豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

色川大吉『自由民権』

2022年07月08日 | 本と雑誌
 
 色川大吉『自由民権』(岩波新書、1981年)を再読。巻末に1981・5・2(土)pm11:00と書き込みがあった。40年も経ったのか。岩波新書黄版152である。

 前に、原武史『平成の終焉』のなかの「五日市憲法と皇后発言」について批判した際に、私擬憲法ないし自由民権家と天皇制について触れた。
 そこで「五日市憲法草案の天皇条項に言及しなかったとして皇后(現上皇后)を批判するのは的外れである、問われるべきは自由民権家さえもが天皇制を支持した背景や心情である」旨を書いた。
 そのときに、自由民権運動を総括した定番の書ともいうべき色川大吉『自由民権』を援用したいと思ったのだが、その時は見つからなかった。ところが昨日、別の本を探していたら偶然に出てきたので、自由民権と天皇制に関する部分を再読した。
 自由民権家の天皇観や私擬憲法の天皇条項についての色川の見解を知ることができた。この本によって、自由民権家たちが当時の情勢に配慮していたことは確認できたが、それ(私擬憲法案における神聖天皇条項)が情勢への配慮だけによるものとは、色川を再読してもなお思えなかった。

 色川によれば、英国流の立憲君主制の立場をとる嚶鳴社案、交詢社案も、さらには五日市憲法草案、小野梓案なども天皇の神聖性を規定して「天皇制の非合理的な国体論に屈服しているように見える」が、これは不敬罪を回避するための配慮でもあり、必ずしも起草者の本音ではなく多分に偽装であり、現実への妥協であることも明らかであるとされる(120~1頁。前段)。
 「天皇の誓詞(※五箇条の誓文か)を利用して「一君万民」的な法のもとでの平等、民主化を達成することの方が、社会契約論的な民主化の原理を前面におしだして運動することより、当面は有利であるとの判断が勝っていたのであろう」とも言う(122頁。後段)。
 後段はその通りだと思うが、前段(の不敬罪回避のための偽装)については、植木枝盛などはそうだったようだが、すべての民権家がそれだけの目的で、国体論に「屈服」して天皇神聖条項を私擬憲法草案に規定したとはぼくには思えない。五日市憲法草案などの文面を読んだだけの印象で、根拠があるわけではないのだが、自由民権家の中でも英国流立憲君主制論者や地方の素封家、豪農らにとっては、伝統的天皇観と自由、民権の主張は両立可能だったのかもしれない。
 色川は、下記の詔勅以降「不敬罪」による逮捕者が急増したことを指摘するが、「偽装説」の根拠を(ぼくの読み落としがなければ)具体的にはあげていない。「だろう」という文末の言葉(122頁)からは、前段は色川の感想のように読める。

 自由民権家の天皇観を考えるは、時代の変遷も考慮する必要があるという。とくに、井上毅、伊藤博文らがクーデターによって大隈重信を追放し、国会開設の詔勅を発出させた1890年(明治23年)が画期となったようだ。
 この詔勅は、国会開設を宣言すると同時に、国会や憲法の内容については天皇が親裁する、国安を害する者があれば処罰するという弾圧方針も宣言された。明治天皇こそが公議輿論政治を望んでいたはずなのに、この詔勅によって憲法についての自由な議論が禁止されたことは、天皇の伝統的な権威や神聖不可侵の地位を認めてきた民権陣営にとって致命的な打撃となったと色川は言う(119~120頁)。

 ちなみに色川は、自由民権家たちの私擬憲法が、鈴木安蔵らの憲法研究会「憲法草案要綱」などを経由して日本国憲法の制定に影響を与えたことなどから、日本国憲法はたんなるアメリカによる「押しつけ憲法」ではない、「押しつけられた」のはポツダム宣言の履行を怠った当時の日本政府(幣原内閣)であって、日本国民ではない、と言っている(139頁~)。
 色川が自由民権期の私擬憲法から憲法研究会草案への系譜を根拠の1つとして「押しつけ憲法」論を否定していることは間違いないが、前述の皇后発言に「押しつけ憲法」批判を読み込むことはやはり無理だと思う。

 2022年7月8日 記

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