで、妻に先立たれた笠智衆が窓から顔をのぞかせた隣人の高橋とよに向かって、「一人になると日が長うなりますわい」と独りごつ場面があった。
 笠も尾道を散歩でもすればよかったのだろうが、幸運にも彼には末娘の香川京子がいた。 

 荷風の漢語趣味(159頁、「国手」「晡下」ほか)、荷風の薩長嫌い幕臣びいきの指摘もあるが(151頁ほか)、荷風の「田舎漢」嫌いへの言及はなかった。「断腸亭・・・」に頻出する「田舎漢」という荷風の表現について(「摘録」上巻127、175、196頁、下巻67頁など)、川本はどう解釈しているのだろうか。佐賀、滋賀、新潟、石川のクォーターとして生まれた「田舎漢」の1人であるぼくとしては知りたいところである。
 どこかに「愛国心」は「田舎漢」の錦の御旗のような表現もあったが、荷風は「非国民」というレッテル貼りはどう思っていたのか。本書には、友人の宅孝二が、岡山での荷風、菅原明朗らとの疎開生活を「非国民集団のような部落」と表現したことが紹介してあった(36頁)。
 
 石川淳らが酷評した戦後作品についての川本の評価も良かった(201頁~)。
 川本が紹介する「羊羹」「にぎり飯」「買出し」などは読んでみたい気もする(川本の紹介で十分かもしれないが)。「買出し」に登場する、千葉から籠(帚も)を背負って世田谷にまで行商に来ていたお婆さんの姿はぼくの記憶にもある。「買出し」の強かなお婆さんの印象もそのままである。
 ※ 113頁の「田村水泡」は「田河水泡」の誤り。223頁の映画の公開年、「つゆのあとさき」昭和56年は1956年、「踊子」昭和57年は1957年、「裸体」昭和62年は1962年の誤りである。

 2024年7月9日 記

川本三郎「ひとり遊びぞ我はまされる」

2024年07月05日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「ひとり遊びぞ我はまされる」(平凡社、2022年)を読んだ。

 永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)が面白かったので、川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)も読んでみようという気になり、その助走として川本の荷風に関する随筆「荷風好日」(岩波現代文庫)を読んだ。しかし重複もあって荷風は少し食傷気味になったので、目先を変えて、荷風を前面に出さない川本の随筆集を読むことにした。
 なかでも特にこの本を選んだのは、「三原葉子を偲んで盛岡へ」という文章が目にとまったからである。
 三原葉子は新東宝の女優だが、以前にも川本の本で彼女にふれているのを読んだことがある。川本は、ぼくが30歳代の頃にけっこう読んだ筆者の1人だが、彼の広い守備範囲にもかかわらず、ぼくの興味と重なる所はそれほど多くはなかった。しかし三原葉子と大西康子、それと西荻映画通りのことだけは、彼と思い出を共有している。

 中学生か高校生だった昭和39~40年頃に、ぼくは「猥褻と表現の自由」に関するファイルを入手した。そのファイルに収められた新聞記事や週刊誌の記事、グラビアの中でぼくの心をとらえたのが、三原葉子と筑波久子と嵯峨三智子だった(嵯峨は荷風原作の「裸体」という映画で主役を演じたと「荷風好日」に書いてあった)。
 その後忘れていた三原葉子のことが、30代になってから川本の「シネマ裏通り」(冬樹社、1979年)に書いてあるのを発見した。川本はもっと高尚な映画を論じる人だと思っていたから、新東宝のグラマー女優のことが出てきたので驚いた。
 ※「シネマ裏通り」の最終ページには、「1981・2・8(日)pm1:07 春の訪れか、暖かい。12、3℃ありそう。谷ナオミと三原葉子とジャック・レモンのことがいい」と感想が書いてあった。
 それどころか、川本の本には、大西康子のことまで出てきた。「忘れもしない、大西康子」と書いてあった(と思う)。大西はピンク映画の女優である。中学時代に同姓同名の女生徒がいたので、ぼくの記憶にも残っていた。ピンク映画など新東宝以上に日陰の存在だと思っていたから、川本があっけらかんとして論じていることに驚いた。

 さて、本書「ひとり遊びぞ・・・」だが、これも「荷風と東京」と同じく、「東京人」という雑誌の連載を本にまとめたものである。表題は良寛の句の一節だという。
 旅行と読書と映画の話題、中でも鉄道の話が多い。台湾の映画、鉄道のことも出てくる。
 三原葉子の話も、彼女の出身地である盛岡を訪ねた旅行記である。彼女は盛岡の裕福な毛皮商の娘で、お父さんが娘の活動が記録された記事類をファイルにしてあったという。地元の(三原の)後援会(?)に依頼されての講演旅行だった。彼女はなかなか周囲の人望の厚い女優だったらしい。
 お父さんが保存したファイルには、昔ぼくが目にした週刊誌の記事なども保存されているだろうか。「彼女は可愛い口をとがらせて抗議した」云々という文章があった(と思う)。

 荷風のことも少し出てくる。ぼくが勤めていた出版社は須賀町にあり、信濃町駅で下車して通勤していた。その「信濃町」の由来が、荷風の先祖の戦国武将の名前(何とか「信濃守」)に由来するとのことだった。
 会社の近所にあった須賀神社のことも出てきた。近くには「於岩稲荷」というのもあり、四谷怪談を演ずる役者は必ずお参りに来るという話だった。
 
 映画は「エデンの東」だけ、小津は「父ありき」だけ、女優はソフィア・ローレン(+ジーナ・ロロブリジータ、ロッサナ・ポデッサ)だけ、鉄道は草軽電鉄と玉電だけ、漫画は寺田ヒロオだけが有難いといった狭量なぼくにとっては、知らない人物、見ていない映画、漫画(家)ばかりが多かった。三原葉子は除いて。
 川本は、以前何かでマリリン・モンローよりジェーン・マンスフィールドのほうがいいと書いていたように記憶する。これも数少ない共感するところだった。※「シネマ裏通り」67頁にあった。

 ※282頁の「台湾人児童の就業率は70%を超えている」は、前後関係からすると「就学率」の誤りではないか。

 2024年7月5日 記

川本三郎「荷風好日」

2024年07月04日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風好日」(岩波現代文庫、2007年)を読んだ。

 永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)に出てきたまったく地理勘のない土地や知らない人物について知りたいと思って、川本の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)を買ったのだが、ものすごい分厚いコンメンタールだったので、まずは荷風入門書から始めたほうがよいだろうと考え直して、この本を読んだ。
 川本の「荷風と東京」以降に発表された荷風をめぐる随筆を集めた内容で、読みやすかった。「私註」の前に目を通したのは正解だった。 

 荷風は「市中」を散歩したが、隅田川や荒川放水路など東東京が中心で、西東京はほとんど出てこない。荷風にとって西東京は「郊外」であって「市中」ではないそうだ(31頁)。ぼくは「断腸亭・・・」を読んで、井の頭線の高井戸以西の車窓の風景を描写した個所が一番印象に残ったが、あれは荷風にとって珍しい「郊外」への遠征だったのだ。
 ぼくが、川本ほどには荷風を好きになれないのは、彼が徘徊する場所が(ぼくにとっては「異境」といっていい)東東京に偏っていることが理由の一つだろう。
 路地歩きはぼくも好きなのだが、ぼくが好きな路地(というほど細くはないが)の東端は、かつての須田町電停近くの靖国通りを一本南に外れたところにある、レトロな外壁煉瓦造り3階建てのビルが残り、バナナと大学芋だけを販売する八百屋(?)がポツンと残っている通りである。10年以上行ってないから、もうなくなってしまったかもしれない。

 林芙美子は荷風の愛読者で、荷風の小説に見られる季節の気配を論じているという(156頁)。
 ぼくも、「断腸亭・・・」の中の、「涼風秋の如し」「空俄にくもり疾風砂塵を捲く」などといった簡潔な気候の表現が好きである。芙美子自身は雨が好きだと書いているが(同頁)、ぼくも「断腸亭・・・」の気候描写でもとくに雨の描写が好きだった。「細雨烟る」「驟雨」「雨、歇む」など。
 荷風は曇りの日を「陰」と表記する。「くもり」と読むらしいが、「陰」の日は頻繁に出てくる。ただ空が曇っているだけでなく、心も陰鬱になる気分が表れている。 

 荷風と面談したことのあるドナルド・キーンは、彼の話し言葉の日本語が美しかったと感想を書き残している(202頁)。このことはぼくも納得できる。「断腸亭・・・」は、内容はともかく、その文章は音読しても良いような文章だった。ぼくには読めない漢字も多かったのだが、簡潔な漢文調で読んでいて心地よい。
 ぼくが一番気に入ったのは、何かを食べるときに、「銀座食堂に飯す」(「はんす」とルビがある。「飩」の食偏に、作りは「下」のうえに片仮名の「ノ」。IMEパッドでも出てこなかった)と書くことである。最近テレビなどで、それほど上品とも思えないタレントが、ラーメンを「いただく」などと言っているのを聞くが、ラーメンなど「食べる」でいいだろう。「飯す」は、食通ぶらない所がよい。

 小津安二郎が「断腸亭日乗」を熟読していたことと、「東京物語」の長男山村聰の医院が荷風の愛した荒川放水路の堤防の下に位置していたこととの関連性の指摘など、なるほどと思った(112頁)。あれが「荒川放水路」だったのか。「お早う」の土手も「荒川放水路」だったのか。
 小津「風の中の雌鶏」で、佐野周二が娼婦役の文谷千代子と川原でおむすびを食べるシーンなども荷風を下敷きにしたのだろうかと思ったが、「風・・・」は昭和23年、「断腸亭・・・」は昭和24年以降の公表らしいから、関連はなさそうである。娼婦と客が川原で弁当を食べるようなことも、当時としてはありがちなことだったのだろう。
 「荷風の映画」という章も興味深かった(188頁~)。
 荷風の小説を原作とした映画が数本あったらしい。「渡り鳥いつ帰る」という映画は(題名からはまったく見る気にもならないが)、田中絹代、森繁久弥、水戸光子、淡路恵子、高峰秀子、岡田茉莉子などの出演者を眺めると見たくなった。DVDはないようである。川本もこれらの映画に出てくる風景を懐かしんでいるが、小津映画のような風景なのだろうか。山本富士子の「濹東奇譚」も見てみたい。

 川本の本には、戦後の荷風を「すべて読むに堪えぬもの」と批判した石川淳その他の文章が引用されていて、諸氏の荷風評価を知ることができる(151頁)。荷風自身が、60歳前後で死ねなかったことはこの上もない不幸だったと述懐していることは「摘録」にもあった。「精神貴族」荷風にとって、著作が泡沫出版社から仙花紙で出版される戦後初期は(154頁)屈辱の時期だっただろう。
 しかし、川本は、安岡章太郎などとともに戦後の荷風をも評価する。敗戦も近い昭和20年になって、荷風は5回も空襲に遭っている。3月10日の東京大空襲で麻布の偏奇館を焼かれ、疎開先の代々木の従弟宅を焼かれ、東中野、明石、岡山と、逃げ延びた先々でも空襲に逢っている。戦後の荷風の奇矯な言動は空襲恐怖症によるものだったと川本は弁護する(170頁~)。
 
 荷風は遺書の中で墓石を建てることを拒絶し、石碑などを建てる文学者を「田舎漢」と軽蔑していたはずだが、川本によると、荷風の墓は雑司ケ谷墓地にあり(父の墓か)、父祖の出身地である愛知県名古屋や三ノ輪のお寺には荷風の文学碑もあるらしい(208、250頁)。その他にも作品に登場するゆかりの土地に何か所かには、その手の碑があるらしい。
 生粋の東京人かと思っていた荷風の一族が名古屋の出であるとは知らなかったし、荷風の文学碑を建立するなど贔屓の引き倒しではないかと思うが、文化勲章を受章したり、「断腸亭・・・」の中であんなに嫌っていたラジオの番組に出演して饒舌に喋ったりしたというから(161、200頁)、荷風の気持ちも戦後になって「断腸亭・・・」の頃とは変わっていたのかもしれない。
 文化勲章の受賞によって、父親に顔向けできるような気持になり、父親にたいするコンプレックスから解放されたのかもしれない。
 
 川本は、若い女性はほとんど荷風を読まない、荷風は「老人文学」「隠棲者文学」だからだろうと書いている(249頁)。荷風は、過去に戻ろうとしたのではなく、幻影の過去を作ろうとした「ノスタルジーの作家」であったとも書いている(105頁)。この評言にも共感する。
 
 2024年7月4日 記

永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その3)

2024年06月30日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫、1987年、磯田光一編)下巻を読みおえた。

 「巻措く能わず」と言いたいところだが、何度か巻を置いて嘆息した。
 ぼくも若い頃だったら、荷風の「傍観者的態度」に我慢できなかっただろう。しかし老境の今になって読むと、昨今の日本や世界の状況に対して、結局自分も日本が再び戦前になりゆく時代の「傍観者」の1人ではないのかという自省、自責の念から嘆息してしまうのである。

 「日乗」になぜ削除、切取の個所がたくさんあるのかは、昭和16年6月15日の日記で分かった。
 荷風が中央公論に寄稿した文章によって、彼が長年にわたって日記をつけていることが世人に分かってしまい、彼が時局について何を記録しているかを探る者が出てくることを懸念し、荷風はある深夜、日記の中の不平憤惻の文字を切り取ったのである(142頁)。「断腸亭日乗」は秘かに書かれた記録ではなく、これ以降はいつ権力者に発覚するかしれない文書になったのだ。
 それにしては、日記の一部を切り取り、削除したその日に、日支戦争は日本軍の張作霖暗殺に始まり、・・・支那の領土を侵略し始めたが、長期戦に窮して聖戦と称する無意味の語を用いだした、南洋進出は無知の軍人ら獰猛の壮士の企てたことで、一般人民の喜ぶところではない云々と書き記している(143頁)。切取、削除した個所にはこれよりもっと踏み込んだ軍部、政権批判が書いてあったのだろう。
 そもそも、新聞を読まず、送呈された雑誌類も読まず、ラジオも聴かなかった荷風はどのようにして、それらの情報を得ていたのか。すべて玉ノ井の娼婦や、浅草、銀座などでの友人や編集者との会話だけから得ていたのだろうか。

 下巻でも、荷風の当時の政治家、軍人、文士らに対する筆鋒は相変わらず厳しい。
 昭和14年1月に東京市長の音頭で「大都会芸術」なるものが提唱された際には、参加した「菊池吉屋佐藤西条らいずれも大の田舎漢にて噴飯の至り」と書く(67頁)。菊池寛、吉屋信子、西条八十だろうが、佐藤は紅緑か春夫か。
 昭和18年5月に、菊池寛が設立した言論報国会が無断で荷風の名前を名簿に載せた際には、「同会々長は余の最も嫌悪する徳富蘇峰なり」、しかし抗議することによってかえって相手に名をなさしむことになるので捨て置くことにするとある(192頁)。

 --などと、上巻と同様に下巻についても印象に残った記述を摘録しようと思ったが、億劫になってきたので、もう止めにする。
 下巻には、昭和12年(1937年)1月から亡くなる前日の昭和34年4月29日までの日記が掲載されている。
 相変わらず軍人、文士らの「田舎漢」批判、出版社や編集者の批判、印税や税金の話題などが多いが、戦後になると女性の話は減ってくる。毎日その日の天候から始まり、散歩の道すがらの風物、病気(「腹痛下痢二回」など)の話題は一貫している。
 この間、軍人の専制政治があり、戦争が激化し、やがて日本の敗色濃厚となり、昭和20年3月の東京大空襲では麻布の自宅「偏奇館」も焼失し、岡山、熱海その他で疎開生活を送る。敗戦後も暫くは従弟宅などで居候生活をした後に、千葉県市川に40坪の住宅を購い、亡くなるまで一人で過ごすことになる。

 戦前には、印税、株の配当などでかなりの収入を得ていたようだが、戦後は預金封鎖、新円切替、財産税導入など(303頁など)があり、経済面で不安を感じたようだ。預金封鎖にあったため、中央公論社嘱託となるという記述もある(294頁)。
 「偏奇館売文覚書」なる備忘も残している(316頁)。戦前には軽蔑していた「売文」業に自分も堕ちいったことを認め、売文で糊口をしのぐ生活を送る(石川淳によれば戦後の荷風の作品に見るべきものはないそうだ)。
 昭和27年には、朝永振一郎、辻善之助、安井曽太郎、梅原龍三郎らとともに文化勲章を受けている。この年、佐々木惣一までもが文化勲章を受けていたことには驚いた。
 「日乗」に記された言動からは、荷風が文化勲章を受けるなど考えられないことだが、毎年50万円の年金を生涯貰えることは、戦後の荷風には経済面で魅力だったのかもしれない。授賞には、当時荷風全集を刊行していた中央公論社の島中雄作の画策、尽力があったと推測される。なお「中央公論高梨」という名前が時おり出てくるが、どこかで見覚えがあると思ったら、中公バックス版「世界の名著」(中公)奥付の発行人が「高梨茂」となっていた。彼だろう。

 昭和29年頃から日記の記述の分量はだんだん少なくなり、昭和34年には「晴。正午浅草。」のような記載がつづいていて、亡くなる前日の4月29日の「祭日。陰。」(陰には「くもり」とルビが振ってある)で「日乗」は終わっている。
 戦後の世相に関する感想では、昭和22年5月3日の、「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑うべし」という記述が一番気になった(308頁)。どういう意味で笑うべし、なのだろうか。

 風景についての描写では、森鴎外の墓参のため井の頭線で吉祥寺に向かう場面がよかった。
 鴎外の墓は三鷹の禅林寺にあるらしい。渋谷から井の頭線に乗った荷風は、北沢までの車窓は目黒あたりと変わらないが、高井戸あたりから空気は清涼になり田園森林の眺望が目を喜ばすと印象を語る。荷風には米国の田園らしく見えるところもあったようだ(210頁)。
 荷風が頻繁に歩く下町の風景にはまったく馴染みがないが、井の頭線が出てくるとは。最近久しく井の頭線に乗っていないが、昭和30年代には浜田山、久我山あたりの車窓には田園風景が広がっていて、緩やかな丘の雑木林や小川が見えた。なぜかこの光景の思い出と一緒に、ぼくにはデル・シャノンの「悲しき街角」が聞こえてくる。

 下巻に登場する女性で一番印象に残ったのは、昭和24年6月15日に地下鉄浅草駅のホームで出会った21、2歳の街娼である。荷風が煙草に火をつけるのに難渋していると火を貸してくれ、「永井先生でしょう」と尋ねて、「鳩の町」も読んだという。荷風は煙草の空き箱に100円札を3枚入れて渡す。3日後に偶然再会し再び300円を渡そうとすると、彼女は「何もしないのにそんなにもらっちゃ悪いわよ」と辞退する。
 荷風は、その悪ずれしない可憐さに「そぞろに惻隠の情を催さしむ。不幸なる女の身の上を探聞し小説の種にして稿料を貪らむとするわが心底こそ売春の行為よりもかえって浅間しきなり」と書く(332頁)。荷風老いらくの恋のはじまりかと思ったら、小説のネタ取材が目的だったとは・・・。
 ぼくはこの女性に小津安二郎「風の中の雌鶏」の文谷千代子を思い浮かべた。彼女のような娼婦以外の女性は荷風を読むのだろうか。

 2024年6月30日 記

永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その2)

2024年06月28日 | 本と雑誌
(承前)
 荷風は、日本の文士・文学者だけでなく、軍人、警官(特高)、政党政治家、さらに一般の日本国民も嫌いだった。
 麹町通りで台湾の生蕃人(ママ)の一行を見かけるが、彼らは警備の日本人巡査よりも温和な顔をしていると書いている(16頁)。関東大震災の折に被服工廠跡で多数の焼死者が出たのは、巡査が粗暴で臨機応変の才覚がなかったことによると批判する(127頁)。 
 大正8年中国で起った排日運動の原因は、わが薩長政府の武断政治の致すところであり、国家主義の弊害がかえって国威を失墜させ邦家を危うくするのであると喝破し、その後の敗戦に至る日本の歩んだ道を暗示している(29頁)。

 昭和11年の日記には、現代日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なきことの三つであるが、政党、軍人の腐敗も結局は「一般国民の自覚乏しきに起因する」ものであり、しかし「個人の覚醒は将来においても・・・到底望む」ことはできないと悲観する(345頁)。
 満州事変(昭和6年)、5・15事件(同7年)、2・26事件(同11年)などにおける軍人の暴挙だけでなく、戦時下に軍服のまま平然と待合に(客として)出入りするなどといった軍人の非行を指弾する記述は随所にある(233、257、352頁など)。企画院、大蔵省その他の建物が落雷で焼失した際には「天罰痛快々々」と書いている(昭和15年6月21日、下巻93頁)。
 巡査、軍人、政治家から文士まで、荷風はしばしば彼らを「田舎漢」と呼んで軽侮する。
 尾張藩士の末裔にして大学南校からプリンストン大学を経て文部官僚となり、官を辞した後は日本郵船の支店長などを務めた父のもとに小石川で生まれ、幼少期にアメリカ生活を経験し長じてからはアメリカ、フランス留学も経験したモダンな荷風には(しかし親の期待には応えられなかった)、当時日本の政治、軍事を、そして文壇をも牛耳り、東京に蝟集する地方出身者の言動は不愉快ったのだろう。

 荷風が嫌う文士の筆頭は菊池寛である。菊池を「売文業者」と呼び、酒場の美人投票で、お気に入りの女給仕に投票するためにビール150瓶(1瓶1票だった)を買って車で自宅に持ち帰ったなどという噂話を暴露し冷笑する(196頁)。有島の情死報道にも無関心(65頁)、芥川の自死にもそれほどの関心を示していない(148頁)。
 荷風は軽井沢も嫌いなようだ。8月10日の東京は涼しい、高いホテル代を払ってまで軽井沢へ避暑に行く奴の気がしれないと書いているが(何年だったか?)、これも軽井沢を有難がるような文士に対する当てこすりか。もっとも他方では、昭和2年8月に軽井沢の離山で鶯を聞いたことを懐かしむ記述もある(昭和9年8月1日、308頁)。
 夏目漱石の未亡人が漱石の私生活を語った本を出版し(夏目鏡子、松岡譲「夏目漱石の思い出」)、そのなかで漱石は「追従狂」という精神病だったなどと暴露したことを強く批判する(151頁)。「漱石の思い出」はその昔角川文庫版で読んだが、そんな記述があった記憶はない。
 荷風にとって有難いのは、森鴎外と上田敏(132頁ほか。荷風を慶応義塾教授に推挙してくれたらしい)、それと成島柳北だけのようである。成島の日記を筆記する様が随所に出てきた。 

 新聞社、新聞記者、出版業者、賄賂が横行し著作権を無視する教科書出版社(父親が文部官僚だったから実態を知っていたのか)、その社主や編集者たちも嫌いである。
 かつて朝日新聞は荷風のカフェ出入りを中傷しておきながら、にわかに寄稿を依頼してきたことを訝しがる(昭和6年、220頁)。改造社の円本、中央公論社に対しても冷ややな記述があるが、結局は円本の出版でかなりの印税を得たようだし、戦後になって中公から全集まで出すなど、経済面ではしっかり(ちゃっかり)しているようだ。

 この日記の面白いところの一つは、荷風が随所で印税などの金銭勘定を書き残していることである。
 太陽堂が連載寄稿の依頼の際に、前払金として現金500円を突き出した無礼を詰り(90頁)、改造社の全集企画に関しては契約手付金1万5000円が小切手で支払われ、斡旋した邦枝何某にも礼金500円が支払われるとある(145頁)。後には、改造社の円本の印税が巨額に達したることを察知した無産党員から脅迫を受けたりもしている(178頁)。納めた所得税額まで明記してあったが、これは下巻だったか。
 文士の住宅事情の一端もうかがうことができる。
 大正7年のことだが、築地への引越しの際に、築地の新居の家屋代金は2500円(土地代がないということは借地だったのか?)、仲介会社手数料460円(建物価格の約20%とは高くないか!)とある。他方、余丁町の旧自宅の地所と家屋の売却代金が2万3000円、家具什器類の売却代金が1892円などで、差引残金は2万3304円22銭とある(20頁)。お金には恬淡なようでいて、銭単位まで書き残すとはけっこう銭勘定に細かい人である。

 酌婦(という言葉は使ってないが)の前借金の相場も書いてある(昭和11年、356頁)。3年で1000円が相場だが、半年で2、300円という女もあり、寝台その他の造作一切付きで1日3円を家主に支払う例もあるという。
 玉ノ井近くの梅毒病院では入院患者が100人以上あり、入院料は1日1円だったそうだ。民法の授業で前借金契約を無効とする判例を学んだが、あの事案では法外な前借金が無効だったのか、そもそも前借金契約自体が無効だったのか。 

 本書には、伏字(×××)や、「削除」とか「切取」と書かれたところが何か所もあるが、そこには何が書いてあったのか。
 軍人や政治家に対する批判は随所に見られたが、天皇の言動に関する感想はなかったように思う。「摘録」なので編者の磯田氏が摘除したのか、もともと記述がなかったのか。ひょっとしたら、「削除」「切取」や伏字の部分に書いてあったのは天皇に関する記述だったのではないかと推測する。
 満州事変や朝鮮独立運動、大杉栄暗殺、5・15事件、2・26事件、血盟団事件など、世の中の不穏な動きにふれていながら、天皇にまったく無関心だったとは思えない。難波大助の死刑に関して40文字近い伏字があるのも(79頁)、そのような想像をたくましくさせる。
 ただし大正天皇の崩御が近い時期に、新聞紙が天皇の飲食物や排泄物の量などを報ずることは(昭和天皇の時にも日々報道されたが、明治天皇の時も同様だったという)君主に対する詩的妄想の美感を損なうものであり、車夫下女の輩が号外を求めて天子の病状を口にするのは冒瀆の罪の最たるものであると書いている(125頁)。(つづく)

 2024年6月27日 記

永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その1)

2024年06月26日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「摘録 断腸亭日乗(上)」(岩波文庫、1987年)を読んだ。

 「濹東綺譚」の風景は下町ばかりで馴染むことができなかったが、「断腸亭日乗」のほうは、やはり下町の話が多いが、大正7年の余丁町から築地を経て麻布への引っ越しなど、親しみのある地名も出てきた。荷風より10歳ほど年長だったぼくの祖父は(荷風が忌み嫌う)職業軍人だったが、東京では余丁町の官舎に住み、麻布(六本木)、青山の勤務地に通った。亡父は余丁町小学校を卒業している。
 面白い記事が沢山あって、図書館で借りた本なので傍線を引くわけにはいかず、付箋を貼りながら読んだのだが、付箋が数十か所になってしまった。返却する時に剥がすのが大変だ。

 面白かった第一は、荷風の散歩と食べ歩きである。
 散歩はその移動距離にまず驚く。例えば雑司ケ谷墓地から九段坂に至ったりするのだが、全行程を歩いたのだろうか。「歩む」と書いてあるところもあるが(86頁)、書いてない場合でも歩いたのだろうか。歩いて歩けない距離ではないが、2時間やそこらはかかりそうである。地下鉄(道)や乗合バスに乗った時にはそう書いているので、書いてない場合は歩いたのだろうか。それとも、当時は市電の路線が東京中に張りめぐらされていたから市電に乗った場合には当然のこととして書かなかったのか。
 独身だった荷風の昼食、夕食はほとんど外食である。銀座、浅草その他の食べ物屋、飲み屋がたくさん出てくるが、ぼくが名前を知っているのは「金兵衛」と「風月堂」くらいである。「金兵衛」は、現役時代の会議の際に何度か仕出しを配達してきた「金兵衛」と同じだろうか。
 カフェ、待合などがどのような場所なのかぼくには分からないが、玉ノ井が頻繁に出てくる。玉ノ井というのは、植草圭之助「冬の花 悠子」が地下鉄銀座線に乗って脱出した吉原の遊郭のことだろうか。
 ※ 玉の井と吉原はまったく別物というより、天と地、月とすっぽんくらい違う場所だった。吉原は高級な公娼がいる遊郭(廓)で、玉の井は最下級の私娼が棲む路地裏だったらしい(川本三郎「荷風好日」岩波現代文庫82、93頁)。

 荷風は女好きだった。日記にも多くの女性が登場する。
 アメリカ、フランス留学(1904~07年)から帰朝以来、「馴染を重ねたる女」の名前を16名列挙してあるが(342頁、すべて実名のようである)、「馴染を重ねる」というのはどういう関係だったのか。戦前の婚外男女の事情に疎いので、これらの女性と荷風の関係が理解できなかった。妾、芸妓(伎も同じか?)、芸者、女給、私娼(公娼の定義は?)などの肩書のついた女もあるが、区別は分からない。
 しかし、荷風は、「女好きなれど処女を犯したることなくまた道ならぬ恋をなしたる事なし。50年の生涯を顧みて夢見の悪い事一つもなしたることなし」(192頁)と書いている。売春が公認されていた時代だったが、私通姦通はしないというのが荷風の倫理観だったのだろう(安藤昌益「自然真営道」が近親婚には許容的なのに、姦通に対してはきわめて厳しい態度だったことを思い出す)。
 末弟との悪関係から母親の葬儀には参列していないが、毎年の正月元旦には雑司ケ谷墓地に亡父の墓参りに出向いている。

 荷風は、自分は「無妻」でもあり、また「多妻」とも言える、書斎では独身だが、いったん外に出れば一変して「多妻主義者」になると書いている(298頁)。荷風は一度結婚したが、妻と離婚して以降は「妻」を持たなかった。定まった妻を持たず子孫もないので、いつ死んでも気が楽であることは幸せであると書いている(191頁。285頁にも同様の記述あり)。銀座で乱暴狼藉を働く慶応義塾の学生を目撃し、子を持たないわが身の上を嬉しく思ったと書く(287頁)。
 昭和11年1月にわが家に連れて来た女が「わが生涯で閨中の快楽を恣にせし最終の女なるべし」、「色欲消磨し尽せば人の最後は遠からざる」として、同年2月24日に遺書を認めている(346頁)。荷風58歳の時である。
 遺書には、葬式は不要、死体は普通車で火葬場に運び、骨は拾う必要なし、墓石などの建立も不要、全遺産はフランス・アカデミアに寄付する、著作に関する一切は親友(名は削除)に任せる、中央公論社の如き馬鹿々々しき広告を打つ会社から自分の全集を出すことを恥辱に思う(といいつつ戦後になると中公から全集を出している!)、三菱銀行に定期預金が2万5000円あるので、これで自分の全集を印刷して同好の士に配布されたし、などと書いてある(346頁)。
 遺書には、「余は日本の文学者を嫌ふこと蛇蝎の如し」という一項までわざわざ設けている。
(つづく)

 2024年6月26日 記

「写真集 信州の鉄道・その100年」

2024年06月21日 | 本と雑誌
 
 長野鉄道管理局監修「写真集 信州の鉄道・その100年」(1979年、信濃路)。
 発売は農山漁村文化協会とあるが、本体、奥付、函のどこにも定価の表示がない。非売品だったのか? この本もどのような経路で入手したのか、まったく記憶にない。
 ※と書いたが、本の中から日販のスリップが出てきた。「返品期日 53年5月31日 ¥3500」とある。昭和53年(1978年)に3500円で新刊本を買ったようだ。

 明治18年の直江津線(後の信越線)の建設開始時の写真から、昭和45年の野辺山駅に停車するポニー号の写真まで、100余ページにわたって、信州長野の鉄道の歴史をたどる写真が満載されており、付録として、記念切符、駅弁パッケージ(横川の釜めし容器もある)、鉄道ダイヤ、そして長野県内の信越本線・中央本線・大糸線などの全駅の写真、および信州の鉄道の略年譜が掲載されている(下の写真)。
 
   
   

 中には、大正時代の軽井沢のメインストリートの写真など、鉄道以外の風景もある(下の写真)。
 「鉄道唱歌 第4集 北陸編」というのも載っていた。鉄道唱歌に東海道線以外もあったとは知らなかった。
 「これより音にききいたる/碓氷峠のアプト式/歯車つけておりのぼる/仕掛は外にたぐひなし」で始まり、「夏のあつさもわすれゆく/旅のたもとの軽井沢/はや信濃路のしるしとて/見ゆる浅間の夕煙・・・」とつづいて、最後は越後の「田口駅」で終わる(大和田建樹作詞)。
 軽井沢は当時すでに避暑地となっていて、象徴する風景が浅間山の夕霞というのがいい。「田口」駅は小津安二郎の戦前の映画で、早稲田の学生たちがスキーに出かけた場面に出てきた。現在の妙高高原駅だったか・・・。あの映画では軽井沢駅の駅弁も出てきた。

   
    

 敗戦後のアメリカ占領時代に、軽井沢駅改札口に立つアメリカ兵を写した写真もあった(上の写真)。
 加藤周一の「ある晴れた日に」(岩波現代文庫)のなかに、敗戦後に軽井沢に進駐してきたアメリカ憲兵が、接収した万平ホテルや三笠ホテルをベースにして軽井沢や追分で日本の戦争協力者を摘発する場面があった。
 この写真を久しぶりに見て、昭和20年8月15日の草軽鉄道と軽井沢を舞台にした推理小説を書こうと目論んでいた日々を思い出した。トリックは有馬頼義をまねた時間トリックというやつを構想したが、肉づけができずに諦めた。そのときに参考資料にしようと思って買った本の1冊かもしれない。 

 2024年6月21日 記

佐々木桔梗「探偵小説と鉄道」

2024年06月20日 | 本と雑誌
 
 佐々木桔梗「探偵小説と鉄道ーー「新青年」「探偵小説」63の事件」(プレス・ビブリオマーヌ、1975年冬、限定版570部の545番と奥付に記載がある。定価の記載はない)、扉に水色のインクで手書きされた著者のサインがあり、本文中に、ヨーロッパのどこかと思われる国の鉄道切符(硬券)、シャーロック・ホームズの葉書、蒸気機関車のイラストの入った切手(1/2Fとあるが消印で他の文字は読めない)が挟んであった。アクリル板の透明ケースに収まっている。 
 表紙には、客車2両を引いて転轍機をまわる機関車のイラストがあり(クロフツ「急行列車殺人事件」新青年昭和8年5月号に掲載された横山隆一の挿絵とある)、口絵ページには、探偵小説を飾った古い鉄道列車の挿絵が多数入っていて、本文には、「新青年」と「探偵小説」に掲載された鉄道ミステリー計63作品(数えてないけれど)が紹介してある。
 装丁なども含めて、かなり趣味的な本である。

 どういう経緯で手に入れたのかも覚えていないが、1975年頃ブームになっていた「新青年」などの復刻版を、牧逸馬をきっかけに買った時期があったから、何らかの媒体で知って買ったのだろう。古書店の店頭か古書目録で見つけたのかもしれない。時々眺めに行った神保町の篠村書店には鉄道関係の古本もけっこう置いてあったから、あそこかだったかも知れない。
 現在、「日本の古本屋」で調べると、1500円程度から売られているが、もっと高値をつけている店もある。「限定版」という割には意外に安い価格である。

 この本は断捨離の候補だったが、サラリーマン時代の友人の息子さんがいわゆる「鉄道オタク」で、鉄道関係の本も集めているということなので、他の鉄道関係の本と一緒に彼に差しあげることにした。

 2024年6月20日 記

サリンジャー「フラニーとズーイ」

2024年06月19日 | 本と雑誌
 
 サリンジャー/鈴木武樹訳「フラニーとズーイ」(角川文庫、1969年)も断念。昔買ってあったので「ナイン・ストーリーズ」につづけて読みだしたのだが、読み進めることはできなかった。

 1969年に野崎孝訳で読んだ「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)は、ぼくの人生に影響を与えた10冊の本の中に入るだろう。同じ年に読んだマルタン・デュ・ガール/山内義雄訳「チボー家の人々(全11巻?)」(これも白水社だった)、樺美智子「人知れず微笑まん」(三一新書)も10傑に入るだろう。
 そう言えば、6月15日は樺さんの命日だった。2、3週間前のNHK「映像の世紀」(だったか?)で、60年安保闘争のドキュメントをやっていたが、その中で、樺さんの遺体が無造作に警察かどこかのベンチに布をかけて置かれている(一輪の花が添えられていたが)映像が写っていた。ショックだった。

 「ライ麦畑・・・」は良かったし、最近になって読んだサリンジャー選集(荒地出版社)の「若者たち」と「倒錯の森」に収められた初期の短編集、鈴木の分類に従えば「初期短編物語群」に分類される短編も良かったが、「グラス家物語」ないし「グラッドウォーラー・コーフィールド物語群」といわれるグループに含まれるらしい短編は、どうやらぼくには縁のない話ばかりのように思えてきた。ただし後者の中でも、「フランスの少年兵」「最後の休暇の最後の日」「マディソン街外れのささやかな反乱」など数編はよかった。
 しかし「フラニー」は最初の16頁で限界に達した。野崎訳(新潮文庫)だったらどうだろう・・・、とも思ったが、おそらく駄目だろう。せっかくなので、きょう病院の待ち時間の間に、巻末の武田勝彦解説だけを読んだ。そして、いよいよぼくには縁のない本に思えてきた。この解説は、ぼくのように、サタデー・イブニング・ポストに載るような小説のほうが面白いと思う凡人にとっては役に立ったが、まさにサリンジャーが自著に解説をつけることを拒絶する気持ちがわかるような解説だった。

 「ズーイ」などの作品は、初期の習作時代の作品に比べて、象徴主義、前衛的手法がまさってきているそうだ。ぼくは根が単純なので即物的なストーリーでないと理解できない。彼によれば “Newyorker” 誌は、大学教授などのインテリたちには軽く扱われているが、「都会的センスを求める知的大衆」にとっては「生活のバイブルである」そうだ。サリンジャーの解説で、よくぞ「知的大衆」などという言葉が使えたものである。
 「知的」ではない「大衆」の1人であるぼくにとっては「生活のバイブル」ではないが、ニューヨークの若者の生態を知ることができるところだけは確かに良かった。
 武田の解説で、「フラニー」の中には、マーティーニのオリーブの実は食べるべきか否かという会話が出てくるとあった。オリーブを添えたマーティーニは「ライ麦畑・・・」の中にも出てきた。いかにも美味そうな描写だったので、サラリーマンになってから行きつけのバーで注文したことがあった。不味かった。オリーブの実を食うか否か以前の問題である。何でアメリカ人はこんな不味い酒を有り難がるのか分からなかった。あまりに不味かったので、口直しにバイオレット・フィズを注文した。サントリーの各種カクテルがトリス・バーの棚に並べてあった時代である。

   

 実は、野崎孝訳「大工よ屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」(新潮文庫)を1週間ほど前に amazon で注文したのが先日届いた。しかし、これもだめだろう。到着と同時に未読書コーナー行きになってしまった。「1924年ハプワース16日」も持っていないが、どうせ読めないだろうから買わないでおこう。 
 サリンジャーは、1969年の「ライ麦畑・・・」と、2022~4年の「若者たち」と「倒錯の森」(荒地出版社)、そして先週の「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)で打ち止めにしよう。
 2021年の末頃に、娘の書いた「我が父サリンジャー」と、スラウェンスキー「サリンジャー」を近所の図書館で見つけて読んだときから始まったぼくの「サリンジャー復興」はどうやら終焉を迎えたようだ。

 2024年6月18日 記

M・J・サンデル「リベラリズムと正義の限界」

2024年06月17日 | 本と雑誌
 
 読書断念シリーズ第2弾!
 本の断捨離がなかなか進まないので、「未読書整理コーナー」を設けることにした。一定期間(1年間くらいか)このコーナーにおかれたまま放置された本は処分する(つもりである)。断捨離の執行猶予のようなものである。
 ルイス・ナイザー「私の法廷生活」に続く第2弾は、マイケル・J・サンデル/菊池理夫訳「リベラリズムと正義の限界(原書第2版)」(勁草書房、2009年)である。
 気になりつづけていたので、1か月ほど前に読み始めたが、残念ながら40頁ほどで挫折した。悪戦苦闘したのだが、時間の無駄と覚ったので、この先を読むのはやめる(諦める)ことにした。

 ローデル「正義論」「公正としての正義」に示されたリベラリズム論への反論の書である。かと言ってコミュニタリアニズムに同意するものでもないらしい。
 黒人の公民権を求めるキング牧師らのデモ行進は表現の自由の行使として認めるが、ホロコーストの生存者が多く住む町の中をネオ・ナチがデモ行進することは(そういう事件があったようだ)認めないという結論は、表現内容に対して中立の立場をとるリベラル派にとっても、コミュニティに優勢な価値にしたがって権利を定義するコミュニタリアンにとっても、原理的に不可能であるとサンデルはいう。
 前者(キング牧師の行進)を肯定し、後者(ネオナチの行進)を否定するという結論(それが常識にかなっている)はどのような原理によって可能か、というのがサンデルの出発点のようである(ⅻ頁)。この結論をリベラル派は支持するだろうが、その正当化はリベラル派がいう「正」「正義」論では不可能であるとサンデルはいう。

 ぼくは、キング牧師らのデモと、人種差別主義者のデモが等値関係にあるとは思えない。キング牧師のデモは整然としてシュプレヒコールすらなしに行われるのに対して(先日NHKテレビ「映像の世紀」でキング牧師の公民権デモ行進の映像を見た)、ネオナチのデモはユダヤ系の多く住む街で行われたという一事をとっただけでもキング牧師らのデモとは違いがある。仮定の事例としても、キング牧師のデモとネオナチのデモを等置して、前者は認め後者は否定する正当な論理は何かと問うこと自体に違和感を覚える。
 どうしても両者を等置したうえで、キング牧師らのデモを正当化し、ネオナチのデモを否定しろというなら、表現内容に踏み込んで、人種間の平等を目ざして黒人への公民権付与を唱えるデモは民主主義国家の理念に合致しているのに対して、人種間の差別や少数人種への憎悪や排除を唱えるデモは民主主義国家の理念に反するからと答えるだろう。こういう結論はコミュニタリアン的態度というのだろうか。
 それならそれでもぼくは構わない。リベラルかコミュニタリアンかが問題の本質とは思わない。

 しかし、法哲学の世界ではそんな簡単に結論づけることはできず、この結論に到達するには1冊の本が必要なようだ。
 法哲学の世界では、「正・正義(right)」対「善(good)」という対立項が根本にあるらしい。「正義」派の代表はカントで、現代におけるその主唱者がロールズらしい。したがって、ロールズの「無知のヴェール」(+無関心の傍観者)を論ずるためには、その前にカントを検討しなければならないらしい。
 しかし、カントも苦手だ。数十年前に天野貞祐訳「純粋理性批判」(講談社学術文庫、1979年。全5巻だったか?、いつの間にか手元からなくなってしまった)を買ったが、1巻の10ページも読まずに断念した。ぼくには縁のない本だった。
 学生の頃ゼミの飲み会で夜遅くなり、その一人を湘南電車の下り終電で平塚まで送って行ったところ、彼女のお父さんが泊っていきなさいと言ってくれたので、彼女の家に泊めてもらったことがあった。彼女の部屋の本棚に、カントの「純粋理性批判」(岩波文庫だった)が並んでいたので、手に取って見ると、最初の10数頁のところにしおりが挟んであって、その後は読んだ気配がなかった。カントに挑戦はしたものの、読み通すことはできなかった彼女をますます好きになった(またしても・・・)。

 それから50年が経って、今回はサンデルに挫折した。
 「正義の限界」に到達するはるか手前で、ぼく自身の「能力の限界」が来てしまった。
 20年前に、川本隆史「現代倫理学の冒険」(創文社、1995年、手元の本は2003年5刷)を読んで、納得した記憶がある。内容はほとんど忘れてしまったが、リベラリズムはあの本(の記憶)で良しとしよう。 

 2024年6月17日 記

ルイス・ナイザー「私の法廷生活」

2024年06月15日 | 本と雑誌
 
 ルイス・ナイザー/安部剛・河合伸一訳「私の法廷生活--弁護士の回想」(弘文堂、1964年)を読み始めたのは数週間前のこと。しかし第1章を読んだところでしばらく放置したままになっていたが、結局これ以上読み続けるのは断念することにした。

 第1章は名誉棄損事件、第2章は離婚事件を取りあげていて、テーマ自体に興味はあるのだが、残念ながら今のぼくにとってその内容は面白くなかった。臨場感というか、ダイナミックさがないのである。登場人物も知らない者が多い。自分が担当した裁判の訴訟記録か何かを読みかえしながら、書いているような印象を受けた。
 弁護側の証拠調べ手続に向けての証拠の収集、証人との打ち合わせなどの公判準備や、反対尋問の手法など、法廷技術に興味のある人なら参考になるだろうが、過去の裁判事件を興味本位で知りたいぼくにとっては期待外れだった。
 訳者は二人とも、アメリカ留学経験を持つ法律実務家だが、新刑事訴訟法を英米流に運用することを目ざして翻訳したのではないか。“Law and Tactics” なんてケースブック(全5巻だった)が出るくらい、英米では法廷技術をマスターすることが重要らしいから、本書のような有名弁護士による法廷の思い出話、自慢話も後輩弁護士たちに有用なのだろう。

 なぜか、この本の原書(といってもペーパーバック版)も持っていた(下の写真の左側)。
 Louis Nizer, “My Life in Court” (Pyramid Books, 1963)95¢ とある。東京泰文社のラベルが貼ってあった。懐かしい神保町の古書店である。今もあるのだろうか。もちろん読んでいない。その表紙の宣伝文句には「175万部を売り上げた」とある。

   

 ナイザーの本と一緒に、P. Packer et al. “The Massie Case--The Most Notorious Rape Case of the Century” (Bantam Books, 1966)というのも出てきた(上の右側)。同じく東京泰文社のラベルが貼ってあった。いずれもかなり汚れているが、1980年代まではアメリカ兵(?)が残していったような洋書がけっこう神田の古本屋にも並んでいた。
 “Massie Case” は1931年に(!)ハワイで起きた殺人事件である。海軍少尉の妻が、5人の原地人によって強姦されたと夫に訴えた。夫の少尉はそのうちの1人を拉致したうえで殺害したとして、妻の母親とともに起訴された。母親はセオドア・ローズヴェルトの親戚という社交界の名士であり、有名な弁護士クラレンス・ダロウ(C. Darrow)が2万5000ドルの報酬で弁護人となったこともあり、全米に一大センセーションを巻き起こした事件だったらしい。1963年にヒロイン(?)の Massie 夫人が薬物中毒で亡くなったのを機に執筆されたようだ。
 実際に強姦があったのかも争点となったようだが、なぜこのような事件をダロウが受任したのかも興味が湧く。表紙によれば、ダロウは被告らの弁護によって「ハワイの白人優越主義者たちの英雄になった」とある(ということは被告側が勝訴したのだろう)。著者は当時のハワイにおける白人優越主義をテーマにしているようで、「強姦と殺人と人種的偏見とが、楽園の島ハワイを暴力の噴火山に変えてしまった」という表紙の惹句に魅かれて4、50年前に買ったのだろうが、今となってはもう読む気力はない。
 これも永遠の未読書の1冊になるだろう。

 2024年6月15日 記

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

2024年06月13日 | 本と雑誌
 
 J・D・サリンジャー/野崎孝訳「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫、1974年)から、「小舟のほとりで」「エズミに捧ぐ--愛と汚辱のうちに」「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」「テディ」を読んだ。
 「ナイン・ストーリーズ」(1953年)は、それまでに発表した29編の短編の中から9編をサリンジャー自身が選んで、発表年代順に並べた唯一の短編集である(野崎解説による)。
 
 「ライ麦畑でつかまえて」に捉えられていた頃は、本書の冒頭の「バナナフィッシュに最良の日」とか「コネティカットのひょこひょこおじさん」などといった題名自体に強い拒否反応があって、読まないままでいた。それが50年の時を経て、昨年来から荒地出版社の「サリンジャー選集」に収録された短編を読んで以来、今度は「ライ麦畑・・・」とはまったく異質の「アメリカ戦後作家」としてのサリンジャーが気に入ってしまった。
 K・スラウェンスキーによる伝記「サリンジャーーー生涯91年の真実」(田中啓史訳、晶文社、2013年)を読んで、(1960~70年代には謎だった)サリンジャーの生涯に照らして彼の短編を読むことができるようになった。それによると、「ナイン・ストーリーズ」に発表年順に収められた9編の短編は、「小舟のほとりで」までの絶望期から、それ以降の間で変化を来たしているという(383頁)。20代の頃に読んだのは絶望期の作品で、今回読んだのは変化後(恢復期?)のものだったようだ。

 なお「ナイン・ストーリーズ」のうち、「バナナフィッシュ・・・」と「コネティカットの・・・」は、2年ほど前のぼくに訪れたサリンジャー再評価(ルネッサンス)時代に読んだのだが、やはり好きになれなかった。しかし、その折に「コネティカット・・・」が映画化されていたことを知った。
 映画「愚かなり我が心」(“My Foolish Heart”)である。この映画の脚色に懲りて(怒って)、サリンジャーはその後一切の映画化(や登場人物のイラスト)を拒絶したという。エリア・カザンによる「ライ麦畑・・・」の映画化など、見たかった気持ちもあるが、「理由なき反抗」と同工異曲のような映画になってしまったかもしれない。ニューヨーカーのホールデンをジェームス・ディーンが演じるわけにもいかないだろうし。この映画のテーマソングは良かった。

 今回読んだ中では「エズミに捧ぐ」が一番良かった。
 イギリス人少女エズミと主人公(サリンジャー?)との独特の会話は、おそらく上品なクイーンズ・イングリッシュとアメリカ英語で交されているのだろうけど、清水義範の「永遠のジャック&ベティ」を思い出した。7歳の少女があんな言葉を発するだろうかとは思うが、女の子の言語能力は恐ろしいばかりだから、あり得ないことではない。それよりも、ストーリーの展開と結末がよかった。やっぱりサリンジャーの短編小説はいいと思った。
 ノルマンディ上陸作戦の準備のために滞在したイギリス、デボンシャー州が舞台だが、サリンジャーは、ほんとうにエズミのような少女に出会ったのだろうか。なお、“Esme”(e はアクサンテギュつき)はエズメではないのか(他の訳ではエズメになっている)。江角マキコの面影がちらついた。

 「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」は読める。
 例によって、喫煙シーンの頻出には参ったが、ストーリーは面白い。モントリオールに通信制の絵画学校があったとは(本当にあったのか?)。 
 「テディ」は苦手。
 戦争後遺症(PTSD)に悩む戦後のサリンジャーは、(スラウェンスキー「サリンジャー」だったかによれば)新興宗教や飲尿にまで依存したということだったが、「テディ」は未消化というか、その実体験が小説にまで昇華されていない印象。エズミの会話は素直に聞くことができたのだが、テディの饒舌は受け容れがたかった。年をとったせいか・・・。

 「小舟のほとりで」も良かったのだが、「良かった」では済まされない衝撃作。
 とくに結末のライオネル少年の言葉に衝撃を受けた。冒頭の黒人と思われるメイド同士の会話が(あの会話は野崎の翻訳文法に従えば黒人同士の会話だろう)、あのような結末の伏線だったとは。しかも、それを子どもっぽい「凧」との混同で韜晦するあたりに、かえってライオネルの心の傷の深さを感じた。
 荒地出版社の「サリンジャー選集(3) 倒錯の森」の解説(大竹勝)によれば、「小舟のほとりで」はサリンジャーがユダヤ人問題を扱った唯一の小説だという(165頁)。主人公がユダヤ系であることはいくつかの作品の背景でも描かれているが、たしかに「小舟のほとりで」のように直截に扱った作品はなかったかもしれない。
 ライオネルのくり返される「家出」の話題を煩わしく思いながら読んでいたのだが、それだけにその「家出」の理由が分かった時は衝撃だった。

 2024年6月13日 記

 ※ 気になったので、未読だった「対エスキモー戦争の前夜」、「笑い男」、「愛らしき口もと目は緑」も義務的に読んだ。
 「対エスキモー・・・」はつまらなかったが、1940年代のニューヨークの中流階級の若者の生態の一端を伺うことはできた。「笑い男」はよかった。1920年代末のニューヨークを舞台にした野球少年たちと若い監督(ニューヨーク大学法科の学生)の交流の物語である。ストーリー展開のテンポがいい。サリンジャーのテンポなのか、野崎孝の訳文のテンポなのかは分からないが、おそらく野崎の訳文のテンポがサリンジャーの英文をよく表しているのだろう。ジャイアンツが当時は「ニューヨーク・ジャイアンツ」だったことを知った。「ブルックリン・ドジャース」だったことは知っていたが、ぼくが物心ついた頃にはもう「サンフランシスコ・ジャイアンツ」だった。「愛らしき口もと・・・」もダメだった。
 以下に各編の初出年と初出誌を書いておく。スラウェンスキー「サリンジャー」の年譜による。
 「バナナフィッシュにうってつけの日」ニューヨーカー1948年1月31日号
 「コネティカットのひょこひょこおじさん」同誌3月20日号
 「対エスキモー戦争の前夜」同誌6月5日号
 「笑い男」同誌1949年3月19日号
 「小舟のほとりで」ハーパーズ誌4月号
 「エズミに捧ぐ」ニューヨーカー誌1950年4月8日号(O・ヘンリー賞受賞)
 「愛らしき口もと目は緑」同誌1951年7月14日号
 ※「ライ麦畑でつかまえて」刊行1951年7月16日リトルブラウン
 「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」ワールド・レビュー誌(イギリス)1952年5月号
 「テディ」ニューヨーカー誌1953年1月31日号 
 サリンジャー公認の短編集は本書だけだというが、サリンジャーの初期の短編小説(未公認の短編集「若者たち」や「倒錯の森」に収録されている)の中には「ナイン・ストーリーズ」に収録されたものより良いものがいくつもあると思う。本書の取捨の基準は何だったのか。

 2024年6月13日 追記

「アイリッシュ短編集 1、3」(創元推理文庫)

2024年05月30日 | 本と雑誌
 
 ウィリアム・アイリッシュ「さらばニューヨーク」(晶文社)を読んでから、この本に収録された短編は、その昔に読んだ「アイリッシュ短編集」に収録された短編と重複しているのではないかと疑念が生じ、持っている「アイリッシュ短編集・1」(宇野利泰訳、創元推理文庫、1972年)と、「同・3」(村上博基訳、同文庫、1973年)を開いてみた。
 「アイリッシュ短編集・1」、「同・3」の収録作品には、「さらばニューヨーク」に収録された短編との重複は1つもなかった。

 「アイリッシュ短編集・1」は、 “After-dinner Story -- and Other Stories” という短編集の邦訳で(アメリカでそういう書名の短編集が出ていたのかは分からないが、創元推理文庫版の表紙と扉にはそう書いてある)、巻末に厚木淳による詳しい解説がついている。
 厚木によれば、1940年代の推理小説は、アイリッシュ=サスペンス派、チャンドラー=ハードボイルド派、アンブラー=エスピオナージュ派が鼎立した時代だったという。アイリッシュは純粋な推理小説ではなく、ホレーショ・ウォルポールらゴシック・ロマンの影響を受けた作家であるという評論家があったらしいが、これに対して厚木は、たしかにその傾向はあるがアイリッシュはゴシックロマンの手法を現代推理小説に導入した作家であると反論している。
 さらに、長編、短編ともに成功した作家として、フレデリック・ブラウンとアイリッシュをあげ、ウィットとユーモアではブラウンがまさり、サスペンスではアイリッシュがまさると評している。残念ながら、ぼくは、アンブラーとブラウンは1つも読んだことがない。
 ※ 息子が学生時代の英文学史の講義で、ウォルポール「オルトラン城」についての報告を割り当てられ、文献探しを手伝ったことがあった。当時はウォルポールの何たるかを知らなかったので、なんでこんなマイナーな作家を割り当てられたのかと訝しく不満に思ったのだが、歴史に残る大作家だったのだ。しかもわが愛したアイリッシュに影響を与えた作家だったとは。

 「短編集・1」の目次には各短編に対するぼくの採点が記してあった(教師根性?)。
 「晩餐会後の物語」78点、「遺贈」65点、「階下で待ってて」60点、「金髪ごろし」68点、「射的の名手」採点なし(読んでないか?)、「三文作家」97点、丸印つき、「盛装した死体」70点、「ヨシワラ殺人事件」採点なし。
 けっこう厳しい採点だが、おそらく「黒いカーテン」「幻の女」「黒衣の花嫁」などの長編で好きになったアイリッシュに対する期待値が高かったのだろう。なお、厚木の解説には、収録作品の原題は載っているが初出の年度が書いていないので、アイリッシュの成長過程を知ることはできない。
 最終ページに「1976・8・24(火)夕刻、軽井沢旧道 三芳屋にて購入。1976・8・29(日)平年より5℃低い」と書き込みがあった。24日に買って、29日に読み終えたのだろう。

   

 「アイリッシュ短編集・3」は “Somebody on the Phone -- and Other Stories” というのの邦訳のようで、「裏窓」(“It Had to Be Murder” 後に “Rear Window” と改題、1942年初出)ほか、9編が収録されている。
 こちらには、各短編の採点は書いてないが、表紙と扉頁の間に映画の新聞広告が挟んであった(上の写真。日付けは不明だが、映画の公開日からして1984年1月下旬ころだろう)。「1983年10月ロス、ニューヨークで巻き起こったヒッチコック・ブームはロンドンをも巻き込み、いよいよ日本に上陸する」という惹句がついているが、そんなブームがあったのか!
 ヒチコックのサスペンス映画3本の連続上演の予告だが(映画館の名前も懐かしい)、「裏窓」がアイリッシュ原作作品の映画化なので挟んだのだろう。3作ともジェームス・ステュアートが主演で、共演女優は「裏窓」がグレース・ケリー、「知りすぎていた男」がドリス・デイ、「めまい」がキム・ノヴァクである。そう言えば、「さらばニューヨーク」に収録された短編のどれかにドリス・デイの名前が出ていたと思う。
 「短編集・3」には解説はないが、巻末に、各編の原題名(改題名)、初出誌名、初出年度が載っている。「裏窓」だけが1942年の発表で、それ以外はすべて1935~39年の作品である。

 なお、「アイリッシュ短編集・2」は持っていない。
 ※ 創元推理文庫からは「アイリッシュ短編集」が全部で6巻刊行されたらしい。後の方の巻には「さらばニューヨーク」なども収録されているから、稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社)収録作品との重複もあるのだろう。

 2024年5月30日 記

W・アイリッシュ「さらばニューヨーク」

2024年05月29日 | 本と雑誌
 
 ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社、1976年)を読んだ。

 アイリッシュを読むのは何年ぶりだろうか。最後に読んでから20年以上は経っているはずである。
 先日、ふとこの本が目にとまって、何気なく読み始めたのである。懐かしいアイリッシュ節(?)を味わうことができた。
 ※宇野利泰訳「アイリッシュ短編集・1」(創元推理文庫)巻末の解説を見たら、解説者の厚木淳が、アイリッシュを評して「強烈なサスペンスと少々美文調の文体によるアイリッシュ節ともいうべき特異な持ち味」と書いているのを発見した。「アイリッシュ節」には強調の傍点が振ってある。

 何気ない日常のようでいてどこか不穏な雰囲気の漂う冒頭部分(スティーヴン・キング風?)、心理的に(時には物理的にも)スリリングな展開の中間部分、そして意表をつくアイロニカルな結末部分というアイリッシュの公式に従った短編が8話収められている。
 巻頭の「セントルイス・ブルース」は一番良かった。この歌を口ずさむ殺人犯の息子と、息子を庇う盲目の母との交情。稲葉解説によって、アイリッシュと母親の関係を知ったうえで読むとよいかも。
 「靴」は、ドライザー「アメリカの悲劇」のような趣向(どちらが先か?)で、中間部分は悪くはなかったが、結末が微妙。最後はないほうがよかった。
 「抜け穴」は、アイリッシュとしては失敗作の部類だろう。「ぎろちん」も、いまいち。舞台がフランスというのも破調を来たしている。死刑執行吏が執行日に死亡した場合には死刑囚は特赦によって解放されるという慣習は本当のことだろうか。ギロチンの刃の部分は執行吏が自宅においてあって執行の日に自分で刑場に持参するというのも本当なのか。「ワイルド・ビル・ヒカップ」は、そもそも題名の意味が何だったかも忘れてしまったほどの駄作。
 「青いリボン」はまずまず。一度は引退したボクサーが再起を期した試合で終盤まで劣勢にあるのだが、観客の中に「青いリボン」の女性を見た(ような気がして)一気に逆転勝利する。しかし、その女性が本当にそこにいたのかどうかは分からない、「幻の女」だった・・・。「青いリボン」が何かは冒頭で語られる。
 そして、本書の題名にも選ばれた「さらば、ニューヨーク」。アイリッシュの水準作といえようか。ストーリーは明かさないでおくが、ニューヨークのダウンタウン風景、街角の新聞売り、地下鉄の切符売り場、改札口の入り方などの細部が描かれていて、一時代前のニューヨークを知る人にはたまらなく懐かしいだろう。

 巻末の稲葉解説によると、アイリッシュこと本名コーネル・ウールリッチは、1903年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学卒業直後に病いを得たが、恢復期に書いた小説が雑誌に掲載され、原稿料をもらったのを契機に職業作家の道に進んだ。1940年の「黒衣の花嫁」でブレイクし、1942年の「幻の女」、1944年の「暁の死線」とヒット作を連発したが(江戸川乱歩はこの3作をアイリッシュの代表作と見た)、実は1920、30年代から習作をパルプ・マガジンに数多く発表していたという。
 アイリッシュは、生涯独身で、ロマンスの話題すらなく、(シングルマザーだった)母と一緒にホテル住まいをしており、亡くなった際にもわずかな知人しか葬儀に参列しなかったという。稲葉によれば、友人の作家がアイリッシュの母は死ぬまでアイリッシュの首を絞め続けたと非難したという。1957年にその母が83歳で亡くなり、アイリッシュは1968年に64歳で亡くなっている。
 病気がちで寂しい人生だったと思っていたが、実際には作品が多数映画化されるなどしたため巨万の富を残しており、その遺産を若手作家の育成目的のためにコロンビア大学に寄付したという。このエピソードを知って、少し救われた気になった。

 2024年5月29日 記