豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“我等の生涯の最良の年”

2008年06月22日 | 映画
 
 この春先以来、キープ社版“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画”シリーズは、30本近く購入し(3枚組みも含めて)、その大部分を見てきた。
 このブログのコラムにも、何度となく「出典は、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画”から」と書き込んだ。今年上半期で、この《豆豆先生の研究室》に最も頻繁に登場した固有名詞は、ひょっとすると「水野晴郎」だったかもしれない。

 その水野晴郎さんの訃報が先日の新聞に載った(6月11日付)。
 実は、ぼくは水野晴郎さんという人がどういう人なのか、よく知らなかった。
 警察学博士号なるものを取得したり、選挙に出たり、どんな映画も大体笑いながら褒めてしまって参考にならず、・・・といった具合で、正直に言うと余り好意はもっていなかった。
 しかし、訃報の紹介記事に接して、はじめて水野さんの生い立ちを知った。

 例えば、産経新聞2008年6月11日付によれば、 

 ・・岡山県出身。水野さんは2歳で旧満州に渡り終戦を迎えた。1946年に引き揚げた直後に両親を失ったが、幼かった弟3人と妹1人の面倒を見ながら昼間は郵便局や本屋に勤め、夜は定時制高校に通った。
 「風と共に去りぬ」や「カサブランカ」などの洋画に魅せられ、56年に上京。洋画配給会社「二十世紀フォックス」に入社し宣伝部長を務めて72年、独立し洋画配給会社「IP(インターナショナルプロモーション)」を設立した。
 その間、慶応大学国文科を9年がかりの通信教育で卒業。71年10月から日本テレビ系「水曜ロードショー」の解説を担当。・・・

 とある。

 ぼくは、「警察学博士」も、「慶応大学通信教育」も、何もかもみんな納得がいった。
 親の金で大学を卒業させてもらったぼくらには、何も発言する資格はない。

 ぼくなりに水野さんを追悼する気持ちで、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[赤35] 我等の生涯の最良の年”を見た。

 水野さんは、解説の中で、「私はこの映画を10数回見ている」と書いている。
 水野さんにとって、同じ映画を10数回見るということが、その映画に対するどの程度の評価となるのかは分からないが、訃報で紹介されていた彼の生い立ちとあわせ考えると、「私はこの映画を10数回見た」という言葉のニュアンスが分かるような気がする。

 “我等の生涯の最良の年”は、太平洋戦争から帰還した3人のアメリカ兵が故郷に戻ってからの日々を描いたものである。
 大尉は、再就職も、妻との関係もうまくいかず、苛立っている。軍曹は、息子から戦争に対する批判をされたりはするものの、ほぼ順調に銀行員の生活に復帰する。しかし、帰還兵を装った詐欺師を見抜けないで、独断で融資をしてしまう。水兵は戦闘で両腕を失い、苦労をかけないために許婚者と別れようとしている。
 
 最後は、水兵が許婚者と結婚式を挙げ、妻と別れた大尉が軍曹の娘にプロポーズするシーンで終わる。
 水野さんは、軍曹が家族と再会するシーンや、最後に水兵が結婚しようとするシーンなどを挙げて、「この感激は素晴らしいものがある」と評している。

 以前だったら、また「感激か・・」となってしまうところだが、今回ぼくは素直に感激することが出来た。
 戦争から生きて帰ることができて、愛する家族が迎えてくれたり、好きな人と結婚することができるという人生のどこに感激してはいけない理由があるだろうか。

 1946年に製作されたこの映画には、後に団塊の世代のかけらであるぼくたちが、“うちのママは世界一”だの“パパは何でも知っている”などのアメリカのテレビ番組で洗脳された、「家庭の幸せ」「結婚の幸せ」の原形のようなものが描かれている。
 先日、「婚活」時代なる新書を読んだが、若者の結婚の現実にシビアな著者(女性のほう)が、臆面もなく誰々さんは「幸せな結婚」をしているなどと書いている。読んでいるほうが気恥ずかしくなるが、今でも結婚は「幸せ」の目標なのだ。

 年下の弟妹を育てるために結婚をしなかったという水野さんは、“花嫁の父”のような立場で、この映画に感激していたのではないだろうか。
 
 * 写真は、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画[赤35] 我等の生涯の最良の年”(原題は“The Best Years of Our Lives”)のケース。

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